目次/各話タイトル一覧:
巻頭資料
第一部 暁の名を持たぬ者(“白装束の鬼神”の記録より)
第二部 風は、まためぐる(高校一年生)
第三部 沈黙の呼吸、風のなかで(高校二年生)
第四部 名もなき戦、風に舞う(高校三年生)
第五部 暁のあと、君と生きる(あれからと、それから)
巻末資料
あとがき

第一部 暁の名を持たぬ者(“白装束の鬼神”の記録より)
■「あいつが剣を握った日」
 ――ある兄弟子の記録より
 
 最初に道場へ連れてこられた日のことを、今でもはっきり覚えている。
 その子は、まだ三つほどだったと思う。
 華奢で、着物の裾が床を引きずっていた。髪は肩の下まで伸びていて、顔は女の子と見まがうほど整っていた。
 なのに、その目だけが、子どもではなかった。
 まるで、ずっと昔から戦のなかを歩いてきたかのような――よく知った者の目をしていた。
 俺は十五。道場でもそこそこの腕前だったし、後輩の面倒を見るのも板についていた。
 けれど、あの子だけは違った。
 剣を渡す前から、俺は悟った。
“こいつは、俺よりずっと、剣のことを知っている”
 もちろん、そんなはずはない。
 だけど、あるのだ。そういう奴が、まれに。
 呼吸するように、刀を扱い、斬るという行為を“命の隣”として受け入れている者。
 静――そう名付けられたあの子は、初めて竹刀を握ったとき、ふっと微笑んだ。
 怖かったよ。その笑みが、あまりに穏やかで、あまりに正しいから。
“この子に斬られるなら本望だ”と、そう思わせるような、妙な気配を纏っていた。
 
 最初の稽古の日、師匠が冗談混じりに言った。
「お前がこの子の相手をしてやれ。小手打ちの感覚でも教えてやれ」
 俺は竹刀を軽く振りながら、「よし、優しくいくか」と笑った。
 静は「お願いします」と小さく頭を下げ、構えに入った。
 その一瞬で、空気が変わった。
 腕の力、重心の置き方、視線の位置。
 すべてが“初心者ではない”構えだった。
 俺が構え直す間もなく、静は踏み込んできた。
 竹刀が、俺の小手を正確に打ち抜いた。
 音が、道場に響いた。
 誰も言葉を発せなかった。
 俺も、笑えなかった。
 それは偶然でも、ただの運でもない。
“斬る”ことを知っている人間の、刃の入り方だった。
 師匠だけが、静かに頷いていた。
「――こいつは、ずっと前から剣を知ってるんだな」とでも言いたげに。
 
 あの子が泣くところを、俺は一度しか見たことがない。
 それも、自分が打たれたときじゃない。
“自分が、初めて他人を倒した”ときだった。
 あれは道場の内々の試合だった。
 相手は、二つ年上の少年。力量は拮抗していたが、相手が少し気を抜いた隙に、静が面を決めた。
 相手は転び、竹刀を落とした。
 勝負が決まったあと、静は黙って佇んでいた。
 師匠が「よくやった」と声をかけても、返事はなかった。
 夜、道場の裏手で、俺は静が一人で泣いているのを見つけた。
 膝を抱えて、声を殺していた。
 子どもみたいにしゃくり上げながら、誰にも気づかれないように。
 声をかけると、静は慌てて顔を伏せた。
 けれど、俺は無理やり隣に座った。
「……勝ったのに、なんで泣く?」
 しばらく沈黙のあと、静はぽつりと呟いた。
「……僕の剣は、人を斬る。
だから、怖い。僕が、僕じゃなくなってしまいそうで」
 そのとき、俺は初めて、あの子が“誰よりも人を斬ることを怖れている”ことを知った。
 だからこそ、誰よりも正しく斬れる。
 だからこそ、誰よりも真っすぐに剣を振るう。
 ――あいつは、剣に選ばれたんじゃない。
 剣を“諦められなかった”んだ。
 
 時が経つにつれ、道場の者たちは皆、静を“神童”と呼ぶようになった。
 だが俺だけは、あいつの背中を見るたびに胸が痛くなった。
 小さな背中。
 けれど、そこには数多の死が染みついているように見えた。
 きっと、あいつ自身も気づいていたはずだ。
 自分が“生まれながらにして斬る側”であることを。
 なのに――優しかった。
 後輩の竹刀を直してやったり、膝を擦りむいた子に自分の手拭いを差し出したり。
 花を折った雀を、そっと木陰に埋めてやったり。
“人を斬れる者”の手で、そういうことをする。
 矛盾じゃない。
 あれは、あいつが“そうするしかなかった”生き方だった。
 きっと、戦場に出たあいつは、“修羅”だったろう。
 俺は直接は見ていない。
 けれど、風の噂で聞いた。
「ひとりで、百人の敵を斬り伏せた」
「顔に血を浴びても、まばたきひとつしなかった」
「その場にいた者全員が、泣くしかなかった」――と。
 でもな、それを“誇り”として語る者には、俺はこう言いたい。
“それが、どれだけ悲しいことか。
 あの静が、どんな顔で人を斬ったか、あんたらは知らない”
 
 最後に、あいつと会ったのは、出陣の朝だった。
 まだ陽が昇る前。
 道場の縁側で、あいつは竹刀を膝に抱いていた。
「もう、これは使わないんです」と静は言った。
「それは、捨てるってことか?」
「いいえ。――預けるだけです。
いつか戻ってきたら、僕が“剣を教えられる側”になりたいから」
 その言葉が、あいつの“未来への祈り”だったのだと、後になって気づいた。
 けれど、あの出陣から、静は戻らなかった。
 姿を消したまま、遺体も、剣も、何ひとつ見つかっていない。
 だから俺は、今も待っている。
 あの静が、どこかで“もう一度剣を握らない人生”を歩いてくれていると――
 それだけが、俺たち兄弟子の、ささやかな祈りだ。
 
(了)
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沖田静の幼少期に関する3つの視点記録

一.師範(剣の教え手)の視点より
『この子には、剣を教えられない』
 初めて会ったときのことは、よく覚えている。
 冬の始まり。霜が道場の板を白く染めた朝だった。
 門弟のひとりが、ひょろりとした子どもの手を引いてやってきた。
「拾ったわけじゃありませんが……」と、困ったような顔をしていたのを憶えている。
 その子――のちの沖田静は、こちらの目をまっすぐに見つめていた。
 年は、数えて三つにも届かないほどだったろう。
 けれどその目だけは、もう何百もの命を見送ってきたような色をしていた。
 私は剣を教える者として、悟ってしまった。
 この子には、教えることはできない――と。
 なぜなら、すでに「殺し方」を知っている目をしていた。
 理ではなく、魂に刻まれた何かが、彼をして“剣の使い手”たらしめていた。
 それでも私は稽古をつけた。技術や型は当然のように飲み込む。だが、彼の構えにはいつも“迷い”があった。
 打つことを恐れるのではなく、“斬らずに済む選択肢”を必死に探しているような、そんな構えだ。
 ある夜、静がひとり、木刀を抱えて泣いていた。
 気づかぬふりをしようと思ったが、声をかけた。
「打たねば、打たれるぞ」
 すると静は言った。
「……打ったとき、僕の中に“誰か”が目を覚ます気がして、怖い」
 教えるべきは、剣ではなく“人でいること”だったのかもしれない。
 あの子に必要だったのは、強さでも栄誉でもなく、“斬らずに済む未来”だった。
 私が教えたことの中で、あの子が最後に口にした感謝の言葉は、こうだった。
「先生が教えてくださった“礼”は、僕が“人”でいるために要るものです」
 それを今も、忘れられずにいる。
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二.静の世話をしていた女性(門弟の妻)の視点より
『手が、冷たくて優しい子』
 私の夫は道場の古株で、私も一時期道場の炊事や掃除を任されていた。
 剣に興味はなかったけれど、あの子――静くんのことは、別だった。
 最初に食卓に座らせたとき、ご飯を前に「いただきます」を三度も言ったのよ。
 しかも、ひとつひとつ違う方向に向かってね。
 聞けば、「命をくれたもの、育てた者、食べる自分に向かって」と。
 そんな子、いると思う?
 私はもう、それだけで泣きそうになった。
 ご飯のあとは必ず食器を洗いに来て、「今日もおいしくいただきました」と報告してくるの。
 私は思ったの、「この子は、“誰かに確かめてもらう”ために、生きてきたんじゃないかしら」って。
 ある日、指先を火傷したことがあったのよ。お湯を張っていた桶に手を突っ込んでしまって。
 私が慌てて冷やそうとしたら、静くんが自分の袖を裂いて包んで冷やしてくれたの。
 そして、こう言ったの。
「人の痛みを、忘れないようにしてる。誰かの痛みを覚えている限り、僕は人でいられる気がするから」
 その言葉が、何よりも痛かった。
 優しすぎる手を持った子だったわ。
 いつか、この子が“斬らずに愛される世界”で生きられる日が来るといい。
 そう願って、私はせっせと味噌汁を作っていたの。
 たとえ、どんなに短い生だったとしても――ね。
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三.幼馴染の少年(非剣士)視点より
『静は、空を切る音が似合ってた』
 俺は剣なんてやらなかった。
 でも、あの道場の近くに住んでいて、小さいころから静とは遊んでた。
“遊ぶ”っていっても、一緒に虫を追っかけたり、川で石飛ばしたり、そんな程度だ。
 静は、いつも静かで、笑うときだけ年相応になる子だった。
 だけど、一回だけ、本気で怒ったことがある。
 近所のガキが、雀の巣を壊してたときだった。
 あいつは何も言わず、ただ、その子の肩をそっと押さえて、
「羽が生える前に壊したら、飛べないでしょう」と言った。
 その一言が、なんか……怖くて。
 優しいのに、命令されてるみたいな気がした。
 それから、よく“空を斬る音”を聴かせてくれた。
「風が見えるんです」って言って、木刀で空を切るんだ。
 ほんとに、風の音が違うんだよ、あいつが振ると。
 俺は思ってた。
 この子は、どっか違うところから来たんだって。
 でも、たぶん、どこにも帰る場所がないんだなって。
 最後に会ったのは、夏の終わり。
「また空を切ってよ」って言ったら、静はこう言った。
「もうすぐ、“本物の風”を斬らなければならないんです。
……それは、戻れない風かもしれません」
 それきり、会えなかった。
 今も、風が強く吹いた日には思うよ。
 静がどこかでまだ、風を斬ってる気がしてさ。
 
