夕方六時に開幕した「ラ・クロワ」のオーディションは前座を終え、いよいよ今夜のプログラムの佳境に差し掛かろうとしていた。
 会場は「カテドラル(大聖堂)」と名付けられた巨大なイベントホールだった。第二の武道館をという野心の下にオラトリオ・アソシエイツが建設したのだ。先日、ラ・クロワがこけら落としのコンサートを開いたばかりである。
 ここに出場するのは歌唱力を主軸にした厳しい基準から選抜された女性たち。
 オーディションといいながら実際はオムニバス形式のコンサートに近く、出場者は渾身の歌唱を披露していた。
 観客席には音楽界の権威とも言うべき重鎮達が並んでいる。評論家や作曲家、芸術大学の名誉教授などで、さすがに藤元プロデューサーの顔色に阿るだけの阿諛追従の徒ではなかった。

「審査員の皆様。次の出場者は十八番、グリーンライドネス・プロダクションから二木つゆみです。曲は『トライ・アゲイン』」

 ライバル・プロダクションから送り込まれた秘蔵っ子なのだろう。肩に掛けていたストールを投げ捨て、ステージの上に躍り出たのは小柄な少女だった。
 舞うように一礼すると、軽やかにステップを踏み、キレのある声で歌い始める。

「これは……」
「声に伸びがありますな。素晴らしい歌唱力だ」

 審査員たちは感心して評価シートに書き込む。後ろの席にはオラトリオ・アソシエイツ配下の下請け的なプロダクションやレコード会社の役員やプロデューサーが座っていた。彼等は、オーディションの脱落者から見込みがありそうな出場者を拾い上げるために列席を許されているのだった。
 観客は一人もいない。
 出番待ちの歌手はステージ端の袖幕に列を作っていた。期待と不安の入り混じった視線で、彼女達はオーディションの進行を見守っている。
 中には緊張のあまり過呼吸を起こしかけている少女、泣き出しそうな顔で震えている少女もいた。
 そんな彼女達から少し離れた場所で、折りたたみ椅子に腰かけて静かに出番を待っている一人の歌姫がいる。
 莉莉亞だった。

(見て見て、姫咲莉莉亞よ)
(うわぁ、ラ・クロワを追い出されたのに復帰するつもりなんだ。キッショ)
(あんな事件起こしといて、よくもまぁ……)

 無遠慮に向けられる侮蔑の視線、嘲笑のクスクス笑い、中には汚いもののように目を背ける少女もいる。
 だが、莉莉亞は泰然としていた。
 同じように蔑まれ、笑われている人達がこの世界にはたくさんいる。悔しさを堪え、悲しみを吞み込んで……
 そんな気持ちに寄り添う歌、苦しみや悲しみを分かち合う歌を歌うまで、嘲笑など少しも苦に思わなかった。
 莉莉亞をさんざん嘲笑していた少女たちも時間が経つにつれ、バツが悪そうな顔で次第に押し黙った。そのうちひとり、またひとりとオーディションに呼ばれてステージの向こう側へと消えてゆく。

 もうすぐ自分の番だ。

 動揺はない。唯一の気がかりは……
 莉莉亞はドレスの裏側に縫い込まれたスマホ画面をそっと見やる。何度練習しても今では歌詞が少ししか覚えられなくなってしまった。もう、これだけが頼りだ。

「審査員の皆様。次の出場者は四十九番、元ラ・クロワの姫咲莉莉亞です。曲は『月下の祈り』」

 立ち上がった莉莉亞はドレスを翻し、仮初めのステージへと歩みを進めた。
 清楚な白に鮮やかな青をあしったデザインの衣装は、ラ・クロワに戻れたら着るつもりでずっとしまっていた宝物だった。
 凛として姿勢を正す。

(さぁ、心のままに……)

 ライトアップされたステージの上で、莉莉亞はマイクを手に一礼すると、静かに歌い始めた。


**  **  **  **  **  **


「今度はこれを付けて歌えっていうの?」

 激しい怒りを滲ませてチクサはそれを睨みつけた。
 テーブルの上には革製の首輪が置かれている。犬に付けるものとしか思えない下品なアクセサリーにラ・クロワのメンバーも声を失った。
 そして、課せられたのはそれだけではなかった。

