「久音くん、水がこぼれてるよ」
「え、あ、あぁ!?」
マスターの言葉で我に返り目に止まったのは洪水を起こすコップで、慌ててピッチャーを置きながら近くに置いてあったタオルで水を吸い取っていく。色を変えるタオルを見つめながら、つい溜息を零した。
「すみませんマスター……」
やってしまったというのが正直な話だ。
ずっとユズの言葉が頭を離れなくて、胸の奥が苦しい。
「……覚悟って、なんだろう」
きっとオレの正直でありたい気持ちとユズの覚悟は違うものでできている。
だからわからないし、お互い理解ができない。けど、それでもユズの言葉はオレから離れようとしなかった。覚悟って、アイを叫ぶってなんだろう。
「久音くんが仕事中考え事なんて珍しい、なんかあったかい?」
そんなオレを心配したマスターが、静かに顔を覗き込んでくる。
「特になにも……」
言葉を濁そうとして、そのまま飲み込んだ。
濁したところでなにも変わらなくて、オレのモヤモヤは居座ったままだから。だから、言葉を選んで吐き出していく。
「……マスター」
「なんだい?」
「……音に正直になるって、そんなに難しい事ですかね」
「……結弦くんと、なにかあったかな?」
図星をつかれたと思う。
そんなにもわかりやすかったかと反省しつつ小さく首を縦に動かしてもマスターはなにも言わない、オレの言葉を待っているようだった。静かに、オレの吐き出す言葉を待ってくれている。
「あいつは音楽の事、楽器を弾く事を覚悟って言ってました。好きなだけじゃだめなのはわかっているけど、オレにはユズの言っていた覚悟がいまいちピンとこなくて」
ずっと、ずっと考えていた。
あいつの言葉の意味を、真意を。
けど答えが見つかるわけではなくて、吐き出しかけた弱音を飲み込みながらそっと目を伏せる。すっかり色を変えたタオルから、ただ静かに水が滴るだけだ。
「久音くんはできるけど、音楽に正直でいるのは案外難しい事なんだ」
まるでオレ以外の誰かに言い聞かせるように、マスターは言葉を続ける。
「久音くん、君のその感性は君だけのものだ。音に素直であれるのも、そして人の音に敏感である事も……だがそれは時に、久音くん以外には理解されずらい面でもある」
それは他でもない、オレがわかっていた。
音には魂が宿る。だからこそ音は口ほどにものを言う。
怒っている時は荒々しい、悲しい時は弱々しい。苦しい時は、今にも泣き出しそうな音が。だから聴いてくれる人にそれを悟られないよう、音には正直でなければいけない。ただそれだけのはずなのに、どうして音に向き合うのはこんなにも難しいのだろう。
「大人になれば、考える事もたくさん出てくる。そしてそれを隠すのは、純粋に前のものとだけ向き合うのは難しい」
けどね、と言葉を続けたマスターの表情はどこか悲しそうだった。
「だからこそそれができる久音くんにはそのままであってほしい、君が好きな音楽をこれからも信じてあげてほしいんだ」
まるで呪いのような言葉だった。
呪いのようで、祝福にも似た言葉だった。
「――はい、もちろんです」
マスターの言葉だって、いつもまっすぐだ。
優しさも強さも詰め込んだ言葉に目を細めたが、すぐにあいつの顔を思い出し綺麗にしたばかりのテーブルに思わず突っ伏した。
「オレは信じても……目の前の奴がやっぱり気に食わなくて」
「本当に、結弦くんをほっとけないみたいだね」
「……だって、あんなに楽しそうに弾くのに苦しそうなんて、そんなの可哀想で」
オレになにかできる事なんて、考えるたびに自分の無力さを痛感する。
「そうだね……久音くんの一方通行ではなく結弦くんの言葉も聞けたら、きっと変わると思うんだけどね」
「……じゃあなんだろう、喧嘩っすかね」
「ふふ、ふは! 喧嘩か、それはいいかもしれない!」
今のがどうやらマスターのツボに入ったらしく、腹を抱えて笑い始めてしまう。
「や、やっぱり表現まずかったです?」
「いや、最高だよ。そうだね、喧嘩はいいかもしれない」
本気でひとしきり笑ったマスターは涙を拭きながら、強く何度も頷いていた。
「男性バンドのいいところは喧嘩できる事だな、どんな嫌な事があっても音楽で殴り合い音楽で仲直りできる」
「音楽で、殴り合う」
「そうさ、男女でも同じかも知れないけど……女性バンドより、男性バンドは馬鹿だからね」
「バカってなんすかそれ、いやそうかもしれないですけど」
なにも反論できないのは心当たりがあるからかもしれない。男女関係なくバンドの良さはあるけど、確かに男性バンドはバカだ。大バカで、力に任せて殴りあえる。
「……いざって時は、ユズの事を殴ります」
そのいつかがこない事を願いながら笑ってしまったのは、もしかするとそんな日がきても楽しいかもしれないなんて思ったからだろう。
***
「そういえばマスター、次のシフトなんですけど……ちょっとだけ出られる日が減っちゃいそうで」