(了)
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■戦にまつわる3つの記録
一.軍の上層部が静を見初めた瞬間の記録
『“あの子”が刀を振るった日』
記録担当官・某日記抜粋(非公開記録)
 道場試合を視察。
 目的は年少組の技術水準把握と、来春の徴用可能者の選定。
 会場にて、“沖田静”という少年の名前を耳にする。
 推定年齢十四、とのこと。年齢記録にしては若すぎる。
 構え、姿勢、歩み、すべてにおいて“間”が異質。
 技ではなく、戦に適した呼吸――明らかに剣を“言語化”できる才を持つ。
 一戦目にて、相手の動きが読まれた。
 二合、三合交わさず、一撃にて面を決めた。
 打突音、風圧、周囲の息が止まる。
 主将格が席を立ち、「あの子を、使えるか」と問う。
 私は答えられなかった。
“使える”かどうかではなく、“使ってはいけない”と、本能で思った。
 あれは、剣を振るうたびに何かを削って生きている。
 あれを戦場に出せば、勝つだろう。
 だが――人の心を持って戻ってくるとは思えなかった。
 結果:上申され、二ヶ月後に軍属候補へ昇格。
 
(記録了)
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二.敵軍の斥候が見た“幼き鬼神”の目撃談
『あの目を、もう一度見るなら、俺は死んだ方がマシだ』
回想:斥候兵リュウ(戦後、故郷にて口述)
 俺はただの斥候だった。
 潜り込んだ先の村が、ちょうど“制圧訓練”の標的になってて、逃げ遅れた。
 火の手が上がってた。女も子どもも泣いてた。
 仲間が数人、村を囲んでて、俺は“もう終わりだ”って思ってた。
 そこに、風が吹いた。
 本当に、ただの風だった。
 でも、次の瞬間、仲間の首が“ない”ことに気づいた。
 誰も声を上げなかった。
 血が跳ねる音すらしなかった。
 あいつは、風のように通り抜けていった。
 子どもだった。
 着物が揺れてた。束ねた髪が肩にかかってた。
 でも、目だけが……人間の目じゃなかった。
 無感情? いや、もっと静かだった。
“これは正しいことです”って顔で、斬っていた。
 俺は逃げた。情けないけど、それしかできなかった。
 戦が終わった後、仲間に訊いたよ。
「あの子は誰だ?」って。
 みんな口を閉ざしてた。
 一人だけ、こう言った。
「あれは、人じゃない。“幼き鬼神”だ。名は沖田静」
 ……あの目を、俺は死ぬまで忘れられねぇ。
 
(語り終え、本人は数年後に戦災で死亡)
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三.戦に出る前夜の「手紙未満の手紙」
『――誰にも出せなかった書きかけの便り』
(墨のにじんだ短冊紙に、乱れた筆致で書かれていた)
 もし、明日、僕が帰らなかったとしても
 それは敗北ではないと、信じていてください
 戦って、生きて、斬って、それでも誰かを傷つけずに済んだのなら
 それが、僕の“勝ち”です
 本当は、誰にも見せるつもりはなかったのです
 でも、もし君が読んでいるなら
 それは――僕がこの手紙を
 どこかに残してしまったということですね
 情けないな。僕は、臆病なんでしょう
 それでも、最後まで、“斬らずに済む道”を探してみます
 沖田 静
 
(この手紙は、彼の出陣後、道場の箪笥の裏から見つかった。未封。宛名なし。今も保管されている)
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■回想~静の存在に触れた印象的な一幕

一話目:
「帰り道の鬼神」
――とある農村の娘・“ミヅキ”の手記より
 
 あの日のことは、夢だったのかもしれません。
 それでも、私は今でも、あの人の背中を思い出すのです。
 私は十四のとき、村が“徴兵訓練場”に指定されました。
 田畑が焼かれ、父も兄も連れて行かれました。
 母は火傷を負い、私と幼い弟を守るだけで精一杯。
 希望など、どこにも残っていませんでした。
 その日の午後、村の外れにひとりの武士が現れました。
 髪を一つに束ね、白い衣のまま。背丈はとりたてて高くないのに、周囲の空気が違った。
「ここにはもう、兵は残っていないのですか」と、淡々と訊ねられました。
 私は震えながら答えました。
「全員、山の方に逃げました。もう、何もありません」
 そのとき、彼はふっと空を見上げて――微笑んだのです。
「なら、僕の出番は、もう少し先のようですね」
 その笑みが、とても優しかったことを、私は今も信じられないのです。
 だってその夜、彼は――百人以上の敵兵を、たったひとりで斬り伏せたというのですから。
 村のはずれに咲いていた彼岸花が、あの日だけ白く変わっていたのを覚えています。
 誰かが「あの剣士の命が、花に映ったのだ」と噂していました。
 戦の翌朝、私は山から下りてきて、彼を探しました。
 でも彼はいませんでした。足跡も、剣も、何も残っていません。
 ただ、焼け跡にひとつだけ、丸く平らな石が置いてありました。
 石の表には、細い筆致でこう記されていたのです。
「戦いは、終わらせるために在る」
 名前は、書かれていませんでした。
 でも、私は知っていました。
 その人は――沖田静。
 私たちの村に、確かにいた“帰り道の鬼神”でした。
 あの人が、どこかで安らかに眠れていることを祈りながら、
 私は今も、この村で彼岸花を育てています。
 白い、花を。
 
(了)
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二話目:
「花を踏まなかった人」
――敵軍の若き従兵“ヘイスケ”の証言
 
 俺は、戦場の名もなき足軽だった。
 名誉もない、俸禄も少ない、ただ命を賭けるだけの駒のひとつだ。
 その日も、命令に従って村の制圧に向かっていた。
 三人一組で小道を進んでいたとき、俺たちは“出会って”しまった。
 一人の少年兵。
 いや、あれを“兵”とは呼べなかった。
 白装束に、鞘に手を添えただけで、すべての空気が変わった。
 リーダー格の奴が威嚇して近づこうとしたその瞬間、
 気づいたときにはそいつの首が、地面に転がっていた。
 俺は、声が出なかった。
 血が跳ねたその下には、つくしの芽がいくつも生えていた。
 だが――その剣士は、斬ったあと、そっとその花を避けて歩いていった。
 敵を倒したあとで、だぞ?
 ただの雑草だと思っていたものに、目を向けて――踏まないように足を向けたんだ。
 俺はその場に膝をついた。
 生き延びたのが奇跡だったのか、何か意味があったのか、わからない。
 けれど、その人が去ったあと、俺は泣いていた。
“命を取る剣”で、心を撃ち抜かれるなんて思ってもみなかったからだ。
 のちに名前を知った。
 沖田静――そう呼ばれる剣士は、実在した。
 だが、軍の記録では、戦功よりも“失踪”の文字が残っていた。
 あれだけの剣を持ちながら、
“戦に勝つため”ではなく、“何かを守るため”に剣を振るった者。
 俺は今、もう剣を捨てた。
 でも、どこかで見知らぬ花を見かけたとき、思い出すんだ。
 ――ああ、あの人なら、これも踏まずに歩いたろうな、って。
 
(了)


出陣当日の道場の空気や別れの描写
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三話目:
「白き朝、剣を置いて」
【兄弟子の視点】
 朝の空気が、やけに澄んでいた。
 霜がまだ降りるほどの寒さだったが、不思議と息は白くならなかった。
 それはきっと、どこかで“何かが終わる”と、皆が悟っていたからだと思う。
 縁側に座っていた静は、稽古着ではなかった。
 白い旅支度。腰に帯刀していたが、それはあいつの剣ではなかった。
 ――あれは、“誰かの剣”だった。
「預けます」と、静は言った。
 竹刀を丁寧に桐箱に収め、俺に託した。
「戻ったら、また“剣を教えてください”って言えるくらい、僕は人のままでいたいんです」
 あいつの背はまだ小さかった。
 けれど、背負っているものの重さは、誰よりも大きかった。
 手を振ることもできなかった。
 あれは別れではない。
 あれは“背中を見送ること”だけが許された、出陣の朝だった。
 
【師範の視点】
 あの日の朝ほど、道場が静まり返ったことはなかった。
 皆、口を閉じていた。口惜しさでも、恐れでもない。“敬意”の沈黙だった。
 静が最後に道場の中央で一礼した。
 その姿はまるで、“神前に詣でる者”のようだった。
「師範。――ありがとうございました」
 それだけだった。
 多くは語らない。
 あの子は“斬る者”ではあったが、同時に、“余白に語らせる者”でもあった。
 だから私は言った。
「お前が戻ってきたら、そのときは“勝ち”ではなく、“生きていたこと”を誉れとせよ」
 静は、小さく微笑んだ。
 けれど、目は笑っていなかった。
 その微笑みだけを、私は一生、忘れない。
 
【門弟の妻の視点】
 台所で握ったおむすびを、風呂敷に包んだ。
 静くんは「ありがとうございます」と頭を下げ、小さく笑った。
 私はそれ以上、正面からあの子の顔を見ることができなかった。
 その笑顔が、まるでこの世のものではないようで、
“もうこの子は戻ってこない”と、心のどこかでわかってしまったから。
 帰ってきたら、甘い味噌汁を作ろうと思っていた。
 それだけを、願っていたのに。
 
