「こんにちは」
数日後。
屈託ない笑みと共に、二人は薮内クリニックへ訪れた。
「いつもお世話になってます」
「やぁ、いらっしゃい」
薮内はにこやかに迎え入れた。ここが二人にとってささやかなオアシスになっていることを彼は知っている。
いつものように温かくもてなそうとする。
たが、どうしたことか二人は笑顔でそれを断ると意外にも「清算に来ました」と告げたのだった。
「おいおい、ここへ遊びに来るのにお金が必要な訳ないだろ?」
「でも、僕らは何度も先生に助けてもらいました。今回は知り合いの方に曲も作ってもらったし。それもこれも全部タダって心苦しいから……お願いします」
「……」
お礼をしないと気が済まないのだと悟った薮内は黙ってうなずくしかなかった。
気持ちでいいからと予め断ったが、二人はサイフのお金をみんな吐き出すようにして薮内へ差し出した。一円玉や五円玉も混じっている。見ていて胸が詰まりそうだった。
「姫様、オーディション……どうだった?」
薮内はおずおずと聞いたが、莉莉亞は答えなかった。
ただ静かに微笑んだだけだった。
「あの歌、いい曲が付けられたと思うけど……」
「はい。今まで歌った中で一番素敵な歌が歌えました。あんな歌を自分が歌えたなんて本当に夢みたい。ありがとうございます……ええと」
口籠った莉莉亞へアツシが「薮内先生」と教えると、莉莉亞は照れたように「そうでした、ありがとうございます。薮内先生」と言い直した。
もう、名前も容易に出てこないほど病状が悪化しているらしい。
「薮内先生、ありがとうございました」
「ありがとうございました」
頭を下げた二人に薮内は「おいおい、ここに来るのがこれで最後みたいに言わないでくれ!」と思わず声を荒げた。
「こんなオッサンでも友達のつもりなんだからそんな水臭いこと言わないでくれ。寂しいだろ? これからもお世話になってくれよ」
「……そうでしたね。すみません」
莉莉亞は俯いてそっと涙を拭き、アツシは素直に頭を下げた。
「明日また来てくれよ。ほら、例の曲を付けてくれた元先生。あの人がお礼の代わりに莉莉亞ちゃんの生歌を聴きたいって言ってたからさ」
「本当ですか? 嬉しい……」
無邪気に照れる莉莉亞は子供のようだった。アツシもニコニコと笑っている。
だが、気まずく感じるほどその後に続く会話が何もなかった。オーディションで何があったのか、どうなったのかを二人とも語ろうとしない。どんな顛末だったのか……なんとなく察せられて、薮内ももう聞けなかった。
しばらくして二人は頷き合うと「じゃあまた……」と暇を告げ立ち去ろうとする。薮内は慌てて「待ってくれ!」と呼び止めた。
「はい?」
「いや、その……」
再会こそ約束したのに、この二人と会うのはこれが最後になる……そんな気がして薮内は思わず引き留めてしまったのだった。
「その……僕にしてあげられることはないかい? なにか……何でもいいんだよ」
そのとき莉莉亞が見せた笑顔。
淋しげな笑顔で言った言葉を、薮内はその後も長い間忘れることが出来なかった。
「私のこと、忘れないで……」
彼女を愛した人たちが離れ、世間が彼女を忘れ去り、月日が経てば、名前も、歌も、存在さえも消え去ってゆく。
名もない人々の悲しみや苦しみなど誰も顧みないように……
そんな流れに抗うことを諦め、人知れず消えてゆこうとする少女の最後の願いだった。
「……」
お辞儀をして立ち去る二人を、薮内は悄然となって見送るしかなかった。
だが、薮内は唇を噛んでしばらく考え込むと何ごとか思い至ったらしく、一人うなずくと、あちこちに電話を掛け始めた。
助けてあげたい……その一心で。
「もしもし、●区の保健福祉センターですか? 私は薮内といいます。相談があるのですが、生活保護課にこの電話を回してもらえませんか……」
** ** ** ** ** **
「今日からラ・クロワの一員として歌わせていただくことになりました、岩倉さゆりと申します。よろしくお願いします!」
新メンバーとの対面はマスコミをスタジオへ引き入れた中で行われた。
無数のフラッシュが焚かれる中、ラ・クロワの白いドレスを纏った歌姫はフランス人形のように美しく、登場した瞬間にどよめきと拍手を持って迎え入れられていた。
「今日からよろしく。サブリーダーの騎条ナツメよ」
「お目に掛かれて光栄です。よろしくお願いいたします」
「茱萸木るぅなでっす。よろしくね、さゆりちゃん」
「はい。こちらこそよろしくです!」
「黒澤めぐみです。一緒にがんばろうね!」
「ありがとうございます。色々教えて下さいね!」
「……」
マスコミが注目している。誰もが不信感や疑念を押し殺し、建前という笑顔で新しい歌姫を歓迎している。
ましてや、背後にはあの藤元プロデューサーが厳しい目で自分達を見つめているのだ。意に沿わない真似などしようものなら……
それでも、チクサはこの少女が好きになれなかった。
接客業のように誰にでもにこやかに接しソツなく対応しているが、その目はどこか冷ややかで、ラ・クロワを冷笑しているようにも見える。
事前に聴かされた歌唱力はさすがにずば抜けていた。単独で歌手デビューしても芸能界に旋風を巻き起こしそうなほどの高い実力は認めざるを得なかった。
だが……
(歌声に温かみを感じない)
(ラ・クロワが一番大事しているものを……)
そして何より……莉莉亞のあの渾身の歌唱を打ち破ってオーディションに優勝したというのが信じられなかった。
形だけでも公開であったはずのオーディションは「企業秘密」という名目で突然ブラックボックス化されてしまい、その結果に至る過程で何があったかを知ることは誰も出来なかった。
参加者には守秘義務が課せられ、漏らした者には容赦なく民事訴訟が起こされるという。
そんな中で公表されたオーディションの優勝者とお披露目だった。誰もが疑惑と困惑を心に抱えていたが、それを公然と口にする者はいない。
(本当ならこの娘じゃなく、莉莉亞がここにいるはずだった……)
チクサには、そうとしか思えなかった。
だが、それを知る者はあのオーディションのラストステージにいた審査員達やスタッフ、偶然モニターからそれを見ていた自分たちだけなのだ。
釈然としない思いに燻るチクサの前に、さゆりが立った。
「ラ・クロワのリーダー、鐘美チクサさん。ずっとお会いしたい、一緒に歌いたいって憧れていました。よろしくお願いいたします」
「……」
ニッと笑いかけた顔は冷ややかで、大して敬意を払っているようにも感じられない。チクサはさゆり以上の冷ややか目で見返した。
「一緒に歌えるかどうか、いずれ聴かせてね。ただ歌が上手いってだけじゃラ・クロワの歌姫として認めるつもりなんてないから」
「!」
以前ラ・クロワにいた莉莉亞より劣った歌など歌ったら許さないと暗に告げたチクサの宣告に、さゆりの眉がぴくりと上がった。
「ええ、楽しみにしていて下さい。自信ありますから!」
胸に手を置いて不敵に笑ったさゆりの宣言にマスコミから「おお!」と感嘆した声があがる。
対するチクサの顔は、どの口がほざくのかと嘲るように歪んだ。
「大した自信ね。ところであのオーディションの決勝戦で貴女、何を歌ったの?」
さゆりは「あっ」という顔で青ざめた。途中で非公開になったオーディションの顛末を彼女は知っている!
