その部屋は豪華だが、意図的に薄暗く照明を抑えていた。
 部屋の主の心の内のように……

「オーディションの応募は昨日締め切りました。応募数は二千人を超えています」
「公開オーディションの時間と会場のキャパシティを考えると書類審査で通すのは五〇人というところかな」

 オラトリオ・アソシエイツの執務室。オンラインで報告を聞きながら、藤元はフンと鼻を鳴らした。
 彼にとって五〇人が五千人になったところで変わらない。自分が決めた少女がラ・クロワへ参入するのは暗黙の既定事項なのだ。このオーディションも所詮、世間に認めさせる為に行う通過儀礼のようなものだと思っていた。

「目立った応募者はいたか? せっかくのオーディションだ。実力とネームバリューを兼ねている奴はなるだけ選考を通過させろ。視聴率が稼げるからテレビ局が喜ぶだろう」
「そのテレビ局から推薦で応募しているアナウンサーがいましたが歌唱力が低すぎで論外でした。まぁ、冷やかしでしょう」
「オーディションに顔くらい出せるとでも思っていたか」
「連中、我々がテレビ局に公開オーディションの様子をリアルタイムで提供すると勘違いしてるみたいですね」

 いつも無表情なサブプロデューサーの都賀崎が珍しく、藤元と顔を見合わせて笑った。
 ラ・クロワのオーディションは「公開」と銘打っていたが、これは名ばかりだった。
 テレビ局には、タイムラグを置いてオラトリオ・アソシエイツから「編集」した収録映像が提供されることになっている。顔出しだけでもラ・クロワの人気に少しでもあやかろうとするテレビ局は、カット済みの映像にさぞかしがっかりすることだろう。

「ま、それは置いておくとして、他のプロダクションから刺客のつもりで送り込まれた実力派アイドルが複数います」
「素晴らしい。競り合わせたら絵になるな」

 説明していた都賀崎はうなずいた。出来レースにしても噛ませ犬は強い方がいい。

「他にはオペラ歌手や知名度のある俳優、外国のプロダクションから応募してきた歌手もいました。こちらも評価の高い者は入れようと思います」
「いいだろう。そこは任せる」

 藤元は上機嫌だった。歌姫候補の出場者同士が僅差で対決し潰しあってくれればオーディションが白熱する。煽らなくともマスコミが勝手に盛り上げ、ファンが熱狂してくれるだろう。
 そうなればしめたもので、最後にその頂点に立った者が参入するラ・クロワの価値もまたインフレ状に爆上げされてゆくのだ。

(踊れ、俺の手のひらの上で……)

 藤元が目を細めた時、「そうそう」と、都賀崎が面白そうに付け足した。

「応募者の中に、元ラ・クロワの姫咲莉莉亞がいましたよ」

 藤元は思わず苦笑した。落ちぶれた歌姫がそうまでして、ラ・クロワの復帰に固執するとは惨めなものだ。

「厚顔無恥な奴だ。まだ戻る望みを捨てていなかったか」
「デモCDで評価した歌唱力はさすがにAランクがついていましたが……書類選考、落としておきますか?」
「そうだな……いや」

 少し考えこんだ藤元は酷薄な笑いを浮かべた。
 元ラ・クロワの歌姫を自分が推す少女がオーディションで完膚なきまでに打ち破る……そんな素晴らしい構図が脳裏に浮かんだのだ。
 これは、またとない演出となるだろう。

「選考で合格したらオーディションに入れてやれ。その時はオーディションの最後を私の推しにして、その前に姫咲莉莉亞という順番にしろ。そうすれば新しい歌姫誕生の引き立て役になる」
「なるほど、いい演出ですね。では、そのように手配いたします」

 オンライン通信を終えると、藤元は独りで悦に浸った。
 自ら汚れ役を買って出るように莉莉亞が応募して来るとは……おかげで彼女を利用して自分の推しを華やかにデビューさせることが出来る。

(莉莉亞の実力がラ・クロワ時代と変わらなくとも、この少女には到底かなうまい)

