「ヤブ先生!」
まるで飛び込んできたように薮内メンタルクリニックに笑顔で現れたその少女は、先日とは別人のようだった。
「お久しぶりです。お邪魔していいですか?」
「いいとも。よく来てくれたね!」
薮内は、いつもそうしているように両手を広げて大歓迎というポーズを取った。この間、話し合いが決裂して喧嘩別れのようになってしまった気まずさを感じさせないように笑顔で迎え入れ、ソファで寛ぐように勧める。
だが、紅茶を淹れたコップをテーブルに置いて薮内が何か言う前に莉莉亞は「先生、この間はごめんなさい」と、頭を下げた。
「藪医者なんて失礼なことを言ってしまって。でも何で怒っちゃったのかが何故か今はよく思い出せなくて……本当にごめんなさい」
「気にしてないよ。第一、カウンセラーなんて大抵ヤブ医者みたいなもんだし」
申し訳なさそうに謝る莉莉亞へそう言うと、薮内は哄笑した。
しかし心の中では、激昂した経緯を忘却してしまった、という告白から彼女の認知症がかなり進行していることを察した。
「実はヤブ先生に話したいことがいっぱいあって……」
「おお、ぜひぜひ聞かせてくれ」
照れくさそうに話し始めた莉莉亞へ薮内は優しい顔で頷きかける。もし出来るなら病院での診療をもう一度薦めようと思った。
だが……そんな莉莉亞の口から語られた話を聞くうちに彼は自身の表情が強張ってゆくのを感じた。動画投稿による再起活動と炎上、詐欺、ファンクラブの瓦解……
どれ一つとっても笑って聞けない、ショッキングな事件ばかりだった。
「大変だったね……」
そういうのが精いっぱいだった。
莉莉亞は静かに微笑む。
どきっとなった薮内は、初めて見る少女のように莉莉亞を凝視した。
(この娘はいつのまに、こんなあどけなく笑うようになったのだろう……)
それはどこか過酷な運命に抗うのを諦め、従容と受け入れたようにも思えて……
薮内の胸に不吉な予感がきざした。
「でもね、私大切なことに気がついたの。ラ・クロワにいた時にも気づけなかった大切なこと」
「……ほう、それは?」
莉莉亞の話し方は以前とは違っていた。いつもどこか追い立てられ焦っている自分を隠すように話していたのが、今は将来に希望を見出したように明るく弾んでいる。
何もかもなくしてしまったのに……
細い首が痛々しく、薮内は目をしばたいてごまかした。
「……そうか、そんなことを」
「ええ。それを気づかせてくれた先生にもちゃんとお礼を言いたくて」
「……」
胸が詰まり、思わず涙が出そうになって薮内は空咳をした。
「そうか、自分の歌をとうとう見つけたんだね。おめでとう」
笑顔のまま、薮内は唇を噛む。
希望を見出したこの少女に診療を勧めて絶望を突きつけるような真似など、もう、とても出来なかった。
薮内は強張った笑顔のまま、莉莉亞のこれからを励ました。
「きっといい歌が歌える。応援してるよ」
「ありがとうございます。そうだ、この間の診察料を払おうと思ってお金を持って来たんです」
そう言ってお金を取り出しかけた莉莉亞の手を薮内は止めた。
「もう受け取ってるよ」
「え?」
「君に付き添っていた平瀬君があの後来てね……」
不審そうに聞き返す莉莉亞へ、薮内は彼が一人で支払いに来たことを話して聞かせた。
莉莉亞は呆気にとられてそれを聞き、俯いて掠れたような声を絞り出した。
「じゃあこのお金、立て替えてくれた彼に返しますね」
「うん、それがいい」
うなずくと暇乞いを告げ、今から彼のアパートへお金を返しに行きますと莉莉亞は立ち上がった。
「それと、もうお金がないからここにも来れなくなると思います」
「お金は要らない。来てくれよ」
「そんな……それはいけないわ」
申し訳なさに莉莉亞の顔が歪んだ。
「じゃあお安くするよ。そんな顔をするんじゃない。莉莉亞ちゃん、さっき言ったろ? 僕はファンなんだ。遊びに来て何でも話してくれよ。相談ならいつでも乗るからさ」
小首を傾げて莉莉亞は微笑んだ。何かをこらえるとき首を少し傾げるのが彼女の癖だと薮内は知っていた。
「じゃあヤブ先生、また……」
そう言って去ってゆく莉莉亞を「またね」と、笑顔で見送った後、薮内はふと空を見上げた。
