瑛二が行ってしまった。俺の目の前で、俺の美人なクラスメイトの手を引いて。
(あっ、これってつまりあれだな。俺より由岐と付き合いたいって、そういうことだよな)
 ようやく目の前で起こった現実を脳味噌が受け入れたようで、俺の胸の中に当たり前の一つの結論がすとんと落ちた。
(そりゃあそうだ。瑛二は元々二葉みたいな可愛い男子が好みなんだから。その二葉と似た雰囲気の男子が現れて、自分のことが好きだなんて告白されたら、当然付き合いたいに決まってる。俺が相手じゃ天秤に乗せるまでもないだろ)
 だけど瑛二は真面目だから、俺に気を遣って一旦場所を変えたんだろう。彼の性格じゃ、目の前に理想の相手がいたとしても、現在付き合っている俺の前でその告白を受け入れるなんてことはできないはずだ。しかしこうなってしまった現在、その真面目さがかえって俺の心をズキズキと苦しめていた。
(どうせ後からフラれるなら、いっそのこと一思いに今この場でバッサリやってくれればよかったのに)
 そうすれば、次に瑛二と顔を合わせるまでこの苦しみを引き延ばさずに済んだってのに。
 どうやって元の場所まで歩いて戻ったのかさっぱり分からないが、俺は気が付いた時には先ほど瑛二と一緒に弁当を食べていたベンチの場所まで戻っていた。ふと顔を上げると、怪訝な表情で首を傾げながらベンチを眺めている長身の男子生徒の姿が目に入った。
(ん? あれって……)
「あっ、青柳君のお兄さんですよね?」
 色白で背の高いその男子生徒は、俺の顔を見るなりほっとしたような笑顔を見せた。
「良かった。この弁当箱なんか見覚えある気がして。もしかして青柳君が忘れたのかと思って、持って上がろうかどうか悩んでたんです。お兄さんの物だったんですね」
「君は、二葉の友達の……」
「あ、俺速水って言います。速水海斗です」
 速水は笑顔で俺に近づいて来たが、俺の正面に立ったところで今度は心配そうに表情を曇らせた。
「お兄さん大丈夫ですか? 顔色悪いですよ」
 お兄さん、という言葉を聞いた瞬間、付き合い始めた頃の瑛二の姿を思い出して、俺は喉に言葉が引っかかったかのように何も言えなくなってしまった。
(あ、そうか。俺、お兄さんに戻るんだ……)
 友達のお兄さんから恋人になって、また友達のお兄さんに戻る。いや、今度はさらに恋人のクラスメイトという肩書きも追加されることになるのか。
「えっ! ちょっと大丈夫ですか?」
 慌てたような速水の声が聞こえていたが、視界がぼやけて相手の顔はよく見えなかった。でもきっと、俺のことを心配するような表情をしていたんだろう。二葉の友達だから、きっと優しいやつに決まっている。瑛二がそうだったように。
「……悪い、いきなりこんなの、困るよな」
「そんなことありませんよ! 何かあったんですか? 俺でよければ話くらい聞きますけど」
「大丈夫だ。ただちょっと、現実逃避したい気分になって……」
 速水はベンチにポツンと残された弁当箱を悩ましげな表情でじっと見ていたが、急に何かを思いついたかのように右手の拳で左の手のひらをポンッと叩いた。
「俺、現実逃避するのにいい場所知ってますよ!」
「え?」
「お兄さん自転車通学ですよね? ちょっとここからだと遠いんですけど、良かったら一緒に行きませんか?」
「えっ、でも今から? 午後の授業は?」
「お兄さん授業さぼったことないんですか? みんな結構やってますよ。特に彼氏彼女持ちの連中はね」
 そうだったのか。それは知らなかった。言われてみれば確かに、うちのクラスでも午前中はいたはずなのに午後からいなくなってるやつとかたまにいたかもしれない。
「ほら、昼休憩中の今がチャンスですから、早く行きましょう!」
「えっ、でも、お前は大丈夫なのか?」
「泣いてる人を一人で放っておくなんてことできませんよ。俺もちょうど久々に行きたいと思ってたところだったんで」
 明るい笑顔でそう言うと、速水は俺の手を掴んで自転車置き場の方へと引っ張っていった。内心困惑しながらも、苦しい現実を忘れさせてくれるという彼の言葉に、俺はその手を振り払うことができなかった。



