俺の弟は可愛い。世界一……いや、俺にはプリティ過ぎる妹もいるから、世界一は決め難い。しかしプリティな妹とは歳が離れていて、先日一歳になったばかりの小さい人間さんと高校一年生になったばかりの弟では可愛いの次元が違い過ぎるので、これはもう比較対象外とさせていただこう。
身長160センチ、きめ細やかな白い肌に小動物のようなクリッとした瞳。可愛いの権化だろう。しかしそのあまりにも可愛過ぎる見た目のせいで、昔から男に言い寄られることの多かった弟は軽く男性恐怖症のようなものを患ってしまった。そんな弟が、だ。
「兄さん! 俺、高校で初めて男友達ができたよ!」
可愛らしい頬をバラ色に上気させて玄関から飛び込んできた弟、 青柳二葉の後ろに佇んでいる男を、俺は警戒心剥き出しの表情でジロリと睨みつけた。
切れ長の二重にすっと高い鼻。形の良い薄い唇の口角をわずかに上げて、その長身の男は俺に向かってペコリと丁寧にお辞儀をした。
「青柳君と同じクラスの 初嵐です」
「初嵐君は 瑛二って名前なんだよ。俺の名前と漢字でしりとりできちゃうんだ!」
「そうか、それで仲良くなったのか?」
「そんなわけないでしょ! 初嵐君はクラスで唯一、俺のお尻を触らなかった男子なんだ」
「どういうことだそれ! それはつまり、他の連中は全員お前の尻を触ってるってことなのか?」
「みんな冗談半分で別に深い意味があるわけじゃないよ」
いやあるだろ。今までの経験を踏まえると。
「それでも俺はやっぱり嫌だったから。で、初嵐君になんで俺のお尻触らないのって聞いたら、触るのに何の意味があるんだ? って返されて、彼とならいい友達になれると思ったんだ」
(どういう友達のなり方?)
「ちょっと俺部屋の片付けしてくるから、兄さん初嵐君のことリビングでもてなしておいてくれない?」
「いいよ、好きなだけ片付けておいで」
二葉が慌ただしくバタバタと二階に駆け上がってバタンと部屋の扉を閉めるのを確認してから、俺は靴を脱いで玄関に上がってきた男を一階のリビングへと誘った。
「まあこっちこいよ」
「……なんかちょっと顔貸せやって言われてるような気分なんですけど」
「その通り。いいから入れって」
四角いガラスのはまったリビングの扉は、たとえ閉めていたとしても二葉が二階から降りてくる時はバタバタと足音が響いてすぐに分かる。それよりもこれからの会話を弟に聞かれる方が問題だ。俺はリビングの扉をきっちりと閉めると、二葉の友達だという初嵐を振り返って、まるで空港の入国審査官のような目で上から下まで眺め回した。
(イケメンな上に高身長って腹立つな。身長しか誇れる所の無い俺より目線が高いや。180センチぐらいはありそうだな)
「お兄さん、二葉と顔全然似てないんですね」
「そりゃそうだろ。血ぃ繋がって無いんだから」
「えっ?」
「むしろこれだけ似てなかったら、血が繋がってるって言う方が驚きじゃね?」
俺の母親は俺が小学生の時に父親と離婚して、二葉はその後すぐに再婚した今の義母の連れ子だった。一年ちょっと前に生まれた三和は、俺とも二葉とも血が繋がっているという、ちょっと複雑な関係だった。
「……顔の作りもそうですけど、なんていうか表情が……」
「あ? 目つきが悪いって?」
「二葉はあんなにふわふわきゅるんってチワワな感じなのに、お兄さんはドーベルマン並に険しいです」
「おお、悪くない例えだな」
そう、俺は言うなれば番犬のような存在なのだ。鋭い目つきで周囲を威嚇し、下心を持って近づいてくる輩どもから今日も家族を守っている。
「ていうかそんなことより、お前に聞いておかなければならないことがある」
「なんですか、急に改まって」
「お前、本当に二葉のこと狙ってないんだろうな?」
初嵐は俺の言葉を聞いて少し考えるような素振りをしたが、やがて意味深な笑みを浮かべながら口を開いた。
