バイエルンのノイシュヴァンシュタイン城をバーチャルで再現した美しい古城を背景に、歌の精霊達が歌いながら月光の下で戯れている。
……やがて歌い飽きた彼女たちはひとり、またひとりと舞いながら透き通って消えてゆく。
最後のひとりが明けてゆく夜を惜しむように消えた時、曲が終わり、朝の光が差し込んで映像もフェイドアウト。
月夜の中で精霊達の織りなした美しい歌の戯れは、こうして誰にも知られずに終わる。
それがラ・クロワの新曲「Act play of darkness」のプロモーション映像だった。
『ふつくしい……』
『やはりラ・クロワの正体は歌の精霊であったか』
『推しが神のしもべだったとは』
『……はやく生歌で聴きたい』
『スポットライトを浴びたら彼女たちマジで消えるんじゃないか心配になってきた』
『コンサートはまだか! 公式はよ!』
動画サイトには絶賛のコメントが洪水のように溢れ、一週間もしないうちに再生回数は一千万を越えそうな勢いだった。
押しつけ気味な過剰宣伝がマイナスイメージになることを懸念したプロダクションの意向でテレビやラジオの宣伝は控えめだったが、それが却って世間の興味を惹き、今まで発表した人気曲の記録をあっという間に塗り替えてしまった。
練習時やレコーディングの苦労が報いられたメンバーたちが歓喜したのは言うまでもない。
これからイベントなどが目白押しで忙しい日々が始まるだろう。今のうちに英気を養っておこうとプロダクションの控室で歌姫たちはここ数日ノンビリとくつろいでいた。
親友を捨てた痛みを心に秘めていたチクサも今はそれを忘れ、動画サイトのプロモーションにつけられたコメントをスマホで眺め、楽しんでいた。
無数のコメントの中には心ない誹謗もたまに紛れ込んでいたが、ほとんどが素敵な歌と映像に感動したという賞賛ばかりだった。イベントで直に聴きたいという熱望も山のように寄せられている。
(待っててね。もうすぐそのご期待に応えてコンサートがあるから!)
歌う者にとって、賛辞や共感の声のひとつひとつが金などでは買えない喜び、活力なのだ。
中には悪ノリして「チクサ、オレと結婚してくれ!」とプロポーズするファンがいた。もちろん本気ではないのだろうが別のファンがそれに便乗し「ばかやろう、チクサはオレの嫁だ!」とレスしていた。
ところがクスッと笑ったとき、誰かが「ばかやろう、チクサの嫁はこのオレだ!」とレスを付けた。
(ちょっと! 色々おかしいでしょ、それ!)
チクサが声を出して笑い出してたので「チクサ、どうしたの?」と、スマホの向こうからめぐみがにゅっと顔を出した。「サワメグ、これ見てよ」とスマホを渡すと、動画のコメント欄を見るや彼女もブフォ! と噴き出した。
「ま、あのプロモーションで一番映えてたのはチクサだからねぇ。推しから嫁に進化したファンが大勢いるでしょ」
「なんだかファンのみんながおかしくなっちゃいそうで怖い……」
「恐れるなチクサ、いっそ裏ラ・クロワとか結成しない? 変態化したファンの欲望を満たす電波ソングを歌うの!」
るぅなが悪ノリして言い出すと、普段はクールに抑える役のはずのナツメが「いいわね、それ」と、うなずいたのでチクサは目を丸くした。
「ナツメまで何言ってんの!?」
「いや、だって私たち、聖なる歌姫ってイメージでばっかり歌い続けてきたじゃない? そろそろ逆走のひとつもしてもいい頃だと思うの」
「おー! ナツメも賛成してくれたし、みんないっちょやってやろうじゃない!」
「まずはそうね……形から入ろう。みんなで髪をモヒカンにしてさぁ」
「そうなると衣装にトゲ付きの肩パッドが要るわね。会場には三輪バギーでヒャッハー! って絶叫しながら登場しなきゃ」
「イベントのラストは爆竹を抱えて観客席にダイブ! これでフィニッシュよ!」
気が狂ったとしか思えない数々の発言を真に受けたチクサが「みんな、私を置いてきぼりにして勝手にズンズンいかないでよぉ!」と悲鳴を上げると、メンバー達は腹を抱えてゲラゲラ笑った。
「チクサちゃんが泣きそうになってるから今回は止めとくかー」
「私、泣いてなんかないわよ!」
「まーホントにやったらプロデューサーにコロされそうだしねー」
「当たり前でしょサワメグ! 何考えてんの!」