 速水が連れて行ってくれたのは、学校から自転車で一時間ほどの場所にある海辺だった。海開きを目前に控えた平日のビーチに人気はなく、俺は先導してくれる速水をそっくりそのまま真似して駐車場の隅に自転車を停めると、彼についてコンクリートの道を砂浜を見下ろしながら歩いて行った。
「ここなら陰になってるので、ゆっくりと海を眺められますよ」
「本当だ。よく知ってるな」
「俺のお気に入りの場所なんです。一応バス停もあるんですけど、本数少ないんで自転車の方が時間の融通がきいてストレスがないんですよ」
 速水の隣に腰掛けてから、俺は白い砂浜の向こうにずうっと続いている海にぼんやりと目をやった。曇天下の海は灰色の空と溶け合っていて、心のモヤモヤを取り払うのには物足りなかったが、寄せては返す波の音は耳に心地よく、少しだけ痛みが癒やされていくような心地がした。
「俺は気分が晴れない時、大海原をこうやってぼーっと眺めていると、不思議と心が安定してくる気がするんです」
 確かに速水の言う通り、広大な自然の前に佇んでいると、人間という存在のちっぽけさを実感することになる。そんなちっぽけな存在の一人である自分如きの悩みもまた、取るに足らないくだらないものなのであると。
「天気があまり良くなくて残念です。晴れていたらもっとこう、青い海と空に心が洗われるような清々しさを味わえるんですけど」
「いや、これでも十分だよ。連れて来てくれてありがとう」
 速水は人の良さそうな笑顔を浮かべると、隣から俺の顔を覗き込んできた。
「青柳君に彼女ができて、寂しくなったんですか?」
「え?」
「青柳君、いつもお兄さんの自慢話ばっかりしてましたよ。すごく仲のいい兄弟なんだなって思ってました。だから可愛がってた弟を彼女に取られて、悲しくなったのかなって」
 俺は灰色の大海原に視線を戻してから、小さくかぶりを振ってみせた。
「違うよ」
「本当ですか?」
「本当」
 由岐の手を引いて離れて行った瑛二を見た時、俺はようやく瑛二に向けた自分の気持ちに気が付いたのだ。
「確かに二葉に彼女ができたって聞いた時、寂しく思う気持ちもあったよ。きっと子供が成長して手元を離れて行ってしまう母親って、こんな気持ちなんだろうなって思った。でも寂しい気持ち以上に、嬉しい気持ちの方がそれを随分と上回ってた。俺は二葉を大事に思っているけど、ずっと俺の手の中に入れておきたいわけじゃないから。好きな人や大事な人を見つけて、幸せになって欲しいと願っているから」
 でも、瑛二は違う。二葉と同じくらい瑛二のことも大事に思っているつもりだけど、俺は瑛二のことはずっと自分の手の中に入れておきたいし、俺の他に好きな人や大事な人を見つけて欲しいとは思えなかった。幸せになって欲しいと願っているはずなのに、俺以外の誰かと幸せになる姿を想像して喜んでやることはできなかった。
「……俺って、本当に小さい人間だな」
 ボソリと小さく呟くと、速水は小さい子供でもあやすかのように俺の頭をポンポンと撫でた。
「俺はそうは思いませんよ。でもこの広い海を眺めていると、そういう気分になってきますよね。そんなふうに大自然の前で謙虚になる時間って、人間には必要なんじゃないかって思います」
 俺はされるがままに頭を撫でられながら、色白の速水の顔をじっと見つめた。
(やっぱりこいつもいいやつだな。二葉の友達は本当にいいやつばっかりだ)
 男性恐怖症の気がある二葉が厳選した男友達だからこその結果なのかも知れなかった。
「……速水、お前……」
 キキーッ! と鋭いブレーキの音がゆったりと流れていた空気を切り裂き、俺と速水は座ったままその場でビクッと飛び上がった。
「……び、びっくりした」
「珍しいですね。あまりこの時期人が来るような場所では……」
「伊近さん!」
 今度こそ、俺は口から心臓が飛び出すのではないかと思うほどびっくり仰天した。
(この声は……!)
「えっ、瑛二じゃん。どうしてここに?」
 速水も驚いた様子でそう言いながら振り返っているから間違いない。今の声は決して俺の幻聴などではない。本当に、生身の瑛二がここに来ているのだ。
 速水に続いて後ろを振り返った俺は、青のロードバイクを俺の電動ママチャリの横に停めた瑛二が、ものすごい形相でこちらに向かって走って来る姿を目撃することとなった。
(怖っ!)