空は曇っていて、今にも雨が降りそうだった。
彼女は傘を持っているだろうかと振り向いたが、莉莉亞の姿は街の雑踏の中にもう消えていた……
** ** ** ** ** **
初めて訪れるアツシのアパートは下町の中にあった。莉莉亞のアパートよりももっと古く、昭和の建築といった佇まいだった。
部屋の扉に表札はなく、莉莉亞は遠慮がちにノックした。
扉は開かず、返事もない。扉の奥はシンと静まり返っている。留守なのだろうか……
首を傾げていると一番端の部屋から不機嫌そうな顔をした老人が現れ「平瀬さんはもういないよ」と告げた。
「いないって……」
「家賃が払えないって先月退去していったよ」
「えっ?」
老人はここの家主らしかった。引っ越し先を尋ねる莉莉亞へ「自分は知らない」と、つっけんどんに応えると扉を閉めてしまった。
(家賃が払えない……)
実は莉莉亞も同じだった。アツシへ返そうと今持っているお金を除けば、食費程度のお金しか残っていない。今月の家賃は滞納するしかなかった。
だが、アツシはそれ以上に困窮していて、このアパートも引き払っていたのだ。
莉莉亞はぼう然となった。
自分の為に大金を出資し、その上、詐欺被害に遭ったファン達の補償も彼は一人で背負い、家賃も払うことが出来なくなって……
(私の為に、なにもかも……)
胸が痛んだ。
今、どこにいるんだろう。住む場所はあるのだろうか……お腹を空かせていないだろうか……
彼女はそのまま街の中を捜し歩いた。
当てなどあるはずがない。その足取りは探すというより彷徨っているようにおぼつかないものだった。
ただ、そうせずにいられない程の思いだけが彼女を突き動かしていた。
「アツシくん……」
歩いているうちに曇っていた空から雨がポツリ、ポツリと降り始めた。
傘など持っておらず、それでも濡れるに任せて莉莉亞はふらつくように歩き続けた。道行く人が胡乱気な目つきで彼女を見たが、莉莉亞はそんなことなど気にもしなかった。
雨の中、ふと空を見上げる。
もしかしたら……
** ** ** ** ** **
その公園は、そぼ降る雨の中に沈んでいた。
木立も、ブランコも、滑り台も、ジャングルジムも、冷たいねずみ色に濡れそぼっている。
そんな光景に溶け込むように、雨宿りもせずに野外ステージの淵に肩を落として座り込んでいるひとつの影があった。
このままどうなってもいいとでも言うようにずぶ濡れのまま。その虚ろな視線は何も捉えていない。
雨が降り出してからどれくらいの時間が経ったのか……やがて彼の耳に芝生を踏んで近づいてくる足音が聞こえて来た。
この公園広場でいつもファンイベントを行っていた。行うたびに次第に人数は減っていったが、推しが復活する日を信じて皆を煽り、精一杯盛り上げた。
集まる者はもういない。一人も。
では、誰が……
視界にずぶ濡れの靴が映る。のろのろと顔を上げると、莉莉亞がいた。
地位も人気もお金も何もかも失った歌姫は、これ以上ないくらい悲しい笑みを浮かべ、ささやいた。
「たった一人残ってくれた私のファン。最後まで私を信じてくれてありがとう……」
アツシは唇を開いたが、言葉が出てこなかった。お金もなく、仲間だったファンももういない。支える術ははもう何もない。もうおしまいだ……そう彼は思った。
だが、莉莉亞の口から出てきたのは自分達の終わりを告げる言葉ではなかった。
「私、やっと見つけたの。私が本当に歌いたい歌……」
虚ろだったアツシの瞳が戸惑うように揺らぐ。莉莉亞は何を見つけたというのだろう……
「綺麗なだけの歌なんてもう歌いたくない。苦しい人や悲しい人と一緒に苦しんだり泣いてあげる歌を歌いたいの」
「……」
沈んでいたアツシの瞳がそのとき、ふいに大きく見開かれた。
(辛いことがあったの? いっぱいあったの?)
(じゃあ、私が応援してあげる。莉莉亞が貴方の推しになってあげる!)
あの日、辛くて泣いていた自分の手を取って慰めてくれた莉莉亞の姿がふいに脳裏に浮かんだのだ。
(そうだ、僕みたいに報われず、笑われてる誰かがいっぱいいる)
(みんな、きっと待ってる……僕たちの歌を誰かがいつか歌ってくれるのを……!)