「せっかくの新曲のイメージをブチ壊しちゃうしねー、あはは」
「もー、るぅなまでからかってー!」
壁に掛ったモニターではちょうど、プロモーション映像で最後に消える精霊役のチクサが明け始めた空の向こうを見て切なげな表情を浮かべ、消えてゆくところだった。
目の前で頬をプクッと膨らませて拗ねているの子供じみた少女とは思えないほど、モニターの中のチクサははかなげで美しかった。
(チクサちゃん、ここで何を思ったんだろう。凄く切ない顔してた……)
目を細めながらメンバーの誰もが思った。
彼女達は知らない。
撮影の際に「切なかったことを思い出して下さい」と指示されたチクサが、莉莉亞のことを思い浮かべたことを……
「わ、早くもウチらの真似をして歌ってる人がいるよ!」
「え、どれどれ? 見せて」
他の動画を眺めていたるぅなが叫び、メンバー達はそちらのスマホに集まった。チクサは横目で睨んでいるが、誰もわざと謝ろうとしない。
そのままワイワイ騒ぎ始めたので「もう……」と、フテ腐れたチクサはため息をついた。そうして何とはなしにスマホ画面に並んだ動画を眺めていたが、その中の一つを見てぎょっとなった。
それは……
『莉莉亞 再起動』
恐る恐る顔を上げる。メンバーの皆は、ラ・クロワのプロモーションを面白おかしく真似して歌っている素人の動画を見て笑い転げていた。
チクサは気づかれないよう、何気ない風を装って莉莉亞の自己紹介を見た。
「元・ラ・クロワの姫咲莉莉亞です。一年前、ファンを裏切ってしまい一度は芸能界を去りました。だけどやっぱり歌いたい……そんな気持ちを抑えきれず、また活動を再開しました。どうか、莉莉亞の歌をもう一度聴いて下さい」
まだ動画サイトを始めたばかりなのだろう、公開されている動画はひとつきりだった。その動画もひとりで収録し、ひとりで編集したようでお世辞にも上手と云えるようなものではなかった。
動画タイトルは『償い』。
チクサは震える手でコードレスイヤホンを耳に付けた。幸いなことに周囲のメンバーは誰も不審な目で見ていない。
曲が始まる。動画の舞台である廃墟の中で莉莉亞は静かに歌い始めた。ラ・クロワ時代のような、技巧を凝らしたものではない。
「I regret it. I want to apologize to you, but you've gone far away. My words can't reach you anymore.」
(後悔したの。貴方にせめてごめなさいって言いたかった。だけど貴方はもう遠く去ってしまった。私の言葉を届けることはもう出来ない)
「But even so, I still want to somehow convey these feelings. That's all I wish for.That's all I wanted to say.」
(だけど、それでもこの想いを何とかして届けたい。私の願いはそれだけ。ただそれだけなの)
それは、己の過ちを苦しみ、悔い、そして許してほしいという真情を訴えた懺悔の歌だった。
最初から終わりまで後悔と謝罪だけを乞うているような哀しい歌。チクサは自分が責められているようで苦しかった。
世間では今、甘ったるい恋愛を赤裸々に謡った溺愛ソングや社会の不条理を斜めに皮肉った歌が流行っている。プロダクションの後ろ盾を持たないアマチュア歌手は動画デビューする際は大抵それらのカバーソングからユーザーに取り入ろうとしている。反省や謝罪を訴えた後ろ向きの歌など、誰も好んで聴こうとはしない。
それでもそれを歌わずにはいられない莉莉亞の想いがチクサには痛いほど伝わっていた。
(莉莉亞……)
再生回数だけなら数千に達している。
無論、人気を博して得た数字ではなかった。評価は二桁に満たず、マイナス評価ばかりが三桁もついている。コメント欄は歌の批評ではなく「肉便器の自覚あんのかコイツ」「歌うよりしねばいいのに」……読むに堪えない悪評ばかり。誰も彼女の歌をまともに聴いてくれていない証拠だった。
(せめて、最後まで歌を聴いてくれたら、彼女の偽りのない気持ちを知ってくれる人が増えるかも知れないのに)
チクサは、出来るなら目の前で騒いでいるメンバー達に心を打つこの歌を聴かせてあげたかった。