「やっっっと見つけた!」
 俺の目の前まで走って来た瑛二は、地面から飛び出した岩に躓いてコンクリートの道から下の砂浜に転がり落ちそうになった。俺は慌てて立ち上がると、腕を伸ばして体を支えてやろうとしたが、すんでのところで体勢を立て直した瑛二はそのまま俺の腕の中に飛び込んできた。
「うわっ!」
 予想外に突進される形になった俺は、瑛二に押し倒されるように折り重なってドサリと地面に倒れ込んだ。
「いててて……大丈夫か? 瑛……」
「やっと見つけた、伊近さん」
 瑛二は、上半身だけなんとか起こして地面に座り込んでいる俺の胸にしがみつくようにぎゅうっと抱きついている。
「心配したんですよ! ベンチに戻ったら弁当箱だけポツンと残されてて、スマホも全然連絡つかなくて。学校中探し回っても見つからなくて、二葉に聞いたらなんか海まで自転車で行ったとか言われて」
「あ、俺が一応二葉に連絡入れておいたんです」
 この状況でも人の良さそうな笑顔のままで速水がそう報告したが、バッと振り返った瑛二に鋭い目で睨みつけられて、さすがの彼も動揺した様子で表情をこわばらせた。
「え、ちょっと、俺なんかお前の気に触るようなことした?」
「ああ、したよ! 最低最悪の略奪行為をな!」
「ええっ? 一体何の話?」
「おい、瑛二!」
 俺は慌ててのしかかっている瑛二の口を塞ぐと、困惑している様子の速水を振り仰いで手を振った。
「ちょっとこいつと二人で話したいから、席を外してもらってもいいか?」
「お前はもう帰れ!」
「瑛二! お前ら友達なんだろ? そんな言い方……」
「あ、いや、俺はそれじゃあお暇させてもらおうかな……お兄さん、もう大丈夫そうですか?」
 正直大丈夫そうかと聞かれれば、よく分からないというのが現状だったが、この状況ではそんなことも言っていられないため、俺は激しく首を縦に振って速水の問いに答えた。
「良かった。それじゃあ瑛二、後はよろしく……」
「いいからさっさと帰れ!」
「そんなに俺に噛みつくなってば」
 速水は何かを察したのか、生暖かい目で瑛二を見下ろしてから、俺には笑顔で会釈をしてくるりと踵を返すと、自転車を停めた場所に向かって歩いて行った。
(あ、そういえばあのロードバイク……)
「伊近さん分かってます? 他の男と二人きりで海に行くとか、これもう完全に浮気行為ですよ! 彼氏力マイナス百点どころの騒ぎじゃないですからね! しかも頭までなでなでさせて、そこは俺だけが触っていい場所のはずなのに!」
 プツン、と何かが俺の中で切れて、俺は力任せに瑛二の体を突き飛ばした。
「言わせておけば、さっきから速水や俺のことばっかり非難して! そういうお前の方はどうなんだよ? お前こそ可愛い男子に告白されて、俺から乗り換えようとしてたじゃねえか!」
「はぁ? 一体何の話ですか? 俺がいつ乗り換えようとしたって言うんですか!」
「ほんのついさっきの話だろ? 由岐に告白されて、俺から逃げるように場所を変えてたじゃねえか!」
 それを聞いた瑛二は怯んだように一瞬ピクッと体を硬直させたが、すぐに声を荒げながら反論した。
「確かに場所は変えましたが、別にあの先輩と付き合うことになったわけじゃありません!」
「じゃあなんでわざわざ場所を変えたんだよ? 別にやましいことがないなら、俺の目の前で断れば良かったじゃないか!」
 言い返してくるものだとばかり思っていたが、瑛二はよりにもよってこのタイミングで口をつぐんだ。その沈黙が全てを物語っているようで、俺はさっと立ち上がると瑛二に向かってくるりと背中を向けた。
「ま、待ってください!」
 瑛二が慌てて追い縋るように後ろから俺の腕を右手で掴んだ。振り払おうとすると、今度は両手でがっちりと掴まれた。
「……離せって」
「伊近さん聞いて下さい。俺……伊近さんに謝らなければならないことがあって」
 瑛二は俺の背中に向かって話しながら、俺の腕を掴んでいる両手にぎゅうっと力を込めた。
「俺、伊近さんに嘘をつきました」
 あまりにも真剣な声音に思わず振り返ると、その声と同じくらい真剣な眼差しでこちらを見つめる瑛二とバッチリ視線が合った。
「……俺、本当は男が好きなわけじゃないんです」