「そ、それは……」
「そ、それではマスコミの皆様のインタビューに移ります!」
司会者が強引に遮り、二人を引き離す。離されながらチラリと見たチクサの顔は憎々しげにさゆりを睨んでいた。
(知らない! オーディションはプロデューサーの意向で中止になったんだもの。私が文句を言われる筋合いなんてないわ!)
ツンと顎を上げ顔を背けたさゆりは、気持ちを切り替えてインタビューに応え始めた。
そんな彼女をなおも睨みつけるチクサをナツメ達が「チクサ、そんな態度しないで……」「ここはこらえて」と、小声で宥める。
「今はマスコミの目もあるから……」
知ったことかと横を向いたチクサの頭に、そのとき何かが掛けられた。
「え……な、なに?」
黒い液体だった。何者かがコーヒーを上から掛けたのだ。
キッと顔を向けた彼女は、薄笑いを浮かべたプロデューサーの顔を間近に見てゾッとなった。怯えも露わに思わずのけぞる。
「!!」
ラ・クロワもマスコミも司会者も、思いも寄らぬ光景に凍り付いたようにして二人を見た。
藤元は飲みかけの缶コーヒーをチクサの頭にすべて掛け終えると放り投げ、冷ややかな声で言い放つ。
「オレが決めた歌姫だ。一緒に歌う気がないならラ・クロワなど辞めて出て行け」
かつて感情を剥き出しにマネージャーをクビにした時とも表情は違っている。冷ややかな怒りの声と態度。
それは、「屠殺人」と業界で恐れられている彼の本性だった。
「オレが作った舞台の外に出る勇気もない薄っぺらなガキが、つけあがるな」
「……」
「見ろ、オレの意に逆らうのが怖いからここにいるマスコミのコイツらは誰もこのことを記事にしない。オーディションの真相もな。お前の人気も芸能界の生死もオレが握っていることを忘れるな」
チクサは震えながら身体を離した。コーヒーの雫が頭からポタポタと垂れ落ちる。向こうではさゆりがいい気味だと言わんばかりの笑みを浮かべていた。
見なかった振りをして、ジャーナリストの誰かが白々しくさゆりへ尋ねかける。
「岩倉さゆりさん、ラ・クロワへ加入するにあたって、どんな抱負をお持ちですか?」
「はい」
何事もなかったように、さゆりはにこやかに語った。
「世の中の辛い目に遭ってる人達や寂しい想いを抱えてる人達を慰め、励ましてあげるような歌手になりたい、そう思っています」
(それは、あの日莉莉亞が言ったはずの……!!)
ぎょっとしてさゆりを見たチクサは故人の抱負を騙ったのが誰の差し金か瞬時に察して、目の前の男をキッと睨んだ。
「泥のついたシンデレラの言葉なんかに誰も感動しやしない。ましてや封印されたオーディションの歌なぞ聴かれることもない。こうやって利用されるだけ、ありがたいと思うんだな」
「……」
チクサは、はらわたが煮えくり返るような思いだった。
ラストオーディションで莉莉亞が語った言葉も、あの美しい歌も、世間の誰にも伝わることがないまま葬られるというのか。
「覚えておけ。この世界《芸能界》じゃ無垢な者にしかガラスのくつははけないんだ。どんな崇高な理想を語ろうが、どんな歌を歌おうが……」
チクサは激しい目でプロデューサーを睨みつけると唇を震わせ……次の瞬間、その場から駆け出していた。
「チクサちゃん!」
るぅなが引き留めようとしたが、その手をすり抜けてチクサはフロアから駆け去っていった。
(莉莉亞……!)
(わたし、間違ってた!)