「四〇万枚だなんて……」

 解散を懸けた重い枷。前回はラ・クロワが総力を挙げて必死に呼びかけ、懸命に歌い、三〇万枚というノルマをようやく達成したのだ。プロダクションにどれほど収益があがったのかチクサには想像も出来なかった。
 ただもうこんな守銭奴じみた企画に二度と加担したくない。そう思いながらやり遂げた。
 なのに、今度は一人一〇万枚というもっと重いノルマをこともなげに言い渡されたのだ。

「で、出来るよ、今の私たちなら!」

 ナツメが虚勢を張って檄を飛ばす。
 めぐみもるぅなも強張った顔に笑顔を張り付けて「そうだよ、今度も皆で力を合わせれば」「頑張ろう!」と続く。
 チクサだけが嫌悪感でそっぽを向いた。

「チクサちゃん……」

 めぐみとるぅなが、おそるおそる呼びかける。
 嫌だろうけどプロダクションの決めたことに逆らわないで、私たちと一緒に歌って、とその目は懇願していた。ナツメは「拗ねたって仕方ないでしょ!」という顔でソッポを向いている。

「……」

 今さら子供が駄々を捏ねるようなものでしかない。チクサは諦めるしかなかった。
どんなに嫌がっても、しょせんプロデューサーの手のひらの上で踊らされ、歌い続けるしかないのだと……

「じゃあ、今度はどうやってファンを盛り上げてゆくか、打ち合わせしよう」

 ナツメが呼びかけ、四人はテーブルに集まった。
 あれだけ搾取し尽くしたファンをもう一度焚き付け、あれ以上のお金をどうやって搾取するのか……
 チクサは考えるのも嫌になり目を逸らした。逸らした先の壁には大画面の映像モニターが掛けられている。
 そしてその映像を見て……彼女は思わず棒立ちになった。

「莉莉亞……」

 その声にラ・クロワのメンバー達は一斉に顔を横に向け、画面にくぎ付けとなった。
 そこには、現在開催している「ラ・クロワ 新姫オーディション」の映像が流れていた。
 勝ち抜き式の対戦トーナメント方式でオーディションは進んでいた。既に三度のふるいに掛けられ、残っている歌姫候補は四人。
 その中に、莉莉亞がいたのだ。
 画面の中の莉莉亞は堂々と歌っていた。卑屈そうな様子も開き直ったようなふてぶてしさもなく、澄み切った静かな眼をしている。
 チクサは黙ってモニターのコントローラーを取り、無音だった音量を大きく上げた。ナツメが何か言いかけたが、チクサは無視した。コントローラーは握りしめたまま離さない。
 一度は社会に消されたその歌声を朗々と張り上げ、莉莉亞は艶やかに歌っている。
 そして……
 響かせているその歌声が、ラ・クロワにいた時よりも大きく変わっていることにメンバー達は気がついた。 

「莉莉亞、いつのまにあんな歌い方を……」

 青ざめた顔でナツメがうめく。
 それは、天上にも届くかと思われるほどの煌びやかで輝くような美声ではあったが、それだけではなかった。深みがあった。
 透き通るような声の中に、哀しみと温かみが混淆している。
 それは幾度も絶望に這いずり、暗闇の底で己が歌う理由を悟った莉莉亞でしか出来ない歌い方だった。

「莉莉亞ちゃん、すごい……」

 るぅなが思わず感嘆の声を漏らした。
 その場に居た審査員達も他のオーディション参加者も魅入られたように、歌い続ける莉莉亞の姿を見つめ、聴き続けていた。
 やがて、歌は静かに終わった。
 拍手はまばらだったが、それはおざなりなのではなかった。人々は彼女の歌に酔い、半ば放心状態になっていたのだ。

「素晴らしい歌唱でした。これに対する相手は楠木ななみです。曲名は……」

 対戦者の少女がステージにあがる。
 負けられない! と、莉莉亞に対抗し必死に声を張り上げる。自分に持てるせいいっぱいの声量を駆使し、精魂を傾けて彼女も渾身の歌を披露した。
 それでも莉莉亞にはとても敵わないことは、聴き比べれば明白だった。
 しばらくして歌い終えた少女は、もう結果を聞くまでもない……と悟ったようで肩を落としている。