【幼馴染の少年の視点】
 走った。必死で道場に向かって。
 間に合わなかった。静はもう、門の外に立っていた。
「静!」
 名を呼ぶと、彼は振り返った。
 その顔に、見覚えのない表情が浮かんでいた。
“もう戻れない”ことを知っている者の、そんな表情だった。
「また、空を斬ってよ」
 そう言ったら、静は少しだけ、目を細めた。
「今度は、“風の音”じゃない音を斬るんです。……もし戻ったら、空を斬らせてください」
 わけがわからなかった。けれど、涙が止まらなかった。
 あいつは、あの日、“空じゃないもの”を斬りに行ったんだ。
 
【静・独白】
 白い息は、もう見えない。
“斬らずに済む世界”を、どこかに置き去りにして、
 僕は歩いている。
 この足が、血に染まっても、
 この手が、戻れないところまで汚れても、
 ――誰かが、“剣を捨てられる”未来を持てるように。
 ああ、願わくば。
 あの道場に戻れるなら。
 いつかまた、“教わる者”になれるなら。
 僕は、今日、
“剣を置く”ことを、許されるだろうか。
 
(了)
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■遺体が見つからなかった理由とその後の調査記録
「名前の残らぬ帰還記録」
――軍事報告書・聞き取り証言・道場側記録より構成
 
【軍報告書抜粋・戦後調査班】
対象名:沖田 静(歩兵部隊所属/剣技指導補佐)
最終確認日:第三戦線・南部林地/交戦日より72時間経過後、消息不明
遺体確認:なし(衣類片および刀の鞘のみ回収、のちに刀身を回収)
生存報告:なし
敵側死体確認数:78体(戦闘範囲狭小)
味方戦死者:全4名
逃走兵:2名(未帰還)
地形状況:ぬかるみ、斜面多く、複数の水路あり
調査班の見解:
 戦闘痕と残留物から判断するに、対象は単独で敵中に突入し、全戦力を排除後に再帰途上にて力尽きた可能性が高い。
 ただし、直接的な死体確認がなされておらず、剣・外套ともに“意図的に”残された痕跡があることから、
 対象が「死を偽装した」もしくは「味方に死を見せぬように姿を消した」意志が働いたと推察される。
 記録整理にあたり、対象の戦功を“帰還未遂・行方不明者”として分類。
 後日、以下の報告を受ける:
「森の奥の沢に、布を流すように横たわる影を見た」との証言(通報者:通行の薬売り)
→現地捜索の結果、影の所在は確認されず。跡地には白い布切れと、足跡が一対のみ残されていた。
 
【師範による報告記録】
 静の名が戦功者一覧に載らなかったのを見て、私は初めて“安心”した。
 あの子は、戦果を誇る人間ではない。
 もしも死んでいたなら、それでさえ名前を残したくないと願っただろう。
 だが、ずいぶん経った頃、剣が道場に返された。鞘と一緒に、箱に入って。
 泥が乾き、血も拭われていた。……誰が運んだのかは、わからない。
 私は、それを床の間に納め、こう書いた。
「この剣、未だ帰らず」
 いつか、あの子が本当に帰ってきたとき、
“戦場を越えた剣”として再び持たせられるように。
 
【門弟の妻の手記】
 朝、庭先に小さな風呂敷が置かれていた。
 中には、あの子が好んでいた焼き海苔のおむすびが一つと、白い紐。
 それだけだった。
 まるで「もう食べられない」って言っているみたいだった。
 私は黙って、それを火にくべた。
 それが“あの子の帰り”だと、私にはわかったから。
 でも、みんなには言わなかった。
 
【兵卒の噂話より】
 あの剣士は、死んでないって奴もいる。
「味方にだけ“死んだ”と思わせて、あのまま山に消えたんだ」
「ほんとはもう、刀を捨てて、どこかで別の名前で生きてんじゃないか?」
「いや、死んだよ。だって……誰も、あの剣を二度とは見てないんだろ?」
 それでも、俺は信じてる。
 戦のあと、山道に生えてた一輪の白花。
 それが、“彼の歩いた痕跡”だってこと。
 剣を置いて、花を残したなら――それは、あの剣士の生きた証だ。
 
【道場の柱裏の刻み文字】
 ――名前はない。
 ただ、一言だけ。
「斬らずに済んだ」
 それが、彼の“帰り道”だったのかもしれない。
 
(了)
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■生きて帰らなかった静を想う者たちの“祈りの集”
「祈ることしか、できなかった者たちへ」
 
【門弟の妻・夕凪の手記】
 三月の風が吹いた朝。
 私は仏間に、白い椿を供えました。
 何も言わず、誰にも告げず、ただひとりで。
 静くんの名前は、誰の位牌にも記されていません。
 あの子の“死”は、誰にも確認されていないから。
 けれど、私は知っているのです。
 あの子が、もうこの世界のどこにも存在していないことを。
 彼が使っていた茶碗を洗いながら、ふと思いました。
 ――今頃、誰かがこの空の下で、“斬られずに”済んでいるのだとしたら。
 それだけで、あの子の祈りは、きっと届いたのだと思えるのです。
 
【幼馴染・文市の手紙(宛先なし)】
 静、
 お前がいなくなってから、もう二年が経った。
 なあ、聞こえてるか? 俺、まだ“あの音”を覚えてるんだ。
 竹刀で空を斬るときの、あの風の音。
 今でもたまに夢で見るよ。お前の背中と、振り下ろしたその一拍。
 この間、近くの子どもが木刀を構えて真似してた。
 その構えが、なんだかすごく似てて、俺、泣きそうになった。
「なんで泣いてるの?」って聞かれてさ。
 俺、笑ってこう言ったんだよ。
「その剣は、誰かを斬るためじゃなくて、“斬らずにすむ道”を探すためにあるんだよ」って。
 お前がいたら、きっと笑ってくれたよな。
 それでまた、空を斬ってくれたよな。
 静。
 お前の祈りは、ここにまだ残ってる。
 ちゃんと届いてる。
 ありがとう。
 
【軍医・望月の回想】
 私のもとに、彼が運び込まれることはなかった。
 どの負傷兵の列にも、彼の名はなかった。
 けれど、その名を呼ぶ者は、確かにいた。
 戦の終わり。
 私は夜ごと、眠れない者たちの傍にいた。
 ある若い兵士が言った。
「俺、沖田さんに助けられました。あの人が斬らなければ、俺たちは全滅してた」
 そう語ったその兵士は、翌朝、戦の記憶を断ち切るように黙して去った。
 彼の声に、嘘はなかった。
 ――沖田静。
 その名は、戦場の片隅で、今も誰かの灯火になっている。
 医師として私にできることは、ただ一つだった。
 祈ること。
 それだけだった。
 
【師範・書き残しの言葉】
 あの子の席を、まだ道場から外せずにいる。
 誰も触れない。誰も話さない。
 だが、そこには毎朝、花が置かれている。
 誰が置いているかは、訊かないことにしている。
 “名前のない祈り”ほど、尊いものはないからだ。
 一度だけ、床の間に“彼の剣”を戻そうかと思ったことがある。
 だが、それは間違いだった。
 あの剣は、もう“誰のものでもない”。
 彼が“人を斬らぬために残した剣”として、永遠に封じられている。
 それでいい。
 それで、いいのだ。
 
【道場の子らの遊びより】
「おナツ様、こっちこっち!」
「風斬りのしーちゃんがくるぞー!」
「みんな伏せて! 斬られないように!」
 子どもたちの遊びのなかで、いつしか“風斬りの静”という名が登場していた。
 誰が教えたわけでもない。
 けれど、その“見えない剣士”はいつも、
「斬らずに守ってくれる英雄」として語られていた。
 その名が、本物の沖田静に由来するとは、
 もう誰も知らないかもしれない。
 それでも。
 祈りとは、そういうかたちで残るのだ。
 
(了)
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■静を戦場で見送った軍医の記録
「あの背に、白はなかった」
 ――前線随行医・望月衛(もちづき・まもる)の従軍記録より
 
 私は軍医であり、記録者でもあった。
 何度も戦場を見た。敗者も勝者も、嘘も涙も、すべて。
 けれど、あの少年兵――沖田静ほど、“言葉にならない存在”を見たことはない。
 彼が戦場に現れたのは、前線が崩れかけていた午後だった。
 敵が高台を占拠し、我々の兵はすでに半数を失っていた。
 そこへ現れた彼は、隊列を組むわけでもなく、合図を出すでもなく、
 ただ、“風のように”歩み出た。
 その背には軍旗もない。身に着けたものも無地。
 白衣にすら見えたその姿は、“治す者”のようで、実際には“終わらせる者”だった。
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■沖田 静 戦の記録
【第一章:戦地にて】
 私は負傷兵を並べていた。
 呻き声が響く中、誰かが叫んだ。
「沖田だ! 沖田が来たぞ!」
 その名に皆が顔を上げた。
 だが私には、それが“救い”とは思えなかった。
 むしろ、誰よりも“静かなる絶望”に近いものだった。
 彼は斬った。
 正確に、速やかに、敵を眠らせていった。
 だが、斬るたびに、彼の顔から“人間の色”が削れていくように見えた。
 何も叫ばず、何も誇らず、ただ斬る――まるで、それが“贖罪”であるかのように。
 
【第二章:負傷兵の語り】
 あの夜、回復した若者が語ってくれた。
「沖田さん、俺たちの盾になって……敵陣をひとりで抜けたんです」
「矢も、槍も、全部受けて、でも――倒れなかった。まるで“歩く意志”みたいで」
「俺、最後に沖田さんの背中を見ました。
 白くて、淡くて、まるで雪の中を歩く影みたいでした……」
 その兵士は涙を流しながら語った。
「“あんな人が死ぬなんて”、思いたくなかったんです」
 