(ねえ、莉莉亞を許してあげようよ。もう一度みんなでラ・クロワに迎えてあげよう
……)
だが、彼女を捨てた自分にはそれを言い出す資格はもうないのだ。
今さら言い出す勇気もなく……
チクサはテーブル上のボックスからティッシュを取ると、皆に隠れてこっそり涙を拭いた。
新しい曲には新しい賛辞がひっきりなしに寄せられている。
しかし、そんな賛美を見ても、チクサの心に喜びは二度と湧いてこなかった。
** ** ** ** ** **
大通りから外れた先にあるアーケード街。その端に「薮内メンタルクリニック」はある。元々はサテライトオフィス用に建てられた建物だったが一年後に倒産し、その後の契約先が見つからなかった為、安く購入出来た物件だった。室内は柔らかな乳白色にしてあり、心を病んで訪れる人を少しでも慰めるようにしつらえてあった。
そんなクリニックのオフィスから窓越しに薮内はぼんやりと通りの街路樹を眺めていた。
(良かれと思って言ったんだが……悪いことをしてしまった)
知らないまま苦しむよりはと敢えて厳しい現実を告げたが、悪手になってしまった。
莉莉亞はあれ以来姿を見せていない。こちらから電話を掛けるのは却って彼女を追い詰めるだけだろう。今は連絡を待つしかなかった。
ため息をついたとき、エントランスの開閉音がして彼は首を傾げた。この時間に予約はなかったはずだ。どこかの飛び込み営業だろうか。
不審に思ってドアを開けた彼は、小さく微笑んだ。
「こんにちは……」
あの日、莉莉亞に付き添っていた少年がおどおどした顔で佇んでいる。
「あの……この間の診察料金を払いに来ました。莉莉亞は動転して悪口を言って飛び出しちゃったけど、踏み倒したんじゃないんです。だから僕がお詫びと支払いに……」
「……」
薮内は彼の初対面の印象が正しかったことを確信した。
事前にアポイントを取る初歩的な礼儀も知らない少年が、しかしあの日の詫びという誠意でここまで訪ねて来た。
「平瀬くんだったね」
「は、はい」
「ちょうどコーヒーを飲もうとしてて、一人じゃ味気ないなと思ってたんだ。オジサン相手じゃ色気もないが、まぁ話し相手に付き合ってくれよ」
思わず破顔した彼にソファでくつろぐよう勧めると、薮内は接待用のカップを取り出した。
ドリップパックで淹れたコーヒーを二つテーブルの上に置くと、薮内も向かいのソファに腰を下ろす。
会話はなく、二人はしばらくの間、黙ってコーヒーを啜った。
「姫咲さんとは、その後連絡出来てるのかい?」
「……」
返答はない。力なくうなだれた姿がその応えだった。
「彼女、これからどうするんだろうね」
「わかりません。でも……」
うなだれていた身体が、ゆっくりと起き上がる。
それまで気弱そうだった少年の瞳に、決意のようなものが滲んでいるのを薮内は見た。
「これからも莉莉亞を推してゆきます」
「うん。でも色々厳しいと思うよ。正直、詰んでるって言っていいんじゃないか。だからこの間私は……」
「ええ、分かってます。だからこそ推すんです」
「……どこのプロダクションも拾ってくれない、オーディションに応募してもデビューさせてくれない、ネットでも誹謗中傷ばかり書かれている彼女を?」
「どこのプロダクションも拾ってくれない、オーディションに応募してもデビューさせてくれない、ネットでも誹謗中傷ばかり書かれている彼女を」
冷たい現実を知ってなお、盲信するようなファンの言葉に薮内は絶句した。
「何故、そこまでして……」
「僕には、彼女しかいないから」
その声にはまだ十代の少年らしからぬ、達観した響きがあった。聞かせてくれというように薮内が身を起こすと、アツシは語り始める。
「僕……高卒です。勉強があまり出来なかったから社会に認められるような学歴も資格もない。学校ではイジメられてばかりいました。顔だってこの程度だから恋も出来なかった」
「……」
「友達はいなかった。イジメられてるのを笑う奴しかいなかった。女の子なんて誰も口すら利いてくれなかった。卒業してもブラック会社にしか就職出来なかった。学校の延長でした。イジメらればかりで、毎日生きるのが辛くて辛くてたまらなかった」
おざなりな相打ちなど打てなかった。薮内は黙ったまま、目で彼に続きを促す。
