三和の診断結果はおそらく卵アレルギーだろうとのことだった。正確な血液検査の結果は一週間後に出るが、状況からしてまず間違いないだろうと医者が言ったらしい。
「でも今までずっと食べてたじゃないですか、卵」
「普段は大丈夫でも、体調を崩してる時にいきなり発症することもあるみたい」
「すみません、俺のせいで……」
「何言ってるの! 伊近君のおかげで助かったわ。小児救急電話相談に連絡してくれたって言ったら、保育園のママ友たちがみんなびっくりしてたのよ。しっかりした息子さんですねって。うちの旦那でも知らないだろうにって」
 それは俺じゃない。冷静な判断で迅速に適切な行動をしてくれたのは瑛二だ。瑛二は義母が帰ってくる五分くらい前にうちを出て家に帰っていた。さすがに遊びに来ている時間が早すぎて印象が悪いと思ったらしい。それで結局、義母はあの日のことは全て俺一人で対処したものだと勘違いしていた。
 そして月曜日、俺はいつも中庭のベンチでイライラと弁当をつつきながら二葉たちの教室を見上げていた。
(せっかく今日はいつもより張り切って弁当を作ってきたってのに、連絡してこないって一体どういう了見だ?)
 果たし状だと言われたランチのお誘いメッセージを送った日から、俺は彼氏力を上げるべく毎日瑛二の弁当を作って昼食を共にしていた。とはいえ二葉の弁当も入れると三人分の弁当を作らなくてはならないため、忙しい朝に作るそれの内容は前日の残り物がどうしても多くなってしまう。
(でも今日は月曜日。日曜日のうちに仕込みをして、ちょっと豪華なおかずのラインナップに挑戦してみたってのに!)
 しかも今日に限って、毎朝必ず律儀に送ってきていた『おはようございます』メッセージも来ないときた。
(未読スルーされるようなこと、俺したっけな? デートの約束してたのに結局子供の相手だけしてすぐに帰る羽目になったこと、怒ってるのかな?)
 抱き寄せられた肩の辺りが、まだ瑛二の温もりが残っているかのようにじわりと熱い。俺は手の付けられていない弁当箱の入った保冷バッグを脇に寄せて、小さくため息をついた。
「まーたこんな所で弟の見張りしてる」
 アルトボイスの女子みたいな声に振り返ると、ベンチの背もたれに肘をついた由岐がこちらを見ながら笑っていた。
「見えてないから見張りにはなってない」
「今日は一人なんだ。初嵐くん風邪引いたっての本当だったんだね」
「うん、今日は一人……えっ!?」
 俺が大声を上げたため、由岐は驚いて背もたれについていた肘をずるっと滑らせた。
「いたたたた。なに、知らなかったの?」
「うん、今日ちょっとあいつと連絡つかなくて……」
「僕も委員会で二葉くんに聞いたんだ。熱があるから学校休んでるんだって」
(マジか……)
 ていうか瑛二のやつ、普通に三和の風邪うつってんじゃねえか!
 俺は空になった弁当箱と、まだ蓋すら開けられていない弁当箱を持ち上げると、そのまま走って一年生のクラスが並ぶ校舎の二階へと向かった。二葉の教室を廊下から覗くと、机を合わせて三人グループで昼食を取っている二葉の姿が見えた。
「二葉!」
 教室の外から声をかけると、二葉が驚いたような表情でこちらを振り返った。
「兄さん!」
 二葉より少し遅れて、一緒に昼食を取っていた他の二人も俺の方を見た。色白で背の高い男子と小さくて可愛らしい女子だ。
「珍しいね、一年の教室に来るの。どうしたの?」
「えい……初嵐って今日休んでるのか?」
「そうだよ。熱が出たんだって。そういえば兄さん最近初嵐君と一緒にお昼食べてるんだっけ。連絡なかったの?」
「既読すらつかないんだ」
「ありゃあ、それは相当重症かもね」
 全く悪気のない二葉の言葉がチクリと胸に刺さる。
(あいつが風邪引いたのって、絶対俺のせいだよな)
 俺は保冷バッグの取手をギュッと握りしめると、意を決して二葉に尋ねた。
「あいつの家ってどこにある?」



 今日は義母は定時上がりのため、保育園のお迎えは頼まれていない。帰りのホームルームが終わるのと同時に教室を飛び出した俺は、電動ママチャリはひとまず駐輪場に置いたまま徒歩で瑛二の家へと向かった。
(確か学校から近い所に住んでるって言ってたし、あいつの家に自転車置く場所がなかったら困るしな)
 二葉に教えてもらった住所を地図アプリを頼りに探していると、学校の側の住宅街に見慣れた漢字の表札をすぐに見つけることができた。
(あった、初嵐! 珍しい苗字で助かった)
 大き過ぎも小さ過ぎもしない、ごく普通の一戸建ての正面には白い車が停まっていて、その横のスペースには綺麗に手入れされた高そうな自転車が一台停まっていた。
(あれ、自転車持ってんじゃん。いや、親父さんの趣味の自転車か?)
