「兄さん聞いて! 俺、彼女ができたんだ!」
寝耳に水、藪から棒、晴天の霹靂とはまさにこのことである。一体何が起こったのか一瞬理解が追いつかず、俺は真っ白になった思考を抱えながら呆然とその場に立ち尽くしていた。
「……兄さん、どうしたの? 大丈夫?」
「はっ!」
口から抜け出ていた魂が引き戻されたかのように我に返ると、俺はガシッと二葉の両肩を掴んで、真剣な表情で色素の薄い二葉の瞳を覗き込んだ。
「彼女って本当か? 男の娘じゃなくて?」
「男の子? 違う違う! 兄さんも知ってるあの子だよ。ほら、前に一年の教室に来た時俺が一緒にお弁当食べてた女子」
二葉にそう言われて、俺は二葉が教室で机を三つ合わせて昼食を食べていた時の光景を思い出した。
「あの背が小さくて、可愛らしい女の子?」
「そうそう! 林さんっていうんだよ」
「もう一人の肌が白くて背の高い男子じゃなくて?」
「速水君のこと? 彼は林さんの幼馴染で、俺と同じ合気道部なんだよ」
なるほど、日光に当たらない部活だから肌が白かったのか。
「林さんは入学当初から俺のことが気になってたみたいで、ずっとアプローチしてくれてたんだって。告白されるまで全然気が付かなかったけど」
「そうだったのか」
「だって部活の土曜練習に行く時、なぜかいっつも林さんが俺たちと一緒に来てたのは、てっきり速水君のことが好きだからだと思ってたんだ。でも実際は林さんが俺と一緒にいられるように、速水君が協力してくれてたみたい」
それを聞いて俺も合点がいった。俺が土曜練習の送迎を拒否されたのは、そういった友達とのやり取りがあったからだったのだ。
驚き過ぎて大事な言葉を言っていなかったことを思い出し、俺は仕切り直しをするように軽く咳払いをした。
「コホン。それはそうと、彼女ができて良かったな。おめでとう」
「うん、ありがとう」
太陽のようにニカッと明るく笑う二葉を見て、俺は感慨深いあまり思わず涙が出そうになった。
(そうか、とうとう二葉にも彼女が……)
「それでね、これから登下校は林さんと二人でしようってことになったんだ」
「……え?」
「あと、お弁当も林さんが作りたいって言ってくれて」
二葉はそう言うと、にっこりと笑いながら俺の手をぎゅっと握った。
「兄さん、今までずっと俺のこと守ってくれてありがとう。今度は俺、兄さんみたいに自分よりか弱い彼女を守れるように頑張るよ」
何だろう、今俺の目頭を熱くさせている、この感情の正体は。二葉が成長して、彼女までできて、感慨深いはずなのに、なぜかそれだけでは説明のつかない虚無感のようなものが胸の奥に巣食っている気がする。
ぽっかり胸に穴が空いたようなこの感情を二葉には悟られまいと、俺は無理矢理笑顔を作って二葉の髪の毛をよしよしと撫でつけた。
◇
「すごい! ポテトコロッケにポテトサラダにフライドポテトって、今日のお弁当ジャガイモパーティじゃないですか! 北海道かどっかから大量にジャガイモが送られてきたりしたんですか?」
お弁当のおかずが真っ黄色だったにも関わらず、瑛二は文句を付けることなくむしろ嬉しそうな歓声を上げた。瑛二はポテトコロッケが好物だと言っていたが、基本的にジャガイモが好きなようで、ジャガイモ料理ならなんでも目を輝かせていた。
「いや……なんか気が付いたらこんなのばっかり作ってた」
ついでに卵焼きも綺麗な黄色だ。最近は醤油を使わずに塩で味付けしているから。