廊下を走りながらスマホを取り出す。電話を掛けようとしてチクサはハッと気づき、愕然となった。
思い出したのだ。
(あの娘に手を差し伸べるなら、あなたはもうガラスのくつははけない)
(莉莉亞を諦めて私達と一緒に高みを目指すか、彼女と一緒に堕ちてゆくか、選んで)
自分はあの日、莉莉亞を見捨て、それまで登録していた電話番号もメールアドレスも自分の手で削除してしまった……
「なんで……なんで私、あのとき……!」
込み上げる怒りに任せてスマホを床に叩きつける。画面にヒビが入り、カバーが外れたスマホは叩きつけられた後、床を滑っていった。涙がどっとあふれ出す。
「ああ……」
泣きながらオラトリオ・アソシエイツの建物から飛び出したチクサは狂おしい思いのまま、道行く群衆の中に飛び込んだ。
この雑踏のどこかに莉莉亞がいるのではないか。そんな気がして。
もちろん、どんなに探したところで見つかるはずがなく……
「莉莉亞……莉莉亞……」
とうとう路上にうずくまったチクサは泣きながら叫んだ。
「莉莉亞、私がばかだった! 莉莉亞の歌こそ本当の歌だった! ごめんなさい……ごめんなさい……」
どうして、大切なものを奪おうとする者の顔色を窺い、へつらう側に迎合してしまったのだろう。
どうして、仲間に言われるまま縋りつく手を振り払い、彼女を見捨ててしまったのだろう。
「ばかだ……今頃になって後悔したところでもう……私は大ばかだ。しねよ! しんでしまえよ! わたしなんか! こんなわたしなんか!」
路上にくずおれたチクサは泣きながら何度も路面をコブシで打ち付ける。
今を時めくラ・クロワの歌姫とも気づかず、道行く人々はドレス姿の歌姫の慟哭を訝しげに横目で見過ごして通り過ぎてゆく。
「あああああ、あああああああーー!」
チクサは泣いた。人目も憚らず、声の限りに泣いた。
気の触れた奴とでも思われたか、行き交う人々は誰も彼女を顧みない。
やがて、夕闇が街を覆い尽くしていった。
悔悟に哀哭する歌姫の姿を、せめて夜の帳で隠してやろうという計らいのように……
** ** ** ** ** **
一通り電話を掛け終え、メモを揃えた薮内は大きく息を吐いた。
これならきっと救うことが出来る。すべてをなくし、それを従容と受け入れて諦めてしまったようなあの二人を……
(とにかく知らせよう)
一刻も早く……と、彼はスマホからアツシへメールを送った。
『彼女の認知症のことだけどケアのボランティアさんが来てくれる。生活保護の人も呼んだ。明日だ、明日まで絶対にお姫様の手を離すな』
だが。
「え……?」
送ったはずのメールは即、送信不能で戻ってきた。
アツシのスマホはずっと料金が払えなかったので停止させられていたのだ。
「……」
あの二人にはもう家もなく、連絡も取れない。せめて明日来てくれたなら……
(……いや、待っていたらきっと取り返しがつかない!)
何故そう思ったのだろう。
だが、薮内は、ヨレヨレのコートを羽織るとクリニックを閉めて夜の街へ飛び出した。
探すあてなどない。それでもじっとしていられなかったのだ。
明日ではもう間に合わない……そんな直感に追い立てられて。
** ** ** ** ** **
今夜泊まるあてすらないまま、二人はただ、夜の街中を寄り添いあって歩いた。
繁華街はたくさんのネオンや街灯、巨大なモニターの映像で闇を感じないほど煌びやかだった。
「オーディション、最高だったんだね。皆が立ち上がって拍手の嵐! 対戦相手は顔面蒼白でプロデューサーが慌てて中止って……へへへ、ざまぁみろってんだ!」
アツシは意気揚々としていた。自分の推しがライバルはおろか、ずっと莉莉亞を虐めてきたようなプロデューサーにまで見事にやり返したというので、胸のすくような思いがしたのだ。
莉莉亞は笑顔のまま何も言わず、アツシの腕に掴まって街の明かりに目を細めている。
「また明日、何か考えよう。莉莉亞は絶対いつかステージに立てる!」
「うん」
うなずいたものの、莉莉亞はもう自分が歌いたいものを全て歌い尽くしたような思いだった。
歌詞を覚えられなくなった。後ろ盾も、ファンも、お金ももう何もない。
あんなふうに歌うことも、きっともう出来ない。
だけど、最後にあれほどの歌を歌うことが出来た。自分のすべてを掛けて、命を懸けて、最高の歌を歌い尽くした。
消えゆく夕映えが、落ちる前に一瞬だけ美しい光芒を放つように……
(もういいの……)
残ったのは心地よい虚脱感。
結果など関係なく、莉莉亞は満足だった。
「そうだ、莉莉亞。知ってる? この間、路上ライブからメジャーデビューしたアイドルがいてさ……」
「アツシくん」
頬を紅潮させてまだ語ろうとするアツシに「疲れたの。そろそろ、どこか泊まろうよ」と微笑みかけた。
「ね。あれ、お城みたいで綺麗ね。あそこがいいな……」
「……え? で、でもあれって……」
莉莉亞が指さしたのは、まるで宮殿のような美しい外装のラブホテルだった。高層マンションのようにそびえたっている。宿泊料金だって高いに違いない。
もう一円もお金がないアツシが困ったように下を向くと、莉莉亞は自分の最後の財産……クレジットカードをそっとかざして見せた。
「これ、まだ使えるから……」
「で、でも……」
「いいの……あそこがいい」
「莉莉亞……」
「いこ?」
躊躇するアツシの手をそっと握りしめると莉莉亞は歩き出した。
異性と交際した経験すらないアツシにとっては、そこは自分には縁がないとしか思っていなかった未知の世界だった。
気後れし、後ずさりするアツシに身を寄せると莉莉亞は何度も「大丈夫……私がいるから……」と、ささやいた。