(莉莉亞、あの歌唱力で並みいる他の歌い手を圧倒して、ここまで勝ち進んだんだ……)

 もし対戦者の少女に軍配を上げれば明らかに依怙贔屓をしていると分かるのが明白な実力差だった。
 だが、莉莉亞は勝利を告げられても勝ち誇る様子もなく、敗者を憐れむ様子もなく、別のどこかを見ているような表情をしていた。

「すごい。莉莉亞、とうとう決勝まで……」

 いつのまにか……ラ・クロワのメンバー達は打ち合わせを忘れ、画面に見入っている。
 最終の歌唱対決を前に、インカムで何やら指示を受けたらしい司会者が手を差し伸べ、二人の歌姫候補を招いた。

「では、ラストオーディションを前に、お二人から少しだけお話を伺いたいと思います」

 審査員達は当惑した顔を見合わせている。当初の予定にはなかったものらしい。おそらくプロデューサーの差し金だろう。

「岩倉さゆりさん。藤元公氏の推薦を受けてこのオーディションへ臨まれていますが、自信の程はいかがですか?」
「さすがに緊張してます。でも、自分の力で、夢まであと一歩というところまで来ました。ラ・クロワの新しい星になれるように頑張ります」

 そう応えたのはポンパドールに髪をまとめた美少女だった。フランス人形を思わせる華麗な容姿だが、笑っていても切れ長の冷ややかな瞳は決して笑っていない。

「自分自身に誓ったんです。頂点を極めたいって。ラ・クロワと共に輝く星々の極みに駆け上がってゆきたいって。そこでどんな景色が見れるんだろう……そんなことを思ってこのオーディションに臨みました」
「素晴らしい意気込みですね」
「はい。どうか、私にガラスのくつを履かせてください」

 そういって少女は審査員の前でカーテシーのポーズを取った。
 チクサはすぐに気がついた。司会者は藤元プロデューサーの推薦を受けていることを、この少女は実力で勝ち上がってきたことをわざわざ審査員にアピールしている。
 つまり、優勝はこの少女こそが妥当だと暗に告げているのだ。
 一方で司会者は莉莉亞へは過去の傷を蒸し返し、マイナスなイメージを与えることも忘れていない。

「姫咲莉莉亞さんは、元ラ・クロワの歌姫でしたね。スキャンダルで除名された身ながらオーディションに臨まれた。失礼ながら負い目や羞恥心は感じませんでしたか?」

 なんてあからさまな……チクサは画面の司会者を睨みつけたが、問われた莉莉亞は静かに微笑み返して皮肉った司会者をたじろがせた。

「ええ、だからこそ歌うんです」
「?」
「ラ・クロワを追われてからいろんな経験をしました。笑われて、蔑まされて、落ちぶれて泣いて。でも、そこで見つけたんです」
「見つけた?」
「私は……」

 そのとき莉莉亞が告げた言葉を、チクサはその後の自分の人生の中でついに忘れることが出来なかった。

「落ちぶれた私だからこそ歌いたいんです。学校や職場で虐められたり、一人で生きるのが寂しかったり……だけど慰める人も励ます人もいない、そんな悲しい人達の為に」

 そう言うと莉莉亞ははにかんだように笑って岩倉さゆりと同じようにカーテシーのポーズを取った。

「どうか、私にもう一度ガラスのくつを履かせてください」

 司会者は狼狽して何も言えなかった。
 おそらくインカムから「もういい、引っ込め!」とでも怒鳴られたのだろう。何も言えずにあたふたとステージから下がった。
 最終オーディションが始まった。先に莉莉亞、次にさゆりの順で歌う。
 ステージの照明が落とされた。青いライトが莉莉亞を照らす。

 曲が流れ始め、莉莉亞はささやくように歌い始めた。透き通るようなその歌声は、独白から、悲しみを包む優しさを秘めた力強い決意へと次第に変転してゆく。
 「Maybe tomorrow(明日はきっと)
 誰もが初めてその歌を聴いた。莉莉亞のオリジナル曲だった。