「無意識で二種類も揚げ物作ってたんですか? 危ないんで気を付けて下さいよ」
そう言いながら、瑛二は黄色いおかずを口に入れてう~んと幸せそうな表情をした。それを見た俺も、ぽっかり胸に穴が空いているにも関わらず自然と笑顔になる。
「あ、良かった。伊近さんが笑ってくれた」
「え?」
「なんだか最近元気がなかったから、ちょっと気になってたんですよ」
俺は膝に置いた弁当箱の上にカチャリと箸を乗せると、そっと腕を伸ばして瑛二の頬に触れた。
「えっ、伊近さん?」
「ほっぺにポテトサラダ付いてるぞ」
「あっ、すみません」
瑛二の頬にくっついていたおかずを摘んだ俺は、無意識に指先を瑛二の唇の間に入れていた。
「へっ?」
「……あっ、ごめん!」
うっかり三和にご飯をやる時みたいなことを、高校生男子相手にしてしまった。俺は慌てて指を引っ込めようとしたが、その前に瑛二がパクッと俺の指先を咥えると、舌で指先に付いていたポテトサラダを舐め取った。
(うわ……)
瑛二の舌が触れた指先がじわりと熱い。俺は慌てて指を引っ込めると、照れを隠すように舐められた方の手をそっと背中の後ろへと隠した。
「伊近さん、本当に大丈夫ですか? やっぱりボーッとしてるし、体調悪いんじゃありませんか?」
「そういうわけじゃないんだ」
俺は小さく深呼吸をすると、心配そうな表情でこちらを覗き込む瑛二の黒い瞳を避けるように膝に視線を落とした。
「二葉が……二葉に、彼女ができたんだって」
一瞬、俺たちの間に沈黙が落ちた。会話に不自然な間が空いたのは、瑛二が何も言わなかったからだ。怪訝に思って顔を上げると、瑛二は怯んだように上体を少しだけ後ろに傾けた。
「……瑛二?」
「すみません、知ってました」
「どうして謝るんだ? 別にお前は何も悪いことなんかしてないだろ?」
「いえ、知ってて黙ってたんで」
確かに、どうして知っていたにも関わらずその話題に全く触れなかったのかは気になったが、別に謝るほどのことではないはずである。
「別に、俺だって話さなかったんだから」
「……それで寂しくなっちゃったんですか?」
「そうかな……うん、そうなのかも。二葉が大人になって、嬉しい気持ちが大半のはずなんだけど、なんかこう、一抹の寂しさがあるっていうか」
「まるで子供が巣立った後のお母さんみたいですね」
瑛二の言う通りだ。確かに今の俺は、巣立っていく雛鳥を見送る母鳥のような心境になっている。
「登下校も彼女と一緒だし、お弁当も彼女が作ってくれるから、もう俺が付き添う必要も弁当を作ってやる必要もないんだって」
「そうですか……」
瑛二は何かを考えるように曇った空を見上げていたが、やがて決心したかのようにおもむろに口を開いた。
「じゃあ、これからはなんの心配もなく俺と登下校できますね」
「えっ?」
「だって、もう二葉を心配して付き添う必要が無くなったんでしょう? 二葉だって恋人と登下校するんですから、伊近さんも恋人である俺と一緒に登下校しましょうよ」
「でも、お前ん家って学校には近いけど俺ん家からはちょっと遠いし、俺は三和のお迎えの日もあるし……」
「そんなの、俺が伊近さんについて行けばいいだけの話じゃないですか。朝は迎えにいくし、帰りは家まで送るし、三和ちゃんだって一緒にお迎えに行けばいい話でしょう?」
「それじゃあお前の負担が大きいんじゃね?」
「いやいや、それを言うなら毎日お弁当作ってくれてる伊近さんの方が負担大きいでしょ」
