『拝啓、遠い町のお母さん。突然ですが、彼氏力って何ですか?』
 夜中に送信したにも関わらず、俺のスマホはすぐにブブッと振動して母親からの返信があったことを告げてきた。
『なんで天国のお母さんに宛てた独白みたいなメッセージを送ってきてんだ?』
 ツッコむところそっち?
 ブブッ
『てか彼氏力ってなんだ?』
(だからそれを聞いてんだろうが! って、言われてみれば、確かに質問の仕方を間違えてるな)
 俺はベッドの上にうつ伏せに転がってぽりぽりと頭をかくと、打ち直したメッセージを再び母親に送信した。
『間違えた。彼女力だった』
(彼女ってなんか嫌だな。まるで俺が女になったみたい……)
 ブブッ
『要はいい彼女の秘訣ってことか?』
『そうそう! まさにそれ!』
『バツイチの私に普通聞くかそれ?』
『二回も結婚できただなんてよっぽどいい女だったんだろ?』
『ビビるほどポジティブだな』
 それから少し考えているかのように間が空いた後、再びスマホのバイブがブブッと鳴った。
『ベタだけど、胃袋を掴むとかは? 食欲は生き物の三大欲求だから、そこを押さえるのが手っ取り早いんじゃないか?』
 胃袋! それだ! さすが二回も結婚できた女!
(明日の二葉の予定は……よし、問題ないな。初嵐を昼飯に誘い出しても大丈夫そうだ)
 俺はささっと本日手に入れたばかりの初嵐の連絡先にメッセージを送りつけると、一応母親にもお礼のメッセージを送っておいた。
『サンキュー! 助かったわ。それじゃおやすみ』
『ちょっと待て! どうして急にそんな相談してきた?』
『おいこら、未読スルーしてんじゃないぞ!』
 スマホは怒ったようにしばらくブーブー唸っていたが、俺は全く意に介することなく震えるそいつを枕の下に押し込むと、さっさと照明を落として布団の中に潜り込んだ。
 二葉の笑顔を守るために、俺は初嵐の言う『彼氏力』とやらを試されることになった。まだ一度しか会ったことのないあいつが一体彼氏に何を求めているのかさっぱり分からないが、生物全般に共通する欲求を押さえるというのは得策なのではないだろうか。
(ふっふっふ、待ってろよ初嵐。この俺様が見かけによらない料理の腕前でお前の舌をあっと言わせてみせるからな!)



「二十点」
 辛口評論家もびっくりの辛辣すぎる判定に、俺は驚いて思わず食べかけていた卵焼きを丸ごと飲み込みそうになった。
「ゲホッゲホッ! ……赤点かよ! なんで?」
 慌てた様子の俺を楽しそうに眺めながら、初嵐は今まさに俺が咽せる原因となっていた卵焼きを箸でヒョイと掴んで持ち上げた。
「卵焼きの色が黒っぽいですよ。醤油を使いましたね」
「別にいいだろ? 美味しいんだから」
「味は悪くありませんが見た目が損なわれます。俺は塩派ですね」
「弁当の見た目を気にするなんて女子かよ。てかそれで赤点は減点しすぎじゃね?」
「もちろんそれだけじゃありません。このそこはかとなく家庭感の漂うおかずのラインナップには見覚えがあります。これ全部二葉の好物でしょ」
 鋭い指摘を受けて、俺は自分の膝に乗せているプラスチックの弁当箱に思わず視線を落とした。メインはケチャップ味のハンバーグで、サブのおかずに今さっきケチをつけられた卵焼きが並び、副菜はきゅうりの入ったポテトサラダときんぴらごぼうだ。
「……いや、完璧すぎる弁当だろ。確かにハンバーグとポテトサラダは昨日の晩御飯の残り物だけど」
「晩御飯、お兄さんが作ってるんですか?」
「そうだよ。義母さんフルタイムで働いてて忙しいから」
 そう言いながら、俺は気を取り直して大きめのハンバーグを箸で割ってからあむっと口に運んだ。