 手許に置かれた審査書類にはラ・クロワに参入が既定されている少女が映っていた。藤元は呼び掛ける。

「舞台は整えてやる。過去の遺物に引導を渡してやれ。お前のデビューの門出だ」

 フランス人形を思わせる華麗な容姿。歌唱力の評価欄のほぼすべては「S」「A+」で埋まっている。

「岩倉さゆり」

 冷ややかな雰囲気はどことなく藤元に似ていた。印刷された写真の彼女は微笑んでいる。
 だが、その瞳は笑っていない。


 ……ラ・クロワの新しい歌姫を決める公開オーディションは一ヶ月後に迫っていた。


**  **  **  **  **  **


「どう? 歌詞は読める?」
「立ち止まってたら読めるけど、動いてたら……」

 莉莉亞は悲しそうに首を振った。

「いいさ、別の方法を考えよう」

 アツシは屈託なく笑った。
 そこは、あの日と同じ公園の野外ステージだった。
 打ち捨てられた歌姫とたった一人のファン。再起を目指す二人はさっきからずっとここで試行錯誤している。
 莉莉亞は、愛唱していた歌の歌詞すら記憶から頻繁に抜け落ちるようになっていた。途中で歌えなくなればオーディションの結果がどうなるか言うまでもない。二人はそれをカバーしようとあれこれ試していたのだった。
 最初は莉莉亞の手のひらに歌詞を書き留める方法を試したが、歌いながら見るには小さな文字では判読しにくく、かと言って大きな文字だと歌詞全てを書き切れない。それに、手許にいつも視線を向けては不自然に見えてしまうことも分かった。

「オーディションがカラオケ形式だったら問題ないのになぁ」

 アツシがボヤく。これには莉莉亞も思わず笑ってしまった。
 それなら……と気を取り直し、歌詞を書いたスケッチブックを観客席からアツシが捲って見せるという方法を今、試しているのだった。
 だが、棒立ちならともかく、歌って動きながら離れた位置の観客席にあるボードの歌詞を読み取るのは困難だった。それに協力者のアツシが会場のスタッフに注意され、ボードを出せなくなってしまったらそこでおしまいである。

「でも何か方法はあるはずだ」

 アツシは挫けない。オーディションの選考を通過しチャンスを手に入れたことで彼は確信していた。

「頑張ろう。間違いなく莉莉亞の実力を認められたんだ。自信を持って!」
「……そうね」

 これくらいのこと萎れてなんかいられない。一度は下を向いた莉莉亞だったが、懸命に自分を奮い立たせる。
 公開オーディションのタイムリミットはもう、間近なのだ。

「歌詞カードなしでどこまで歌える? 試してみようか」
「ええ」

 莉莉亞はアツシに言われるまま何でも従った。
 荒唐無稽な試みにも、無駄と思える試みにも喜んで応じた。
 自分を信じて何もかも投げうった、たった一人のファンだから。

(彼の願いに応えたい)

 公園を通り過ぎる人々は、たまに「何かヘンなことやってんな」程度の視線をチラリと向けるだけで特段関心も寄せない。
 本来ならレンタルスタジオやカラオケボックスを借りてレッスンするところなのだが、そんなお金すら惜しむほど二人は窮迫していた。
 それでも……

(もう一度ガラスのくつをはいて歌いたい、光差すステージの上で……)

 風の吹く、うら寂れた公園の一角でひたすらに夢だけを追う二人に日差しが優しく降り注いだ。
 幸いなことに曲に合わせた振り付けはほとんど忘れていない。おそらく身体で覚えているせいだろう。
 何度も反復して身体を動かし歌唱を繰り返す。歌詞を忘れて途切れたら、その箇所を手のひらに書いてもう一度。
 ハンディキャップをカバーする為の哀しいレッスンだったが、莉莉亞は恥ずかしいとも、みっともないとも思わなかった。
 身体を動かし、歌っている時だけは不安や絶望を感じないでいられる。
……そうして試行錯誤の末、忘れがちな歌詞を気づかれずに歌う方法を二人はようやく見つけ出した。

「どう? 一曲をフルで通して歌ってみたけど……」
「ほとんど不自然じゃなかった! あとは振り付けのタイミングに合わせて表示させればバッチリだよ!」
「本当?」

 それは衣装の左右の腕の内側に塩化ビニールのポケットを縫い付け、薄いスマホを仕込んで歌詞を表示させる……と、いうものだった。
 目線を向けるタイミングを考慮して振付を考えれば、違和感なく動きながら歌えそうだった。