「俺は負担だなんて思ってないぞ」
本当のことだった。毎日弁当を作るのは大変だけど楽しい。食べてくれる人の顔を想像しながら、相手の好物と栄養バランスを考えながら、四角い弁当箱に彩り良くおかずを詰め終わった時の達成感が好きだ。そして先ほどの瑛二のように心から美味しそうに食べてくれる人がいたならば、さらに自己肯定感も天まで登って行くような心地になる。
「じゃあ決まりってことでいいですね?」
「お前が嫌じゃないんなら、俺は別に今まで通りで何も変わらないから別にいいけど」
隣に立つのが二葉ではなく、瑛二になるという一点を除けば。
「あー、良かった!」
俺の返答を聞いた途端、瑛二はいきなり脱力したようにベンチの背もたれに寄りかかると、曇天に向かって大きく息を吐き出した。
「えっ、急にどうした?」
「俺、てっきり二葉に彼女ができたって知ったら、伊近さん俺と別れようって言い出すんじゃないかと思ってたんですよ」
「ええっ? なんでだよ?」
「だって二葉に彼女ができたら、俺が二葉に告白する心配はなくなるわけで、そしたら伊近さんが俺と無理に付き合う必要も無くなるじゃないですか」
そういえばそうだった。元々俺が瑛二と付き合うことになったのは、瑛二が二葉に手を出したり告白したりするのを阻止するためだったのだ。ついこの間始まったばかりの関係のはずなのに、いつの間にか俺の頭の中からはその時の記憶が綺麗さっぱり消え去っていたのだった。
(……そうか。俺、本来なら瑛二と付き合う理由ってもうなくなったんだ)
もし瑛二と別れて、今の関係が解消されたとしたら?
(そしたら、もう俺以外のお弁当をわざわざ作る必要もなくなって、朝も誰かに合わせなくても好きな時間に自分のペースで登校できて……)
「……それは嫌」
「えっ?」
いつの間にか、俺は瑛二の制服のズボンの裾を、まるで縋り付くかのようにぎゅうっと握っていた。
「別れるだなんて言わないで」
瑛二は驚き過ぎて声も出ない様子だったが、はっと我に返ったように目を見開くと、次の瞬間何かに納得したようにパチリと両手を合わせてからにっこりと笑顔を作った。
「伊近さんにとって、俺は二葉の『身代わり』なんですよね」
「……え?」
どういう意味だろう? 瑛二の声音からは俺への非難は感じ取れなかったが、言葉尻だけを捉えるとあまり肯定的な意味合いには取れなかった。
「それってどういう……?」
「俺はそれでも全然いいですよ! 伊近さんが現状維持を続けてくれるなら」
「瑛二?」
「あ、俺お茶切らしちゃったんで、ちょっと自販機行って買ってきますね。伊近さんは何か飲み物いりますか?」
「いや、俺は大丈夫……」
瑛二はぱっとベンチから立ち上がると、小走りに自動販売機のある方角へ走って行ってしまった。その場にポツンと一人残された俺は、遠ざかっていく瑛二の背中をぼーっと見つめながら、少しの間馬鹿みたいにぼんやりと物思いに耽っていた。
(さっきの瑛二の言葉って……)
瑛二は、彼女ができて手が離れたみたいな形になった二葉の代わりに、愛情を注ぐ対象として俺が瑛二を利用しているのだと、そう言いたかったのだろうか。
(そうなのか? 俺がさっき瑛二と別れたくないって思ったのは、ただ単に一緒に登下校したり、お弁当作ってやる相手がいなくなるのが嫌だからだったのか?)
二葉と同じように、瑛二が自分の手を離れて巣立っていくのが寂しかったからなのか……?