閉店作業をしている時思い出したように発した言葉に、マスターは不思議そうに首をかしげた。困っているというよりは驚いている顔で、おや、と言葉を続けてくる。
「それは全然構わないけど……いつもよりちょっといいストラップが欲しいって言ってなかったかい? 目標金額貯まった?」
「それはそうなんですけどー……」
ボロボロになったネックを買い替えたい気持ちはかなり大きいが、今のところはぐっと抑えて溜息をつく。
「……もうすぐ文化祭でして」
「おや、大譜高校の文化祭って確か体育祭と一緒にやると聞いてるから……あぁ、もう六月なんだね。それはだめだ、ちゃんと参加しておいで」
理由を聞いたら納得したようで、マスターは楽しそうに笑っていた。
「うちのクラス、展示なんで当日は暇なんですけど準備が多くて……」
「なるほどね、僕も行っていいやつかな?」
「え、マスターきてくれるんすか!」
「もちろん、大切なうちの従業員が用意したものだからできるなら見に行きたいよ」
大袈裟だと思ったけど、それでも嬉しかった。
「じゃあマスター、当日案内しますよ。前日までの準備があるだけで後はなにかあった時の案内役を当番でするだけなんで」
「そんないいよ、おじさんは気ままにお邪魔して気ままに帰るさ」
ケラケラと笑ったマスターはふとなにかを思い出したように食器を起きながら久音くん、とオレの名前を呼んできた。
「大譜の文化祭は、確か音楽ステージがあったよね」
「あ、はい。あります」
音楽に愛された街は、学生時代からサブカルチャーなどに敏感な部活が多い。
演劇部は市内有数、吹奏楽も全国大会常連。
そしてなにより、有志のステージが人気の一つだ。
「そういや、今年も練習してる人が増えたな……」
「じゃあ久音くんも、それに出たらいいじゃないか」
「おれ、も?」
つい素っ頓狂な声が出てしまう。
オレもステージ枠に出るなんて考えていなかった、考えた事もなかった。けど確かに、そうかもしれない。大譜祭のステージ枠は生徒なら誰だって出られるのだ、ならばオレもその権利を持っている。
「いつもと違う人たちの前で演奏を披露するのは、案外度胸付けにはいいものだよ」
「そうっすね、いいかも!」
「あぁ……そしてそれは、なにも一人で出ると決められているわけではない」
やけに含みのある言い方だと思った。
そしてその含みを、オレはしっかりと汲み取った。
「確かに……そうっすね、さすがマスター!」
「え、あ、あぁ!?」
マスターの言葉で我に返り目に止まったのは洪水を起こすコップで、慌ててピッチャーを置きながら近くに置いてあったタオルで水を吸い取っていく。色を変えるタオルを見つめながら、つい溜息を零した。
「すみませんマスター……」
やってしまったというのが正直な話だ。
ずっとユズの言葉が頭を離れなくて、胸の奥が苦しい。
「……覚悟って、なんだろう」
きっとオレの正直でありたい気持ちとユズの覚悟は違うものでできている。
だからわからないし、お互い理解ができない。けど、それでもユズの言葉はオレから離れようとしなかった。覚悟って、アイを叫ぶってなんだろう。
「久音くんが仕事中考え事なんて珍しい、なんかあったかい?」
そんなオレを心配したマスターが、静かに顔を覗き込んでくる。
「特になにも……」
言葉を濁そうとして、そのまま飲み込んだ。
濁したところでなにも変わらなくて、オレのモヤモヤは居座ったままだから。だから、言葉を選んで吐き出していく。
「……マスター」
「なんだい?」
「……音に正直になるって、そんなに難しい事ですかね」
「……結弦くんと、なにかあったかな?」
図星をつかれたと思う。
そんなにもわかりやすかったかと反省しつつ小さく首を縦に動かしてもマスターはなにも言わない、オレの言葉を待っているようだった。静かに、オレの吐き出す言葉を待ってくれている。
「あいつは音楽の事、楽器を弾く事を覚悟って言ってました。好きなだけじゃだめなのはわかっているけど、オレにはユズの言っていた覚悟がいまいちピンとこなくて」
ずっと、ずっと考えていた。
あいつの言葉の意味を、真意を。
けど答えが見つかるわけではなくて、吐き出しかけた弱音を飲み込みながらそっと目を伏せる。すっかり色を変えたタオルから、ただ静かに水が滴るだけだ。
「久音くんはできるけど、音楽に正直でいるのは案外難しい事なんだ」
まるでオレ以外の誰かに言い聞かせるように、マスターは言葉を続ける。
「久音くん、君のその感性は君だけのものだ。音に素直であれるのも、そして人の音に敏感である事も……だがそれは時に、久音くん以外には理解されずらい面でもある」
それは他でもない、オレがわかっていた。
音には魂が宿る。だからこそ音は口ほどにものを言う。
