「ステージ開始まで一五分です」

 ライブステージの控室で待機していたラ・クロワのメンバー達は、スタッフの声に顔を見合わせた。

「そろそろだね。みんな、準備はいい?」

 緊張こそしているが、過度に張り詰めてなどいない。武道館すら経験している歌姫達なのだ。
 とはいえ、気を抜いた歌とパフォーマンスなど、ラ・クロワには絶対に許されない。
 茱萸木るぅなは発声を練習し、騎条ナツメは静かに深呼吸した。黒澤めぐみは小さな声でイベントオープニングの歌を口ずさむ。それぞれが見つけたウォーミングアップ方法だった。
 チクサはそんな彼女達の姿を静かに見つめるが、その表情は浮かなかった。

「……」

 親身に世話してくれていた成河マネージャーはもういない。そして誰もそれを口にしない。
 あの日以来、チクサはそれがずっと心の中でわだかまっていた。彼女を見捨ててしまったのに、それから目を背けて……
 だが、彼女もそれを口にする勇気がなかった。あの冷酷なプロデューサーの意向に盾突けばどんなことになるかと思うと怖かったのだ。
 自分たちはこれから、そんな怯儒や後ろめたさを抱え、プロデューサーの圧におびえながら歌い続けるしかないのだろうか。

「……」

 思わずため息をついたとき、スマホがピコンとメールの着信音を鳴らした。
 誰だろう。マネージャー代行の都賀崎もラ・クロワのメンバーも全員がこの会場にいるのに。
 そう思って発信元を見たチクサはハッとなった。

(莉莉亞……!)

 いつもはメンバーに隠れてこっそりチクサのメールを見るのだが、尋常でない気配を感じてチクサは思わずスマホの画面を開いて見てしまった。
 そして、必死に懇願する彼女の言葉を見て狼狽えた。

『みんなと一緒にもう一度歌いたい! なんでもするから。ラ・クロワに戻りたい。みんなに会って謝りたい……チクサ、お願い……』

(莉莉亞……)

 文面から助けてという彼女の叫びが聞こえてきそうだった。
 チクサが思わず返信しようとした時、頭上から手が伸びて彼女のスマホを取り上げた。

「あっ」

 いつのまにか自分の背後にいたナツメが、莉莉亞のメッセージを見つけたのだ。
 真っ青な顔のチクサへ厳しい目が向けられる。

「ナツメなにしてんの、友達だからって人のスマホを勝手に覗いたり取ったりしたら駄目だよ」

 何も知らずに窘めた茱萸木るぅなへ、ナツメは無言のままチクサのスマホを手渡した。異様な空気を感じ取り何事かと近寄っためぐみと一緒に、るぅなはスマホを見る。
 見るなり二人は顔色を変えた。

「『ラ・クロワに戻りたい』……」
「莉莉亞……」

 居たたまれなくなったチクサは下を向いた。

「チクサ。莉莉亞と繋がっていたのね」

 問いただすナツメの声は冷たく、どこかプロデューサーに似ていた。
 怯えたチクサは必死に声を絞り出し、弁明する。

「返信はしてない……一度もしてないから!」
「その言い訳、あのプロデューサーに通じると思う?」
「それは……」

 テーブルの上に、スマホが叩きつけられるように置かれた。まるで悪事でも暴かれたように。
 うなだれるチクサを睨みつけるナツメへ取りなしようもなく、めぐみとるぅなはオロオロしながら非難した。

「チクサちゃん、莉莉亞とは二度と絶対に関わっちゃいけないって、あの日プロデューサーから言われたこと、忘れたの?」
「そうだよ、これがバレたらどうなるか……」
「で、でも……」

 チクサは言い返さずにいられなかった。

「一緒に歌って、泣いて、笑って、辛かったことも嬉しかったことも共にしてきたラ・クロワの仲間だよ! それを、あの日を境に赤の他人って切り捨てるなんて……」

 私、出来なかった……と、チクサは声を震わせる。

「チクサちゃん、今さらそんなこと言われても……」
「成河マネージャーのこともだよ! お世話をずっとしてくれたあの人をプロデューサーが怖いから私達、見捨てちゃったじゃない! なのに今も目を逸らして……」

 めぐみとるぅなは顔を見合わせ、黙って俯いた。
 だが、そんな二人を押しのけるようにナツメがチクサの前で仁王立ちになった。

「だから何? それが、私たちがいるこの世界(芸能界)なのよ」
「ナツメ……」
「私達が涙ひとつ見せずに莉莉亞を捨てたとでも思ってる? マネージャーがいなくなっても平気だったって思ってる?」
「……」
「だけど、ラ・クロワは捨てられた人達を助けることも振り返ることも許されない。私達は高みを目指して歩み続けることしか出来ないの」