I'm still wandering in the darkness
(私はまだ闇の中を彷徨い続けている)
How far does the deep darkness called despair extend?
(絶望というこの闇はどこまで続いているのだろうか)
Yesterday, the day before yesterday, and the day before that, I lived with painful and sad feelings.
(昨日も、一昨日も、その前の日もずっと私には辛く悲しい日々ばかりだった)
Between that day and today, I have lost many important things that I believe in.
(あの日からたくさんのものを失ってしまったわ)


 この歌詞を作るまでに自分が舐めてきた辛酸の数々が心に蘇った。

(なんでもするからお願い。私、ラ・クロワに戻りたい!)
(後輩や知り合いが次々とデビューしてゆく。光差す世界に羽ばたいてゆく。なのに私だけが……私だけがあそこへ飛び立てない。どうして? どうしてよ!)

 たくさんの苦しみや涙が、自分と同じように苦しみ泣いている人の為に歌えと教えてくれた。


But I've survived many betrayals, tragedies and breakups.
(だけど幾つもの裏切りや悲劇、さよならを越えて私は今ここにいるわ)
I cried and gave up many times. But I learned that there are people who are enduring the same suffering as me.
(数えきれないくらい泣いた。絶望した。でも知ったの、私と同じように苦しみに耐えて今日を生きる人々がいることを)
I want to sing for those who have no hope. I want to be their hope.
(希望の持たぬ人々よ、今こそ私は歌うわ。あなたの暗闇に灯す灯火になる為に)


 莉莉亞は心を凝らし、歌い続ける。
 例え心から今の想いが零れ落ちて忘れてしまうとしてもこの瞬間だけは心を燃やして、燃やし尽くして誰かの灯火になろう。

(莉莉亞もね、たくさんの人に叩かれて今はこうしてるの。でもきっとまたテレビに映るようになるから。そうしたら今度はさやかを応援する歌を歌ってあげる)
(綺麗なだけの歌なんてもう歌いたくない。苦しい人や悲しい人と一緒に苦しんだり泣いてあげる歌を歌いたいの……)

 顔を上げる。
 虚空の向こうにいるであろう人々へ呼びかけるように、莉莉亞は最後のフレーズまで渾身の思いでついに歌い切った。

The deeper I sink into the darkness, the light of love shines deep in my heart.
(どんな深い暗闇の中でも、私の心の奥底で灯火は輝き続ける)
A dawn called hope shines upon us. Maybe tomorrow...
(希望という名の夜明けが私たちを照らすわ。そんな明日が、いつかきっと……)


 聴いていたチクサの頬には、いつのまにか涙が流れていた。ラ・クロワのメンバー達は声もなく、歌い終えた莉莉亞を唖然と見つめている。

「みんな……莉莉亞の歌、聴いた?」

 崇高な願いを抱いて歌う莉莉亞に比べ私たちはどうなの、エゴに塗れた金儲けの道具にされて恥ずかしくないのか……チクサの顔はそう言っている。
 誰も反論できなかった。
 ナツメでさえ、唇を噛んで下を向いている。

「……莉莉亞をもう一度ラ・クロワに迎えてあげようよ」
「それは……」
「ラ・クロワに必要なのはこんな犬みたいな首輪を付けて歌うことなんかじゃない。莉莉亞みたいに人を思いやって歌うことじゃないの?」
「……」
「ナツメ、違う?」
「……」
「るぅな、どうなの?」
「……」
「めぐみ、何とも思わないの?」
「……」

 言い立てるチクサに誰も応えない。そんなことをすれば、プロデューサーの怒りやファンの反発をどれほど買うことか……皆、それが怖いのだ。
 誰もがおどおどと目を向け合い、気まずそうに下を向くばかり。

「みんな、何で黙ってるの? 何とか言ったらどうなのよ!」

 苛立つチクサの前で、誰もがうなだれるだけだった。
 モニター画面の中では、すべての審査員達が立ち上がり、我を忘れて拍手している。審査員の後ろにいる関連会社の人々も。
 スタンディングオベーション。歌い手に対する最大の賛辞だった。拍手はなかなか鳴りやまない。誰もが感動の色を顔に浮かべている。
 次の歌い手である岩倉さゆりは顔面蒼白で震えていた。
 自分なら元・ラ・クロワの落ちぶれた歌姫など一蹴出来るという自信があった。勝ち抜いてゆく彼女の歌を聴いても、まだ自分なら勝てると見下していた。
 だが、最後の最後にこんな歌唱を目の当たりにして歌う気力さえ萎えてしまった。

(プロデューサー、話が違うわよ! こんな凄い歌い手だなんて聞かされてなかった)
(こんなの誰が歌ってもかなう訳ないじゃない! 何とかしてよ!)