「歌えるのね……」

 莉莉亞はつぶやいた。思わず目頭が熱くなる。

「歌詞を忘れてしまう今の私でも、前みたいに……」

 アツシは「やったね、これでオーディションも受けられる!」と興奮している。
 だが、歌詞を覚えられなくなった歌姫が一度はステージに立てたとして、その先どこまで歌えるのだろう。
 しかし二人はもう、それを考えようとはしなかった。
 絶望しか見えない現実から目を背け、今この瞬間に見える一筋の光だけを懸命に追ってゆく。

(どんな形でもいいんだ。莉莉亞をもう一度ステージに……)

 公園のあづまやで休憩を取る莉莉亞を横に、アツシは決意を新たにした。
 莉莉亞は、そんなアツシの横顔を静かに見つめる。
 決して整った顔立ちではなかった。
 だが、懸命に自分の想いをかなえようとする彼の真剣な横顔を、彼女は美しいと思った。
 そんなアツシに微笑みかけると、莉莉亞は「これを見てくれない?」と小さなメモ帳をテーブルの上に広げて見せた。

「これは?」
「作ったの。忘れてしまわないうちに、私の気持ちを歌にしたいって思って……」

 忘れてしまわないうちにという言葉に、哀しみが込み上げた。
 歌詞とメロディーラインの上には『Maybe tomorrow(あしたは、きっと……)』とタイトルが付けられている。目を通し、読み始めた。

「……」

 アツシはどうしたことか、そのまま微動だにしなくなった。
 どうしたんだろう……と訝しんだ莉莉亞が、歌詞に誤字脱字があっただろうかと覗き込んだ時、メモ帳の上にポタリと水滴が落ちた。

(雨?)

 莉莉亞は思わず空を見上げた。雨が降る気配などどこにもない。アツシを見ると……その頬には幾つもの涙の筋が伝っていた。

「僕の、僕らの歌だ……」
「アツシ……くん……?」
「僕はずっと聴きたかったんだ、こんな歌……」

 つぶやくと、ふいにアツシは顔を覆って泣き出した。
 莉莉亞が「どうしたの? そんな……これは私の想いを言葉にしただけの……」と言いかけた時、彼女は自分の頬にも熱いものが流れていることに気がついた。

(え、なんで……)
(自分で書いた歌詞なのに……)

 涙は止まらない。
 鼻をすすり上げる彼の前で莉莉亞もまた涙を流した。大切なものを失い続けた哀しみ、自分の想いを受け止めてもらえた喜びが胸の中で綯い交ぜになる。
 この気持ちは、なんと呼べばいいのだろう。
 百円ショップで買った小さなメモ帳を愛おしそうに手で包むと、アツシは「これ、オーディションで歌って欲しいなぁ」と涙声でため息をついた。

「これを聴いてもらえたら、きっと莉莉亞はラ・クロワの歌姫に認められる……」

 莉莉亞は困ったように「ありがとう」と、笑うしかなかった。
 曲を作ろうにも機材はなく、誰かに頼もうにもお金もない。歌にしたい、みんなに聴いて欲しい……気持ちは彼女だって同じなのだ。