そうやってホテルの最上階の部屋に入っても、アツシは震えてばかりだった。
「莉莉亞……僕……僕は……その……」
半泣きで震える彼が愛おしく、首筋に、頬に、莉莉亞は何度もキスをした。
「アツシくん……まさか莉莉亞が枕営業の経験したことがあるとか思ってない?」
「ない! 莉莉亞はそんなの絶対しない!」
「そうだよ、こんなこと誰にもしない。恥ずかしいけど、アツシくんだからしたいんだよ」
「莉莉亞……」
莉莉亞は目をつぶってキスを待ち、アツシは恐る恐る……初めて自分から莉莉亞にキスをした。莉莉亞は彼の背中に手を回し、そっと受け入れた。
「ね、一緒にお風呂入ろうよ」
唇を離すと莉莉亞は、困惑したままのアツシを誘った。まだ恥ずかしくて下を向く彼の背中を莉莉亞はクスクス笑いながら指でツンツンと突つき、浴室へ後ろから追い立てるように導く。
「アツシくん、わがまま言っていい?」
「な、なんでもどうぞ!」
「背中、流しっこしようよ」
「え、ええっ?」
ふひひ、と莉莉亞が変な声で笑うとアツシもとうとう吹き出してしまった。
こうして緊張のほどけた二人は一緒に汗を流し、疲れを癒し、浴室の中でひとときの間、子供に戻って遊んだ。
それでもお風呂から上がり、照明を落としたベッドルームに戻るとアツシは躊躇してすくんでしまった。無理もなかった。セックスはおろか、キスした経験すらなかったのだ。
莉莉亞は身を寄せ「大丈夫、怖くない。怖くないから……」と、ベッドにそっと彼を押し倒した。
「僕……僕……」
「アツシくん。莉莉亞は今だけアイドルじゃないから。アツシくんを好きなただの女の子だよ」
「好きって……本当?」
答える代わりに莉莉亞はアツシに覆いかぶさるとキスした。相手の舌をまさぐり絡ませる。
そして、息を荒げると、恥ずかしさをこらえて彼の手をそっと自分の秘部へと導いた。
「ほら、これがアツシくんを好きだって証拠」
「莉莉亞……」
「ごめんねアツシくん、莉莉亞もう待てない……」
跨ったまま、彼女はゆっくりと腰を沈めた。
「気持ちいい……女の子って、こんなに柔らかくて、気持ちいいんだ……」
「そうよ。莉莉亞も気持ちいい……だから少しでも長く、このままで……」
アツシは涙目で微笑むと、そっと両手を伸ばし不器用に、だけど優しく愛撫してくれた。莉莉亞も応えて微笑み返す。
「莉莉亞、好きだよ。出会った時からずっと……」
「アツシくん、私も……何もかも……ありがとう」
二人は互いを潤んだ目で見つめ合い、熟した果実を味わうように時間を掛けて上り詰めていった。
貪るのではなく、確かめ合うように、いたわり合うように。その後も、何度も何度も……
** ** ** ** ** **
それから、どれだけの時間が過ぎたのか……
莉莉亞は目を開けた。
周囲は薄暗い。明かりを落としたベッドルームに、しどけない姿で寝ていた。
すぐ傍にアツシが眠っていた。今までの辛苦に疲れ切っていたのだろう、いびきをかいていたが、莉莉亞にはそれがたまらしく愛おしかった。
寝顔は微笑んでいた。きっと好きな人と結ばれた続きを夢で見ているのだろう。
「……」
眺めていると自然と涙がこぼれた。自分の夢を叶えるために何もかもを投げうち失ってしまった人……そんな人へ最後に自分自身を捧げたことで、もう何も思い残すことはなくなった。
「ただ一人残ってくれた私のファン」
彼を起こさないよう、莉莉亞はそっとささやいた。
「最後まで信じてくれてありがとう……」
そっと口づける。彼は起きなかった。
そのままベッドを抜け出した。火照った身体の熱を冷ましたいと思い、ガウンを羽織ったまま周囲を見回す。
バルコニーのドアが目に入る。そっと扉を押して外に出た。
すると、外に広がっていたのは……
「わぁ……!!」
眼下に無数の光がキラキラと輝いていた。イルミネーション、街灯、ビルの部屋の明かり、道路を行き交う車のライト……真夜中の都会に広がる様々な光が……
(綺麗……)
それは、莉莉亞がいつかどこかで見たものに似ていた。
ずっと以前、自分がその光彩の中に溶け込んでしまいたいとさえ望んだほどの、なにか……
(何だっただろう……)
首を傾げ、思い出そうとする。
やがて、潮騒のような眼下の騒音が莉莉亞の耳に次第に喝采のように聞こえてきて……
(あ……あ……!)
莉莉亞の瞳の中で、煌めくその夜景はラ・クロワのステージの幻想へと変わっていった。
自分がもう一度ステージに立ちたいと夢見ていた……
(みんな……!!)
陶然として見ていた莉莉亞の顔が歓喜に輝いた。
ステージにラ・クロワの皆がいる。
その向こうの観客席で無数のファンの皆がサイリウムを振っている。誰もが笑顔だ。
チクサ、ナツメ、るぅな、サワメグ……みんな「待ってたよ!」と泣きながら笑っている。チクサに至っては、もう顔をくしゃくしゃにしていてアイドル台無しという体たらくだった。
ステージの端では自分をずっと待たせていた成河マネージャーが片手で「ゴメンね」と謝っていた。その隣ではあの藤元プロデューサーが渋柿でも齧ったような顔で不貞腐れている。
観客席からは「莉莉亞!」「莉莉亞!」と自分を熱烈に呼ぶ声が何度も何度もこだましている。
(莉莉亞、ずっと待ってたよ!)
(お帰り! 莉莉亞!)
莉莉亞の顔に、これ以上ないくらいの幸せそうな笑みが浮かんだ。自分が待ち望んでいたものにとうとう辿り着いたのだと……
(待ってみんな!)
(いま……いま行くからもう置いてゆかないで!)
(莉莉亞はいつまでも、みんなと一緒に……!)
