二年前、芸能界を騒然とさせた事件があった。

 アイドルグループ「ラ・クロワ」の美少女、姫咲莉莉亞(ひめさき りりあ)と人気アイドル男子美槌烈音(みつち レオ)が一夜を共にしたことがマスコミによって暴露されたのだ。
 芸能人のスキャンダルとしてはよくある話だった。
 だが三流芸能人ならいざ知らず、「聖なる歌姫たち」と謳われたアイドルグループのセンターと、カリスマ的な美貌で日本中の女子を虜にした男性アイドルでは次元が違った。異性に恋をするのを禁じられた者同士がその禁を破ったことにそれぞれのファンは阿鼻叫喚となり……
 まもなく「ラ・クロワ」のプロダクション、オラトリオ・アソシエイツのコーポレートサイトに次のような発表が掲載された。


……
………
 平素より「La Croix(ラ・クロワ)」の応援をいただき、誠にありがとうございます。
 この度、弊社所属アイドル「La Croix(ラ・クロワ)」メンバーの姫咲莉莉亞におきまして重大な専属契約違反となる行為が判明いたしました。
 つきましては、弊社は本件を深刻かつ重く受け止め慎重に検討した結果、姫咲莉莉亞を本日付けでグループからの除名、当社との一切の契約を解除することを決定いたしましたことをご報告させていただきます。
 ファンの皆様におかれましては、このような突然のご報告となり、大変なご心配とご迷惑をおかけしますことを深くお詫び申し上げます。
 社会的責任の重さを真摯に受け止め、引き続き厳正かつ責任をもった対応を今後も進めてまいります。

 最後に、多大なるご迷惑をおかけしている全ての関係者の皆様、応援して下さっているファンの皆様に対し、あらためて深くお詫び申し上げます。

オラトリオ・アソシエイツ株式会社
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……


 以後、プロダクションが公共の場で彼女の名前を口することはなかった。
 プロダクションのプレスリリースで記者が尋ねようものならその時点で中止され、その記者には二度と取材も立ち入りも許されなかった。それ程、ラ・クロワへの悪影響を防ごうとする意識は徹底していた。

 そして一年が経ち……


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 「彼女」は、毎週木曜日の二時に、必ずこのエントランスに現れる。
 芸能プロダクション「オラトリオ・アソシエイツ」の受付嬢にはそれが毎回、心ひそかにザマァを堪能するイベントになっていた。

(ふふふ……来た)

 背中まで伸びたウェーブが掛かった艶やかな黒髪。白磁のような肌。その歌唱力と相まって一度は日本中から羨望と憧憬の視線を集めた清楚な容姿。
 だが、宝石のように青みがかっていた大きな瞳はこの一年、世間から非難を散々に浴びたせいで傷つき、今は見る影もない。かつては目に見えそうなほどカリスマを放ったオーラも色褪せ、くすんでいる。
 それでもかつての栄光を背に、彼女は一礼してにこやかに話し掛けた。

「元『ラ・クロワ』の姫咲莉莉亞と申します。マネージャーの成河冬子さんに面会したいのですが……」
「事前にお約束はされていましたか?」

 別に意地悪ではない。テンプレ化された受付のルールなのだが、少女は歯切れ悪そうに「いえ……」と俯いた。

「わかりました。しばらくお待ち下さい」
「お願いします」

 もう何回このやり取りを繰り返したことだろう。
 人気が絶頂だった頃は自分など目にも入らない様子でこのエントランスを颯爽と通り過ぎていたラ・クロワの歌姫。それが今では事前の約束ももらえず、それでも何とか取次ぎ出来ないかとお願いしている。
 みじめなものだと受付嬢は思ったがそんな感情など顔には出さず、淡々とした様子でマネージャーのオフィスルームへ内線を入れる振りをした。

「申し訳ありません。本日は終日外出となっているようです」
「そうですか」

 どこかホッとした表情で莉莉亞は肩を落とした。断られたのではない、不在で会えなかったのだからいつかきっと会ってもらえる……そんな希望がまだあるのだと思って。
 事前にアポイントのない来訪は「不在」という形で断わる受付の決まりを、彼女は知らない。
 しかし、前回も、その前回も来訪した時もいつも「不在」だった。このままでは埒が明かない。一度は俯いた莉莉亞は顔を上げ、思い切って尋ねた。

「あの……成河マネージャーのスケジュールを教えていただけませんか? お手すきの時間があるならその時間にわた……」
「失礼ですが……」

 言い終らないうちに、冷たい応えが返ってきた。

「あなたはもうオラトリオ・アソシエイツの関係者ではない。いわば部外者です。部外者に弊社社員の個人情報をお伝えすることは出来ません」

 自分の頬をいきなり叩かれたようだった。図に乗った訳ではなかったのだが、プロダクションとの契約を切られ、放り出された己の立場を改めて思い知らされる。

「……ではまた出直して来ます。成河さんがお戻りになったらよろしくお伝え……」

 蚊の鳴くような声で言った彼女の横をそのとき、数人の少女達がお喋りしながら足早に通り過ぎていった。

「あ……」

 それが自分のかつての仲間、ラ・クロワの歌姫達だと莉莉亞が気づいた時、彼女達は既にエレベーターに乗り込んでしまっていた。
 声を掛けていいものか躊躇するうちに自動ドアは閉まった。思わず手を伸ばした莉莉亞の向こう側で、彼女達はさっさと上の階へ去ってしまった。

(私に気づかなかったのかな。それとも知らん振りして行っちゃったのかな……)