 ステージから隔離された調整室は、予想外の展開にスタッフ達も静まり返っていたが、突然ガチャン!という破砕音がした。
 一人の男が怒りを抑えきれず、持っていたコーヒーカップをいきなりミキサーに投げつけたのだ。それでも怒りが収まらず、耳に付けていたヘッドホンをむしり取ると床へと叩きつけ、何度も何度も足蹴にする。
 中にいたスタッフ達は誰もが凍り付き、その男と目を合わせることが出来ない。
 プロデューサーの藤元公だった。
 いつもは冷徹で人を見下すのが当然といった顔が青ざめ、怒りにぶるぶると震えていた。

「都賀崎!」

 サブプロデューサーの都賀崎は「はい」と応じたものの、予想外の大番狂わせにいつもは無表情だった彼も顔に狼狽の色を浮かべている。

「オーディションを中断しろ!」
「……名目はどうしますか?」
「知るか! 適当にデッチ上げろ! 審査員を残して全員締め出せ!」
「……」
「なにをしている、さっさとやれ!」
「……わかりました」

 サブプロデューサーの都賀崎はオーディションの中止を取り仕切るため慌ただしく部屋を出ていった。その背中に藤元は「決勝戦については緘口令を敷け。絶対に口外させるな!」と追い打ちのように怒鳴りつける。

「くそっ、くそっ、くそっ! 噛ませ犬の分際でオレにこんな大恥を……!」

 ミラーガラスの向こうに佇む莉莉亞を罵りながら彼は地団駄を踏む。
 だが、歌い終えた後に今さら何をやろうとも手遅れだった。
 不自然を承知で決勝戦を封印し、自分の推しを無理やりラ・クロワの新しい歌姫にするしかない。

「プロデューサー、審査委員長が中止に至る理由と経緯について話を伺いたいと言われています」
「今すぐ行くと言え!」

 引き返して告げた都賀崎に怒鳴り返すと藤元は腕を組み、目を閉じた。
 彼の頭に、聖母のような神々しさで歌う莉莉亞の姿が浮かんだ。

(希望という名の夜明けが私たちを照らすわ。そんな明日がきっと……)

 一瞬でも心を動かされた自分自身が腹立たしい。やせぎすの顔から突き出た頬骨がぴくぴくと痙攣した。
 しかし、やがて歯ぎしりしていた口がかすかに緩み、笑い声がこぼれた。

「ふふふ……誹謗中傷でも金の力でもなく、まさか歌の力でこの藤元がしてやられるとはな……」

 彼は苦々しく笑いながら、スタッフ達に向かって肩をすくめてみせた。
 藤元にとっては初めて味わう挫折であり、敗北感だった。

「だが、ガラスのくつを履くのはお前じゃない……」

 己の絶大な権力に恃む男はそう言って、不敵に笑うのだった。
 ガラスの向こうを見る。
 歌姫の去った、無人のステージをスポットライトが静かに照らしていた。


**  **  **  **  **  **


(そろそろ、オーディション終わった頃かな?)

 薮内クリニックでは、カウンセラーの薮内がそわそわしながらアツシの連絡を待っていた。
 結果はどうなっただろうか。

(曲作りに協力した自分へ必ずお知らせしますと言ってくれたが……)

 気を揉んで待ったが、メールはなかなか来ない。
 とうとう痺れを切らせた薮内はスマホから「どうだった?」とメッセージを送ってしまった。
 しばらくして返信が返ってきた。
 だが、籔内がスマホを覗き込むとそこには短い一言が記されていただけだった。

「ありがとうございました」とだけ……