 微かな疑問を胸に抱きながら、俺は初嵐家のインターホンを指先でぐいっと押した。インターホンの向こうでガチャリと受話器を取る音がして、機械的な男性の声が聞こえてきた。
『はい』
 どうも瑛二ではなさそうである。
「あ、あの、瑛二くんの高校の者なのですが、今日学校休んでいたみたいなのでお見舞いに……」
 しまった! 急いで来たからお見舞いの品を買ってくるのを忘れてた!
 内心慌てている俺の目の前で玄関の扉がガチャリと開き、目つきの険しいメガネをかけた若い男が家の中からぬっと姿を現した。
(えっと、お父さん、じゃないよな?)
 大学生っぽい雰囲気だから、おそらく瑛二の兄だろう。
(あいつ兄弟いたのか。そういえば俺、自分の家族のことは結構話した気がするけど、あいつの家族の話って聞いたことないかも)
「瑛二の友達ですか?」
 どちらかというと面倒くさそうな、あまり友好的な態度には見えなかったが、俺は臆することなくずいっと一歩前に出た。
「クラスメイトの兄です」
 一瞬、瑛二の兄らしき男性はピクッと何かに反応したような素振りを見せたが、俺からすいっと視線を逸らすと体でドアを押さえながら進路を開けてくれた。
「どうぞ。二階の角があいつの部屋です」
(いや、別に案内とかは要らないんだけど、勝手に人の家を歩き回ってもいいものなのか……)
 明らかに歓迎されていない雰囲気の場所に踏み込むのは勇気が要ったが、三和ごと俺のことを抱きしめてくれた瑛二の温もりを思い出して、俺は門番のようにドアの脇に佇む男性の横をすり抜けて初嵐家へと足を踏み入れた。馴染みのない他人の家の木の匂いを感じながら階段を登り、そのまま一番端の角部屋の扉の前へと進む。家の中に人気は無く、どうやら今は瑛二とさっきの男性の二人だけしかいないようだった。
 コンコン、と遠慮がちに扉を叩いてみたが、返事は無い。仕方がないので、俺はそうっとドアノブを捻って瑛二の部屋の扉を細く開けてみた。
「瑛二……」
 室内はカーテンが締め切られていて薄暗く、目が慣れるのに少し時間がかかった。ようやく辺りが見えてくると、少し散らかった部屋の隅のベッドでうつ伏せに倒れている瑛二の姿が目に入った。
(これは……文字通り死んだように眠っているな)
 起こしたら悪いと思って足音を立てずに近付いたたつもりが、枕元まで近付いたところで人の気配を察したのか、うつ伏せの状態で顔を横に向けていた瑛二がぱっと目を開けた。
「あっ、ごめん、起こした……」
「お兄さん」
 カッスカスのしゃがれた声で俺を呼ぶと、瑛二は青白い顔を嬉しそうに綻ばせてゆっくりと起き上がった。
「わざわざうちまで来てくれたんですか?」
「あ、うん、二葉に聞いて。お前今日全然連絡つかなかったから」
「すみません。スマホをその辺に落としちゃって。探そうと思ったんですけど起き上がれなくて」
「俺が探してやるから、お前は横になってろ」
 瑛二の部屋の床は、衣類や教科書類や空きペットボトルなんかでごちゃっと散らかっていて、俺はそれらの隙間を縫うように歩きながらスマホを探した。メッセージアプリから電話をかけてみたが、電源が切れているのかバイブ音すら聞こえなかった。
「……ちょっと部屋片付けていい?」
「えっ、そんな悪いですよ」
「いや、俺がなんか落ち着かないから」
「すみません、いつもはこんなじゃないんです。今日は本当に何もする気が起きなくて」
「だから言ったろ、子供のウイルスを侮らない方がいいって」