分からない。自分の心なのに、こんな気持ちになったのは初めてで、自分が一体何にモヤモヤと悩んでいるのか、まるで霞に触れようとしているかのように掴み難い。
(……でも、きっと多分だけど、瑛二の言ってることは違う気がする)
自分は瑛二にとっては、二葉の『身代わり彼氏』かもしれないけれど、自分は瑛二のことをそんなふうには思っていないと思う。少なくとも弟と彼氏を同列で語ることなどできないということぐらい、恋愛初心者の俺にでも分かる。
(瑛二……)
空になった弁当箱をベンチに置き去りにして、俺の足は自然と瑛二の後を追った。誤解なら、早めに解いておいた方がいい。なぜか直感的にそう思った。
校庭の前にある自動販売機の近くまでたどり着いた時、赤くて四角い自動販売機の側に佇む瑛二の姿が見えた。すぐに側まで駆け寄ろうとしたが、瑛二と向かい合って立っている人影に気が付いて俺はその場ではっと足を止めた。
(あ、あれって……)
「……僕、前から初嵐君のことずっと気になってて。かっこいいなって……」
中性的で綺麗な儚い容姿に、女性声優の演じる男性キャラクターのような声。俺のクラスメイトの由岐だ。その由岐が今、俺の目の前で俺の彼氏に向かって告白していた。
「えっと……」
瑛二は困ったような表情で、右手でぽりぽりと頭を掻いている。一瞬ドキッとしたけど、俺はすぐに心の余裕を取り戻していた。
瑛二は俺と付き合っている。まだ一ヶ月ほどしか経っていないが、彼の様々な言動から、俺のことを憎からず思ってくれていることは感じている。そして、彼は恋人に対する向き合い方がとても真摯だ。付き合っている相手がいる状態で、よそに目移りするとはとても思えなかった。
だけど……頬を赤く染めて、恥じらいながら俯いている由岐を見ていると、一抹の不安が俺の胸をよぎった。
やっぱり、どことなく二葉と似たような雰囲気を纏っている。中性的で、守ってあげたくなるような華奢さで、男でもドキッとするほど綺麗だ。
「……あ、青柳」
由岐の声に、弾かれたように顔を上げた瑛二がこちらを振り返った。ギクッとしたような彼氏の表情に、胸の中で不安の渦がさらに大きさを増す。
「あ、ごめん。なんか取り込み中だったみたいで……」
「先輩、ちょっとこっち来てもらってもいいですか?」
(え……?)
瑛二はそう由岐に声をかけると、彼の腕を引っ張って俺の前から逃げるようにその場を離れていってしまった。
(……え、ちょっと待って、ええっ?)
再びポツンとその場に一人残された俺は、今度こそ衝撃のあまりその場から一歩も動けずに呆然と立ち尽くしていた。
寝耳に水、藪から棒、晴天の霹靂とはまさにこのことである。一体何が起こったのか一瞬理解が追いつかず、俺は真っ白になった思考を抱えながら呆然とその場に立ち尽くしていた。
「……兄さん、どうしたの? 大丈夫?」
「はっ!」
口から抜け出ていた魂が引き戻されたかのように我に返ると、俺はガシッと二葉の両肩を掴んで、真剣な表情で色素の薄い二葉の瞳を覗き込んだ。
「彼女って本当か? 男の娘じゃなくて?」
「男の子? 違う違う! 兄さんも知ってるあの子だよ。ほら、前に一年の教室に来た時俺が一緒にお弁当食べてた女子」
二葉にそう言われて、俺は二葉が教室で机を三つ合わせて昼食を食べていた時の光景を思い出した。
「あの背が小さくて、可愛らしい女の子?」
「そうそう! 林さんっていうんだよ」
「もう一人の肌が白くて背の高い男子じゃなくて?」
「速水君のこと? 彼は林さんの幼馴染で、俺と同じ合気道部なんだよ」
なるほど、日光に当たらない部活だから肌が白かったのか。