 莉莉亞は唇を噛んだが、いつまでもこの場に留まってはいられなかった。彼女の後ろには次の受付を待つ来客が順番で控えている。

「……」

 一度は歌姫と呼ばれた自分がこんなことで肩を落としてはいけない。マネージャ-とはたまたま会えなかっただけ。すれ違った仲間にも気づかれなかっただけなのだと強いて自分に言い聞かせる。
 平然を装って莉莉亞が去ってゆくのを受付嬢は無表情に見送った。
 いい気味だと、少しだけ唇の端を吊り上げて。

「次の方、どうぞ」


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 打ち合わせ用の会議室があるフロア、一七階に向かってエレベーターは動き出したが、ラ・クロワのメンバーはしばらくの間、全員が無言だった。

(みんな、きっと気づいてる)
(さっき、受付に莉莉亞がいたって……)

 今はラ・クロワの花形としてセンターを務める歌姫、鐘美チクサは沈黙が意味するものを敏感に嗅ぎ取っていた。
 しかし、「彼女」のことを口にする者は誰もいない。
 口にしないのは聖なる歌姫というラ・クロワのブランドイメージを汚した嫌悪だろうか。かつての仲間を無視している後ろめたさだろうか。
 誰も、何も言わず黙りこくったままだった。
 チクサも皆と同じように「気がつかなかった振り」をして通り過ぎたが、視界の隅に一瞬映った莉莉亞の瞳には、縋るようなものが確かに見えた。それが心の痛みとなって瞼の裏にまだ残っていた。
 たまりかねたようにチクサはおずおずと口を開いた。

「あ、あのさ……」
「チクサ、先週の『キテル!』の芸能ランキング見た?」

 被せるように話しかけたのは騎条(きじょう)ナツメだった。肩まで届くかどうかという長さのストレートヘアもさることながらキツい三白眼が特徴的な美少女。凛としたイメージとブルージーな独特の歌唱力でチクサとセンターを張り合った程の人気を誇っている。
 いつも厳しい言葉でチクサへ鞭をくれるが、それは彼女への期待の裏返しだった。センターの地位を奪われたとき、悔しがるどころか「ずっとこうなって欲しかった……」と、泣きながら抱き着いて喜んだのもナツメだった。

「ううん。まだ……」
「チクサ、一位だった。あなた、いま芸能界で一番注目されてるよ」
「そう……」

 自分の人気が実感出来ず、嬉しさより戸惑うチクサへナツメは「おめでとう」と優しい声で祝福したが、すぐに厳しい声で続けた。

「チクサ、ラ・クロワのセンターになったって自覚、そろそろ持ってよね。今までみたいにポヤヤンとしてて思ってることを何でもかんでもナチュラルに言ってた今までのチクサじゃいけないって」
「……」
「あなたはもうラ・クロワの象徴なの。わかる? たくさんの人が憧れとか尊敬の眼差しでチクサの一挙手一投足を見つめてるんだよ」

 さっき見かけた莉莉亞のことを言わせまいとしてか、口を挟む隙を与えず、ナツメはまくし立てる。

「それだけじゃない。悪意ある眼で見てる人もいるわ。うかつなことを言ったが最後、取り返しがつかないことになるのよ」
「……」

 ナツメは厳しい口調でチクサへ説く。
 暗に莉莉亞のことを言っているのだろうかとチクサは思ったが反論出来なかった。莉莉亞はまさしく「うかつなことを暴かれた」為に芸能界から追放されたのだから。
 他の歌姫達は、莉莉亞のことを口にしないでくれ、ナツメの言葉に同意してくれ……と、祈るような眼差しでチクサを見つめている。

「チクサ、忘れないで……私たちのランウェイはいつも脆くて危うい人気の上に敷かれてるってことを」

 懇願するようなナツメの言葉は、この世界の残酷な真実だった。
 もう何も言えず、うつむいて頷くことしか出来なかった。歌姫たちはほっとしたように息を吐き、ナツメは一転、チクサの肩を笑顔で抱いた。

「キツいこと言ってゴメン。でも大丈夫、私たちがみんなでチクサを支えてあげる! だからほら、芸能界最強のお姫様がそんな顔をするんじゃないの」
「そうだよ、チクサ。これからインタビューのライブ動画配信なんだからベソなんか掻いてどーすんの。笑顔笑顔!」

 すかさずおどけて笑いを入れたのは茱萸木(ぐみき)るぅな。チクサが慌てて「な、泣いてなんかないよ!」と反撥すると、黒澤めぐみが「おやおや」というようなポーズで肩をすくめる。どちらもチクサと一緒に泣き、笑い、苦労を共にした歌姫達だった。ラ・クロワでは両サイドのポジションだが、歌唱力の高さではチクサとナツメにも引けを取らない。
 チクサがおずおずと笑顔を浮かべると三人は抱きつき、「チクサちゃんかわいい!」「もー食べちゃいたい」「そうそう、その笑顔よ!」と歓声をあげた。
 そしてちょうどそのとき、十七階に辿り着いたエレベーターがタイミングよくドアを開けた。

「さ、行くよ! 新曲のプロモーションが待ってる。ラ・クロワに、立ち止まってるヒマなんてないんだから!」
「う、うん」

 フロアへ踏み出したナツメに手を引っ張られた。背中はるぅなが、肩はめぐみが笑いながら押している。同じ笑顔で応えるしかなかった。
 結局、チクサは言えなかった。
 エントランスですれ違った、かつての仲間のことを……