「そんな時、莉莉亞に出会ったんです。背伸びしてラ・クロワのデビュー曲を懸命に歌う彼女に見惚れて……イベントで話すことが出来た時、彼女を励まそうと思ってたのに僕、何故か泣いてしまって。涙が止まらなくて。そしたら莉莉亞が」
その時のことを思い出したのだろう。アツシの声が裏返った。
「『辛いことがあったの? いっぱいあったの?』って。僕が泣きじゃくりながら頷いたら『じゃあ、私が応援してあげる。莉莉亞が貴方の推しになってあげる!』って……」
照れくさそうに笑うとアツシは乱暴に袖で顔の涙を拭った。
「その時から決めたんです。どんなことがあっても彼女を一生推そうって」
薮内はただ憮然とした表情で「そうか」と、うなずくしかなかった。
心が痛んだ。
無数のファンを相手にするアイドルの単なるリップサービス。次のファンと話す時にはもう忘れ去られているであろう、刹那の誓約。
まだ十代だというのに将来への展望すらなく、そんなものを心の拠りどころにして生きてゆくしかない。なんて寂しい生き方なのだろう。この社会はいつのまに、弱者からひたすら搾取し、なのに生きる寄る辺すら与えないほど冷たくなってしまったのだろう。
薮内が思わず大きなため息をついたのをアツシは長居したせいと勘違いしたらしく「ぼ、僕そろそろお暇します……」と立ち上がった。
「また遊びに来てくれよ。今度はお菓子も買っとくからさ」
「いえ、そんな……」
「僕も莉莉亞推しなんだから遠慮しないでくれよ。あ、そうだ」
薮内は「メアド交換しようよ。オッサンと友達になろうぜ。な? 色々相談乗ってやるからさ、姫のこととか……」と、おどけてスマホを差し出した。
こうして減ってゆくばかりだった莉莉亞ファンが、ささやかに一名追加された。
薮内にしてみれば心配している莉莉亞の消息を彼を通じて知ることが出来る下心もあったが、それよりも辛い目に遭ってばかりの彼等へ何かしら力になってやりたいという想いがあった。
「じゃあまた来ます。莉莉亞から連絡があったらお知らせしますね」
「うん。あ、そうだ」
バツが悪そうに頭を下げて辞去しようとするアツシを薮内は呼び止めた。
「なぁ、さっき姫のことを『これからも莉莉亞を推してゆきます』って言ってたろ?」
「あ、はい」
薮内は首を横に振った。
「それはね、『推す』じゃない。『支える』って言うんだよ……」
** ** ** ** ** **
コンビニ店内に、扉の開くメロディー音が流れる。
そのメロディー音に合わせて「いらっしゃいませ~」と声を発した店長は、客の姿を見て思わず顔をしかめた。以前、発注ミスやらをやらかしたのでクビにした少女だったのだ。
さんざん迷惑を掛けておきながら……どれだけ面の皮が厚いんだか、とひそかに毒づきながら彼は、心ここにあらずといった挙動不審の彼女に目を向けた。
(まさかクビにされた腹いせに万引きでもするんじゃないだろうな)
だがそんな挙動はなく、ドリンクコーナーでお茶を手にして彼女はレジへとやって来た。どこか疲れたような、ぼんやりした顔をしている。もちろん、だからと言って同情する気にはなれなかった。
「おい、お前よくここに平気な顔して来れるな」
会計しながら思わずそう皮肉らずにいられなかったが、彼女は「ヒッ!」と、驚いて飛びのいた。
「何言ってんですか! お金ならちゃんとそこに渡してたじゃないですか!」
「お金って、お前この店で何やったか……」
ムッとして言い返しかけた店長は「おや?」という顔で彼女を覗き込んだ。
後ろめたい顔をしていない。まるで初対面の男に脅迫されているような心底怯えた顔をしている。
「まさか……分かんないのかよ? この店でお前が何したか……」
「だから何言ってんですか! あなたのことなんか知らない。このお店来るのだって初めてなのに!」
身体を震わせて叫んだ莉莉亞は、じりじり後ずさると、「なにこの店、気味が悪い!」と、そのまま脱兎のごとく店から飛び出していった。
ポカンとしてその姿を見送った店長は、しばらくして「は? アイツ何言ってんだ……」と、頭を振った。目の前にはレジ台に彼女が置いた小銭と渡しそびれたペットボトル。
多少の罪悪感を感じてため息をついた彼は、莉莉亞が自分のことも店のことも本当に何も憶えていなかった様子を思い出した。