【第三章:軍医としての記録】
 私は翌朝、負傷兵の後を追って戦場に出た。
 すでに敵も退いており、森は静寂を取り戻していた。
 その中に、一振りの鞘だけが、地面に立てられていた。
 土に突き刺したようでもなく、まるで“置かれた”ような、不自然な佇まい。
 剣本体は見当たらなかった。
 私は鞘を持ち帰り、記録にこう記した。
「この者、遺体未確認。
ただし、戦後の地には血痕もなく、足跡は片方のみ。
故に、死亡の確定を下せず」
 だが、本心ではこう思っていた。
 あれは、“死ななかった”のではない。
“姿を消した”のだ。
 
【第四章:医師の葛藤】
 医師とは、命を救う者だ。
 だが時に、“命を斬る者”が、その何倍もの命を救ってしまうことがある。
 沖田静は、まさにそれだった。
 彼の剣は、百の命を救った。
 だが彼自身の命を、誰も救えなかった。
 医師として、私は無力だった。
 薬も、包帯も、彼には必要なかった。
 彼に必要だったのは、“斬らずに済む場所”だけだった。
 
【終章:白の幻影】
 数年後、前線の森を再訪した折、
 ある老猟師がこう言った。
「ああ、あそこは“風の剣士”の森だ。
 一度だけ見た。白い着物の若者が、誰もいない中を歩いていくのを」
 それを聞いて、私は思わず問い返した。
「背中に、何か背負っていましたか?」
 猟師は言った。
「何も。……ただ、風だけだった」
 私は鞘を握りしめ、静かに目を閉じた。
 あの少年が“風そのもの”となって、この戦を去っていったのだと、
 ようやく納得できた気がした。
 彼の遺体は見つからない。
 だが彼の存在は、確かにこの手に残っている。
 ――あの背に、白はなかった。
 斬るための白ではなく、“何も斬らないための白”だったのだと、
 今なら、私は言える。
 
(了)
ーーーーーーーーーーーーーーーー
■敵の捕虜が語る“命を奪わなかった剣士”との遭遇談
「斬られなかった、ということ」
――敵軍元捕虜・コウモトの証言記録
 
 私は名をコウモトという。
 西陣営に属していた軽歩兵であり、現在は戦後復興事業の労働に従事している。
 この証言は、尋問によるものではなく、私自身の意志によって記すものである。
 理由はただひとつ――命を奪われなかった日を、私は忘れたくないからだ。
 
【遭遇】
 あの日の戦場は、霧が深かった。
 我々の小隊は包囲に気づかぬまま、敵地に踏み込んでいた。
 音もなく、空気もなく、まるで“ここはもう世界の果てだ”と告げられているかのようだった。
 先頭の男が倒れたのは、一瞬だった。
 風もなく、声もなく。
“斬られた”のではなく、“消えた”ように見えた。
 そのとき、私の眼前に――彼が現れた。
 白い衣。血の跡すら吸い込むようなその布は、
 まるで“穢れを拒む衣”のようにすら思えた。
 剣を抜いていなかった。
 それでも、誰も動けなかった。
 剣がそこにあるという“事実”だけで、我々はすでに斬られていたのだ。
 
【目を合わせた瞬間】
 その剣士――沖田静、と後に聞いた名を――
 私の方へ歩いてきた。
 静かに、丁寧に、一歩一歩、まるで“許可を得るように”歩いてきた。
 そして、私の前に立つと、こう言った。
「殺さずに済むなら、それでいい。
 降伏する意志があるのなら、あなたの血は、必要ない」
 私は咄嗟に地面に膝をついた。
 剣を抜いたことが恥ずかしかった。
 命乞いではなかった。
“その剣を汚したくなかった”のだ。
 すると、彼は剣を抜いた。
 だが、斬られたのは、私の後ろにいた仲間だった。
 槍を構えて突進していた男の首が、ひと閃で落ちた。
 そして、剣は再び鞘に戻された。
 私は震えながら言った。
「なぜ、私を殺さなかった……?」
 彼はただ、こう答えた。
「……剣は、“終わらせる”ためにある。
 命を絶やすためではないんです」
 
【その後】
 私は捕虜として扱われた。
 だが、不思議なことに、私はあの日以降、一度も悪夢を見ていない。
 仲間を斬られたのに。
 味方を守れなかったのに。
 なのに私は、あの剣士の姿を思い出すたびに、“救われた”気がする。
 なぜか。
 たぶん、私の“死”を前にして、彼が“選ばなかった”からだ。
 生かすことは、時に斬るよりも重い。
 その重みを、その細い体のどこに背負っていたのか――
 私は、今でも思い出す。
 あの目を。
 あの沈黙を。
 あの剣を。
 
【記す理由】
 戦が終わって数年が経った。
 私は今、名もなき村の塀を修理しながら暮らしている。
 ときどき、夕暮れに“白い人影”を見ることがある。
 幻か、記憶かは分からない。
 でも、私は知っている。
 “殺されなかった命”は、誰かが祈ってくれた結果だ。
 誰かが“剣を下ろした”から、私は今ここにいる。
 この証言が誰に届くかは分からない。
 けれど、私はただ一つ伝えたい。
 沖田静という剣士は、
“斬らなかった剣”として、
 確かに存在していたのだと。
 
(了)
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
■戦場から戻らなかった静に捧げられた「名もなき歌」
――口ずさがれるもの、語られぬもの
 
【歌が生まれた場所】
 それは、戦の記録にも、書物にも、歴史の中にも残らない。
 ただ、“口ずさがれていた”だけだった。
 静の名を口に出す者は、ほとんどいなかった。
 それは禁忌というより、沈黙が祈りに変わっていったのだ。
 ある村で。
 ある峠で。
 ある道場で。
 子どもたちが、不思議な旋律を歌っていた。
♪ しずく しずく 風にゆれて
ふれずにさよなら ふれずにほほえみ
つるぎはおかずに てをつなぐ
かえらぬものに はなのなを
 誰が作ったとも知れぬそれは、“名もなき歌”と呼ばれるようになった。
 けれど人々は、心のどこかで分かっていた。
 ――これは、“彼”の歌だ、と。
 
【歌い継がれた者たち】
道場の小さな弟子たち
「これはな、“帰ってこなかった兄弟子”のうたなんだって」
「でも、死んだって書いてないよ?」
「書いてないけど、戻ってこなかった人は……きっと、まだどこかで戦ってるんだよ」
 彼らは誰に教わったわけでもない。
 けれど、自然とその歌は“剣の合間”に口ずさまれていた。
 稽古終わりの静けさの中に、
 真夜中の掃除のときに、
 ふと漏れるように。
 それは、まるで“風が覚えている”かのようだった。
 
戦を越えてきた老兵
 酒場で歌われることもあった。
 だがそれは酒の肴ではなかった。
 たとえば、語るに堪えぬ夜の、静けさの中で、
 炎の揺れる火鉢の前で、ぽつりと一人が始める。
♪ さめないゆめに なみだをのせて
 あしたがくるのを しらせてくれた
 そのときだけは、誰も声をかけない。
 誰も騒がない。
 まるで“斬られた者の霊”が帰ってくるのを、静かに迎えているように。
 ある者は言った。
「この歌が終わるころ、白い影が見えるんだ。
 それは……剣を持たぬまま、歩いてくる」
 
【花の咲かない場所で】
 師範が、かつて静と交わした道場の地には、
 ある年から、毎年決まって咲かない場所ができた。
 白椿の木の下。
 花は、つぼみをつけるが、必ず落ちた。
 誰かが手を加えたわけではない。
「花が咲かぬ場所にも、祈りはある」
 そう言って、師範はそこに“歌詞の断片”を刻んだ。
「かえらぬものに はなのなを」
 そこは、今も“名もなき剣士”のための場所として、
 誰も語らぬまま、大切にされている。
 
【名前を呼ばない祈り】
 その歌には、名前がなかった。
 けれど、その歌を知る人は、皆、“誰のことを歌っているか”を知っていた。
 静――彼の存在が、語られずとも記憶の底で灯り続けたからこそ、
 言葉は歌になり、歌は風になり、
 いつしか、季節の合間にさえ響くようになったのだろう。
 咲かぬ桜を見にいくように、
 斬らぬ剣を語るように。
♪ さようならのかわりに
 だれにもいわずに
 しずかに しずかに
 いまもあるく
 それが、名もなき歌。
 そして、彼のことを決して忘れなかった人々の、
“言葉にならなかった祈り”そのものだった。
 
(了)


第一部:番外編(前世回想編Ⅰ)
番外編Ⅰ
「庭先の木漏れ日のなかで」
― 世話係の年配女性・ツキエの視点より
 
 あの子は朝が得意だった。
 武家の子にしては珍しく、誰よりも早く起き、誰よりも静かに庭を掃く。
 私はその姿を見るたびに、「この子は何かを待っている」と思っていた。
 冬の朝、凍った桶の水に手を入れながらも表情ひとつ変えず、
 春の風が吹けば、縁側で椿の花が落ちる音に耳を傾けていた。
 ある日、私は尋ねた。
「そんなに早く起きて、何を待っているの?」
 静は、ほほえんだ。
「風が来るんです。朝一番の風は、昨日と今日の間にしか吹かない。
 それを逃したくないんですよ」
 私は返す言葉を失った。
 十にも満たぬ少年の口から出るには、あまりにも“透き通りすぎた言葉”だった。
 だが、そのあとすぐ、彼は笑ってこう付け加えた。
「あと、朝ごはんの匂いがいちばん強い時間なんです。腹が鳴るんで困ります」
 その言葉に私は笑った。
 ……そして、少しだけ安心したのだった。
 