「もう、誰も歌わせてくれないけど……」
顔を覆って莉莉亞は泣き出したが、アツシは「歌おうよ……歌えるよ! 莉莉亞ならきっと歌える!」と叫んで立ち上がった。
「アツシくん……?」
「失恋とか、学校や職場でのイジメとかで自暴自棄になっていた僕に言ってくれたのが莉莉亞だった。『私が君のファンになってあげる!』って。覚えてる?」
「ええ……」
「だから僕、今まで頑張って来れたんだよ!」
希望を見出したアツシの瞳に、それまでになかった輝きが宿っていた。
「莉莉亞、ラ・クロワのオーディションに出よう!」
「ええっ!?」
仰天した莉莉亞の手を取ったアツシは興奮して叫ぶ。
「ラ・クロワのステージからたくさんの人に聴かせてくれ! 今度は僕みたいな底辺が明日を生きるための歌を……」
「……」
「辛かったり寂しい人が、自分のことを分かってくれる人がいるって思う、そんな歌を……」
莉莉亞は、親に慈しまれぬ放置子へ「貴女の為に歌う」と約束したことを思い出した。
そうだ、彼女は今もきっと待っている。
彼女のように、励ましや慰めを求めている人がこの冷たい社会の中にきっと大勢いる。
歌いたい。
自分と同じように打ち捨てられ、光の差さぬ場所で顧みられない人達の為に……
「歌うわ。何のために歌うのか、誰のために歌うのか、こんなに落ちぶれて私やっと分かったの……」
「歌おう。莉莉亞ならきっと歌える。もう一度あのステージの上へ行こう!」
「うん……うん……」
莉莉亞は泣いた。挑んでみよう、もう一度自分を信じてみようと思いながら。
アツシは、濡れた自分の頬を袖で乱暴に拭うと莉莉亞の肩を抱き、叫んだ。
落ちぶれた歌姫。たった一人のファン。
光の差し込まぬ空の彼方へ、二人が抱いた想いを訴えるように。
「一人でもファンがいる限り、姫咲莉莉亞は終わらない!」
まるで飛び込んできたように薮内メンタルクリニックに笑顔で現れたその少女は、先日とは別人のようだった。
「お久しぶりです。お邪魔していいですか?」
「いいとも。よく来てくれたね!」
薮内は、いつもそうしているように両手を広げて大歓迎というポーズを取った。この間、話し合いが決裂して喧嘩別れのようになってしまった気まずさを感じさせないように笑顔で迎え入れ、ソファで寛ぐように勧める。
だが、紅茶を淹れたコップをテーブルに置いて薮内が何か言う前に莉莉亞は「先生、この間はごめんなさい」と、頭を下げた。
「藪医者なんて失礼なことを言ってしまって。でも何で怒っちゃったのかが何故か今はよく思い出せなくて……本当にごめんなさい」
「気にしてないよ。第一、カウンセラーなんて大抵ヤブ医者みたいなもんだし」
申し訳なさそうに謝る莉莉亞へそう言うと、薮内は哄笑した。
しかし心の中では、激昂した経緯を忘却してしまった、という告白から彼女の認知症がかなり進行していることを察した。
「実はヤブ先生に話したいことがいっぱいあって……」
「おお、ぜひぜひ聞かせてくれ」
照れくさそうに話し始めた莉莉亞へ薮内は優しい顔で頷きかける。もし出来るなら病院での診療をもう一度薦めようと思った。
だが……そんな莉莉亞の口から語られた話を聞くうちに彼は自身の表情が強張ってゆくのを感じた。動画投稿による再起活動と炎上、詐欺、ファンクラブの瓦解……
どれ一つとっても笑って聞けない、ショッキングな事件ばかりだった。
「大変だったね……」
そういうのが精いっぱいだった。
莉莉亞は静かに微笑む。
どきっとなった薮内は、初めて見る少女のように莉莉亞を凝視した。
(この娘はいつのまに、こんなあどけなく笑うようになったのだろう……)
それはどこか過酷な運命に抗うのを諦め、従容と受け入れたようにも思えて……
薮内の胸に不吉な予感がきざした。
「でもね、私大切なことに気がついたの。ラ・クロワにいた時にも気づけなかった大切なこと」
「……ほう、それは?」
莉莉亞の話し方は以前とは違っていた。いつもどこか追い立てられ焦っている自分を隠すように話していたのが、今は将来に希望を見出したように明るく弾んでいる。