真顔で「まさかな」と、自動ドアの向こうを見やる。
「本当に……覚えてなかったのか?」
……やがて歌い飽きた彼女たちはひとり、またひとりと舞いながら透き通って消えてゆく。
最後のひとりが明けてゆく夜を惜しむように消えた時、曲が終わり、朝の光が差し込んで映像もフェイドアウト。
月夜の中で精霊達の織りなした美しい歌の戯れは、こうして誰にも知られずに終わる。
それがラ・クロワの新曲「Act play of darkness」のプロモーション映像だった。
『ふつくしい……』
『やはりラ・クロワの正体は歌の精霊であったか』
『推しが神のしもべだったとは』
『……はやく生歌で聴きたい』
『スポットライトを浴びたら彼女たちマジで消えるんじゃないか心配になってきた』
『コンサートはまだか! 公式はよ!』
動画サイトには絶賛のコメントが洪水のように溢れ、一週間もしないうちに再生回数は一千万を越えそうな勢いだった。
押しつけ気味な過剰宣伝がマイナスイメージになることを懸念したプロダクションの意向でテレビやラジオの宣伝は控えめだったが、それが却って世間の興味を惹き、今まで発表した人気曲の記録をあっという間に塗り替えてしまった。
練習時やレコーディングの苦労が報いられたメンバーたちが歓喜したのは言うまでもない。
これからイベントなどが目白押しで忙しい日々が始まるだろう。今のうちに英気を養っておこうとプロダクションの控室で歌姫たちはここ数日ノンビリとくつろいでいた。
親友を捨てた痛みを心に秘めていたチクサも今はそれを忘れ、動画サイトのプロモーションにつけられたコメントをスマホで眺め、楽しんでいた。
無数のコメントの中には心ない誹謗もたまに紛れ込んでいたが、ほとんどが素敵な歌と映像に感動したという賞賛ばかりだった。イベントで直に聴きたいという熱望も山のように寄せられている。
(待っててね。もうすぐそのご期待に応えてコンサートがあるから!)
歌う者にとって、賛辞や共感の声のひとつひとつが金などでは買えない喜び、活力なのだ。
中には悪ノリして「チクサ、オレと結婚してくれ!」とプロポーズするファンがいた。もちろん本気ではないのだろうが別のファンがそれに便乗し「ばかやろう、チクサはオレの嫁だ!」とレスしていた。
ところがクスッと笑ったとき、誰かが「ばかやろう、チクサの嫁はこのオレだ!」とレスを付けた。
(ちょっと! 色々おかしいでしょ、それ!)
チクサが声を出して笑い出してたので「チクサ、どうしたの?」と、スマホの向こうからめぐみがにゅっと顔を出した。「サワメグ、これ見てよ」とスマホを渡すと、動画のコメント欄を見るや彼女もブフォ! と噴き出した。
「ま、あのプロモーションで一番映えてたのはチクサだからねぇ。推しから嫁に進化したファンが大勢いるでしょ」
「なんだかファンのみんながおかしくなっちゃいそうで怖い……」
「恐れるなチクサ、いっそ裏ラ・クロワとか結成しない? 変態化したファンの欲望を満たす電波ソングを歌うの!」
るぅなが悪ノリして言い出すと、普段はクールに抑える役のはずのナツメが「いいわね、それ」と、うなずいたのでチクサは目を丸くした。
「ナツメまで何言ってんの!?」
「いや、だって私たち、聖なる歌姫ってイメージでばっかり歌い続けてきたじゃない? そろそろ逆走のひとつもしてもいい頃だと思うの」
「おー! ナツメも賛成してくれたし、みんないっちょやってやろうじゃない!」
「まずはそうね……形から入ろう。みんなで髪をモヒカンにしてさぁ」
「そうなると衣装にトゲ付きの肩パッドが要るわね。会場には三輪バギーでヒャッハー! って絶叫しながら登場しなきゃ」
「イベントのラストは爆竹を抱えて観客席にダイブ! これでフィニッシュよ!」
気が狂ったとしか思えない数々の発言を真に受けたチクサが「みんな、私を置いてきぼりにして勝手にズンズンいかないでよぉ!」と悲鳴を上げると、メンバー達は腹を抱えてゲラゲラ笑った。
「チクサちゃんが泣きそうになってるから今回は止めとくかー」
「私、泣いてなんかないわよ!」
「まーホントにやったらプロデューサーにコロされそうだしねー」
「当たり前でしょサワメグ! 何考えてんの!」
「せっかくの新曲のイメージをブチ壊しちゃうしねー、あはは」