「無料で作曲を頼める人がいないか、ネットで探してみるよ」
「……うん」

 おそらく無理だろう。ムシの良すぎる話だった。無名でも人気のある歌手ならいざ知らず、散々ネットで叩かれた莉莉亞の為に引き受けてくれる人が見つかるとは到底思えない。

 だが。
 救いの手は思いも寄らぬところから差し伸べられたのだった。


**  **  **  **  **  **


 オーディションに向けた準備やトレーニングを打ち合わせると二人は薮内のところへ顔を出した。

「こんにちは」
「おっ」

 扉を開けと挨拶すると、彼は顔をほころばせ二人を温かく迎え入れてくれた。

「いいところに来てくれた。相変わらず閑古鳥が鳴いてるもんでね。暇つぶしでお茶の相手が欲しかったんだ」

 そう言ってカウンセリングルームに案内すると紅茶を淹れ、ビスケットを皿に盛って二人に振舞ってくれた。

「姫様、歌の調子はどうだい?」

 おどけて水を向けると莉莉亞は「まぁまぁです」と、余裕たっぷりにウィンクした。苦しいことは互いに知っているが口にはしない。それが彼女にとってくすぐったくもあり、好ましかった。
 ラ・クロワにいた時は、見栄を張ったり自分を誇示する為に弱音を隠していた。周囲の誰もそれを気づいず、労わってもくれなかった。ただ一緒に頑張ろうと肩を叩かれ、無理に無理を重ねて高みだけを目指していた。
 今は、苦しみや悲しみを隠している時にそれを知っていて、「分かっているよ」という顔で微笑んでくれる人がいる。

「アツシくんに勧められて、今ラ・クロワのオーディションを受けようとしてるんです。先日、書類審査合格のお知らせが来て……」
「よかったね。じゃあ、今いろいろ準備やレッスン頑張ってるってところかな」
「はい!」

 頬を紅潮させ、莉莉亞はほとばしるように話し続ける。薮内は目を細め、ただ黙って話を聞いてくれた。

(ラ・クロワの仲間も、ファンも、お金もみんな失ってしまったのに……)

 だが、だからこそ這いつくばった地の上で知ったひとつひとつが、莉莉亞には何かとても愛おしく思えるのだった。
 そう感じたことも薮内とアツシには照れることなく話した。いま思ったことも、明日には記憶の中から消えてしまうかも知れない。その前に……
 薮内もアツシも、ただ黙って莉莉亞の思いを聞いてくれた。
 アツシは時折ティッシュで涙を拭き、鼻を噛んだ。莉莉亞はそのたびにアツシの肩に優しく触れた。
 歌を作ったと話した時、薮内は初めて口を開いた。

「僕にも見せてくれるかな」

 莉莉亞は微笑んでアツシを見る。アツシは頷くと小さなメモ帳を大切そうに渡した。薮内は静かにそれを開き、歌詞を読み始める。
 目を落とし、二度、三度と読み返す。

「……いい歌だ」

 しばらくして薮内の口が発したのは、静かで重みのある、短い賞賛だった。
 だが、莉莉亞が「ありがとうございます」と言う前に薮内は「歌うつもりだよね。曲は?」尋ねた。莉莉亞とアツシは困ったように顔を見合わせる。

「ネットで作曲してくれるボランティアを探そうと思ってます」

 アツシが応えると「もったいない」と、薮内は顔を横に振った。

「これは、適当に曲をつけてもいい類の歌じゃない」
「……」

 アツシが黙り込み、莉莉亞は下を向く。
 薮内は「お節介を焼いてもいいかな?」と身を乗り出した。曲作りに必要なお金に事欠いていることを既に察していたのだろう。

「僕のクリニックに診療という名目で遊びに来る品の良いお婆さんがいる」
「……はい」
「数年前まで小学校の先生をされていた。音楽のね」
「!」
「教師になる前は、とある有名な劇団にいて、解散するまで作詞や作曲を生業とされていたそうだ」

 二人は「あっ!」という顔を見合わせ、薮内はニヤリとした。

「このメモをお預かりしてもいいかな? 返す時にはちょっとしたプレゼントを付けるから」
「……ありがとうございます」

 莉莉亞はテーブルに頭を付けそうなほど深く頭を下げた。

「嬉しいけど……お礼出来るものはこの通り、なんにもありません」
「僕がこの歌を歌って欲しいからお節介するんだ。むしろ僕がお礼をしたいくらいだが」
「でもそんな訳には……」
「だったらさ」

 思わず口を挟んだのはアツシだった。

「莉莉亞が再デビューしたらヤブ先生の歌を歌って印税で払おうよ」

 次の瞬間、莉莉亞は「ええっ?」と驚愕し、薮内は「そりゃいいや!」と顔をほころばせ……三人はしばらく顔を見合わせると、同時に笑い出した。

 莉莉亞は「でもどんな歌を作ればいいの?」と頭を抱え、薮内は「それはデビューしてから悩もうよ」と再び笑った。

「あ、そうか」
「じゃあ、なおさらオーディション頑張らなきゃね」

 アツシが檄を飛ばし、莉莉亞は照れ笑いしながら頷いた。
 それは微笑ましい情景だったが、薮内の胸にふと、悲しい予感めいたものを感じた。
 今までの莉莉亞の話すことはラ・クロワ時代の思い出や早く復帰したいという焦慮ばかりだった。

(後輩や知り合いが次々とデビューしてゆく。光差す世界に羽ばたいてゆく。なのに私だけが……私だけがあそこへ飛び立てない。どうして? どうしてよ!)