「……まあ確かに二葉の好物ではあるけど。みんな好きじゃん、ハンバーグなんて。赤、緑、黄色って彩りも完璧なのに、赤点は酷くね?」
「赤を入れるならプチトマトとかお手軽ですけど、そういえば二葉の弁当に入ってるところ見たことがありませんね」
「プチトマトはダメだ。喉に詰まったら危ないだろ」
「過保護! 相手もう高校生ですよ?」
 初嵐ははぁっとため息をつくと、座っている中庭のベンチから目の前の校舎の白っぽい壁を見上げた。
「二十点はお弁当の中身の判定ではありません。卵焼きの色はともかく、味は悪くないと思います。てか美味しいです。特にこのポテトサラダとか」
「え、マジで? 美味しかった?」
 一生懸命作ったご飯を美味しいと褒めてもらって、一瞬俺は相好を崩しそうになった。が、そんな俺を厳しく指導するかのように、初嵐は減点に至った原因をズカズカと並べ立て始めた。
「まずこれ、昨日の夜中にお兄さんがくれたメッセージですけど」
 そう言いながら、初嵐は俺とのメッセージのやり取りの表示されたスマホの画面を俺にかざして見せた。
『昼休み、チャイムが鳴ったらすぐに中庭に来い』
「果たし状かと思いました」
「二葉ならこれですぐに伝わるぞ」
「……それから今俺たちが座っているこの場所ですけど、ここって俺と二葉のクラスの真正面ですよね?」
「そうだ。教室は二階だから見え辛いけど、逆に向こうからも見えにくいという妥協スポットだ」
「ここから二葉のことをいつも見張ってるんですか?」
「全然見張れてなんかないぞ。でもやらないよりはマシかなと思って」
「お兄さん、世界が二葉を中心に回ってますよ」
 そう言いながら、初嵐は不意に上半身を俺の方へぐいっと傾けてきた。
「その中心って、俺がいるべき場所じゃないんですか?」
「えっ?」
「恋人なんですから」
 初嵐は綺麗に口角を上げてはいたが、目が笑っていなかった。何を考えているのかよく分からない、まるで賢い牧羊犬のボーダーコリーのような黒い瞳。
「……な、なんだよ。近いからやめろって」
 軽く恐怖を覚えた俺は、逃げるようにお尻をずらしてベンチの端の方まで後ずさった。
「き、昨日の今日でいきなりそんなこと言われても……俺、今まで誰かと付き合ったことなんてないし」
「そうなんですか?」
 初嵐は急に機嫌を直したかのように、つい先ほどまで真っ暗闇だった瞳に明るい星のような光を瞬かせた。
「それじゃあ仕方ありませんね。今日のところは大目に見てあげますよ。でも次から赤点取ったら罰則ですからね」
「え、罰則って?」
「えっちなお仕置きとか」
「ええっ!?」
 蒼白になりながら体をよじって初嵐から距離を取ろうとする俺を見て、彼は今度はわざとらしく拗ねた子供のように形の良い口を尖らせた。
「そこはツッコむところですよ。そんなの罰則じゃないじゃないか! って」
 そのとき俺の脳裏に浮かんだのは、昨晩血のつながった実の母親とメッセージアプリでしたやり取りの内容であった。
(生き物の三大欲求を押さえるのが手っ取り早い……)
「さすがは二回も結婚できた女!」
「えっ? 結婚って?」
「ごめんこっちの話。ていうかそんなのどう考えても罰則だろ! だってお前、俺にツッコむつもり……」
「あれ、青柳がカッコいい子と一緒にお昼食べてる」
 女性の声優が演じる男の子のような中性的な声にハッと顔を上げると、俺と同じクラスの 由岐奏(ゆきかなで)が不思議そうな表情で俺たちのいるベンチを見下ろしていた。
「あ、由岐……」
「見ない顔だね。こんな長身のイケメン君、一回見たら絶対忘れないと思うんだけど。よそのクラスの人?」
「初めまして、初嵐瑛二です。俺はお兄さんのこ……」
(こ……いびととか言ったらシメる!)