「もー、るぅなまでからかってー!」
壁に掛ったモニターではちょうど、プロモーション映像で最後に消える精霊役のチクサが明け始めた空の向こうを見て切なげな表情を浮かべ、消えてゆくところだった。
目の前で頬をプクッと膨らませて拗ねているの子供じみた少女とは思えないほど、モニターの中のチクサははかなげで美しかった。
(チクサちゃん、ここで何を思ったんだろう。凄く切ない顔してた……)
目を細めながらメンバーの誰もが思った。
彼女達は知らない。
撮影の際に「切なかったことを思い出して下さい」と指示されたチクサが、莉莉亞のことを思い浮かべたことを……
「わ、早くもウチらの真似をして歌ってる人がいるよ!」
「え、どれどれ? 見せて」
他の動画を眺めていたるぅなが叫び、メンバー達はそちらのスマホに集まった。チクサは横目で睨んでいるが、誰もわざと謝ろうとしない。
そのままワイワイ騒ぎ始めたので「もう……」と、フテ腐れたチクサはため息をついた。そうして何とはなしにスマホ画面に並んだ動画を眺めていたが、その中の一つを見てぎょっとなった。
それは……
『莉莉亞 再起動』
恐る恐る顔を上げる。メンバーの皆は、ラ・クロワのプロモーションを面白おかしく真似して歌っている素人の動画を見て笑い転げていた。
チクサは気づかれないよう、何気ない風を装って莉莉亞の自己紹介を見た。
「元・ラ・クロワの姫咲莉莉亞です。一年前、ファンを裏切ってしまい一度は芸能界を去りました。だけどやっぱり歌いたい……そんな気持ちを抑えきれず、また活動を再開しました。どうか、莉莉亞の歌をもう一度聴いて下さい」
まだ動画サイトを始めたばかりなのだろう、公開されている動画はひとつきりだった。その動画もひとりで収録し、ひとりで編集したようでお世辞にも上手と云えるようなものではなかった。
動画タイトルは『償い』。
チクサは震える手でコードレスイヤホンを耳に付けた。幸いなことに周囲のメンバーは誰も不審な目で見ていない。
曲が始まる。動画の舞台である廃墟の中で莉莉亞は静かに歌い始めた。ラ・クロワ時代のような、技巧を凝らしたものではない。
「I regret it. I want to apologize to you, but you've gone far away. My words can't reach you anymore.」
(後悔したの。貴方にせめてごめなさいって言いたかった。だけど貴方はもう遠く去ってしまった。私の言葉を届けることはもう出来ない)
「But even so, I still want to somehow convey these feelings. That's all I wish for.That's all I wanted to say.」
(だけど、それでもこの想いを何とかして届けたい。私の願いはそれだけ。ただそれだけなの)
それは、己の過ちを苦しみ、悔い、そして許してほしいという真情を訴えた懺悔の歌だった。
最初から終わりまで後悔と謝罪だけを乞うているような哀しい歌。チクサは自分が責められているようで苦しかった。
世間では今、甘ったるい恋愛を赤裸々に謡った溺愛ソングや社会の不条理を斜めに皮肉った歌が流行っている。プロダクションの後ろ盾を持たないアマチュア歌手は動画デビューする際は大抵それらのカバーソングからユーザーに取り入ろうとしている。反省や謝罪を訴えた後ろ向きの歌など、誰も好んで聴こうとはしない。
それでもそれを歌わずにはいられない莉莉亞の想いがチクサには痛いほど伝わっていた。
(莉莉亞……)
再生回数だけなら数千に達している。
無論、人気を博して得た数字ではなかった。評価は二桁に満たず、マイナス評価ばかりが三桁もついている。コメント欄は歌の批評ではなく「肉便器の自覚あんのかコイツ」「歌うよりしねばいいのに」……読むに堪えない悪評ばかり。誰も彼女の歌をまともに聴いてくれていない証拠だった。
(せめて、最後まで歌を聴いてくれたら、彼女の偽りのない気持ちを知ってくれる人が増えるかも知れないのに)
チクサは、出来るなら目の前で騒いでいるメンバー達に心を打つこの歌を聴かせてあげたかった。
(ねえ、莉莉亞を許してあげようよ。もう一度みんなでラ・クロワに迎えてあげよう