何もかもなくしてしまったのに……
細い首が痛々しく、薮内は目をしばたいてごまかした。
「……そうか、そんなことを」
「ええ。それを気づかせてくれた先生にもちゃんとお礼を言いたくて」
「……」
胸が詰まり、思わず涙が出そうになって薮内は空咳をした。
「そうか、自分の歌をとうとう見つけたんだね。おめでとう」
笑顔のまま、薮内は唇を噛む。
希望を見出したこの少女に診療を勧めて絶望を突きつけるような真似など、もう、とても出来なかった。
薮内は強張った笑顔のまま、莉莉亞のこれからを励ました。
「きっといい歌が歌える。応援してるよ」
「ありがとうございます。そうだ、この間の診察料を払おうと思ってお金を持って来たんです」
そう言ってお金を取り出しかけた莉莉亞の手を薮内は止めた。
「もう受け取ってるよ」
「え?」
「君に付き添っていた平瀬君があの後来てね……」
不審そうに聞き返す莉莉亞へ、薮内は彼が一人で支払いに来たことを話して聞かせた。
莉莉亞は呆気にとられてそれを聞き、俯いて掠れたような声を絞り出した。
「じゃあこのお金、立て替えてくれた彼に返しますね」
「うん、それがいい」
うなずくと暇乞いを告げ、今から彼のアパートへお金を返しに行きますと莉莉亞は立ち上がった。
「それと、もうお金がないからここにも来れなくなると思います」
「お金は要らない。来てくれよ」
「そんな……それはいけないわ」
申し訳なさに莉莉亞の顔が歪んだ。
「じゃあお安くするよ。そんな顔をするんじゃない。莉莉亞ちゃん、さっき言ったろ? 僕はファンなんだ。遊びに来て何でも話してくれよ。相談ならいつでも乗るからさ」
小首を傾げて莉莉亞は微笑んだ。何かをこらえるとき首を少し傾げるのが彼女の癖だと薮内は知っていた。
「じゃあヤブ先生、また……」
そう言って去ってゆく莉莉亞を「またね」と、笑顔で見送った後、薮内はふと空を見上げた。
空は曇っていて、今にも雨が降りそうだった。
彼女は傘を持っているだろうかと振り向いたが、莉莉亞の姿は街の雑踏の中にもう消えていた……
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初めて訪れるアツシのアパートは下町の中にあった。莉莉亞のアパートよりももっと古く、昭和の建築といった佇まいだった。
部屋の扉に表札はなく、莉莉亞は遠慮がちにノックした。
扉は開かず、返事もない。扉の奥はシンと静まり返っている。留守なのだろうか……
首を傾げていると一番端の部屋から不機嫌そうな顔をした老人が現れ「平瀬さんはもういないよ」と告げた。
「いないって……」
「家賃が払えないって先月退去していったよ」
「えっ?」
老人はここの家主らしかった。引っ越し先を尋ねる莉莉亞へ「自分は知らない」と、つっけんどんに応えると扉を閉めてしまった。
(家賃が払えない……)
実は莉莉亞も同じだった。アツシへ返そうと今持っているお金を除けば、食費程度のお金しか残っていない。今月の家賃は滞納するしかなかった。
だが、アツシはそれ以上に困窮していて、このアパートも引き払っていたのだ。
莉莉亞はぼう然となった。
自分の為に大金を出資し、その上、詐欺被害に遭ったファン達の補償も彼は一人で背負い、家賃も払うことが出来なくなって……
(私の為に、なにもかも……)
胸が痛んだ。
今、どこにいるんだろう。住む場所はあるのだろうか……お腹を空かせていないだろうか……
彼女はそのまま街の中を捜し歩いた。
当てなどあるはずがない。その足取りは探すというより彷徨っているようにおぼつかないものだった。
ただ、そうせずにいられない程の思いだけが彼女を突き動かしていた。
「アツシくん……」
歩いているうちに曇っていた空から雨がポツリ、ポツリと降り始めた。
傘など持っておらず、それでも濡れるに任せて莉莉亞はふらつくように歩き続けた。道行く人が胡乱気な目つきで彼女を見たが、莉莉亞はそんなことなど気にもしなかった。