 ある春の日。
 彼が道場の弟子たちと鬼ごっこをしていた。
 走りながら笑う顔は、ただの子どもだった。
 だが、ふと誰かにぶつかりそうになると、
 彼は体を浮かせるようにかわして――まるで“風そのもの”になった。
 その所作に、子どもたちも私も、しばし言葉を忘れて見惚れた。
 あの頃の彼は、まだ「斬る」ために生きていなかった。
 ただ「風と遊ぶ」ようにして、日々を過ごしていた。
 それが、どれほど貴重だったか――
 戦が始まり、徴兵の話が道場に届いたとき、私は思い知ることになるのだが。
 
(続)
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番外編Ⅱ
「竹刀の音、あまりに静かで」
― 兄弟子・加納視点より
 
「お前、どこでそんな手の動かし方を覚えた?」
 初めてそう訊いたのは、静が入門して間もない冬だった。
 まだ、三つか四つか。
 型稽古の最中、彼は教えた覚えのない“捌き”をした。
 無駄がない。手の内が割れない。肘の使い方に迷いがない。
 ――けれど、誰も教えていない。
「書物を見た。あと……たぶん、見た夢の中でやってた」
 そのときは笑い飛ばした。
 だが、笑いきれなかった。
 それくらい、“冗談のような再現精度”だったのだ。
 
 ある日、道場主催の見取り稽古があった。
 年長の者から順に演武を披露していき、最後に静が竹刀を持った。
 彼は年少で小柄だった。
 だが、構えた瞬間、場の空気が止まった。
 音がしなかった。
 正確に言えば、“竹刀が空を斬る音”しか、耳に入ってこなかった。
 打突は一度だけ。
 空間がふるえ、畳が鳴いた。
 その音に、拍手はなかった。
 ――皆、怖れていたのだ。
 この子は、“見えてはいけないものを見ている”。
 彼の剣は、演武ではなかった。
“本物の命を断つ稽古”だった。
 誰に教えられたわけでもなく、彼の中にあった。
 その夜、師範がぽつりと言った。
「……あの子は、きっと、二度目の人生を歩いているんだろうな」
 冗談とも言えなかった。
 
 それでも、静は変わらなかった。
 朝になれば誰よりも早く掃除をし、
 犬に吠えられて笑いながら逃げ、
 焼きたての饅頭には目を輝かせた。
 ただ時折、縁側で一人空を見上げるとき、
 彼の瞳は、“今この時代にない何か”を見ている気がしてならなかった。
 あれはきっと――
“戦(いくさ)を知らない少年のふりをしていた”だけなんだ。
 そしてその仮面が、いつか剥がれることを、
 僕たちはみんな、どこかで悟っていた。
 
(続)
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番外編Ⅲ
「春、剣のない日」
― 幼馴染・白石文市(しらいし・ぶんいち)の視点より
 
 あいつと初めて言葉を交わしたのは、六つの春だった。
「それ、なに読んでんの?」
 そう声をかけたのは、俺のほうからだったはずなのに。
 本から顔を上げたあいつ――静は、
「今、ちょうど“最後の一行”だったんです」と笑って、
 またすぐ目を戻した。
 今でも覚えてる。
 春の光のなか、古本の頁が風にめくられた瞬間。
“誰にも属していない”みたいな顔で笑った、その横顔を。
 
 あいつは変なやつだった。
 剣の道場にいるくせに、虫を踏むのをいやがって、
 落ちた桜の花びらをひとつずつ拾って集めて、
 自分で作った小さな紙箱にしまってた。
「なんでそんなことしてんの?」
「“どこにも行けなくなる”から……」
 わかるような、わからないような。
 でも、あいつの言葉はいつも、
「今ここにいながら、どこか遠くを見てる人の話」だった。
 
 ある日、俺は訊いた。
「おまえ、剣の稽古好きなの?」
 あいつは少し逡巡して首を捻った。
「……さあ?」
「好きでもないのに、なんでやってんのさ」
 そう問えば、あいつは不思議そうに眼を丸くした。
「好きじゃないと、やっちゃダメですか?」
「いや……なんか、他の人とやってること違く見えてさ。おまえだけ、練習っていうより……」
「ああ、祈ってるだけですよ」
「え?」
「だれかを斬らないで済むようにって。
 “斬れる”ってことは、斬らなくて済ませることも、できるってことですから」
 そのときの俺は、その意味を全部は理解できなかった。
 ただひとつ、強く思ったことがある。
 ――このひとは、戦場に行っちゃいけない。
 
 けど、世の中はそういう順番で動いてない。
 彼が徴兵されるって噂を聞いたのは、春の終わりだった。
 どうしても、最後にもう一度だけ話したくて、
 俺は彼を町外れの土手に呼び出した。
 風が強くて、桜はもう散っていた。
 だけど、静は黙って空を見ていた。
「……やっぱ、行くの?」
「うん」
「帰ってこいよな。ちゃんと」
「……うん」
 その返事は、どこか遠くの誰かに向けたみたいだった。
 言葉よりも、空白が多い会話だった。
 でも、俺は知ってた。
 あいつがいま、どんな気持ちでそこに立ってるか。
 本当は、ずっとここにいたかったんだ。
 剣を握らず、花びらを集めて、生きていきたかったんだ。
 でも――
 誰かが“斬られる未来”を選ばないために、
 あいつは自分からその場に立つって決めたんだ。
 そんな気がした。
 
 だから今でも祈ってる。
 あいつがまた、どこかで本を読んで、
 春の風に花びらを拾ってる日々を過ごしてるように。
 あいつが“斬らなくていい世界”に生きてるように。
 ……それだけが、俺の祈りだ。
 
(了)
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
■徴兵後・戦場にて
徴兵編Ⅰ
「背中の空白」
― 道場に残された弟子・秋吉(あきよし)の視点より
 
 出征の朝、道場の床はやけに白くて静かだった。
 師範も、兄弟子たちも、誰も何も言わなかった。
 それが“別れの合図”だということを、
 小さかった俺ですら察してしまうほどに――言葉が消えていた。
 奥の間で、静さんが袴を整えているのを、障子越しに見た。
“斬るための剣”を、腰に差していた。
 ふだん、あれほど馴染んでいた木刀ではなく、
 あのときの剣だけが、まるで彼を拒んでいるように見えた。
 
「秋吉くん、朝稽古は終わった?」
 そう言って静さんが出てきたのは、まるでいつものようだった。
 だけど、袴の裾から覗く草履は新しくて、
 肩にかけていた布袋は、剣だけしか入らない小さなものだった。
 それがすべてだった。
「いってきます」
 ただ、それだけ。
 握手も、別れの言葉も、涙もなかった。
 ――なのに、道場が“片翼を失った”ような感覚だけが、
 あの朝から、ずっと消えなかった。
 
 翌月から、静さんの話は封じられた。
 誰も彼の名前を出さなくなった。
 いや、出せなかった。
 それでも、誰かが掃除のときにふと、
「ここ、静さんがよく黙って立ってた場所だよな」なんて呟くと、
 皆が一斉に黙る。
 空気の中に“背中の空白”だけが漂っていた。
 
 ある日、奥の物置を掃除していて、
 静さんが残した木刀を見つけた。
 手入れされていた。
 綺麗なままだった。
 けれど、鞘の先にだけ、小さくひびが入っていた。
 きっと、行く前に“最後に振った”ときのものだ。
 俺は勝手にそう思って、
 それから毎朝、その木刀を掃除している。
 もう、誰にも見せない。
 誰にも言わない。
 でも――
 いまでも時々、思う。
 彼の歩いた道は、
 本当に、剣のためだけにあったのか?
 それともあのとき、
“戻る場所を残すために”何も言わなかったのか?
 その答えは、誰も知らない。
 けれど俺は、静さんの木刀にだけは、
「おかえり」と言える準備を、いつもしている。
 
(了)
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徴兵編Ⅱ
「あのひとは、剣を憎んでいた」
― 同じ小隊の兵士・乾(いぬい)の回想
 
 静、という名の青年が、俺たちの小隊に配属されたのは、夏の終わりだった。
 痩せていて、背はそう高くない。
 白い肌。飄々とした笑み。
 見た目だけなら、どこにでもいる新兵のようだった。
 最初に目を疑ったのは、彼が木刀を持って現れたときだった。
 ここは戦場だ。木刀で敵が斬れるかと、誰もが失笑した。
 だが、三日後、俺たちはその笑いを二度と口にしなくなった。
 
 前線近くの小競り合いで、待機中だった俺たちの陣が急襲された。
 不意を突かれ、指揮系統は混乱。
 銃も使えない至近距離での混戦。誰もが叫び、倒れ、逃げた。
 その混乱のなか――
 静が、ひとり、歩くように前に出て行った。
 風が止まった。音が消えた。
 斬った。
 いや、あれは“斬る”ではなかった。
 静の一撃は、音もなく、ただ敵の呼吸を断ち、命を断っていた。
 血飛沫すらあがらなかった。
 それほどに、正確だった。
 まるで、“この場所に存在してはいけないものを静かに消す”ように。
 敵は、近寄れなかった。
 いや、近寄る前に、自分がすでに“死んでいること”を察していた。
 
 戦いのあと、俺は震えながら訊いた。
「……なんなんだ、あんた……」
 静は、木刀の柄を持ったまま、地面に座り込んでいた。
「僕はただ……剣が、嫌いなんです。
 だから、誰よりも早く、終わらせなければいけないだけで」
 そう言って、笑った。
 その笑みは優しくて、残酷だった。
 
 それからの戦場で、静は“生き残る者”として知られるようになった。
 彼のいる部隊は壊滅しない。
 だが、彼と目を合わせて帰ってきた者は、誰もいない。
 敵は彼を“鬼神”と呼んだ。
 味方は彼を“狂気”と呼んだ。
 だが、俺はただ一度だけ、彼の“本当の姿”を見た気がする。
 夜の火点しの下。
 手を洗う水桶の前で、静がそっと自分の手首を見つめていた。
 剣を握る指が、少し震えていた。
 けれど彼は、その手をそっと洗い、何も言わずに火に背を向けた。
 その背中が、いちばん“人間らしかった”。
 
