「おい、また在庫数の計算間違ってるよ!」
「す、すみません」
「この間は棚卸しの予定も忘れてるし、ミス多いよ。しっかりしろよ!」
「はい」
「……ったく、かわいいだけで使えねえの」

 コンビニのバックヤードから怒鳴られた莉莉亞はカウンターの前からペコペコ頭を下げた。
 仕事のうっかりミスが多い。以前から時折やらかしていたが、ここ最近は特に酷くなってきた。
 莉莉亞も分かっていたが、どうしようもなかった。彼女も気を付けて、スケジュールをスマホでスクショしたり、大事なことを小さなメモ帳に書き留めたりしてミスしないよう努めていたが、それでも完全には防げない。
 どうかすると使い慣れたレジの通し方さえたまに忘れてしまうこともあった。

(困ったな。このままだとアルバイト、クビになっちゃう)

 莉莉亞はため息をついた。
 一年前、プロダクション借り上げの高級マンションから追い出された彼女は、今は安アパートで暮らしながらアルバイトで細々とお金を稼いでいる。
 しかし、歌やダンスで時々起きていた「覚えていたことが自分の中から抜け落ちる」現象がここ最近、日常にまで及び始めていた。

(どうして……)

 莉莉亞は不安でならなかった。
 もしかしたら、流れゆく世の中から「姫咲莉莉亞」という存在が次第に忘れ去られてゆくように、自分も自分自身を忘れようとしているのだろうか。

「そんな馬鹿なことあるもんですか」

 首を振り、心に浮かんだ恐ろしい想像を振り払った彼女は下を向いてカウンターテーブルを睨みつけた。

「私は私を忘れない。いつかは絶対ラ・クロワに戻るのよ」

 そうつぶやいた時、なにやら騒ぎ声がして莉莉亞は顔を上げた。
 店先で店長が五歳くらいの幼女に怒鳴りつけている。彼女には見覚えがあった。ここ一ヶ月ほど、日がな一日ずっと店先に居座っていたのだ。いわゆる「放置子」である。着ている服もいつも薄汚れていた。店長からすれば営業妨害みたいなもので、見かけるたびに舌打ちしていたが、とうとう痺れを切らしたのだろう。
 幼女は泣き出したが頑なに動こうとしない。苦り切った様子で戻ってきた店長は「薄汚ねぇクソガキが!」と、近くにあった空の段ボールを蹴りあげ、莉莉亞をビクッとさせた。

「店長、あの子の親御さんを呼んで迎えに来てもらったらどうですか?」
「電話番号も居場所も知らねえとさ! そのうえ『呼んだら殺される』って泣き出すしよ。こっちの知ったことか!」

 吐き捨てるように応えた店長は「警察を呼ぶか」と、スマホを取り出した。莉莉亞は慌てた。そんな騒ぎになったらあの子が今度は親からどんな仕打ちを受けるか……

「そ、それまずくないですか? だってその……警察が店に来たってオーナーの耳に入ったら」
「ああ、それもそうだな」

 言われて気がついたらしく、スマホを下ろした店長はため息をついた。

「しょうがねぇ、オーナーにどうすりゃいいか相談するか」

 仕方なさそうに電話を掛け始める。
 店内に客が入ってきたので莉莉亞はレジカウンターへ戻ったが、外で泣いている放置子が気がかりで何度も入口の方へ視線を向けた。心配だが、かといって仕事を放り出す訳にもいかない。
 話し終えてスマホをしまった店長は、店の外を苛立たしげに見ると莉莉亞を呼び寄せた。

「児童相談所へ電話して保護してもらうことになった」
「そうですか」

 保護されるなら……ホッとした莉莉亞へ、店長は「あそこでずっと泣かれるのも困るし、迎えが来るまで面倒みてやってくれ」と顎をしゃくった。

「バックヤードに入れていいからしばらくの間子守りを頼むわ。店の方はオレがやっとくから」
「わかりました」

 莉莉亞はうなずくと店の外に出た。幼女は泣き止んでいたが「中に入らない?」と声を掛けると、うろんげに莉莉亞を見上げた。

「ね、お菓子をあげるから少しお話しない?」

 幼女はうなずいた。仏頂面の店長の横を通り、バックヤードへと案内する。折り畳み椅子へ座らせると、ハンカチを濡らして涙と埃で汚れた幼女の顔を拭いた。ポシェットからキャンデーを取り出し、幼女の手に握らせる。

「お名前、聞いていい?」
「……」

 幼女は頑なに口を結んで応えようとしない。人見知りしているのか、怪しい奴と思われているのか、どちらかだろう。

「私は莉莉亞。姫咲莉莉亞よ」

 反応はない。こんな子にももう忘れられたのだろうか……莉莉亞は思い切って付け加えた。

「ラ・クロワのアイドル、姫咲莉莉亞って知ってる?」

 幼女は眉を上げて莉莉亞を見たが何も言わない。有名なアイドルなので名前は知っているのだろう。それがこんなコンビニでアルバイトなんてしているはずが……という顔だった。
 だったら……
 莉莉亞はすぅ、と息を吸うと歌い始めた。


 さびしくて俯くとき きっと思い出して
 世界中があなたを忘れても 私がいるから
 ああ私に白い天使の翼があるのなら 
 あなたのそばへ 飛んでゆきたい
 あなたのそばに 寄り添っていたい
 いつまでも いつまでも ずっと


