「アイをって、お前」
「やるんだよ一緒に、ベース持ってきてるんだろ?」
 オレの問いかけに一瞬戸惑ったような表情を貼り付けたユズだったが、観念したようにオレの腕を掴み返しながら軽く引っ張った。
「そこの角の教室、今回なににも使われていない準備室あるだろ。そこ寄れ」
 小さく頷きながら言われるまま教室のドアに手をかけると、普段は誰も使わないからと鍵がしまっているはずなのにすんなりと開く。首をかしげているオレの横をすり抜けると、ユズは迷う事なく中に入り近くに立てかけてあったベースケースに手を伸ばした。
「待たせたな」
 誰に言うでもなく落とした言葉と共に顔を出したのは、黒いボディが目を引くギヴソンのベース。少し褪せている部分はあったけどよく磨かれていて、オレの顔が反射して写り込んでいる。
「俺の相棒だ……やめたって意地張ったくせに手放せなかった、大切な相棒」
 指先は震えている。呼吸だって荒い。
 なにかを殺すように息を吐いて、そっとベースのボディを撫でていた。
「……チューニングはしてある、音は問題ない。入口までは行ったけど、足が動かなくて。だせぇだろ」
「なら行くぞ」
「ちょ、おい」
 ストラップを首に通したユズを確認してまた手を引くと、少しだけ不安そうにユズの瞳がまた揺れていた。
「お前、人の話!」
「ユズの足が動かないなら、オレが引っ張る。だからユズも今度、オレの足が動かなくなったら引っ張ってくれよ」
「ヒビ……」
 廊下を抜けた先、外に作られたステージに続く道の途中で、オレ達の姿を見つけるなり三人の影が手を振っている。
「あ、ヒビくんいた!」
「もう順番だよ、早くしなって。ほら転校生くんも」
「実行委員さん、次のグループきましたー!」
 三人が楽しそうに手を振っているから近づくと、ほらほら、と少し強めに背中を押される。
「ごめん三人とも、もしかして場を繋いでくれてたのか?」
「もち」
「ばっちりオーディエンス温めておいた」
「冷まさないでよね、ぶっ飛ばしてきて!」
「おっけー、任せろ!」
 親指をたてながら笑うオレとは正反対で、ユズは相変わらず状況が読めていないのか目を丸くしたままだ。
「いやそんな突然、曲も決めてないだろっ」
「いいからいいから」
 引っ張りながら舞台へ上がると、そんなオレ達に気づいたようで客席が少しだけ静かになる。その様子を横目に手を離すとさすがに逃げるつもりはないらしく、諦めたように立ち尽くしていた。
 そんなユズを眺めながら向かい合うように立って、呼吸を整える。少し気合を入れたい時のピックを手に持ちながらそっと弦を撫でていく。
「なあユズ、喧嘩しよう」
 ユズが入りやすいように、同じ音を並べていく。
「けん、か?」
「マスターが言ってた、バンドは音楽で殴り合いができるって。だから喧嘩をしようって」
 その言葉にあからさまなくらい顔をしかめたユズは、息を吐きながら呆れたように首を横に振っていた。
「意味わかんねえ、俺は付き合いきれない」
「じゃあ、逃げるのか?」
「……なにが言いたい」
 途端に不機嫌そうな目を向けてきたユズに、場違いにも内心ほくそ笑んでしまう。オレもチョロいと思うけど、案外ユズもチョロいらしい。こんな簡単な挑発に乗るなんて。
「自分に元々ないレッテルなんて貼って、悲劇のヒロインぶって」
「お前、俺のなにがわかって!」
「わかんねえよ、なにも。わからないから、知りたいんだ。ユズの事、伏見結弦の事をもっと」
 コードを変えた。
 少しだけさっきよりも強めに弦を弾きながら言葉を続ける。
「だからお前の事を知りたい、音をぶつけたい。ユズの言っていたアイってやつを叫びたい」
 ユズは? と聞くと、少し気まずそうに視線を逸らされてしまう。悩んだように口の中で言葉を転がして、ゆっくりとなにかを選んでいるようだ。
「おれ、は……」
 迷子のような顔だった。
 自分の居場所ではないように居心地が悪そうで、客席の方向で聞こえる声からも逃げるように視線を一瞬落とす。深く息を吐き出して、喉を鳴らして、それでもと言いたげにユズの手はネックを握りしめていた。
「……多分、怖いんだ」
 呼吸をするように、言葉を落とす。
「あの時ユウジに投げた言葉が、俺を刺すんだ。俺だけ居座るなって、自分の罪を忘れるなって……あの日からピックを持つだけで指は震えるし、バカみてえに呼吸だって荒いんだよ」
 ベースのボディを静かに撫でる、苦しそうに愛おしそうに撫でてゆっくりと顔を上げた。ブルーブラックの髪の向こう、視線がぶつかる。
「けどそれ以上に俺も、アイを叫びたい。暗い明けない夜の底から、目を覚ましたいんだ」
 もうその瞳に、アンバーに光る瞳に迷いはなかった。

「だからその喧嘩、買ってやるよ――久音」

 瞬間、音が爆発する。
 ピックスクラッチは龍の咆哮のようにステージを支配して、オレの音を飲み込んでいく。