「林さんは入学当初から俺のことが気になってたみたいで、ずっとアプローチしてくれてたんだって。告白されるまで全然気が付かなかったけど」
「そうだったのか」
「だって部活の土曜練習に行く時、なぜかいっつも林さんが俺たちと一緒に来てたのは、てっきり速水君のことが好きだからだと思ってたんだ。でも実際は林さんが俺と一緒にいられるように、速水君が協力してくれてたみたい」
それを聞いて俺も合点がいった。俺が土曜練習の送迎を拒否されたのは、そういった友達とのやり取りがあったからだったのだ。
驚き過ぎて大事な言葉を言っていなかったことを思い出し、俺は仕切り直しをするように軽く咳払いをした。
「コホン。それはそうと、彼女ができて良かったな。おめでとう」
「うん、ありがとう」
太陽のようにニカッと明るく笑う二葉を見て、俺は感慨深いあまり思わず涙が出そうになった。
(そうか、とうとう二葉にも彼女が……)
「それでね、これから登下校は林さんと二人でしようってことになったんだ」
「……え?」
「あと、お弁当も林さんが作りたいって言ってくれて」
二葉はそう言うと、にっこりと笑いながら俺の手をぎゅっと握った。
「兄さん、今までずっと俺のこと守ってくれてありがとう。今度は俺、兄さんみたいに自分よりか弱い彼女を守れるように頑張るよ」
何だろう、今俺の目頭を熱くさせている、この感情の正体は。二葉が成長して、彼女までできて、感慨深いはずなのに、なぜかそれだけでは説明のつかない虚無感のようなものが胸の奥に巣食っている気がする。
ぽっかり胸に穴が空いたようなこの感情を二葉には悟られまいと、俺は無理矢理笑顔を作って二葉の髪の毛をよしよしと撫でつけた。
◇
「すごい! ポテトコロッケにポテトサラダにフライドポテトって、今日のお弁当ジャガイモパーティじゃないですか! 北海道かどっかから大量にジャガイモが送られてきたりしたんですか?」
お弁当のおかずが真っ黄色だったにも関わらず、瑛二は文句を付けることなくむしろ嬉しそうな歓声を上げた。瑛二はポテトコロッケが好物だと言っていたが、基本的にジャガイモが好きなようで、ジャガイモ料理ならなんでも目を輝かせていた。
「いや……なんか気が付いたらこんなのばっかり作ってた」
ついでに卵焼きも綺麗な黄色だ。最近は醤油を使わずに塩で味付けしているから。
「無意識で二種類も揚げ物作ってたんですか? 危ないんで気を付けて下さいよ」
そう言いながら、瑛二は黄色いおかずを口に入れてう~んと幸せそうな表情をした。それを見た俺も、ぽっかり胸に穴が空いているにも関わらず自然と笑顔になる。
「あ、良かった。伊近さんが笑ってくれた」
「え?」
「なんだか最近元気がなかったから、ちょっと気になってたんですよ」
俺は膝に置いた弁当箱の上にカチャリと箸を乗せると、そっと腕を伸ばして瑛二の頬に触れた。
「えっ、伊近さん?」
「ほっぺにポテトサラダ付いてるぞ」
「あっ、すみません」
瑛二の頬にくっついていたおかずを摘んだ俺は、無意識に指先を瑛二の唇の間に入れていた。
「へっ?」
「……あっ、ごめん!」
うっかり三和にご飯をやる時みたいなことを、高校生男子相手にしてしまった。俺は慌てて指を引っ込めようとしたが、その前に瑛二がパクッと俺の指先を咥えると、舌で指先に付いていたポテトサラダを舐め取った。
(うわ……)
瑛二の舌が触れた指先がじわりと熱い。俺は慌てて指を引っ込めると、照れを隠すように舐められた方の手をそっと背中の後ろへと隠した。
「伊近さん、本当に大丈夫ですか? やっぱりボーッとしてるし、体調悪いんじゃありませんか?」
「そういうわけじゃないんだ」
俺は小さく深呼吸をすると、心配そうな表情でこちらを覗き込む瑛二の黒い瞳を避けるように膝に視線を落とした。