金網のフェンスが行く手を阻んだ。あの向こうに、皆が自分のアンコールステージを待っている。
早く、早く行かなくては……
莉莉亞は夢中でフェンスを乗り越えた。
そして、眼下に煌めく光彩に向かって身を躍らせたのだった……
数日後。
屈託ない笑みと共に、二人は薮内クリニックへ訪れた。
「いつもお世話になってます」
「やぁ、いらっしゃい」
薮内はにこやかに迎え入れた。ここが二人にとってささやかなオアシスになっていることを彼は知っている。
いつものように温かくもてなそうとする。
たが、どうしたことか二人は笑顔でそれを断ると意外にも「清算に来ました」と告げたのだった。
「おいおい、ここへ遊びに来るのにお金が必要な訳ないだろ?」
「でも、僕らは何度も先生に助けてもらいました。今回は知り合いの方に曲も作ってもらったし。それもこれも全部タダって心苦しいから……お願いします」
「……」
お礼をしないと気が済まないのだと悟った薮内は黙ってうなずくしかなかった。
気持ちでいいからと予め断ったが、二人はサイフのお金をみんな吐き出すようにして薮内へ差し出した。一円玉や五円玉も混じっている。見ていて胸が詰まりそうだった。
「姫様、オーディション……どうだった?」
薮内はおずおずと聞いたが、莉莉亞は答えなかった。
ただ静かに微笑んだだけだった。
「あの歌、いい曲が付けられたと思うけど……」
「はい。今まで歌った中で一番素敵な歌が歌えました。あんな歌を自分が歌えたなんて本当に夢みたい。ありがとうございます……ええと」
口籠った莉莉亞へアツシが「薮内先生」と教えると、莉莉亞は照れたように「そうでした、ありがとうございます。薮内先生」と言い直した。
もう、名前も容易に出てこないほど病状が悪化しているらしい。
「薮内先生、ありがとうございました」
「ありがとうございました」
頭を下げた二人に薮内は「おいおい、ここに来るのがこれで最後みたいに言わないでくれ!」と思わず声を荒げた。
「こんなオッサンでも友達のつもりなんだからそんな水臭いこと言わないでくれ。寂しいだろ? これからもお世話になってくれよ」
「……そうでしたね。すみません」
莉莉亞は俯いてそっと涙を拭き、アツシは素直に頭を下げた。
「明日また来てくれよ。ほら、例の曲を付けてくれた元先生。あの人がお礼の代わりに莉莉亞ちゃんの生歌を聴きたいって言ってたからさ」
「本当ですか? 嬉しい……」
無邪気に照れる莉莉亞は子供のようだった。アツシもニコニコと笑っている。
だが、気まずく感じるほどその後に続く会話が何もなかった。オーディションで何があったのか、どうなったのかを二人とも語ろうとしない。どんな顛末だったのか……なんとなく察せられて、薮内ももう聞けなかった。
しばらくして二人は頷き合うと「じゃあまた……」と暇を告げ立ち去ろうとする。薮内は慌てて「待ってくれ!」と呼び止めた。
「はい?」
「いや、その……」
再会こそ約束したのに、この二人と会うのはこれが最後になる……そんな気がして薮内は思わず引き留めてしまったのだった。
「その……僕にしてあげられることはないかい? なにか……何でもいいんだよ」
そのとき莉莉亞が見せた笑顔。
淋しげな笑顔で言った言葉を、薮内はその後も長い間忘れることが出来なかった。
「私のこと、忘れないで……」
彼女を愛した人たちが離れ、世間が彼女を忘れ去り、月日が経てば、名前も、歌も、存在さえも消え去ってゆく。
名もない人々の悲しみや苦しみなど誰も顧みないように……
そんな流れに抗うことを諦め、人知れず消えてゆこうとする少女の最後の願いだった。
「……」
お辞儀をして立ち去る二人を、薮内は悄然となって見送るしかなかった。
だが、薮内は唇を噛んでしばらく考え込むと何ごとか思い至ったらしく、一人うなずくと、あちこちに電話を掛け始めた。
助けてあげたい……その一心で。
「もしもし、●区の保健福祉センターですか? 私は薮内といいます。相談があるのですが、生活保護課にこの電話を回してもらえませんか……」
** ** ** ** ** **
「今日からラ・クロワの一員として歌わせていただくことになりました、岩倉さゆりと申します。よろしくお願いします!」
新メンバーとの対面はマスコミをスタジオへ引き入れた中で行われた。
無数のフラッシュが焚かれる中、ラ・クロワの白いドレスを纏った歌姫はフランス人形のように美しく、登場した瞬間にどよめきと拍手を持って迎え入れられていた。
「今日からよろしく。サブリーダーの騎条ナツメよ」
「お目に掛かれて光栄です。よろしくお願いいたします」
「茱萸木るぅなでっす。よろしくね、さゆりちゃん」
「はい。こちらこそよろしくです!」
「黒澤めぐみです。一緒にがんばろうね!」
「ありがとうございます。色々教えて下さいね!」
「……」
マスコミが注目している。誰もが不信感や疑念を押し殺し、建前という笑顔で新しい歌姫を歓迎している。
ましてや、背後にはあの藤元プロデューサーが厳しい目で自分達を見つめているのだ。意に沿わない真似などしようものなら……
それでも、チクサはこの少女が好きになれなかった。
接客業のように誰にでもにこやかに接しソツなく対応しているが、その目はどこか冷ややかで、ラ・クロワを冷笑しているようにも見える。
事前に聴かされた歌唱力はさすがにずば抜けていた。単独で歌手デビューしても芸能界に旋風を巻き起こしそうなほどの高い実力は認めざるを得なかった。
だが……
(歌声に温かみを感じない)
(ラ・クロワが一番大事しているものを……)
そして何より……莉莉亞のあの渾身の歌唱を打ち破ってオーディションに優勝したというのが信じられなかった。
形だけでも公開であったはずのオーディションは「企業秘密」という名目で突然ブラックボックス化されてしまい、その結果に至る過程で何があったかを知ることは誰も出来なかった。
参加者には守秘義務が課せられ、漏らした者には容赦なく民事訴訟が起こされるという。
そんな中で公表されたオーディションの優勝者とお披露目だった。誰もが疑惑と困惑を心に抱えていたが、それを公然と口にする者はいない。
(本当ならこの娘じゃなく、莉莉亞がここにいるはずだった……)
チクサには、そうとしか思えなかった。
だが、それを知る者はあのオーディションのラストステージにいた審査員達やスタッフ、偶然モニターからそれを見ていた自分たちだけなのだ。
釈然としない思いに燻るチクサの前に、さゆりが立った。
「ラ・クロワのリーダー、鐘美チクサさん。ずっとお会いしたい、一緒に歌いたいって憧れていました。よろしくお願いいたします」
「……」
ニッと笑いかけた顔は冷ややかで、大して敬意を払っているようにも感じられない。チクサはさゆり以上の冷ややか目で見返した。
「一緒に歌えるかどうか、いずれ聴かせてね。ただ歌が上手いってだけじゃラ・クロワの歌姫として認めるつもりなんてないから」
「!」
以前ラ・クロワにいた莉莉亞より劣った歌など歌ったら許さないと暗に告げたチクサの宣告に、さゆりの眉がぴくりと上がった。
「ええ、楽しみにしていて下さい。自信ありますから!」
胸に手を置いて不敵に笑ったさゆりの宣言にマスコミから「おお!」と感嘆した声があがる。
対するチクサの顔は、どの口がほざくのかと嘲るように歪んだ。
「大した自信ね。ところであのオーディションの決勝戦で貴女、何を歌ったの?」
さゆりは「あっ」という顔で青ざめた。途中で非公開になったオーディションの顛末を彼女は知っている!