「……実は俺、男が好きなんです」
「えっ!」
「それで二葉は俺の好みどストレートで」
「やっぱりお前も二葉の尻を狙って……!」
般若のような形相で初嵐を殴りつけようと振り上げた俺の手を、彼はいとも容易く大きな手でガシッと掴むと、余裕たっぷりな表情で少し目線が下の俺を見下ろしてきた。
「お兄さん、俺が二葉と付き合うのは嫌ですか?」
「あいつは昔からその手の男に狙われることが多くて、男が苦手になっちまったんだ。お前のことは純粋な友達だと信用してうちに連れてきたってのに……」
「じゃあお兄さんでもいいですよ」
「……え?」
一体何を言われているのかさっぱり分からず、俺は思わず般若顔を作るのを忘れてポカンとした表情で初嵐の秀麗な顔を見上げていた。そんな俺を嘲笑うかのように、初嵐は掴んだ俺の手首をぐいっと引いて、今にも鼻先がくっつきそうなほど顔を近づけてきた。
「お兄さんが俺と付き合ってくれるなら、二葉とは今まで通りの友人関係を続けます」
「そんなこと……」
できるか、と言おうとした俺の脳裏に、先ほど頬を紅潮させながら嬉しそうに玄関に飛び込んできた二葉の笑顔が浮かんだ。
(初めて男友達ができたって、あんなに嬉しそうにしてたのに……)
「俺、絶対浮気とかしないんで。他に恋人がいるのに二葉に手を出したりとか、ありえないんで」
「でもお前、二葉のこと好みどストレートだって言ってなかったか?」
身長175センチで、日本人としてはまあまあ高身長。中性的でしょっちゅう女の子に間違えられる弟とは正反対の、平均的で平凡な日本男児らしい顔立ち。これがこの俺、 青柳伊近の外見である。
「俺、二葉と外見似ても似つかないっていうか、むしろ真逆だけど。お前も今さっきそう言ったばかりだろうが」
「そこはまぁ……お兄さんの『彼氏力』次第ってことで」
「か、彼氏力?」
「外見なんて『愛』の力でどうにでもなるもんじゃないですか」
(いや、今さっき初めて会った人間にその『愛』を求めるのはおかしくないか? 俺のことなんか一ミリも知らないくせに……)
バタバタバタッ! と二階を慌ただしく駆け回る足音が聞こえて、俺はギョッとして思わず体をビクッと硬直させた。
「あっ、二葉が……」
「彼が下りてくる前に返事を聞かせて下さいよ。でないと俺、今日弟さんに告白する心づもりでここに来たんですから」
「ええ~!?」
(俺には心の準備をする時間すらくれないってか!?)
こんなふうに焦らされて追い詰められると冷静な判断力を失ってしまう。いかにも詐欺師の使いそうな手口だ。そうとは分かっていても、今の俺にはどうすることもできなかった。
「……本当に、他に付き合う相手ができたら、二葉のことは諦めて友人として接してくれるのか?」
「この俺の心臓にかけて誓いますよ」
「そんなのどうやって信じれば……」
圧倒的にこちらが不利な状況だ。たとえ初嵐の言葉が舌先三寸の嘘っぱちだったとしても、俺にはこいつの要求を飲む以外に選択肢はない。
「お兄さんは二葉とこんなに仲が良いんですから、俺が手を出せばすぐに二葉から伝わりますよ。お兄さんに隠れて悪い事なんてできませんって」
「まあ、確かに……」
「それからもしお兄さんが俺の彼氏になってくれるなら、学校で二葉に手を出そうとする輩は俺が追い払ってあげますよ」
「えっ、マジで!?」
「学年もクラスも違うお兄さんじゃ、目が行き届かなくて心配でしょう? その点俺ならクラスも一緒だし、安心なんじゃありませんか?」
それは確かに俺にとって、非常にありがたい申し出であった。
中学生の時、休憩時間のたびに下の学年の二葉のクラスまで睨みをきかせに出向いていたら、「ブラコン番長」というあだ名を付けられてしまった。俺はそれでも全然良かったのだが、二葉のクラスメイトの親から苦情が入って 義母さんから怒られた。