 睨みつけるナツメの双眸は、しかし潤んでいた。
 涙をこらえて叱責する姿を正視出来ず視線を落とすと、その先にスマホの画面が映っていた。

『ラ・クロワに戻りたい。みんなに会って謝りたい……』

 チクサの心は激しく揺れた。莉莉亞はどんな気持ちでこのメール書いたのだろう。きっと縋るような思いで……
 彼女の過ちを許し、手を取り合うことはもう出来ないのだろうか。みんなでまたひとつになって歌うことが何故、出来ないのか。

(手を取り合い、助け合って生きてゆこう……そんな歌を歌っている私達が、何故それが出来ないの?)

 思い余ったチクサが訴えようとしたそのとき……

「ステージ開始まで、残り八分です。そろそろスタンバイお願いします」

 控室の向こうから何も知らないスタッフが声を掛けた。
 全員がハッとなる。
 ナツメはスマホを取り上げるとチクサに差し出し、静かに言った。

「あの娘に手を差し伸べるなら、あなたはもうガラスのくつははけない。莉莉亞を諦めて私達と一緒に高みを目指すか、彼女と一緒に堕ちてゆくか、選んで」

 もうすぐステージが始まる。
 突きつけられたものは大きく、なのに選択する為の時間はあまりに短かった。
 本来ならとっくに移動してステージ脇で待機しているはずの時間なのだ。
 チクサの心は千々に乱れた。
 過ぎてゆく一秒一秒がチクサを容赦なく追い詰める。
 メンバーは誰一人動かない。固唾を呑み、祈るような思いでチクサをじっと見つめていた。
 そして……

「……」

 うつむいたままチクサはのろのろと手を伸ばし、スマホを受け取った。
 震える手で登録されていた莉莉亞の電話番号、そしてメールアドレスを削除する。

(莉莉亞……)
(莉莉亞……ごめんなさい……!)

 心に焼けつくような痛みが走る。
 それは、泣きながら待っているであろうかつての友達から縋りつく手を振り払い、捨てた瞬間だった。
 自分達の側に来てくれたと知ったラ・クロワのメンバーはチクサを立たせ、抱き寄せる。

「うぇぇ、うぇぇぇん……」

 泣きじゃくるチクサの肩を「辛かったね……」と抱くナツメも大粒の涙をボロボロこぼしていた。

「チクサ、選んでくれてありがとう。私達、これからもずっと一緒だよ……」
「でも莉莉亞を……私、莉莉亞を……」
「もう言っちゃ駄目。私達は一緒に行くの。さ、ステージだよ」

 抱き合うようにしてよろよろと歩き出した二人をめぐみとるぅなが両脇から支える。
 待機しているスタッフが何事かと心配顔で覗き込むのをめぐみが目顔で止める。
 るぅなが咄嗟に「さっき、チクサの知り合いに不幸があったの」と取り繕った。

「今日は私とるぅなでセンターをやる。泣いてる二人はサイドで歌って」
「サワメグ……」
「何も言わないで。チクサはこっちを選んだ。もう引き返せないの。今は前だけを見て。たくさんのファンが私達を待ってるんだから」

 選ばれなかった莉莉亞はどうなるのだろう。チクサは思わず足を止め、振り返ろうとする。
 だが、その手を誰かが取り、彼女は引かれるまま導かれていった。

 自分が選んだ道。光差すステージに向かって……


**  **  **  **  **  **


「チクサ……チクサ……」

 殺風景なアパートの一室でじっと待つのは耐えられそうになかった。
 雑居ビルの非常階段で、莉莉亞は震える手にスマホを握りしめ、祈るような思いで待ち続けた。
 きっと返事が来ると信じて……

 人懐こい笑みでいつも自分を見ていてくれたチクサ。
 お人よしと揶揄われても、いつも照れたように笑っていた。スランプで思うように歌えなかった時は一緒に練習してくれた。プロデューサーに叱責された日は手を取って一緒に泣いてくれた。

(お願い)
(どうか私をラ・クロワの許へもう一度連れてって……)

 夜の街の片隅に佇む莉莉亞の耳に、街のざわめきが潮騒のようにかすかに聞こえてくる。そんな騒音だけが孤独を紛らわせてくれた。
 震えながら待った。ずっと……

 だけど。

 夜が更け、街のざわめきが静まり、そして朝が来ても……莉莉亞のスマホに返信は来なかったのだった。