……)
だが、彼女を捨てた自分にはそれを言い出す資格はもうないのだ。
今さら言い出す勇気もなく……
チクサはテーブル上のボックスからティッシュを取ると、皆に隠れてこっそり涙を拭いた。
新しい曲には新しい賛辞がひっきりなしに寄せられている。
しかし、そんな賛美を見ても、チクサの心に喜びは二度と湧いてこなかった。
** ** ** ** ** **
大通りから外れた先にあるアーケード街。その端に「薮内メンタルクリニック」はある。元々はサテライトオフィス用に建てられた建物だったが一年後に倒産し、その後の契約先が見つからなかった為、安く購入出来た物件だった。室内は柔らかな乳白色にしてあり、心を病んで訪れる人を少しでも慰めるようにしつらえてあった。
そんなクリニックのオフィスから窓越しに薮内はぼんやりと通りの街路樹を眺めていた。
(良かれと思って言ったんだが……悪いことをしてしまった)
知らないまま苦しむよりはと敢えて厳しい現実を告げたが、悪手になってしまった。
莉莉亞はあれ以来姿を見せていない。こちらから電話を掛けるのは却って彼女を追い詰めるだけだろう。今は連絡を待つしかなかった。
ため息をついたとき、エントランスの開閉音がして彼は首を傾げた。この時間に予約はなかったはずだ。どこかの飛び込み営業だろうか。
不審に思ってドアを開けた彼は、小さく微笑んだ。
「こんにちは……」
あの日、莉莉亞に付き添っていた少年がおどおどした顔で佇んでいる。
「あの……この間の診察料金を払いに来ました。莉莉亞は動転して悪口を言って飛び出しちゃったけど、踏み倒したんじゃないんです。だから僕がお詫びと支払いに……」
「……」
薮内は彼の初対面の印象が正しかったことを確信した。
事前にアポイントを取る初歩的な礼儀も知らない少年が、しかしあの日の詫びという誠意でここまで訪ねて来た。
「平瀬くんだったね」
「は、はい」
「ちょうどコーヒーを飲もうとしてて、一人じゃ味気ないなと思ってたんだ。オジサン相手じゃ色気もないが、まぁ話し相手に付き合ってくれよ」
思わず破顔した彼にソファでくつろぐよう勧めると、薮内は接待用のカップを取り出した。
ドリップパックで淹れたコーヒーを二つテーブルの上に置くと、薮内も向かいのソファに腰を下ろす。
会話はなく、二人はしばらくの間、黙ってコーヒーを啜った。
「姫咲さんとは、その後連絡出来てるのかい?」
「……」
返答はない。力なくうなだれた姿がその応えだった。
「彼女、これからどうするんだろうね」
「わかりません。でも……」
うなだれていた身体が、ゆっくりと起き上がる。
それまで気弱そうだった少年の瞳に、決意のようなものが滲んでいるのを薮内は見た。
「これからも莉莉亞を推してゆきます」
「うん。でも色々厳しいと思うよ。正直、詰んでるって言っていいんじゃないか。だからこの間私は……」
「ええ、分かってます。だからこそ推すんです」
「……どこのプロダクションも拾ってくれない、オーディションに応募してもデビューさせてくれない、ネットでも誹謗中傷ばかり書かれている彼女を?」
「どこのプロダクションも拾ってくれない、オーディションに応募してもデビューさせてくれない、ネットでも誹謗中傷ばかり書かれている彼女を」
冷たい現実を知ってなお、盲信するようなファンの言葉に薮内は絶句した。
「何故、そこまでして……」
「僕には、彼女しかいないから」
その声にはまだ十代の少年らしからぬ、達観した響きがあった。聞かせてくれというように薮内が身を起こすと、アツシは語り始める。
「僕……高卒です。勉強があまり出来なかったから社会に認められるような学歴も資格もない。学校ではイジメられてばかりいました。顔だってこの程度だから恋も出来なかった」
「……」
「友達はいなかった。イジメられてるのを笑う奴しかいなかった。女の子なんて誰も口すら利いてくれなかった。卒業してもブラック会社にしか就職出来なかった。学校の延長でした。イジメらればかりで、毎日生きるのが辛くて辛くてたまらなかった」
おざなりな相打ちなど打てなかった。薮内は黙ったまま、目で彼に続きを促す。