「伊近君、二葉のこと心配してくれるのはありがたいんだけど、学校での伊近君の評判が悪くなったらお父さんに申し訳が立たないわ」
「義母さん、俺の評判や親父への体裁と、二葉の貞操のどっちが大事ですか?」
「やり過ぎだって話をしてるの! なにも伊近君がそこまでしなくたって大丈夫だから」
義母さんの危機感のなさには辟易したが、彼女の言うことにも一理あった。確かに学校での俺の評判が悪いと、それが弟の二葉にも波及してしまう恐れがあったからだ。
それで高校に入って環境が変わってから、俺は再び変なあだ名を付けられないように行動を自粛せざるを得なくなった。相変わらず登下校時はSPのように張り付いているが、中学の時のように一個下のクラスまで睨みをきかせには行けなくなってしまったのだ。
「マジで俺の代わりに番長やってくれるのか?」
「え、番長って?」
「悪い、こっちの話」
「番犬、の間違いですかね。マジでやりますよ、番犬でもなんでも。恋人の頼みとあらばね」
腹の読めない顔でにっこりと笑うこの弟の友人を本当に信用していいものか。しかしこれ以上悩んでいる時間は俺には残されていなかった。
バタン! と二葉が二階で部屋の扉を閉める音が盛大に聞こえて、ハッと我に返った俺は慌てて掴まれていた手を振り払うと、二葉の足音にせき立てられるように口を開いた。
「分かった! 交渉成立だ。お前のその申し出、受けて立ってやるよ!」
「なんだか告白の返事をもらってる感じが全然しませんね」
「ちょっ! 告白ってお前、これ絶対二葉には言うんじゃねえぞ!」
「分かってますって」
「お待たせ~……って、二人とも何やってんの?」
うっかりメンチを切りながら初嵐に詰め寄っているところに二葉がリビングの扉を開けて入って来たため、俺は脊髄反射でぱっと腕を伸ばして初嵐の首に腕を回すと、精一杯ぎこちない笑みを浮かべながら二葉を振り返った。
「お、遅かったな。ちょうど今お前のお友達と男同士の契りを交わしていたんだ」
「え、なにそれ? 盃を交わす的な?」
「違うよ二葉、俺とお兄さんは義兄弟になったわけじゃ……いたたた! お兄さん首がもげますって!」
「お前の初めての男友達だから、俺も仲良くしようと思ってさ」
「本当に? ありがとう兄さん! 初嵐君はマジでいい人だから、兄さんとも良い友達になれると思うよ」
(すまない二葉。既にこいつと俺は友達ではないんだが……)
頬を痙攣させながら嘘笑いをする俺の内心をまるで読み取ったかのように、初嵐は口の端を歪めてニヤリと笑うと、俺の手首を握って自分の首にかかっていた俺の腕をすっと外した。
「お兄さんと色々話したけど、二葉がいつも話してる通りの人だね」
「でしょでしょ! 分かってくれた? 兄さんはとっても優しくてかっこいいんだよ!」
(二葉……)
思わず感動してうるっとなりかけた俺だったが、突然今度は初嵐が俺の肩に腕を回してギュッと体を引き寄せてきたため、目からではなく背中の毛穴から冷や汗という水分を放出させる羽目になった。
「ちょっ!」
「はい、チーズ」
カシャッ、とスマホのシャッター音が鳴って、勝手に俺とのツーショットをおさめた長方形の液晶画面を確認した初嵐がぶっと吹き出した。
「おい! 一体何がおかしい!」
「いい感じに撮れてますよ」
「じゃあなんで笑った? 絶対白目剥いてたんだろ! 今すぐ消せ!」
「白目って。ちょっとドーベルマンっぽいなって思っただけですよ」
「目つきが悪いって言いたいのか?」
「後でメッセージアプリで送るんで、連絡先教えて下さい」
「いや、別に送ってこなくていいし」
この男とはこれから付き合うことになるのだから、当然連絡先は交換しなくてはならない。
「スマホ出すから、とりあえずその腕離して。肩痛いんだけど」