 あの人は、剣を憎んでいた。
 けれど、誰よりも剣を使えた。
 だから、誰よりも剣に選ばれてしまった。
 そういう人だった。
 
(了)
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徴兵編Ⅲ
「黒煙のなか、名のない影」
― 敵軍斥候・カンの報告記録より
 
 斥候として“あの戦地”に潜ったとき、俺たちは三人だった。
 夜明け前の霧のなか、敵陣の隙を探り、地形を記録し、戻るだけの任務――だったはずだ。
 それが、“彼”のいる場所だと知っていたなら、
 俺たちは絶対に近づかなかった。
 
 最初に空気が変わったのは、何の音もなく、鳥が飛び立った瞬間だった。
 何もいないはずの茂みの奥に、微かに“視線”があった。
 気のせいではない。
 呼吸が、空気そのものが、そこだけ“凪いでいた”のだ。
 俺は、身をかがめ、合図を送った。
 が、すでに遅かった。
 三人のうちのひとりが、声を上げる間もなく、首筋から崩れた。
 刃は見えなかった。
 音も、風も、なかった。
 ただ、“そこにいたはずの命”が、ひとつだけ、世界から抜け落ちていた。
 
 見えたのは、“影のような人間”だった。
 白い装束。剣を下げていない。
 だが、間違いなく――“剣の気”だけが、そこにあった。
 俺のもうひとりの仲間が、無謀にも飛びかかった。
 槍を振るい、先に動いた。
 だが、“何もない空間”を斬っていた。
 刹那。
 光よりも速く、何かが煌めいた。
 仲間の体が斜めに崩れた。
「……嘘、だろ」
 呟いたのは、俺自身だった。
 だがその瞬間、“彼”は動きを止め、俺を見た。
 眼があった。
 闇の奥に沈んだ光。
 哀しみのような、諦めのような――けれど、一片の情けもない“静寂”。
 俺は本能で察した。
「斬られる」と思った瞬間には、すでに“終わっている”と。
 そして――彼は斬らなかった。
 剣を抜かなかった。
 ただ、俺に背を向けて、黙って森に消えた。
  
 戻ってきたあと、俺は軍に報告した。
 けれど誰も信じなかった。
「そんな剣士が実在するなら、軍全体が止まる」と。
 それが、数週間後、事実になった。
 あの夜、“名もなき剣士”がたった一人で前線を突破し、部隊を壊滅させた。
 それを目撃した者のほとんどは、“斬られる前に頽れた”と言う。
 死体の首に傷はなかった。
 だが、その瞳は、皆“恐怖と安堵”の色に染まっていたという。
 
 名は、わからなかった。
 だが、兵たちは彼をこう呼んだ。
“風を斬る者”。
 あるいは――“斬らなかった鬼神”。
 その日以来、夜になると耳にあの風の音がよみがえる。
 あれは、剣が空を裂く音ではない。
“命が去る音”だった。
 
(了)
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【戦場断章】
「焔のなかで、呼ばれた名」
― 矢野 蓮の回想より(戦場)
 
 あいつと再会したのは、炎の中だった。
 火計が失敗した直後、混乱した陣を抜けて、俺は負傷兵を運ぶ隊にいた。
 背に負った仲間の息はすでに薄く、空には矢の影が降っていた。
 俺の足も矢傷でひどく、もう一歩も動けないと悟った瞬間だった。
 前方から、音もなく誰かが歩いてきた。
 敵か? 味方か? わからなかった。
 けれど、あの目を見たとき、すべてを思い出した。
 ――静だ。
 いや、“沖田静”と呼ばれる前から、
 俺はあいつの名を知っていた。
 
「立てますか、矢野さん」
「……よく、気づいたな」
「声がしましたから」
 彼はそう言って、俺に手を伸ばした。
 白装束だった。
 血も、泥も、焼け焦げた灰も、すべて吸い込んでしまいそうな白。
 それが、戦場のど真ん中で、まるで“死の使者”のように浮いていた。
 だけど、彼の手は生きていた。
 熱を持って、俺を支えた。
 
 俺は問いたくて、けれど口にできなかった。
 どうしてお前が、こんな場所にいる?
 どうして剣を抜いて、笑っていられる?
 だが、静はただこう言った。
「……剣を抜くのは、最後の最後です。
 でも、“抜かないまま死ぬ”わけにも、いきませんから」
 
 彼は、そのまま敵陣に踏み込んでいった。
 俺は見ていた。
 動けぬまま、誰よりも近くで、彼の戦いを。
 斬る、というより、“選んでいた”。
 必要な者だけを倒し、それ以外には目を向けない。
 怒りも、喜びも、なかった。
 ただ、“終わらせに来た”者の剣だった。
 
 やがて味方が押し返し、戦場は動いた。
 救助兵が来て、俺は運ばれた。
 静は、最後まで戻ってこなかった。
 誰も、彼がどこへ消えたか知らなかった。
 だが――
 俺は見たんだ。
 白い衣の背が、朝の光のなかに滲むのを。
“生者”ではなく、“何かの象徴”になってしまったかのように。
 
 あいつは、誰よりも生きた。
 そして、誰よりも“死者に近かった”。
 それでも。
 俺は、あのとき手を取ってくれた“温かさ”を、忘れない。
 あれだけで、戦場は救われることがあると、知ったんだ。
 
(了)
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「白の意味」
― 軍の従軍画師・未渡(みわたり)の記録より
 
 彼を初めて見たのは、朝霧の戦地だった。
 周囲が泥と血で染まり、風が腐臭を運んでいたというのに――
 彼だけが、まるで“別の物語の人物”のように、そこに立っていた。
 白装束。
 いや、実際には“白い衣”というだけだったのかもしれない。
 だが、その色は、他の何よりも、戦場ではあり得ない“無垢”を纏っていた。
 
 従軍画師という立場柄、私はさまざまな兵士の姿を記録してきた。
 泥にまみれ、血に塗れ、恐怖を背負いながらも前進する“人間たち”の顔を、数えきれないほど描いてきた。
 だが、沖田静――その名を知ったのは、ずっと後のことだ。
 当時はただ、白装束の剣士としか呼ばれていなかった。
 
 彼は、なぜ“白”を選んだのか。
 ある噂があった。
「死者の色だ」
「自身がもう“この世に属していない”証なのだ」
 だが私は、ある戦の前夜、偶然その答えに触れた。
 
 焚き火の脇で、彼は静かに衣を縫っていた。
 すでに幾度かの戦で汚れた白の裾を切り、ほつれた箇所に新しい布を当てている。
 私は声をかけた。
「なぜ白なんです?」
 しばらく沈黙があって、やがて彼は言った。
「……剣を持つ人間は、どんな色にも染まる資格がありません。
 だから僕は、いちばん染まりやすい色を、着ることにしたんです」
「白は、血の色が一番よく映りますから」
 
 返答には、冗談のような軽さがあった。
 だが、その指先は真剣で、針に迷いがなかった。
 私はさらに訊いた。
「染まったらどうするんです? その白は、白ではなくなりますよ」
 すると彼は、小さく笑った。
「そうなったら、そのときは、もう……“僕”ではないんでしょうね」
 
 彼は、自分が“人間でなくなる瞬間”を、どこかでわかっている。
 あるいは、それを拒むために白を着るのかもしれない。
 自分が“鬼神”ではなく、ただの人間であるための、最後の証として。
 
 後日、ある激戦のさなか、私は再び彼の姿を見た。
 遠目にも、その装束は紅に染まっていた。
 けれど、ただの血の色ではなかった。
“戦場の罪”そのものを背負ったような、罪業の染みだった。
 彼は立っていた。
 地に沈む仲間を背にして、敵軍に囲まれながら――
 まるで、“まだ斬ってはならぬ者が残っている”とでもいうように、剣を抜かなかった。
 
 その日、彼は三十人以上を斬って生き残り、
 味方の退路を切り開いた。
 だが、戻ってきた彼の白装束は、ほとんど“黒”だった。
 乾いた血と、燃えかけた火薬と、泥と雨。
 それらすべてが染み込み、もはや白の片鱗も残っていなかった。
 
 彼は黙って、その装束を火にくべた。
 何も言わず、ただ、焚き火の奥を見ていた。
 燃えていく白――かつての“自分であろうとしたもの”を、
 一度だけ手を伸ばし、灰に変わるのを確かめていた。
 その背を見ながら、私は絵を描いた。
 初めて、“人間としての彼”を。
 それは誰にも見せていない。
 今も、私の帳面の奥にある。
 
 たぶん彼は、そのあと新しい白を縫ったのだろう。
 何度でも、何度でも、自分が人であり続けるために。
 それだけが――
 彼の願いだったのかもしれない。
 
(了)
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「あいつは――あのひとは、名を呼ばなかった」
― 矢野 蓮の記録より:出会いと始まり
 
 最初に見たのは、訓練場だった。
 あいつ――沖田静は、軍の上層部から“剣の使い手”として配属されてきたという。
 兵士というより、“戦術兵器”とでも呼んだほうが正確な存在だった。
 当時の俺は、地方出の新兵で、剣の腕前には多少の自負があった。
 だから、戦場に“剣だけで生き残ってきた奴が来る”という噂に、正直なところ興味半分、懐疑半分だった。
 
 だが、見た瞬間に理解した。
 訓練用の木刀を持った静が、ゆっくりと構える。
 その一歩には、迷いがなかった。
 力も、誇示もない。ただ“必要な剣”だけを置くような動き。
「次、交代!」
 号令がかかり、俺は無意識に輪に入っていた。
 そして、静と向き合った。
 ほんの数合。
 木刀が鳴り、足場が揺れ、俺の腕が弾かれた。
 痛みすら感じないほどの早さだった。
 だが、不思議と憎しみも、敗北感もなかった。
 ただ――美しいと思った。
 この人の剣は、誰かの命を“奪う”のではなく、“断ち切る”ものだと。
 