 あの日鬼気迫る勢いで絶叫した莉莉亞が、今はまるで執着心ごと忘れてしまったように穏やかに笑って話している。彼女の口からラ・クロワの話も何度か出た。しかし、メンバーの名前を時折忘れてしまっていた。アツシがさりげなくフォローしてくれる。

「ええと、あのときラ・クロワの左サイドで歌っていたのは……」
「サワメグだろ。あ、莉莉亞が歌ってる側から見たら右になるんだっけ」
「アツシくん、いっそ莉莉亞と組んでお笑い芸人になる? ふふっ」

 薮内は「二人ともボケたら誰がツッコむんだい?」と笑いながら、自分の顔が我知らず強張ってゆくのを感じた。
 彼女から一番大切だったはずのラ・クロワの記憶すら抜け落ち始めている。
 彼女はこの先どうやって歌うつもりなのだろう……
 そんな薮内の懸念も知らぬ気に、やがて二人は暇を告げてクリニックを後にした。

「お邪魔しました」
「メモ、返すから連絡したらいつでも来てね」
「ヤブ先生、ありがとう」

 寄り添いあうように去ってゆく二人を見送ると、薮内はアツシにだけこっそりメールを送った。

『君やお姫様が、もし食事や寝る場所に困ったりすることがあったら遠慮なく相談してくれ』

 ピコンと鳴った着信音に気づいてスマホを見たアツシは、それを見てふっと笑った。横から莉莉亞が「どうしたの?」と顔を寄せてきたので「何でもない。スマホがバッテリーそろそろ充電しろって言ってる」と、ごまかした。言葉で返信するのが照れくさく、泣き笑いと感謝で頭を下げるアイコンでレスを返す。

「そうだ、アツシくん」

 偶然なのだろうが、まるでメールの内容を知っているように莉莉亞が話し掛けた。

「私、家賃滞納しちゃってるから来週にはアパート出なきゃいけないんだけど、それまでよかったらウチに泊まらない?」
「とんでもない!」

 アツシはまるで恐ろしいことでも聞いたように飛び上がり、首を振った。

「今の莉莉亞には一番の御法度じゃないか! 美槌烈音とワンナイトでスキャンダルになっちゃったのをまた繰り返すつもりかい?」
「あ、そ、そう……」

 莉莉亞は一瞬、キョトンとなった。自分がどうしてラ・クロワを追放されたのか、忘れてしまっていたのだ。
 思い返そうとしてももう、思い出せなかった。かすかに鈍い痛みを感じるだけだった。何か辛いことがあったらしい、とだけ……
 でも彼が言うからにはそうに違いないと、彼女はぎこちない笑みを浮かべ「そうでした。うっかりしてたわ」と取り繕った。

「気持ちだけありがたく受け取っておくよ。でも嬉しいな。莉莉亞にそんなこと言ってもらえるなんて!」

 何も気づかないアツシは顔をニヤけさせ、照れまくっている。今は残り少ないお金でネットカフェに寝泊まりしている身の上だったが、何も後悔していないようだった。
 莉莉亞は涙が出そうになった。こんなになっても笑顔で支えてくれるファンがいる自分は、もしかしたら日本中のどんなアイドルよりも幸せ者なのかも知れない。
 せめてそんな気持ちを彼に伝えたくて、莉莉亞はアツシにふわりと身を寄せた。
 その頬にそっと唇をつける。

「!」

 頬に残る柔らかな感触はアツシにとって初めて感じた、異性からの好意だった。
 ぼう然となって立ち尽くすアツシへ「じゃあ、おやすみ!」と言い残し、莉莉亞は走り去っていった。

「莉莉亞……」

 魂でも抜かれたような顔をしたアツシがハッと我に返った時、莉莉亞の姿は夜闇の向こうへ消え去った後だった。