「こいつっ……!」
 ギターの音すら喰おうとする低音は、もはや暴力のようだった。
 咄嗟に指を変えてダイナミクスコードを選ぶ。それにユズもすぐ反応してまた音を大きく鳴らした。
 客席がザワつく。
 けどその声も今は心地よい。
「やれるじゃねえか、結弦!」
「場数はお前より多いからな!」
 ギターもベースも、まるで生きているみたいだ。
 これが叫んでいるという事なのか、これがアイを歌っているのか。愛も哀も全部、音にして泣き叫んでいるのかもしれない。感情的に叫ぶそいつは、まるで自分みたいだ。他でもないオレ自身が叫んでいるような、そんな気分だった。
 あぁ――もう、この叫びを止めたくない。
「ギタリストがアイを叫ぶなら、オレが何回だって叫んでやる!」
「っ……上等!」
 ユズのベースが叫んだ。
 得意のスラップはあの時カフェで聴いたものより激しくて、サムゴーストでまるで話しているみたいだった。
「こっちだって……!」
 得意のGコードを、弦に初めて触れた日から何度も練習したGコードをかき鳴らす。
 強めに力を入れて、思いっきり鳴らしてやった。なにかから覚めたようにユズはアンバーの瞳を丸くして、すぐその目を細める。
「――夜が、明けたみたいだ」
 確かに、そう聞こえた。
 会場の喧噪の中で、うるさいくらいの自分達の指が生み出す音楽の中ではっきりと。
 まるでオレだけに聞こえているみたいに、オレとユズだけが世界から切り離されたみたいにはっきりと。
「――眩しい」
 穏やかな笑顔だった。
 微笑んで、ピックを握る手に力を込める。
「いいのかな、ユウジ」
 そのユズ自身の言葉をかき消すように、音が波のように押し寄せてくる。飲み込まれる。そう咄嗟に脳裏を過ぎった事は現実になって、押し寄せてくるみたいだ。
「すげえ……!」
 リズム隊であるベースが主役になる瞬間。激しくて殴りつけるような音を全身で感じて、つい喉を鳴らす。負けたくない、もっと叫びたい。もっとアイを叫んでいたい。
 一瞬が永遠に感じた。
 一小節は楽譜一枚分にも錯覚する。
 けどあっという間で、名残惜しいとすら思えてしまう。
「結弦!」
「ラストまで喰うのは俺の方だ、久音!」
「負けねえよ、オレだって!」
 音はぶつかって、殴り合って。それでも負けたくないと叫んで、アイをまた響かせる。
 気持ちがよかった、最後の一音まで終わりたくなかった。
 ぴったり最後まで音が重なったのは示し合わせたわけでもなく、ただ身体が勝手に動いていただけだ。ギターとベースの長い余韻は校内に響いて、オレ達の呼吸と余韻しか聞こえない状況ではなにもかもが大きく感じてしまう。
 意識が、現実に戻ってくる。
「おわ、った……?」
 舞台袖を見ると、さっきの三人が驚いた顔でオレ達を見ているのがわかる。次にステージから見下ろす形になっている客席を見ると、しんと静まり返っていて。もしかして下手だったかなとか、やっぱり打ち合わせはした方が正解だったかもしれないなんて。そんな一人反省会を始めそうになった時、遠くの方から乾いた音が聞こえる。
 それは徐々に大きくなって、膨れ上がって。
 拍手という形でオレとユズに押し寄せてきた。
「え、なにあの二人何者?」
「ギターの方二年だよな、もう一人は見た事ないけどどっちももしかしてプロかよ……」
「今の即興? クオリティやばすぎない?」
 あぁと、安心感から頬が緩んでしまう。褒められたのは些細な話だ。それより嬉しかったのは誰かの心にオレ達の叫んだアイが受け入れられたって事で。それをゆっくりと噛み締めていると、視界の端でなにかが揺れた。揺れて、ブルーブラックが床に沈んでいく。
「ユズ!」
 その場で倒れ込むユズに気づき駆け寄ると、意識はあるようで浅く呼吸を繰り返しながら空をじっと見ていた。
「ゆ、ユズ? 結弦さん?」
 おそるおそる名前を呼ぶと、のそりと身体を起こす。
 倒れ込みながらも大切に抱きしめていたベースを見つめて、ピクリとも動かなくなり。ふと呼吸とともに光を宿した瞳は、幸せに満ちたようにも思える。
 ゆっくり、ゆっくりと宝物に触れるように。ベースをもう一度抱きしめて、あぁ、と言葉を続ける。その表情はベースで見えなかったけど、声音はなによりも甘ったるい。
「――すっげえ、たのしい」
 ただそれだけだった。
 その拙い言葉だけでオレの心臓はうるさいくらいに暴れまわっていて、つい目を細めてしまう。
「っし、じゃあオレの勝ちだな」
 思わずガッツポーズをすると、冷めたような目をオレに向けつつもユズの表情は少しだけ柔らかかった。
「そういう事にしてやるよ」
 風が抜けていく。優しく頬を滑る。
 ユズのブルーブラックの髪がまるで誰かの手で撫でられるように揺れていて、それがなによりも嬉しかった。