「自分だってさっきは俺の首を締め上げる勢いだったくせに」
「気絶させた方が減らず口を叩けなくて良かったかもな」
「おっと、聞き捨てならない言葉ですね。あんまり可愛くないこと言うと……」
「わーかったよ! 分かったから早く腕離して!」
初嵐は人を手のひらの上で転がすのが楽しくて仕方がないかのようにくすくすと笑うと、俺が差し出したスマホのQRコードを慣れた手つきで自分のスマホに読み込ませた。
「……アイコンが二葉と赤ちゃんの後ろ姿って、まるで二児の母みたいなんですけど」
「うちの義母さんのアイコンはトイプードルだぞ」
「なにマジもんの母親より母親みたいなことやってんですか!」
「初嵐君、すっかり兄さんと仲良くなったみたいで嬉しいな。飲み物何がいい? ジュース色々あるよ」
「それじゃあお茶もらってもいいかな?」
弾むように楽しげな足取りで二葉がキッチンへと向かうのを確認してから、初嵐は不敵な笑みを浮かべて再び俺の方を振り返った。
「本当に二葉のことが好きなんですね。血の繋がった兄弟でもないのに、どうしてそこまで体を張れるんですか?」
俺は初嵐に抱き寄せられた左肩を右手で揉みながら、彫刻のように整った彼の顔をじろりと見上げた。確かに匠の手によって丁寧に彫られたみたいに綺麗だけど、本当に血が通っているのか疑いたくなるような、薄寒さを覚える笑顔だった。
「俺は長男だぞ。俺より後から生まれたか弱い弟や妹がピンチに陥ってたら、体を張ってでも守ってやるのが先に生まれた男の役割ってもんじゃないのか?」
俺の答えを聞いた瞬間、一瞬初嵐の顔から笑顔が消えて、ほんの一瞬だけ石膏の笑顔の仮面の下から頼りなさげな少年の素顔が皆見えたような気がした。しかし一度瞬きして再び目を開いた時、俺の目の前にいたのはやはりニヒルな笑みを浮かべた初嵐の姿であった。
「……とても前時代的な発言ですね。令和を生きる若者の考え方だとはとても思えません」
「なんだと? ジジくさいとでも言いたいのか?」
「初嵐君お待たせ! 一緒に二階に上がろう!」
「分かった! すぐ行くよ」
閉まったリビングの扉の向こうにいる二葉に返事をしてから、初嵐は俺に向かってひらひらと手を振ってみせた。
「古風だなって思っただけですよ。それじゃあそんな海のように深い愛情をお持ちのお兄さんの『彼氏力』、明日から期待させてもらいますんで」
身長160センチ、きめ細やかな白い肌に小動物のようなクリッとした瞳。可愛いの権化だろう。しかしそのあまりにも可愛過ぎる見た目のせいで、昔から男に言い寄られることの多かった弟は軽く男性恐怖症のようなものを患ってしまった。そんな弟が、だ。
「兄さん! 俺、高校で初めて男友達ができたよ!」
可愛らしい頬をバラ色に上気させて玄関から飛び込んできた弟、 青柳二葉の後ろに佇んでいる男を、俺は警戒心剥き出しの表情でジロリと睨みつけた。
切れ長の二重にすっと高い鼻。形の良い薄い唇の口角をわずかに上げて、その長身の男は俺に向かってペコリと丁寧にお辞儀をした。
「青柳君と同じクラスの 初嵐です」
「初嵐君は 瑛二って名前なんだよ。俺の名前と漢字でしりとりできちゃうんだ!」
「そうか、それで仲良くなったのか?」
「そんなわけないでしょ! 初嵐君はクラスで唯一、俺のお尻を触らなかった男子なんだ」
「どういうことだそれ! それはつまり、他の連中は全員お前の尻を触ってるってことなのか?」
「みんな冗談半分で別に深い意味があるわけじゃないよ」
いやあるだろ。今までの経験を踏まえると。
「それでも俺はやっぱり嫌だったから。で、初嵐君になんで俺のお尻触らないのって聞いたら、触るのに何の意味があるんだ? って返されて、彼とならいい友達になれると思ったんだ」
(どういう友達のなり方?)