 訓練のあと、俺は声をかけた。
「……すげえな、おまえ」
 静は、汗ひとつかかずに言った。
「僕より、あなたのほうが声が大きい。それだけで、現場では有利ですよ」
「いや、それ褒めてねえだろ?」
「褒めてません。事実です」
 冗談か本気か、わからない。
 けれど、その飄々とした声に、妙な親近感が湧いた。
 
 それから、俺は何かと理由をつけて彼の近くにいた。
 彼の食事は質素だったし、夜営では必ず一番遅く眠り、一番早く目を覚ましていた。
「いつ寝てるんだよ」
「……誰も気づかない間に、目を閉じていますよ」
「それ、ほとんど寝てないってことじゃねえか!」
 
 とにかく、妙な男だった。
 だが、戦が始まると、その“妙さ”が命を救うことを、誰もが知ることになる。
 
 ある日のことだ。
 前哨地にて、敵の斥候部隊と鉢合わせた。
 夜明け前、霧の中。
 俺たちは不利な地形に追い込まれていた。
「囲まれてるぞ!」
 誰かが叫ぶ。
 俺も叫んだ。剣を抜いて、味方をかばった。
 そのときだった。
 風の音すら止んだような静けさのなか、静が現れた。
本当に、現れたとしか言いようがない。
 霧のなかを、白い衣のまま歩いてきて、
 まるで“影”を斬るように敵を退けていく。
「っ……なに、あれは……」
 一緒にいた兵がそう漏らした。
 だが、俺は知っていた。
 あれは“鬼神”なんかじゃない。
 あいつは、ただ――“誰も死なせたくない”と思っているだけだ。
 
 戦いが終わった後、俺は彼の元へ行った。
 肩を貸すふりをして、その背中に尋ねた。
「なんで、おまえ……あんなに戦えるのに、いつも泣きそうな顔してんだ?」
 静は、少しだけ肩を震わせた。
「矢野さん。僕が戦っているように見えるなら、それは――
 まだ、誰も死なせていない証拠です。
 それが、僕にとっては“救い”なんです」
 
 その夜から、俺は静のそばに立つようになった。
 指示もないのに、彼の左斜め後ろに立つ位置が、いつの間にか“定位置”になっていた。
 誰にも言われなかった。
 けれど、あいつの呼吸のリズムが、自然と俺を引っ張っていた。
 
 距離が近づいたわけじゃない。
 言葉を交わすようになっただけでもない。
“俺の中で、静がただの同僚じゃなくなった”。
 それが、すべての始まりだったのかもしれない。
 
(了)
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「斬らない剣の隣で」
― 矢野 蓮の記録より:絆と誓い
 
 あいつの剣は、いつも“届く寸前”で止まっていた。
 死を与えるための剣ではなく、死を避けるための剣。
 あれだけの腕がありながら、あいつは“斬る”ことを拒んでいた。
 初めは矛盾に見えた。
 だが、それは誇りだった。
 そして――罰でもあった。
 
 ある戦で、補給路の奪還に向かった俺たちは、まさかの伏兵に包囲された。
 狭い山道。前後を塞がれ、兵は半数が負傷、退路もない。
「このままじゃ全滅する」
 そう呟いた俺の肩に、静が手を置いた。
「矢野さん、退路は僕が開きます。合図したら、兵を連れて南斜面を下ってください」
「待て、ひとりで何を……!」
「“ひとりのほうが早い”というだけです。論理的でしょ?」
 そのときの静の顔は、笑っていた。
 ひどく――寂しい笑顔だった。
 
 俺は咄嗟に腕を掴んだ。
「おまえがいなくなったら、誰が俺を止めるんだよ」
 静は目を細めて言った。
「あなたは、止まらなくていい人です。
 僕とは違う。あなたは、まっすぐに怒れる。まっすぐに、守れる。
 だから……お願いがあります」
「なんだよ」
「……僕が、“もう斬れない”と言ったら、代わりに斬ってください。
 でも、もし僕が“まだ行ける”と笑ったら、信じて、見送ってください」
 
 それは――最初で最後の、彼からの“頼み”だった。
 その後、静は白装束のまま敵陣に踏み込み、俺たちの退路を切り開いた。
 無傷ではなかった。
 左腕を負傷し、右足の裾は破けていた。
 それでも、彼は戻ってきた。
 炎と矢と怒号のなかで、命の境界を超えて戻ってきた。
 
「……ただいま」
 呆然とする俺たちの前で、静はそう呟いた。
 血に染まった白の装束で、涼しい顔をして。
 
 その夜、誰もが彼のもとへ感謝を言いに行った。
 だが、静はただ、ひとり遠くを見ていた。
 俺が傍に座ったときだけ、目を伏せて言った。
「僕は、間違ってませんか?」
「何がだよ」
「こんなやり方で、誰も死なずに済むと、本気で信じてる自分が――
 甘いと思われてないかって」
 俺は黙っていた。
 けれど、すぐに答えた。
「……甘くて何が悪い。
 俺は、おまえがそうやって“迷いながらでも生きてる”ことが、
 何より誇らしいよ」
 
 それが、絆だった。
 言葉じゃなく、剣じゃなく、
“戦場にあって、人を信じる勇気”。
 あいつが俺にくれたものは、それだった。
 
 その日から、俺たちは肩を並べて戦った。
 背中を預け、命を預け、たった一言で呼吸を合わせた。
「静」
「矢野さん」
 名を呼ぶことが、武器だった。
 名を呼ばれることが、鎧だった。
 
 だから、わかっていた。
 あいつが黙ったとき――
 名を呼ばなくなったとき――
“終わり”が近いのだと。
 
(了)
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「風を裂くものたち」(矢野蓮)
― 戦場に立つ、ふたりの記録
 
 あれは、戦況が泥沼化していた頃だった。
 北方の峠、斜面に築かれた敵陣が補給路を封じ、膠着状態が続いていた。
 決着をつけなければならなかった。
 だが、真正面からぶつかれば、味方に多大な被害が出る。
 そのとき、提案したのは静だった。
「夜明け前、奇襲をかけましょう。僕と矢野さん、二人だけで」
 本部は当然、却下した。
 だが、俺たちは命令を待たなかった。
 誰にも気づかれぬよう装備を軽くし、夜の山に入った。
 ふたりで風を切りながら、俺たちはただ、前を目指した。
 
「怖くないのか?」
 途中、俺は訊いた。
 静は、首を振らなかった。
 ただ、視線を夜空に向けて言った。
「怖いですよ。でも、“この恐怖を覚えているうちは、僕は人間です”」
「……らしいな」
「矢野さんは?」
「おまえが前にいる限り、怖くねえよ」
 静は少し笑って、小さく「ずるい」と呟いた。
 
 敵陣は予想以上に強固だった。
 番兵、狼煙、外郭の柵。
 だが、静は迷いなく斬った。
 殺さぬように――急所を外し、腕を止める。
 必要最低限の剣で、必要な道を切り拓いていく。
 俺はその後ろで、静の届かないところを斬った。
 ためらいも、迷いもなかった。
「行け」
 静の短い号令に、俺たちは中枢へ突入した。
 敵将はまだ寝所にあり、完全に油断していた。
 俺が斬り伏せたその隣で、静は倒れた兵の脈を確認していた。
「生きてる。助けられる」
「敵だぞ」
「……敵だからこそ、生かして意味を残すんです」
 俺は何も言わず、ただ頷いた。
 
 脱出は夜明け直前。
 駆けるようにして斜面を滑り降りた。
 風が、俺たちの白装束を裂いた。
 
 味方陣に戻ったとき、士官たちは怒号を飛ばした。
 勝手な行動、命令違反、処分対象――
 だが、すぐに戦況が動いた。
 敵の補給線が崩れ、進軍が可能になったのだ。
“ふたりだけの夜襲”は、戦の流れを変えた。
 
 あの夜、静と俺は、誰よりも深く息をした。
 戦を終えて焚き火の前、誰もいない草の上で、
 俺は静の肩に背を預けて、ぼそっと言った。
「俺たちって……たぶん、相性いいよな」
「まあ……少なくとも戦においては」
「……それ以外では?」
 静は少し考えてから、目を細めた。
「“一緒に黙っていられる相手”って、貴重ですよ。
 僕はそれで、十分だと思ってます」
 
 共闘とは、剣の話だけじゃなかった。
 背を預けられる信頼と、言葉のいらない時間。
 それがあったから、俺は戦えた。
 
「また行こうぜ、ふたりで」
 俺がそう言ったとき、静は珍しく“間”を置いて言った。
「ええ。……でも、次が“最後”かもしれません」
「どういう意味だ?」
「勘です。……不吉な、勘」
 
 そのときはまだ、意味を深く考えなかった。
 だが、それは――
 確かに“最後”を予感していた声だった。
 
(了)
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「背中にあるもの」
― 戦場での“絆”より:矢野蓮の記憶
 
 静と出会ってから、時間はさほど経っていなかった。
 だが、それは“長さ”ではなく“深さ”の問題だった。
 共に飯を食い、剣を交え、命を預け合う。
 戦場というのは、奇妙なもので、他人との距離を恐ろしく縮めてしまう場所だった。
 俺にとって、静は――“剣の相棒”であると同時に、
“絶対に死なせたくない存在”になっていた。
 
 ある夜、野営地の火が小さくなった頃。
 周囲の者たちが眠りについたのを確認してから、俺は声をかけた。
「静」
 焚き火の向こうで、静は本を読んでいた。
 焦げかけた紙片と、なぜか持ち込んでいた筆記具。
「また手記か」
「記憶は曖昧になりますから。残しておかないと、僕が誰だったか、わからなくなる」
「……そんなに、自分を疑ってんのかよ」
「信じてるから、書いているんです」
 その返しに、俺は黙った。
 反論できるような言葉を、持っていなかった。
 