「そ、それは……」
「そ、それではマスコミの皆様のインタビューに移ります!」
司会者が強引に遮り、二人を引き離す。離されながらチラリと見たチクサの顔は憎々しげにさゆりを睨んでいた。
(知らない! オーディションはプロデューサーの意向で中止になったんだもの。私が文句を言われる筋合いなんてないわ!)
ツンと顎を上げ顔を背けたさゆりは、気持ちを切り替えてインタビューに応え始めた。
そんな彼女をなおも睨みつけるチクサをナツメ達が「チクサ、そんな態度しないで……」「ここはこらえて」と、小声で宥める。
「今はマスコミの目もあるから……」
知ったことかと横を向いたチクサの頭に、そのとき何かが掛けられた。
「え……な、なに?」
黒い液体だった。何者かがコーヒーを上から掛けたのだ。
キッと顔を向けた彼女は、薄笑いを浮かべたプロデューサーの顔を間近に見てゾッとなった。怯えも露わに思わずのけぞる。
「!!」
ラ・クロワもマスコミも司会者も、思いも寄らぬ光景に凍り付いたようにして二人を見た。
藤元は飲みかけの缶コーヒーをチクサの頭にすべて掛け終えると放り投げ、冷ややかな声で言い放つ。
「オレが決めた歌姫だ。一緒に歌う気がないならラ・クロワなど辞めて出て行け」
かつて感情を剥き出しにマネージャーをクビにした時とも表情は違っている。冷ややかな怒りの声と態度。
それは、「屠殺人」と業界で恐れられている彼の本性だった。
「オレが作った舞台の外に出る勇気もない薄っぺらなガキが、つけあがるな」
「……」
「見ろ、オレの意に逆らうのが怖いからここにいるマスコミのコイツらは誰もこのことを記事にしない。オーディションの真相もな。お前の人気も芸能界の生死もオレが握っていることを忘れるな」
チクサは震えながら身体を離した。コーヒーの雫が頭からポタポタと垂れ落ちる。向こうではさゆりがいい気味だと言わんばかりの笑みを浮かべていた。
見なかった振りをして、ジャーナリストの誰かが白々しくさゆりへ尋ねかける。
「岩倉さゆりさん、ラ・クロワへ加入するにあたって、どんな抱負をお持ちですか?」
「はい」
何事もなかったように、さゆりはにこやかに語った。
「世の中の辛い目に遭ってる人達や寂しい想いを抱えてる人達を慰め、励ましてあげるような歌手になりたい、そう思っています」
(それは、あの日莉莉亞が言ったはずの……!!)
ぎょっとしてさゆりを見たチクサは故人の抱負を騙ったのが誰の差し金か瞬時に察して、目の前の男をキッと睨んだ。
「泥のついたシンデレラの言葉なんかに誰も感動しやしない。ましてや封印されたオーディションの歌なぞ聴かれることもない。こうやって利用されるだけ、ありがたいと思うんだな」
「……」
チクサは、はらわたが煮えくり返るような思いだった。
ラストオーディションで莉莉亞が語った言葉も、あの美しい歌も、世間の誰にも伝わることがないまま葬られるというのか。
「覚えておけ。この世界《芸能界》じゃ無垢な者にしかガラスのくつははけないんだ。どんな崇高な理想を語ろうが、どんな歌を歌おうが……」
チクサは激しい目でプロデューサーを睨みつけると唇を震わせ……次の瞬間、その場から駆け出していた。
「チクサちゃん!」
るぅなが引き留めようとしたが、その手をすり抜けてチクサはフロアから駆け去っていった。
(莉莉亞……!)
(わたし、間違ってた!)