「ちょっと俺部屋の片付けしてくるから、兄さん初嵐君のことリビングでもてなしておいてくれない?」
「いいよ、好きなだけ片付けておいで」
二葉が慌ただしくバタバタと二階に駆け上がってバタンと部屋の扉を閉めるのを確認してから、俺は靴を脱いで玄関に上がってきた男を一階のリビングへと誘った。
「まあこっちこいよ」
「……なんかちょっと顔貸せやって言われてるような気分なんですけど」
「その通り。いいから入れって」
四角いガラスのはまったリビングの扉は、たとえ閉めていたとしても二葉が二階から降りてくる時はバタバタと足音が響いてすぐに分かる。それよりもこれからの会話を弟に聞かれる方が問題だ。俺はリビングの扉をきっちりと閉めると、二葉の友達だという初嵐を振り返って、まるで空港の入国審査官のような目で上から下まで眺め回した。
(イケメンな上に高身長って腹立つな。身長しか誇れる所の無い俺より目線が高いや。180センチぐらいはありそうだな)
「お兄さん、二葉と顔全然似てないんですね」
「そりゃそうだろ。血ぃ繋がって無いんだから」
「えっ?」
「むしろこれだけ似てなかったら、血が繋がってるって言う方が驚きじゃね?」
俺の母親は俺が小学生の時に父親と離婚して、二葉はその後すぐに再婚した今の義母の連れ子だった。一年ちょっと前に生まれた三和は、俺とも二葉とも血が繋がっているという、ちょっと複雑な関係だった。
「……顔の作りもそうですけど、なんていうか表情が……」
「あ? 目つきが悪いって?」
「二葉はあんなにふわふわきゅるんってチワワな感じなのに、お兄さんはドーベルマン並に険しいです」
「おお、悪くない例えだな」
そう、俺は言うなれば番犬のような存在なのだ。鋭い目つきで周囲を威嚇し、下心を持って近づいてくる輩どもから今日も家族を守っている。
「ていうかそんなことより、お前に聞いておかなければならないことがある」
「なんですか、急に改まって」
「お前、本当に二葉のこと狙ってないんだろうな?」
初嵐は俺の言葉を聞いて少し考えるような素振りをしたが、やがて意味深な笑みを浮かべながら口を開いた。
「……実は俺、男が好きなんです」
「えっ!」
「それで二葉は俺の好みどストレートで」
「やっぱりお前も二葉の尻を狙って……!」
般若のような形相で初嵐を殴りつけようと振り上げた俺の手を、彼はいとも容易く大きな手でガシッと掴むと、余裕たっぷりな表情で少し目線が下の俺を見下ろしてきた。
「お兄さん、俺が二葉と付き合うのは嫌ですか?」
「あいつは昔からその手の男に狙われることが多くて、男が苦手になっちまったんだ。お前のことは純粋な友達だと信用してうちに連れてきたってのに……」
「じゃあお兄さんでもいいですよ」
「……え?」
一体何を言われているのかさっぱり分からず、俺は思わず般若顔を作るのを忘れてポカンとした表情で初嵐の秀麗な顔を見上げていた。そんな俺を嘲笑うかのように、初嵐は掴んだ俺の手首をぐいっと引いて、今にも鼻先がくっつきそうなほど顔を近づけてきた。
「お兄さんが俺と付き合ってくれるなら、二葉とは今まで通りの友人関係を続けます」
「そんなこと……」
できるか、と言おうとした俺の脳裏に、先ほど頬を紅潮させながら嬉しそうに玄関に飛び込んできた二葉の笑顔が浮かんだ。
(初めて男友達ができたって、あんなに嬉しそうにしてたのに……)
「俺、絶対浮気とかしないんで。他に恋人がいるのに二葉に手を出したりとか、ありえないんで」
「でもお前、二葉のこと好みどストレートだって言ってなかったか?」
身長175センチで、日本人としてはまあまあ高身長。中性的でしょっちゅう女の子に間違えられる弟とは正反対の、平均的で平凡な日本男児らしい顔立ち。これがこの俺、 青柳伊近の外見である。
「俺、二葉と外見似ても似つかないっていうか、むしろ真逆だけど。お前も今さっきそう言ったばかりだろうが」
「そこはまぁ……お兄さんの『彼氏力』次第ってことで」
「か、彼氏力?」
「外見なんて『愛』の力でどうにでもなるもんじゃないですか」
(いや、今さっき初めて会った人間にその『愛』を求めるのはおかしくないか? 俺のことなんか一ミリも知らないくせに……)
バタバタバタッ! と二階を慌ただしく駆け回る足音が聞こえて、俺はギョッとして思わず体をビクッと硬直させた。
「あっ、二葉が……」
「彼が下りてくる前に返事を聞かせて下さいよ。でないと俺、今日弟さんに告白する心づもりでここに来たんですから」
「ええ~!?」
(俺には心の準備をする時間すらくれないってか!?)