「二葉が……二葉に、彼女ができたんだって」
一瞬、俺たちの間に沈黙が落ちた。会話に不自然な間が空いたのは、瑛二が何も言わなかったからだ。怪訝に思って顔を上げると、瑛二は怯んだように上体を少しだけ後ろに傾けた。
「……瑛二?」
「すみません、知ってました」
「どうして謝るんだ? 別にお前は何も悪いことなんかしてないだろ?」
「いえ、知ってて黙ってたんで」
確かに、どうして知っていたにも関わらずその話題に全く触れなかったのかは気になったが、別に謝るほどのことではないはずである。
「別に、俺だって話さなかったんだから」
「……それで寂しくなっちゃったんですか?」
「そうかな……うん、そうなのかも。二葉が大人になって、嬉しい気持ちが大半のはずなんだけど、なんかこう、一抹の寂しさがあるっていうか」
「まるで子供が巣立った後のお母さんみたいですね」
瑛二の言う通りだ。確かに今の俺は、巣立っていく雛鳥を見送る母鳥のような心境になっている。
「登下校も彼女と一緒だし、お弁当も彼女が作ってくれるから、もう俺が付き添う必要も弁当を作ってやる必要もないんだって」
「そうですか……」
瑛二は何かを考えるように曇った空を見上げていたが、やがて決心したかのようにおもむろに口を開いた。
「じゃあ、これからはなんの心配もなく俺と登下校できますね」
「えっ?」
「だって、もう二葉を心配して付き添う必要が無くなったんでしょう? 二葉だって恋人と登下校するんですから、伊近さんも恋人である俺と一緒に登下校しましょうよ」
「でも、お前ん家って学校には近いけど俺ん家からはちょっと遠いし、俺は三和のお迎えの日もあるし……」
「そんなの、俺が伊近さんについて行けばいいだけの話じゃないですか。朝は迎えにいくし、帰りは家まで送るし、三和ちゃんだって一緒にお迎えに行けばいい話でしょう?」
「それじゃあお前の負担が大きいんじゃね?」
「いやいや、それを言うなら毎日お弁当作ってくれてる伊近さんの方が負担大きいでしょ」
「俺は負担だなんて思ってないぞ」
本当のことだった。毎日弁当を作るのは大変だけど楽しい。食べてくれる人の顔を想像しながら、相手の好物と栄養バランスを考えながら、四角い弁当箱に彩り良くおかずを詰め終わった時の達成感が好きだ。そして先ほどの瑛二のように心から美味しそうに食べてくれる人がいたならば、さらに自己肯定感も天まで登って行くような心地になる。
「じゃあ決まりってことでいいですね?」
「お前が嫌じゃないんなら、俺は別に今まで通りで何も変わらないから別にいいけど」
隣に立つのが二葉ではなく、瑛二になるという一点を除けば。
「あー、良かった!」
俺の返答を聞いた途端、瑛二はいきなり脱力したようにベンチの背もたれに寄りかかると、曇天に向かって大きく息を吐き出した。
「えっ、急にどうした?」
「俺、てっきり二葉に彼女ができたって知ったら、伊近さん俺と別れようって言い出すんじゃないかと思ってたんですよ」
「ええっ? なんでだよ?」
「だって二葉に彼女ができたら、俺が二葉に告白する心配はなくなるわけで、そしたら伊近さんが俺と無理に付き合う必要も無くなるじゃないですか」
そういえばそうだった。元々俺が瑛二と付き合うことになったのは、瑛二が二葉に手を出したり告白したりするのを阻止するためだったのだ。ついこの間始まったばかりの関係のはずなのに、いつの間にか俺の頭の中からはその時の記憶が綺麗さっぱり消え去っていたのだった。
(……そうか。俺、本来なら瑛二と付き合う理由ってもうなくなったんだ)
もし瑛二と別れて、今の関係が解消されたとしたら?