廊下を走りながらスマホを取り出す。電話を掛けようとしてチクサはハッと気づき、愕然となった。
思い出したのだ。
(あの娘に手を差し伸べるなら、あなたはもうガラスのくつははけない)
(莉莉亞を諦めて私達と一緒に高みを目指すか、彼女と一緒に堕ちてゆくか、選んで)
自分はあの日、莉莉亞を見捨て、それまで登録していた電話番号もメールアドレスも自分の手で削除してしまった……
「なんで……なんで私、あのとき……!」
込み上げる怒りに任せてスマホを床に叩きつける。画面にヒビが入り、カバーが外れたスマホは叩きつけられた後、床を滑っていった。涙がどっとあふれ出す。
「ああ……」
泣きながらオラトリオ・アソシエイツの建物から飛び出したチクサは狂おしい思いのまま、道行く群衆の中に飛び込んだ。
この雑踏のどこかに莉莉亞がいるのではないか。そんな気がして。
もちろん、どんなに探したところで見つかるはずがなく……
「莉莉亞……莉莉亞……」
とうとう路上にうずくまったチクサは泣きながら叫んだ。
「莉莉亞、私がばかだった! 莉莉亞の歌こそ本当の歌だった! ごめんなさい……ごめんなさい……」
どうして、大切なものを奪おうとする者の顔色を窺い、へつらう側に迎合してしまったのだろう。
どうして、仲間に言われるまま縋りつく手を振り払い、彼女を見捨ててしまったのだろう。
「ばかだ……今頃になって後悔したところでもう……私は大ばかだ。しねよ! しんでしまえよ! わたしなんか! こんなわたしなんか!」
路上にくずおれたチクサは泣きながら何度も路面をコブシで打ち付ける。
今を時めくラ・クロワの歌姫とも気づかず、道行く人々はドレス姿の歌姫の慟哭を訝しげに横目で見過ごして通り過ぎてゆく。
「あああああ、あああああああーー!」
チクサは泣いた。人目も憚らず、声の限りに泣いた。
気の触れた奴とでも思われたか、行き交う人々は誰も彼女を顧みない。
やがて、夕闇が街を覆い尽くしていった。
悔悟に哀哭する歌姫の姿を、せめて夜の帳で隠してやろうという計らいのように……
** ** ** ** ** **
一通り電話を掛け終え、メモを揃えた薮内は大きく息を吐いた。
これならきっと救うことが出来る。すべてをなくし、それを従容と受け入れて諦めてしまったようなあの二人を……
(とにかく知らせよう)
一刻も早く……と、彼はスマホからアツシへメールを送った。
『彼女の認知症のことだけどケアのボランティアさんが来てくれる。生活保護の人も呼んだ。明日だ、明日まで絶対にお姫様の手を離すな』
だが。
「え……?」
送ったはずのメールは即、送信不能で戻ってきた。
アツシのスマホはずっと料金が払えなかったので停止させられていたのだ。
「……」
あの二人にはもう家もなく、連絡も取れない。せめて明日来てくれたなら……
(……いや、待っていたらきっと取り返しがつかない!)
何故そう思ったのだろう。
だが、薮内は、ヨレヨレのコートを羽織るとクリニックを閉めて夜の街へ飛び出した。
探すあてなどない。それでもじっとしていられなかったのだ。
明日ではもう間に合わない……そんな直感に追い立てられて。
** ** ** ** ** **
今夜泊まるあてすらないまま、二人はただ、夜の街中を寄り添いあって歩いた。
繁華街はたくさんのネオンや街灯、巨大なモニターの映像で闇を感じないほど煌びやかだった。
「オーディション、最高だったんだね。皆が立ち上がって拍手の嵐! 対戦相手は顔面蒼白でプロデューサーが慌てて中止って……へへへ、ざまぁみろってんだ!」
アツシは意気揚々としていた。自分の推しがライバルはおろか、ずっと莉莉亞を虐めてきたようなプロデューサーにまで見事にやり返したというので、胸のすくような思いがしたのだ。
莉莉亞は笑顔のまま何も言わず、アツシの腕に掴まって街の明かりに目を細めている。
「また明日、何か考えよう。莉莉亞は絶対いつかステージに立てる!」
「うん」
うなずいたものの、莉莉亞はもう自分が歌いたいものを全て歌い尽くしたような思いだった。
歌詞を覚えられなくなった。後ろ盾も、ファンも、お金ももう何もない。
あんなふうに歌うことも、きっともう出来ない。
だけど、最後にあれほどの歌を歌うことが出来た。自分のすべてを掛けて、命を懸けて、最高の歌を歌い尽くした。
消えゆく夕映えが、落ちる前に一瞬だけ美しい光芒を放つように……
(もういいの……)
残ったのは心地よい虚脱感。
結果など関係なく、莉莉亞は満足だった。
「そうだ、莉莉亞。知ってる? この間、路上ライブからメジャーデビューしたアイドルがいてさ……」
「アツシくん」
頬を紅潮させてまだ語ろうとするアツシに「疲れたの。そろそろ、どこか泊まろうよ」と微笑みかけた。
「ね。あれ、お城みたいで綺麗ね。あそこがいいな……」
「……え? で、でもあれって……」
莉莉亞が指さしたのは、まるで宮殿のような美しい外装のラブホテルだった。高層マンションのようにそびえたっている。宿泊料金だって高いに違いない。
もう一円もお金がないアツシが困ったように下を向くと、莉莉亞は自分の最後の財産……クレジットカードをそっとかざして見せた。
「これ、まだ使えるから……」
「で、でも……」
「いいの……あそこがいい」
「莉莉亞……」
「いこ?」
躊躇するアツシの手をそっと握りしめると莉莉亞は歩き出した。
異性と交際した経験すらないアツシにとっては、そこは自分には縁がないとしか思っていなかった未知の世界だった。
気後れし、後ずさりするアツシに身を寄せると莉莉亞は何度も「大丈夫……私がいるから……」と、ささやいた。
そうやってホテルの最上階の部屋に入っても、アツシは震えてばかりだった。