こんなふうに焦らされて追い詰められると冷静な判断力を失ってしまう。いかにも詐欺師の使いそうな手口だ。そうとは分かっていても、今の俺にはどうすることもできなかった。
「……本当に、他に付き合う相手ができたら、二葉のことは諦めて友人として接してくれるのか?」
「この俺の心臓にかけて誓いますよ」
「そんなのどうやって信じれば……」
圧倒的にこちらが不利な状況だ。たとえ初嵐の言葉が舌先三寸の嘘っぱちだったとしても、俺にはこいつの要求を飲む以外に選択肢はない。
「お兄さんは二葉とこんなに仲が良いんですから、俺が手を出せばすぐに二葉から伝わりますよ。お兄さんに隠れて悪い事なんてできませんって」
「まあ、確かに……」
「それからもしお兄さんが俺の彼氏になってくれるなら、学校で二葉に手を出そうとする輩は俺が追い払ってあげますよ」
「えっ、マジで!?」
「学年もクラスも違うお兄さんじゃ、目が行き届かなくて心配でしょう? その点俺ならクラスも一緒だし、安心なんじゃありませんか?」
それは確かに俺にとって、非常にありがたい申し出であった。
中学生の時、休憩時間のたびに下の学年の二葉のクラスまで睨みをきかせに出向いていたら、「ブラコン番長」というあだ名を付けられてしまった。俺はそれでも全然良かったのだが、二葉のクラスメイトの親から苦情が入って 義母さんから怒られた。
「伊近君、二葉のこと心配してくれるのはありがたいんだけど、学校での伊近君の評判が悪くなったらお父さんに申し訳が立たないわ」
「義母さん、俺の評判や親父への体裁と、二葉の貞操のどっちが大事ですか?」
「やり過ぎだって話をしてるの! なにも伊近君がそこまでしなくたって大丈夫だから」
義母さんの危機感のなさには辟易したが、彼女の言うことにも一理あった。確かに学校での俺の評判が悪いと、それが弟の二葉にも波及してしまう恐れがあったからだ。
それで高校に入って環境が変わってから、俺は再び変なあだ名を付けられないように行動を自粛せざるを得なくなった。相変わらず登下校時はSPのように張り付いているが、中学の時のように一個下のクラスまで睨みをきかせには行けなくなってしまったのだ。
「マジで俺の代わりに番長やってくれるのか?」
「え、番長って?」
「悪い、こっちの話」
「番犬、の間違いですかね。マジでやりますよ、番犬でもなんでも。恋人の頼みとあらばね」
腹の読めない顔でにっこりと笑うこの弟の友人を本当に信用していいものか。しかしこれ以上悩んでいる時間は俺には残されていなかった。
バタン! と二葉が二階で部屋の扉を閉める音が盛大に聞こえて、ハッと我に返った俺は慌てて掴まれていた手を振り払うと、二葉の足音にせき立てられるように口を開いた。
「分かった! 交渉成立だ。お前のその申し出、受けて立ってやるよ!」
「なんだか告白の返事をもらってる感じが全然しませんね」
「ちょっ! 告白ってお前、これ絶対二葉には言うんじゃねえぞ!」
「分かってますって」
「お待たせ~……って、二人とも何やってんの?」
うっかりメンチを切りながら初嵐に詰め寄っているところに二葉がリビングの扉を開けて入って来たため、俺は脊髄反射でぱっと腕を伸ばして初嵐の首に腕を回すと、精一杯ぎこちない笑みを浮かべながら二葉を振り返った。
「お、遅かったな。ちょうど今お前のお友達と男同士の契りを交わしていたんだ」
「え、なにそれ? 盃を交わす的な?」
「違うよ二葉、俺とお兄さんは義兄弟になったわけじゃ……いたたた! お兄さん首がもげますって!」
「お前の初めての男友達だから、俺も仲良くしようと思ってさ」
「本当に? ありがとう兄さん! 初嵐君はマジでいい人だから、兄さんとも良い友達になれると思うよ」