「そんな時、莉莉亞に出会ったんです。背伸びしてラ・クロワのデビュー曲を懸命に歌う彼女に見惚れて……イベントで話すことが出来た時、彼女を励まそうと思ってたのに僕、何故か泣いてしまって。涙が止まらなくて。そしたら莉莉亞が」
その時のことを思い出したのだろう。アツシの声が裏返った。
「『辛いことがあったの? いっぱいあったの?』って。僕が泣きじゃくりながら頷いたら『じゃあ、私が応援してあげる。莉莉亞が貴方の推しになってあげる!』って……」
照れくさそうに笑うとアツシは乱暴に袖で顔の涙を拭った。
「その時から決めたんです。どんなことがあっても彼女を一生推そうって」
薮内はただ憮然とした表情で「そうか」と、うなずくしかなかった。
心が痛んだ。
無数のファンを相手にするアイドルの単なるリップサービス。次のファンと話す時にはもう忘れ去られているであろう、刹那の誓約。
まだ十代だというのに将来への展望すらなく、そんなものを心の拠りどころにして生きてゆくしかない。なんて寂しい生き方なのだろう。この社会はいつのまに、弱者からひたすら搾取し、なのに生きる寄る辺すら与えないほど冷たくなってしまったのだろう。
薮内が思わず大きなため息をついたのをアツシは長居したせいと勘違いしたらしく「ぼ、僕そろそろお暇します……」と立ち上がった。
「また遊びに来てくれよ。今度はお菓子も買っとくからさ」
「いえ、そんな……」
「僕も莉莉亞推しなんだから遠慮しないでくれよ。あ、そうだ」
薮内は「メアド交換しようよ。オッサンと友達になろうぜ。な? 色々相談乗ってやるからさ、姫のこととか……」と、おどけてスマホを差し出した。
こうして減ってゆくばかりだった莉莉亞ファンが、ささやかに一名追加された。
薮内にしてみれば心配している莉莉亞の消息を彼を通じて知ることが出来る下心もあったが、それよりも辛い目に遭ってばかりの彼等へ何かしら力になってやりたいという想いがあった。
「じゃあまた来ます。莉莉亞から連絡があったらお知らせしますね」
「うん。あ、そうだ」
バツが悪そうに頭を下げて辞去しようとするアツシを薮内は呼び止めた。
「なぁ、さっき姫のことを『これからも莉莉亞を推してゆきます』って言ってたろ?」
「あ、はい」
薮内は首を横に振った。
「それはね、『推す』じゃない。『支える』って言うんだよ……」
** ** ** ** ** **
コンビニ店内に、扉の開くメロディー音が流れる。
そのメロディー音に合わせて「いらっしゃいませ~」と声を発した店長は、客の姿を見て思わず顔をしかめた。以前、発注ミスやらをやらかしたのでクビにした少女だったのだ。
さんざん迷惑を掛けておきながら……どれだけ面の皮が厚いんだか、とひそかに毒づきながら彼は、心ここにあらずといった挙動不審の彼女に目を向けた。
(まさかクビにされた腹いせに万引きでもするんじゃないだろうな)
だがそんな挙動はなく、ドリンクコーナーでお茶を手にして彼女はレジへとやって来た。どこか疲れたような、ぼんやりした顔をしている。もちろん、だからと言って同情する気にはなれなかった。
「おい、お前よくここに平気な顔して来れるな」
会計しながら思わずそう皮肉らずにいられなかったが、彼女は「ヒッ!」と、驚いて飛びのいた。
「何言ってんですか! お金ならちゃんとそこに渡してたじゃないですか!」
「お金って、お前この店で何やったか……」
ムッとして言い返しかけた店長は「おや?」という顔で彼女を覗き込んだ。
後ろめたい顔をしていない。まるで初対面の男に脅迫されているような心底怯えた顔をしている。
「まさか……分かんないのかよ? この店でお前が何したか……」
「だから何言ってんですか! あなたのことなんか知らない。このお店来るのだって初めてなのに!」
身体を震わせて叫んだ莉莉亞は、じりじり後ずさると、「なにこの店、気味が悪い!」と、そのまま脱兎のごとく店から飛び出していった。
ポカンとしてその姿を見送った店長は、しばらくして「は? アイツ何言ってんだ……」と、頭を振った。目の前にはレジ台に彼女が置いた小銭と渡しそびれたペットボトル。
多少の罪悪感を感じてため息をついた彼は、莉莉亞が自分のことも店のことも本当に何も憶えていなかった様子を思い出した。
真顔で「まさかな」と、自動ドアの向こうを見やる。
「本当に……覚えてなかったのか?」