「なあ、静。俺たちがこの戦を生き延びたら――」
「生き延びたら?」
「どっかで一緒に暮らすのも、悪くねぇかもな。畑でも耕してさ。
 剣なんて握らなくていい場所で、生きていけたら――」
静は目を伏せたまま、ページをめくる手を止めなかった。
「……いいですね。きっと、春は菜の花が咲いて、夏は蝉がうるさくて。
 秋は芋掘り、冬はこたつでみかん。想像できます」
「じゃあ、そうしようぜ」
「……ええ、そうしましょう」
 けれど、その声に“未来”はなかった。
 静は知っていたのだろう。
 自分が、その春を見られないことを。
 
 それでも、俺は――
 信じることしか、できなかった。
 
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「白の背中を見送った朝」 矢野 蓮
― 沖田静の最後を見た男の証言
 
 あの夜の霧は、今でも夢に出る。
 俺たちは、敗走中だった。
 戦況は圧倒的に不利。
 退路を確保する部隊が壊滅し、前線は崩れ、味方は全員負傷――
 俺も、足を矢で射貫かれていた。加えて、あばらの一本や二本は確実に折れていた。
 それ以外にも無数の傷がある。
 うつぶせに倒れ、動けなかった。
「矢野!」
 誰かが叫んでいる。
 遠くで、兵の呻きが交錯していた。
 そんななか、足音が、ひとつだけ近づいてくる。
「……大丈夫、まだ生きてますね。矢野さん、聴こえますか?」
 静だった。
 彼は俺の傷をざっと見て、帯で応急処置を施した。
 俺の額に血が滲んでいたのを、手で拭った。
「……まだ、全員動けません。ここで止まれば、全滅します」
「……っ……おまえは……どうする……」
「僕が、囮になります。敵はもう、すぐそこにいます。
 僕が行けば、間に合う。あなたたちは、その間に後退を」
「待て……! 静、それじゃ……!」
「矢野さん」
 そのときの静の目は、どこまでも静かだった。
「“今度こそ、守らせてください”」
 そう言って、彼は剣を抜いた。
 
 敵が現れる方向へ、
 誰もいない闇の中へ、
 白装束のまま、ひとりで――走った。
 
 俺は動けなかった。
 叫びたかったが、声も出なかった。
 味方の者たちが、俺を引きずって後退を始めるなか、
 俺は最後に見た。
 霧を裂いて走る、あの白い背中を。
 まるで、風そのものだった。
 まるで、祈りのようだった。
 
 そのあと、静は戻らなかった。
 敵軍が潰走し、我々が拠点を奪い返した後、
 静の姿はどこにもなかった。
 からだも、剣も、衣も――すべてが消えていた。
 彼は、戦の夜に姿を消した。
“誰にも看取られずに”。
 
 あれは、英雄の死でも、神話の終わりでもない。
 ひとりの男が、“大切な誰か”を守るために選んだ終わり方だった。
 俺は、今も夢に見る。
 何度も、何度も。
 叫べなかった名前を――
 届かなかった手を――
 そして、斬らずに守った、あの人の剣を。
 
(了)
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「あのひとの背中が、風になった」
― 無名の新兵による記録
 
 名前も呼ばれないような下っ端だった。
 徴兵されて数ヶ月、ろくな剣の経験もなかった。
 矢野さんにも、沖田さんにも、まともに話しかけたことすらない。
 でも俺は――あの夜、確かに見てしまった。
“あのひとの最期の背中”を。
 
 その日、俺たちは最前線から退却していた。
 補給は切れ、天候は悪く、斥候の報告によれば敵軍が包囲の動きを始めていた。
 既に半数以上が負傷していた。
 俺も、左肩に矢が刺さり、両足をひどく負傷していたけれど、痛みよりも怖さのほうが勝っていた。
「……終わりだ」
 誰かが呟いたとき、俺は死ぬんだと思った。
 でもそのときだった。
 
 白い衣の男が、霧の中から現れた。
 静かに、しかしどこまでも確かに歩いてくるその姿に、俺は息を飲んだ。
「……沖田さんだ……」
 誰かがそう言った。
 その瞬間、空気が変わった。
 絶望に満ちた空気が、一転して――張り詰めた静寂へと変わったのだ。
 
「矢野さん、生きてますか?」
 その声は、落ち着いていて、優しかった。
「っ……ああ、生きてる」
 矢野さんの答えは、血にまみれていた。
 彼も動けないほどの傷を負っていた。
 沖田さんは、一度だけ矢野さんの顔を見た。
 目が合ったのかどうかはわからない。
 でも、何かが交わされたのは確かだった。
 
「僕が行きます」
 そう言って、沖田さんは剣を抜いた。
 誰も、止められなかった。
 止めようとした兵の手が震えていた。
 俺も、声を出せなかった。
 だって、あのときの沖田さんは、
 もう“人”じゃなかった。
 白装束をまとったその背は、まるで――風そのものだった。
 
 敵の姿はまだ見えていなかった。
 でも沖田さんは、それを“聴いて”いたのだろう。
「ここから先は、通さない」
 誰に向けた言葉でもなかった。
 けれど、あの場にいた全員が、それを聞いた。
 そして――
 
 あの人は、走った。
 霧の中へ。
 夜明け前の暗闇へ。
 一切の迷いも、躊躇もなく。
 その姿を見た瞬間、俺は立ち上がっていた。
「……行っちゃ、だめだ……っ!」
 そう叫んだ。
 誰かが俺を押し戻した。
「止めるな、これは……これは、あの人にしかできねぇ……!」
 俺はそのとき、初めて泣いた。
 戦場で、生きることが恥ずかしくなるほど、泣いた。
 
 しばらくして、爆音が響いた。
 火の手が上がり、敵軍が混乱しているのがわかった。
 指揮が崩れたのだろう。味方の退路が開け、命がつながった。
「今のうちだ、撤退しろ!」
 士官の声が響く中、俺たちは必死に動いた。
 でも、俺は何度も振り返った。
 白い背中を――
 もう見えないはずの、あの人を――探して。
 
 けれど、戻ってこなかった。
 
 後日、敵陣を制圧したとき、
 沖田静の姿は、どこにもなかった。
 遺体も、衣も、剣も、記録も。
 まるで最初から“存在していなかった”かのように、すべてが消えていた。
 
 俺は、名もない兵士だ。
 誰にも呼ばれないような、ただの一兵卒だ。
 でも――
 俺はあの夜、見た。
“自分の命よりも誰かを守るために走った男”を、見た。
 
 沖田さん――静さん。
 あなたは、風になったんですか。
 それともまだ、どこかで、生きているんですか。
 
(了)
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
【資料的描写】
「戦史記録抄・特異戦力《沖田静》に関する報告書」
※以下の記録は、当時の軍属士官による戦時資料の一部と推定される。
一部文章に破損・欠損が見られるため、補筆・整形した形式で転載する。
________________________________________
記録番号:弐百九十一/軍第三方面軍 特異戦力運用報告
記録年月:不明(推定・■■年 戦時下)
件名:「特異戦力《静》の前線運用および消失に関する報告」
 
一、対象人物
コードネーム:1103
階級:正式記録上なし(特例任用)
所属:第三方面軍・斥候及び切込み班 隊外協力要員
年齢:不明(推定15~17)
外見的特徴:細身、白装束(制式装備を拒否)、常時刀二振携帯
特筆事項:通常部隊規律外で運用。出撃時、指令を一任する特殊例。
通称:白の鬼神/斬らぬ剣/風使い
 
二、経歴および初出記録
対象は当初、■■道場の門弟として記録に存在。
軍による徴兵令後、特例として“推薦状”により前線へ配属された。
剣技は伝統的な流派に属さず、独自の間合いと踏込を持ち、
通常の剣術戦において不可解な動きを示す(※補足:映像記録なし)。
初戦においては、八倍の敵軍の包囲網を単独で撹乱し、
一切の殺傷報告がないまま敵軍壊滅に至らしめた。
 
三、行動特性および戦場評価
・戦場では極めて寡黙。必要最低限の指示のみ。
・剣術の殺傷性よりも、“動きを封じる”点に長けており、
 殺さずに制圧する術を多用。
・敵からの恐怖認識が極端に高く、
 一部地域では《白装束を見たら逃げろ》との伝令が確認される。
・一部士官は「人間ではない」「気配を持たない」等の表現を用いる。
・直属の上官を持たず、同班の矢野蓮(階級記録不明)のみが同行を許可されていた。
・敵軍複数戦線で「《沖田静》の存在により撤退判断が早まった」との報告あり。
 
四、消失および記録の終端
最後に確認されたのは、第三戦線・撤退作戦時。
同班所属の矢野蓮ほか、重傷兵の退避にあたる。
敵軍による包囲を受けた当時、
対象は単独で敵軍に突入、以後消息不明。
遺体、武具、衣類、血痕、遺留品いずれも確認されず。
(のちに鞘、衣類、刀身が発見される)
霧の中で“消えた”とする証言多数。
指揮官記録に「彼は人間ではなかったのかもしれない」旨の記述あり。
 
五、結論および備考
《沖田静》は、戦況において非人道的手段を取らずに複数戦果を挙げた稀有な存在であり、
陸戦における倫理的介入の可能性を示した例といえる。
同時に、彼のような存在が記録上“無”に帰したことは、
戦史における記憶の限界を象徴する。
我々は彼を英雄とは呼ばない。
ただ、誰もその名を知らずとも、
“彼がいた”という事実は、記録されるべきである。
 
記録末尾署名:第三方面軍記録官補佐 (署名不明瞭)
________________________________________
(了)