(すまない二葉。既にこいつと俺は友達ではないんだが……)
頬を痙攣させながら嘘笑いをする俺の内心をまるで読み取ったかのように、初嵐は口の端を歪めてニヤリと笑うと、俺の手首を握って自分の首にかかっていた俺の腕をすっと外した。
「お兄さんと色々話したけど、二葉がいつも話してる通りの人だね」
「でしょでしょ! 分かってくれた? 兄さんはとっても優しくてかっこいいんだよ!」
(二葉……)
思わず感動してうるっとなりかけた俺だったが、突然今度は初嵐が俺の肩に腕を回してギュッと体を引き寄せてきたため、目からではなく背中の毛穴から冷や汗という水分を放出させる羽目になった。
「ちょっ!」
「はい、チーズ」
カシャッ、とスマホのシャッター音が鳴って、勝手に俺とのツーショットをおさめた長方形の液晶画面を確認した初嵐がぶっと吹き出した。
「おい! 一体何がおかしい!」
「いい感じに撮れてますよ」
「じゃあなんで笑った? 絶対白目剥いてたんだろ! 今すぐ消せ!」
「白目って。ちょっとドーベルマンっぽいなって思っただけですよ」
「目つきが悪いって言いたいのか?」
「後でメッセージアプリで送るんで、連絡先教えて下さい」
「いや、別に送ってこなくていいし」
この男とはこれから付き合うことになるのだから、当然連絡先は交換しなくてはならない。
「スマホ出すから、とりあえずその腕離して。肩痛いんだけど」
「自分だってさっきは俺の首を締め上げる勢いだったくせに」
「気絶させた方が減らず口を叩けなくて良かったかもな」
「おっと、聞き捨てならない言葉ですね。あんまり可愛くないこと言うと……」
「わーかったよ! 分かったから早く腕離して!」
初嵐は人を手のひらの上で転がすのが楽しくて仕方がないかのようにくすくすと笑うと、俺が差し出したスマホのQRコードを慣れた手つきで自分のスマホに読み込ませた。
「……アイコンが二葉と赤ちゃんの後ろ姿って、まるで二児の母みたいなんですけど」
「うちの義母さんのアイコンはトイプードルだぞ」
「なにマジもんの母親より母親みたいなことやってんですか!」
「初嵐君、すっかり兄さんと仲良くなったみたいで嬉しいな。飲み物何がいい? ジュース色々あるよ」
「それじゃあお茶もらってもいいかな?」
弾むように楽しげな足取りで二葉がキッチンへと向かうのを確認してから、初嵐は不敵な笑みを浮かべて再び俺の方を振り返った。
「本当に二葉のことが好きなんですね。血の繋がった兄弟でもないのに、どうしてそこまで体を張れるんですか?」
俺は初嵐に抱き寄せられた左肩を右手で揉みながら、彫刻のように整った彼の顔をじろりと見上げた。確かに匠の手によって丁寧に彫られたみたいに綺麗だけど、本当に血が通っているのか疑いたくなるような、薄寒さを覚える笑顔だった。
「俺は長男だぞ。俺より後から生まれたか弱い弟や妹がピンチに陥ってたら、体を張ってでも守ってやるのが先に生まれた男の役割ってもんじゃないのか?」
俺の答えを聞いた瞬間、一瞬初嵐の顔から笑顔が消えて、ほんの一瞬だけ石膏の笑顔の仮面の下から頼りなさげな少年の素顔が皆見えたような気がした。しかし一度瞬きして再び目を開いた時、俺の目の前にいたのはやはりニヒルな笑みを浮かべた初嵐の姿であった。
「……とても前時代的な発言ですね。令和を生きる若者の考え方だとはとても思えません」
「なんだと? ジジくさいとでも言いたいのか?」
「初嵐君お待たせ! 一緒に二階に上がろう!」
「分かった! すぐ行くよ」
閉まったリビングの扉の向こうにいる二葉に返事をしてから、初嵐は俺に向かってひらひらと手を振ってみせた。
「古風だなって思っただけですよ。それじゃあそんな海のように深い愛情をお持ちのお兄さんの『彼氏力』、明日から期待させてもらいますんで」