雨の中、ふと空を見上げる。
もしかしたら……
** ** ** ** ** **
その公園は、そぼ降る雨の中に沈んでいた。
木立も、ブランコも、滑り台も、ジャングルジムも、冷たいねずみ色に濡れそぼっている。
そんな光景に溶け込むように、雨宿りもせずに野外ステージの淵に肩を落として座り込んでいるひとつの影があった。
このままどうなってもいいとでも言うようにずぶ濡れのまま。その虚ろな視線は何も捉えていない。
雨が降り出してからどれくらいの時間が経ったのか……やがて彼の耳に芝生を踏んで近づいてくる足音が聞こえて来た。
この公園広場でいつもファンイベントを行っていた。行うたびに次第に人数は減っていったが、推しが復活する日を信じて皆を煽り、精一杯盛り上げた。
集まる者はもういない。一人も。
では、誰が……
視界にずぶ濡れの靴が映る。のろのろと顔を上げると、莉莉亞がいた。
地位も人気もお金も何もかも失った歌姫は、これ以上ないくらい悲しい笑みを浮かべ、ささやいた。
「たった一人残ってくれた私のファン。最後まで私を信じてくれてありがとう……」
アツシは唇を開いたが、言葉が出てこなかった。お金もなく、仲間だったファンももういない。支える術ははもう何もない。もうおしまいだ……そう彼は思った。
だが、莉莉亞の口から出てきたのは自分達の終わりを告げる言葉ではなかった。
「私、やっと見つけたの。私が本当に歌いたい歌……」
虚ろだったアツシの瞳が戸惑うように揺らぐ。莉莉亞は何を見つけたというのだろう……
「綺麗なだけの歌なんてもう歌いたくない。苦しい人や悲しい人と一緒に苦しんだり泣いてあげる歌を歌いたいの」
「……」
沈んでいたアツシの瞳がそのとき、ふいに大きく見開かれた。
(辛いことがあったの? いっぱいあったの?)
(じゃあ、私が応援してあげる。莉莉亞が貴方の推しになってあげる!)
あの日、辛くて泣いていた自分の手を取って慰めてくれた莉莉亞の姿がふいに脳裏に浮かんだのだ。
(そうだ、僕みたいに報われず、笑われてる誰かがいっぱいいる)
(みんな、きっと待ってる……僕たちの歌を誰かがいつか歌ってくれるのを……!)
「もう、誰も歌わせてくれないけど……」
顔を覆って莉莉亞は泣き出したが、アツシは「歌おうよ……歌えるよ! 莉莉亞ならきっと歌える!」と叫んで立ち上がった。
「アツシくん……?」
「失恋とか、学校や職場でのイジメとかで自暴自棄になっていた僕に言ってくれたのが莉莉亞だった。『私が君のファンになってあげる!』って。覚えてる?」
「ええ……」
「だから僕、今まで頑張って来れたんだよ!」
希望を見出したアツシの瞳に、それまでになかった輝きが宿っていた。
「莉莉亞、ラ・クロワのオーディションに出よう!」
「ええっ!?」
仰天した莉莉亞の手を取ったアツシは興奮して叫ぶ。
「ラ・クロワのステージからたくさんの人に聴かせてくれ! 今度は僕みたいな底辺が明日を生きるための歌を……」
「……」
「辛かったり寂しい人が、自分のことを分かってくれる人がいるって思う、そんな歌を……」
莉莉亞は、親に慈しまれぬ放置子へ「貴女の為に歌う」と約束したことを思い出した。
そうだ、彼女は今もきっと待っている。
彼女のように、励ましや慰めを求めている人がこの冷たい社会の中にきっと大勢いる。
歌いたい。
自分と同じように打ち捨てられ、光の差さぬ場所で顧みられない人達の為に……
「歌うわ。何のために歌うのか、誰のために歌うのか、こんなに落ちぶれて私やっと分かったの……」
「歌おう。莉莉亞ならきっと歌える。もう一度あのステージの上へ行こう!」
「うん……うん……」
莉莉亞は泣いた。挑んでみよう、もう一度自分を信じてみようと思いながら。
アツシは、濡れた自分の頬を袖で乱暴に拭うと莉莉亞の肩を抱き、叫んだ。
落ちぶれた歌姫。たった一人のファン。
光の差し込まぬ空の彼方へ、二人が抱いた想いを訴えるように。
「一人でもファンがいる限り、姫咲莉莉亞は終わらない!」