 俺が放つ殺気を感じ取ったのか定かではないが、初嵐はニヤニヤと笑いながら続きの言葉を口にした。
「……うはいです」
「後輩君? へぇ~、新入生にこんなおっきい子がいたんだね」
 由岐が感心するのも無理はない。彼は俺と同じ二年生だが、身長は165センチに届くか届かないかくらいしかない色素の薄い中性的な美人だ。そういえばなんとなく二葉と似たような雰囲気を纏っている気がする。
「青柳が誰かと一緒にご飯食べてるのって珍しいね」
「こいつ二葉の友達なんだ。同じクラスなんだって」
「やっぱり、そんなことだろうと思った。青柳弟君にしか興味ないもんね」
「興味ないんじゃなくて、心配だから見張ってるだけだ」
「相変わらず過保護だなぁ。あ、でも今日はここで見張ってる意味なかったんじゃない? 二葉君今日は美化委員のランチミーティングで、さっきまで僕たちと一緒に空き教室でお昼食べてたんだけど」
「うん、知ってた。由岐がいるから大丈夫だろうと思って」
「あれ、僕っていつの間にそんなに信頼されてたの?」
「だってなんか二葉と雰囲気似てるし」
 美人の同級生が「じゃあね」と手を振って去った後、振り返った俺は再び不機嫌そうな表情の初嵐と向き合う羽目になった。
「別に今日わざわざこんな所で弁当食べる必要なんかなかったんじゃないですか。まあいつでもそんな必要ないと思いますけど」
「あー、なんかいつもここで食べてるから、他の場所だと落ち着かなくてさ」
「ていうかいちいち二葉の細かいスケジュールまできっちり把握してるんですか?」
「二葉だけじゃないぞ。三和は今日は保育園でお外遊びの日だ」
「保育園児の予定まで覚えておく必要ありますか!?」
「お外遊び中に光化学スモッグが発生したらすぐに保育園に電話かけなきゃならないだろ」
「そんなのお兄さんが電話する前に園がなんとかしますって」
 グチグチと不満げにそう言うと、初嵐は食べかけの弁当に箸を戻して中断していた食事を再開した。
(こいつ、クールな見た目の割に意外と表情がコロコロ変わって情緒が安定しないな)
 もしかして、自分はまた何か彼の機嫌を損ねるようなことをしてしまったのだろうか?
(さっきはせっかく大目に見てもらったのに、また赤点判定をつけられたら困るな)
「……そういえば妹さんって、まだ赤ちゃんなんでしたっけ」
 真剣に悩んでいるところに急に声をかけられて、驚いた俺は持っていた箸を危うく取り落としかけた。
「おっとあぶね! ……えっと、三和のことか? こないだ一歳になったばっかりだから、まあ赤ちゃんに毛が生えたようなもんだな」
「結構な年の差ですね」
「そうだな。義母さんもまさかこの歳で妊娠するとは思わなかったーってびっくりしてたくらいだからな。二葉を産んだのが昔過ぎて、子育ての常識や制度があまりにも昔と変わってて日々戸惑ってるってよ」
「一歳の妹って、相当可愛いんでしょうね」
「可愛いよ。手も足も短くて何もかもが小さくて、可愛いって感想しか出てこなくなる。妹っていうかもはや娘だな」
「二葉は年が近いですけど、初めて会った時はどんな感じだったんですか? 物心つく前で覚えていないですかね」
「いや、二葉と初めて会ったのは俺が小学校六年生の時だよ」
 義母に連れられてうちにやってきた時の幼い弟の姿を思い出して、俺は思わず顔を綻ばせた。
「小六って、結構難しい年頃だと思うんですけど、大事な物を取られた気分とかにはならなかったんですか?」
「大事な物って?」
「例えば父親の愛情とか」
「ないない! 俺親父のこと嫌いだったし。今でこそ大人な付き合いしてるけどさ。てか兄弟ができてすごく嬉しかった。うちの母親と親父、俺が物心ついた時から既にめっちゃ仲悪くて、こいつらの間にもう子供なんてできないんだろうなって諦めてたから」
 二葉は初めてできた年の近い同居人で、遊び相手で、友達とは違う弟という特別な存在だった。
「……そういうもんですか」
 ボソリとそうつぶやいた初嵐の表情は、様々な感情が折り重なって綺麗な顔に複雑な影を落としているかのように見えた。
(やばいやばい! ええっと、彼氏力彼氏力、何か明るい雰囲気に持っていけるような話題は……)
「……あ、あのさ、可愛いくてムチムチな子見たい?」
「は?」
「えっと、三和のこと! 俺今日保育園のお迎え頼まれてる日だから、一緒に帰れば妹に会えるけど……」
(しまった! 女子じゃあるまいし、赤ちゃんを見て喜んだりはしないか……)
 しかし俺の懸念に反して、意外にも初嵐の反応は悪くはなかった。
「お兄さん、チャリ通でしたっけ? 二葉は自転車って言ってましたけど」
「あ、ああ、そうだよ」
 それを聞いて、初嵐はぱっと顔を輝かせた。
「いいですね! 俺家近いし自転車持ってないんで、チャリ通って憧れてたんです」
(これだ!)