怒っている時は荒々しい、悲しい時は弱々しい。苦しい時は、今にも泣き出しそうな音が。だから聴いてくれる人にそれを悟られないよう、音には正直でなければいけない。ただそれだけのはずなのに、どうして音に向き合うのはこんなにも難しいのだろう。
「大人になれば、考える事もたくさん出てくる。そしてそれを隠すのは、純粋に前のものとだけ向き合うのは難しい」
けどね、と言葉を続けたマスターの表情はどこか悲しそうだった。
「だからこそそれができる久音くんにはそのままであってほしい、君が好きな音楽をこれからも信じてあげてほしいんだ」
まるで呪いのような言葉だった。
呪いのようで、祝福にも似た言葉だった。
「――はい、もちろんです」
マスターの言葉だって、いつもまっすぐだ。
優しさも強さも詰め込んだ言葉に目を細めたが、すぐにあいつの顔を思い出し綺麗にしたばかりのテーブルに思わず突っ伏した。
「オレは信じても……目の前の奴がやっぱり気に食わなくて」
「本当に、結弦くんをほっとけないみたいだね」
「……だって、あんなに楽しそうに弾くのに苦しそうなんて、そんなの可哀想で」
オレになにかできる事なんて、考えるたびに自分の無力さを痛感する。
「そうだね……久音くんの一方通行ではなく結弦くんの言葉も聞けたら、きっと変わると思うんだけどね」
「……じゃあなんだろう、喧嘩っすかね」
「ふふ、ふは! 喧嘩か、それはいいかもしれない!」
今のがどうやらマスターのツボに入ったらしく、腹を抱えて笑い始めてしまう。
「や、やっぱり表現まずかったです?」
「いや、最高だよ。そうだね、喧嘩はいいかもしれない」
本気でひとしきり笑ったマスターは涙を拭きながら、強く何度も頷いていた。
「男性バンドのいいところは喧嘩できる事だな、どんな嫌な事があっても音楽で殴り合い音楽で仲直りできる」
「音楽で、殴り合う」
「そうさ、男女でも同じかも知れないけど……女性バンドより、男性バンドは馬鹿だからね」
「バカってなんすかそれ、いやそうかもしれないですけど」
なにも反論できないのは心当たりがあるからかもしれない。男女関係なくバンドの良さはあるけど、確かに男性バンドはバカだ。大バカで、力に任せて殴りあえる。
「……いざって時は、ユズの事を殴ります」
そのいつかがこない事を願いながら笑ってしまったのは、もしかするとそんな日がきても楽しいかもしれないなんて思ったからだろう。
***
「そういえばマスター、次のシフトなんですけど……ちょっとだけ出られる日が減っちゃいそうで」
閉店作業をしている時思い出したように発した言葉に、マスターは不思議そうに首をかしげた。困っているというよりは驚いている顔で、おや、と言葉を続けてくる。
「それは全然構わないけど……いつもよりちょっといいストラップが欲しいって言ってなかったかい? 目標金額貯まった?」
「それはそうなんですけどー……」
ボロボロになったネックを買い替えたい気持ちはかなり大きいが、今のところはぐっと抑えて溜息をつく。
「……もうすぐ文化祭でして」
「おや、大譜高校の文化祭って確か体育祭と一緒にやると聞いてるから……あぁ、もう六月なんだね。それはだめだ、ちゃんと参加しておいで」
理由を聞いたら納得したようで、マスターは楽しそうに笑っていた。
「うちのクラス、展示なんで当日は暇なんですけど準備が多くて……」
「なるほどね、僕も行っていいやつかな?」
「え、マスターきてくれるんすか!」
「もちろん、大切なうちの従業員が用意したものだからできるなら見に行きたいよ」
大袈裟だと思ったけど、それでも嬉しかった。
「じゃあマスター、当日案内しますよ。前日までの準備があるだけで後はなにかあった時の案内役を当番でするだけなんで」
「そんないいよ、おじさんは気ままにお邪魔して気ままに帰るさ」
ケラケラと笑ったマスターはふとなにかを思い出したように食器を起きながら久音くん、とオレの名前を呼んできた。
「大譜の文化祭は、確か音楽ステージがあったよね」
「あ、はい。あります」
音楽に愛された街は、学生時代からサブカルチャーなどに敏感な部活が多い。
演劇部は市内有数、吹奏楽も全国大会常連。
そしてなにより、有志のステージが人気の一つだ。
「そういや、今年も練習してる人が増えたな……」
「じゃあ久音くんも、それに出たらいいじゃないか」
「おれ、も?」
つい素っ頓狂な声が出てしまう。
オレもステージ枠に出るなんて考えていなかった、考えた事もなかった。けど確かに、そうかもしれない。大譜祭のステージ枠は生徒なら誰だって出られるのだ、ならばオレもその権利を持っている。
「いつもと違う人たちの前で演奏を披露するのは、案外度胸付けにはいいものだよ」
「そうっすね、いいかも!」
「あぁ……そしてそれは、なにも一人で出ると決められているわけではない」
やけに含みのある言い方だと思った。
そしてその含みを、オレはしっかりと汲み取った。
「確かに……そうっすね、さすがマスター!」