「莉莉亞……僕……僕は……その……」
半泣きで震える彼が愛おしく、首筋に、頬に、莉莉亞は何度もキスをした。
「アツシくん……まさか莉莉亞が枕営業の経験したことがあるとか思ってない?」
「ない! 莉莉亞はそんなの絶対しない!」
「そうだよ、こんなこと誰にもしない。恥ずかしいけど、アツシくんだからしたいんだよ」
「莉莉亞……」
莉莉亞は目をつぶってキスを待ち、アツシは恐る恐る……初めて自分から莉莉亞にキスをした。莉莉亞は彼の背中に手を回し、そっと受け入れた。
「ね、一緒にお風呂入ろうよ」
唇を離すと莉莉亞は、困惑したままのアツシを誘った。まだ恥ずかしくて下を向く彼の背中を莉莉亞はクスクス笑いながら指でツンツンと突つき、浴室へ後ろから追い立てるように導く。
「アツシくん、わがまま言っていい?」
「な、なんでもどうぞ!」
「背中、流しっこしようよ」
「え、ええっ?」
ふひひ、と莉莉亞が変な声で笑うとアツシもとうとう吹き出してしまった。
こうして緊張のほどけた二人は一緒に汗を流し、疲れを癒し、浴室の中でひとときの間、子供に戻って遊んだ。
それでもお風呂から上がり、照明を落としたベッドルームに戻るとアツシは躊躇してすくんでしまった。無理もなかった。セックスはおろか、キスした経験すらなかったのだ。
莉莉亞は身を寄せ「大丈夫、怖くない。怖くないから……」と、ベッドにそっと彼を押し倒した。
「僕……僕……」
「アツシくん。莉莉亞は今だけアイドルじゃないから。アツシくんを好きなただの女の子だよ」
「好きって……本当?」
答える代わりに莉莉亞はアツシに覆いかぶさるとキスした。相手の舌をまさぐり絡ませる。
そして、息を荒げると、恥ずかしさをこらえて彼の手をそっと自分の秘部へと導いた。
「ほら、これがアツシくんを好きだって証拠」
「莉莉亞……」
「ごめんねアツシくん、莉莉亞もう待てない……」
跨ったまま、彼女はゆっくりと腰を沈めた。
「気持ちいい……女の子って、こんなに柔らかくて、気持ちいいんだ……」
「そうよ。莉莉亞も気持ちいい……だから少しでも長く、このままで……」
アツシは涙目で微笑むと、そっと両手を伸ばし不器用に、だけど優しく愛撫してくれた。莉莉亞も応えて微笑み返す。
「莉莉亞、好きだよ。出会った時からずっと……」
「アツシくん、私も……何もかも……ありがとう」
二人は互いを潤んだ目で見つめ合い、熟した果実を味わうように時間を掛けて上り詰めていった。
貪るのではなく、確かめ合うように、いたわり合うように。その後も、何度も何度も……
** ** ** ** ** **
それから、どれだけの時間が過ぎたのか……
莉莉亞は目を開けた。
周囲は薄暗い。明かりを落としたベッドルームに、しどけない姿で寝ていた。
すぐ傍にアツシが眠っていた。今までの辛苦に疲れ切っていたのだろう、いびきをかいていたが、莉莉亞にはそれがたまらしく愛おしかった。
寝顔は微笑んでいた。きっと好きな人と結ばれた続きを夢で見ているのだろう。
「……」
眺めていると自然と涙がこぼれた。自分の夢を叶えるために何もかもを投げうち失ってしまった人……そんな人へ最後に自分自身を捧げたことで、もう何も思い残すことはなくなった。
「ただ一人残ってくれた私のファン」
彼を起こさないよう、莉莉亞はそっとささやいた。
「最後まで信じてくれてありがとう……」
そっと口づける。彼は起きなかった。
そのままベッドを抜け出した。火照った身体の熱を冷ましたいと思い、ガウンを羽織ったまま周囲を見回す。
バルコニーのドアが目に入る。そっと扉を押して外に出た。
すると、外に広がっていたのは……
「わぁ……!!」
眼下に無数の光がキラキラと輝いていた。イルミネーション、街灯、ビルの部屋の明かり、道路を行き交う車のライト……真夜中の都会に広がる様々な光が……
(綺麗……)
それは、莉莉亞がいつかどこかで見たものに似ていた。
ずっと以前、自分がその光彩の中に溶け込んでしまいたいとさえ望んだほどの、なにか……
(何だっただろう……)
首を傾げ、思い出そうとする。
やがて、潮騒のような眼下の騒音が莉莉亞の耳に次第に喝采のように聞こえてきて……
(あ……あ……!)
莉莉亞の瞳の中で、煌めくその夜景はラ・クロワのステージの幻想へと変わっていった。
自分がもう一度ステージに立ちたいと夢見ていた……
(みんな……!!)
陶然として見ていた莉莉亞の顔が歓喜に輝いた。
ステージにラ・クロワの皆がいる。
その向こうの観客席で無数のファンの皆がサイリウムを振っている。誰もが笑顔だ。
チクサ、ナツメ、るぅな、サワメグ……みんな「待ってたよ!」と泣きながら笑っている。チクサに至っては、もう顔をくしゃくしゃにしていてアイドル台無しという体たらくだった。
ステージの端では自分をずっと待たせていた成河マネージャーが片手で「ゴメンね」と謝っていた。その隣ではあの藤元プロデューサーが渋柿でも齧ったような顔で不貞腐れている。
観客席からは「莉莉亞!」「莉莉亞!」と自分を熱烈に呼ぶ声が何度も何度もこだましている。
(莉莉亞、ずっと待ってたよ!)
(お帰り! 莉莉亞!)
莉莉亞の顔に、これ以上ないくらいの幸せそうな笑みが浮かんだ。自分が待ち望んでいたものにとうとう辿り着いたのだと……
(待ってみんな!)
(いま……いま行くからもう置いてゆかないで!)
(莉莉亞はいつまでも、みんなと一緒に……!)
金網のフェンスが行く手を阻んだ。あの向こうに、皆が自分のアンコールステージを待っている。
早く、早く行かなくては……
莉莉亞は夢中でフェンスを乗り越えた。
そして、眼下に煌めく光彩に向かって身を躍らせたのだった……