「保育園までだったら乗せてやってもいいぜ!」
「マジですか!」
「いいよ。今から俺のチャリ見に行かね? 言っとくけど俺のチャリは他のと違ってやべえぞ!」
「行きます行きます!」
 しかし、自転車置き場についてきた初嵐の反応は、俺の期待していたものとは全く異なっていた。
「これが俺の自転車だ!」
 ハンドルの間と後ろの荷物置きの部分に子供を乗せるチャイルドシートの付いた俺の自転車を見て、初嵐は相当ショックを受けた様子でポカンと口を開けていた。
「しかも電動だぜ!」
「まさかの子供乗せママチャリ!」
 しかしすぐに我に返った初嵐は、いきなり険しい表情で俺に詰め寄ってきた。
「期待させといて落とすとか酷くないですか? 後ろにチャイルドシートが付いてるのに、どうやって後ろに乗れって言うんですか?」
「誰も後ろに乗れだなんて言ってないぞ。運転させてやってもいいって言ったんだ」
「恋人と一緒にいるのに一人でチャリに乗ってなんか意味あるんですか!?」
「お前がチャリ通に憧れてるって言うから!」
「自転車で通学することに憧れてたわけじゃありません! 二人乗りに憧れていたんです! 青春カップルのど定番!」
「チャイルドシート付いてなくても後ろになんか乗せないぞ。自転車の交通ルールの取り締まりが来年から厳しくなるからな」
「なんで長男だから~って武士みたいな思想してるくせに、そういうとこだけ令和のルールに忠実なんですか!?」
 初嵐ははぁ~と気の抜けたようなため息をつくと、しっかりレインカバーのかかったチャイルドシートを恨めしそうに眺めた。
「ていうか一歳の子って小さ過ぎて後ろには乗れませんよね? 前だけでいいはずなのに、なんで後ろにまできっちりチャイルドシート付けてるんですか?」
「小さい期間なんてあっという間だろ。すぐに前には乗れなくなるし、まとめ買いの方がお得って言われたから」
「節約思考ですか」
 初嵐はもう一度ため息をつくと、自転車を見た瞬間よりは幾分落ち着いた表情で俺に向き直った。
「可愛いお兄さんの妹さんにはもちろんお会いしたいですが、今日のところはやめておきますね。ちょっと気持ちの整理をつけたいので」
「気持ちの整理?」
「ギューンと空高く持ち上げられてからの、深海まで突き落とされたこの俺の情緒の整理ですよ!」
(大袈裟だな、たかが二人乗りくらいで。こんなにイケメンなら誰でも喜んでしてくれるだろうに)
 そこまで考えて、俺はこいつが男が好きだったことを思い出した。女子からなら引く手数多だろうが、確かに男子となるとそう簡単に相手が見つかるものでもなさそうである。
(だから好みと真逆にも関わらず、妥協して俺と付き合おうだなんて言い出したんだろうな。二葉の件もあるし、俺なら確実に付き合えると踏んだんだろう)
 その代わり! と初嵐はびしっと人差し指を俺の胸元に突きつけながら、高らかな声で宣言した。
「今週の土曜日! 俺のために時間を作ってください! 土曜日なら保育園のお迎えの必要もないでしょう?」
「義母さん今週は土曜出勤だぞ」
「なっ!」
「まあでも五時までにお迎え行けばいいから、それまでなら大丈夫だけど」
「絶対ですよ! 約束破ったら彼氏力マイナス百点で強制ベッドコースですからね!」
「いきなりかよ!」
 焦って思わず言い返したものの、初嵐の表情から影がすっと消えて再び機嫌が治ったみたいだったので、俺は内心ほっと安堵のため息をついたのだった。