「三和ちゃんのせいじゃありませんよ。一緒に住んでるお兄さんや二葉が元気なのに」
「俺らは常にチビのウイルスに晒されてるから、免疫ついてんだよ」
 俺は喋りながら衣服を手早く畳んで部屋の隅に積み上げ、教科書は机の棚に並べてゴミは集めてゴミ箱に放り込んだ。
(ていうかこれくらい、さっきのあいつがやってやればいいのに)
 瑛二のスマホはベッドの下から見つかった。画面は真っ暗で、ボタンを押しても全く反応がない。やっぱり電源が切れていたようだ。
「ほら、あったぞスマホ」
「ありがとうございます」
「ていうかお前、自転車持ってないって言ってたけど、家の前に立派なやつが一台あったぞ」
「ああ、あれは兄のものなんです」
 やっぱりさっきのメガネの男は瑛二の兄で間違いなかったようだ。
「お前の兄さんが自分で買ったのか?」
「いえ、厳密にいうと子供二人で使う用に親が買ってくれたんですけど、俺は普段自転車って必要ないですし、ほとんど兄が使っているので兄の物みたいになってるんです」
「へえ」
「それに兄は自分の私物を触られるとめっちゃ怒るんで、余計に使いづらい状況になってます」
「兄貴と仲悪いのか?」
「男兄弟って普通こんなもんでしょ。お兄さんのところがちょっと変わってるんですよ」
 そうなのか? 俺も弟が二葉じゃなくて瑛二だったら、そんな感じになっていたんだろうか。
「……そんなことは無いと思うんだけどなぁ」
 思わずそう呟くと、瑛二はきゅっと口角を上げてから机の上に俺が置いた保冷バッグに視線を移した。
「それってもしかして今日のお弁当ですか?」
「え? あ、そういえば忘れてた」
「お腹空いてきたんでもらってもいいですか?」
「ええっ? 一日経ってるし、やめた方がいいんじゃないか?」
「でもお兄さん、いっつも保冷剤きっちり入れてくれてるじゃないですか」
「それはそうだけど……」
 保冷バッグのジッパーを開けると、確かに保冷剤がまだ溶け切らずに残っていて、ひんやりとした空気で瑛二のために俺がこしらえた弁当を保護してくれていた。
「……じゃあ、まあ、傷んでなさそうなら」
「ありがとうございます」
 黒いプラスチックの弁当箱の蓋をパカッと開けた瑛二は、一瞬驚いたように目を見開いた後すぐにぱっと笑顔になった。
「わあ、コロッケだ! クリームコロッケですか?」
「いや、ジャガイモのやつ」
「珍しいですね。二葉の弁当でも見たことなかったのに。俺実はポテトコロッケが大好物なんですよ」
 当然だろ? コロッケなんて面倒くさい揚げ物は、主婦が避けたいメニュートップテン入りするような代物だぞ。
 でも実は俺は、ポテトコロッケが瑛二の好物だということを知っていた。二葉に探りを入れた時、瑛二はいつも売店でポテトコロッケサンドばかり買っているんだという情報を聞き出していたからだ。
「うん、美味しい! 冷めてるのにこんなに美味しいのって、きっと手作りだからですよね」
「そうなのか?」
 美味しそうに俺の作ったコロッケを頬張る年下の男を見ていると、不意に胸の奥から沸々と、なんとなく馴染み深い感情が湧き上がってくるのを感じた。
(なんだか二葉を見ているみたいだな……)
「ありがとうございます、お兄さん」
 しかし瑛二がそう言った瞬間、先程のメガネの男性の姿が目の前に蘇り、ぬるま湯にぼんやりと浸かっていた俺はまるで冷水を浴びせられたかのようにはっと我に返った。
(瑛二にとって、俺は仲の良くない兄貴の身代わりなのか?)