(そしたら、もう俺以外のお弁当をわざわざ作る必要もなくなって、朝も誰かに合わせなくても好きな時間に自分のペースで登校できて……)
「……それは嫌」
「えっ?」
いつの間にか、俺は瑛二の制服のズボンの裾を、まるで縋り付くかのようにぎゅうっと握っていた。
「別れるだなんて言わないで」
瑛二は驚き過ぎて声も出ない様子だったが、はっと我に返ったように目を見開くと、次の瞬間何かに納得したようにパチリと両手を合わせてからにっこりと笑顔を作った。
「伊近さんにとって、俺は二葉の『身代わり』なんですよね」
「……え?」
どういう意味だろう? 瑛二の声音からは俺への非難は感じ取れなかったが、言葉尻だけを捉えるとあまり肯定的な意味合いには取れなかった。
「それってどういう……?」
「俺はそれでも全然いいですよ! 伊近さんが現状維持を続けてくれるなら」
「瑛二?」
「あ、俺お茶切らしちゃったんで、ちょっと自販機行って買ってきますね。伊近さんは何か飲み物いりますか?」
「いや、俺は大丈夫……」
瑛二はぱっとベンチから立ち上がると、小走りに自動販売機のある方角へ走って行ってしまった。その場にポツンと一人残された俺は、遠ざかっていく瑛二の背中をぼーっと見つめながら、少しの間馬鹿みたいにぼんやりと物思いに耽っていた。
(さっきの瑛二の言葉って……)
瑛二は、彼女ができて手が離れたみたいな形になった二葉の代わりに、愛情を注ぐ対象として俺が瑛二を利用しているのだと、そう言いたかったのだろうか。
(そうなのか? 俺がさっき瑛二と別れたくないって思ったのは、ただ単に一緒に登下校したり、お弁当作ってやる相手がいなくなるのが嫌だからだったのか?)
二葉と同じように、瑛二が自分の手を離れて巣立っていくのが寂しかったからなのか……?
分からない。自分の心なのに、こんな気持ちになったのは初めてで、自分が一体何にモヤモヤと悩んでいるのか、まるで霞に触れようとしているかのように掴み難い。
(……でも、きっと多分だけど、瑛二の言ってることは違う気がする)
自分は瑛二にとっては、二葉の『身代わり彼氏』かもしれないけれど、自分は瑛二のことをそんなふうには思っていないと思う。少なくとも弟と彼氏を同列で語ることなどできないということぐらい、恋愛初心者の俺にでも分かる。
(瑛二……)
空になった弁当箱をベンチに置き去りにして、俺の足は自然と瑛二の後を追った。誤解なら、早めに解いておいた方がいい。なぜか直感的にそう思った。
校庭の前にある自動販売機の近くまでたどり着いた時、赤くて四角い自動販売機の側に佇む瑛二の姿が見えた。すぐに側まで駆け寄ろうとしたが、瑛二と向かい合って立っている人影に気が付いて俺はその場ではっと足を止めた。
(あ、あれって……)
「……僕、前から初嵐君のことずっと気になってて。かっこいいなって……」
中性的で綺麗な儚い容姿に、女性声優の演じる男性キャラクターのような声。俺のクラスメイトの由岐だ。その由岐が今、俺の目の前で俺の彼氏に向かって告白していた。
「えっと……」
瑛二は困ったような表情で、右手でぽりぽりと頭を掻いている。一瞬ドキッとしたけど、俺はすぐに心の余裕を取り戻していた。
瑛二は俺と付き合っている。まだ一ヶ月ほどしか経っていないが、彼の様々な言動から、俺のことを憎からず思ってくれていることは感じている。そして、彼は恋人に対する向き合い方がとても真摯だ。付き合っている相手がいる状態で、よそに目移りするとはとても思えなかった。
だけど……頬を赤く染めて、恥じらいながら俯いている由岐を見ていると、一抹の不安が俺の胸をよぎった。
やっぱり、どことなく二葉と似たような雰囲気を纏っている。中性的で、守ってあげたくなるような華奢さで、男でもドキッとするほど綺麗だ。
「……あ、青柳」
由岐の声に、弾かれたように顔を上げた瑛二がこちらを振り返った。ギクッとしたような彼氏の表情に、胸の中で不安の渦がさらに大きさを増す。
「あ、ごめん。なんか取り込み中だったみたいで……」
「先輩、ちょっとこっち来てもらってもいいですか?」
(え……?)
瑛二はそう由岐に声をかけると、彼の腕を引っ張って俺の前から逃げるようにその場を離れていってしまった。
(……え、ちょっと待って、ええっ?)
再びポツンとその場に一人残された俺は、今度こそ衝撃のあまりその場から一歩も動けずに呆然と立ち尽くしていた。