 幼女は莉莉亞の歌を聴くうちに両目と口で三つの大きなОを作っていた。

「りりあだ……本物のりりあだ!」
「失礼ね、私を偽物だなんて思ってたの?」

 莉莉亞がウィンクすると幼女は目をキラキラさせて拍手してくれた。

「聴いてくれてありがとう。もう一度お名前、聞いていい?」
「かもひらさやか!」

 打てば響くように返事が返ってきた。

「さやかはお友達と遊ばないの?」

 すると幼女の顔は暗く陰り、首を振った。友達と遊びたくないというより友達がおらず、遊べないのだろう。

「公園とかで遊んだりしない?」
「遊べない。石を投げられるの」

 その一言で、この子の境遇が窺えた。莉莉亞は胸が詰まり、「そう……」と応えるのが精一杯だった。
 家庭は……と思い、ふと見れば手のひらや首元に痣が見えた。親から虐待を受けた跡に違いない。涙が出そうになった。

(この子はあの日の私だ……)
(離婚したママから「お前なんか産むんじゃなかった」って毎日言われてた私)
(私を捨てて駆け落ち帰した日も、そうと知らずに薄暗いアパートの部屋の隅でずっと待ってた……)

 莉莉亞は、幼女の耳にそっと顔を近づけると小さな声でささやいた。

「さやか。私の秘密、さやかだけに教えてあげる」
「……?」

 見上げた幼女の顔を正面から見る。ラ・クロワでファンと接する時、必ずそうしていたように。

「私もさやかと同じ年齢の頃、友達がいなかった。公園で石を投げられて逃げたの。だけど、守ってくれるお父さんもお母さんもいなかったわ……」

 幼女は目を見開いて「ほんとう?」と聞き返した。

「そう、さやかと莉莉亞は同じなのよ」

 その言葉に……幼女の瞳にみるみるうちに涙が溢れ、そのまま莉莉亞に抱き着いてきた。同じ境遇と知って、心を許す気持ちになれたのだろう。

「さやか、ママはいるけど、大好きだけど怖いの。時々怒って叩いたり蹴ったりするの。さやかのこと、嫌いなのかなぁ」
「……そんなことないよ」

 泣きながら話す背中を優しく叩くが、莉莉亞はその場凌ぎの慰めしか出来なかった。

「もうすぐ親切な人達が迎えに来るからね。さやかはもう叩かれたりしないよ」
「叩かれても我慢するからママに嫌われたくない……」
「そんなこと言わないで。さやかが怖いのを我慢してたら莉莉亞、悲しいよ」

 そんな優しい言葉を掛けられたことがないのだろう。幼女はまた泣き出してしまった。莉莉亞も思わず涙ぐんでしまった。

「ママがさやかのこと好きになってくれるように考えてもらおう。ね?」

 それでもいやいやと首を振る幼女に莉莉亞は「大丈夫、莉莉亞もいる。さやかと莉莉亞、友達になろう」と呼びかけた。だが友達になったところで、何の力になれるというのだろう。
 しかし、ひとときの間だけでもこの子を慰めてあげたい一心で莉莉亞は言葉を重ねた。

「莉莉亞もね、たくさんの人に叩かれて今はこうしてるの。でもきっとまたテレビに映るようになるから。そうしたら今度はさやかを応援する歌を歌ってあげる」
「……ほんとう?」

 そのとき、花がほころぶように彼女が見せた笑顔を、莉莉亞は一生覚えておきたいと思った。

「ええ、約束よ。だから辛くても一緒にがんばろう」
「うん!」

 バックヤードの向こうで何やら話し合う人の声が聞こえた。迎えが来たのだ。別れ難そうにヒシをしがみつく幼女を莉莉亞も抱きしめ返した。
 ドアを開けて、初老の男女が顔を出した。男性が「この子ですか?」と店長へ確認する一方で女性が「こんにちは」と、にこやかに話し掛けた。
 幼女は人見知りして莉莉亞にぎゅっとしがみつく。莉莉亞は「さやか、大丈夫だよ。安心して」と肩を抱いて立たせた。

「心配しないでいいの。この人たちと仲良くなって、なんでも話してね」

 立ち上がった莉莉亞をそれでも不安そうに見上げる幼女にもうしばらく付き添ってあげたかったが、店長から「いつまでも油売ってないで、仕事に戻れ」と急かされた。客がレジ精算を待っているレジカウンターへ移動するしかない。
 商品をレジに通している背後で、児童相談所の職員と幼女は少し話をしていたが、苛立った店長が「いいから早く連れて行って下さい。営業の邪魔だし」と追い出してしまった。
 手を引かれ連れ出される幼女とカウンター越しに目が合い、莉莉亞はそっと手を振って「またね」と声を掛けた。
 だけど、「また」と言っても会えるだろうか……
 それでも幼女は健気にうなずくと「またね!」と返してくれた。
 そんなのいいから早くしろと次の客が買い物カゴをカウンターに乗せる。店の外へ連れ出された幼女は一度振り返ったが、あいにく莉莉亞は会計に忙殺されて気づけなかった。
 そして彼女が顔を上げた時、幼女の姿はもうなかった。

(もう少し何かしてあげられることはなかっただろうか……)

 そう思ったところで、今さらどうしようもないけれど。それでも……

「約束だよ、頑張ろう」

 去っていった友達を励まそうと、もう届かないエールを小声で送る。ふっと目頭が熱くなった。莉莉亞は袖で目元を拭う。
 そして、自分も励ます為に、もう一度つぶやいた。

「頑張ろう」


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『頑張ろう』

 偶然見つけたファンサイトのコラムの言葉に口端を歪めた男がいた。

「へぇ、ゴキブリみたいにしぶとく生きてたんだ。ラ・クロワから追い出されたあの肉便器」

 薄暗い部屋の中、PCモニターだけが白い光を放っている。
 そのモニターを喰い入るように見つめる男の姿は、光に引き寄せられる醜い蛾のようだった。
 蛾は、憎悪を込めてつぶやく。

「今さら綺麗ごとなんぞホザきやがって……クズが」