「お兄さん?」
「……の呼び方はやめろ」
「えっ?」
「俺のこと、『お兄さん』って呼ぶのはやめろ。二葉のお兄さんって意味なんだろうけど、俺はお前の兄貴じゃない」
 あんな男と一緒にしないで欲しい。俺は病気の弟の部屋を散らかったままほったらかしになんか絶対にしないし、三和がよだれのついた手で俺の私物を触ったって怒ったりなんかしない。瑛二のことも、二葉や三和と同じように大切にしてやれる。
(それに俺はそもそも兄貴の身代わりじゃなくて、二葉の身代わりなんだろ?)
「……伊近さん、って呼んでもいいんですか?」
「そっちの方が自然じゃね? 恋人なんだったらさ」
「てっきり伊近さんは『兄貴』って呼ばれたいんだとばかり思っていました」
「だから義兄弟じゃないんだって! ていうか『兄貴』だなんて呼んだこと一度もないだろうが!」
 瑛二は見るからにテンションが上がった様子で、枕元に置いてあった麦茶をゴクゴクと一気に飲み干すと、ぷはっと濡れた唇をペットボトルから離して俺に向き直った。
「ね、伊近さん」
「え、なに?」
「キスして下さいよ」
「はぁっ?」
「だって俺たち恋人同士なんでしょう? そういうことしないと、伊近さんお母さんとなんら変わりないじゃないですか」
「お母さんってどういうことだよ!?」
「ご飯作ったり部屋片付けたり看病したりって、完全にお母さんじゃないですか」
(た、確かに……)
 抜け目のないボーダーコリーが、くりっと可愛らしい瞳で甘えるようにこちらを見ている。俺は瑛二の視線から隠れるように慌てて下を向いたが、鋭い彼の視線からじわじわと熱の上がる頬を隠すことはできなかった。
(そうだよ、俺はこいつの兄貴の身代わりじゃない。こいつが好きな二葉の身代わりなんだから)
 お母さんでも兄でもない、恋人の身代わりだ。同じ『愛』という言葉で結ばれた関係であっても、その中身は全くもって似て非なるものなのである。
(その最たる違いってのが、こういうことなんだよな……)
 恥じらってジリジリと引き伸ばせば余計に恥ずかしい事態に陥る。俺は意を決してぱっと顔を上げると、瑛二の胸ぐらをぐいっと掴んで引き寄せながら勢いに任せて唇を重ねた。
 麦茶で濡れた表面は冷たく、しかしフニッと弾力のある奥は熱がこもっているように感じる。すぐにぱっと離れて瑛二を見ると、彼は驚いたように目を見開いてその場に固まっていた。
「……えっと、瑛二?」
「あ、はい!」
 俺が声をかけてようやく我に返った様子の瑛二は、まるで名残を惜しむかのように唇の周りをぺろっと舐めた。
「なに、なんか俺のキスおかしかった?」
 なにせファーストキスだったのだ。キスのやり方って本当にこれで合ってたんだろうか?
「いえ……まさか口にしてくれるとは思わなくて」
「えっ?」
「俺今風邪引いてるし、移っちゃうかもしれないから。せいぜいおでこか頬かなって」
 キスって、別に口じゃなくても良かったのか!
「あっ、でももちろん嬉しい誤算ってことですよ」
 今にも頭から湯気が噴き出すのではないかというくらい真っ赤なゆでダコになっている俺を見て、瑛二が慌てて取りなすようにそう付け加えた。
「今のはそうですね、可愛かったから彼氏力七十点ぐらいで」
 良かった。とりあえず赤点は回避できたようだ。
「伊近さんも百点取れたらご褒美あげますよ。えっちなやつ」
「……だからそれ罰則なんだってば」