「なあ、なにしてんだ」
昼下がりの屋上は誰もいない。
ただ空を見るように大の字で寝ていたユズの顔を覗き込むと、あからさまに顔をしかめながらゆっくりと身体を起こしていた。
「なんだ、ヒビか」
「お、その呼び方みんなから聞いたのか?」
大譜高校に入学してからすぐに付けられた愛称、日比野久音だからヒビくん。
ユズにこの話はした事がなかったはずだが、すでに耳には入っていたらしい。
「こっちきてしばらく経つんだ、いい加減慣れたよ……クラスじゃかなり人気者みたいだな、ヒビくん?」
「別に、人気者ってほどじゃないよ」
小さく首を横に振ってもユズは興味なさそうにオレを見ているから、空いていた隣にオレも腰を下ろす。
「いいよ久音で」
「……気が向いたらな」
絶対気が向かない時の言い方だ。
そのつもりなんてないくせに。
「それで、なにしてたんだよ。皆LHRあるから教室にほとんど残ってるのに」
「休み時間なにをしてても俺の勝手だろ」
あからさまなくらい不機嫌そうな顔を作ったユズは、そのまま肌を撫でる風に目を細めていた。
なにをするわけでもない、静かで穏やかな時間。ふとそこに聞こえてきたのは弦の音で、チューニングを早々に済ませたと思えばデタラメにコードを弾き始めた。
「……楽器の音」
「あぁ、もうすぐ大譜祭だからそれかも」
「おお、ふさい?」
首をかしげたユズに、オレは小さく頷く。
「文化祭、外部も呼んでいいけっこうデカめの文化祭だよ」
大譜高校は、栄音地区の中でも比較的大きい私立高校だ。音楽やサブカルチャーの発展した名古屋は、比較的バンド系も活発だ。大譜の文化祭と言えばバンドステージなんて近所では言われているくらいで、毎年この時期になると隙間の時間によく練習の音が聴こえてくる。
「ユズは東京にいた時、文化祭なにしたんだ?」
興味本位で言葉を投げたら、ユズの表情が険しくなる。
「してない、ちょうど一年生の文化祭辺りでプロの打診があったからな。そこまで学校行事にも参加してなかった……二年生は、やる前にこっちきたから」
少し、ほんの少しだけ苦しそうに言葉を吐き出していた。
そんなユズのかける言葉は見つからなくてただ聞いていると、どこか遠くを見ている。けどそれはどちらかと言えば、不快よりも楽しそうという言葉が似合う。
「……下手くそ、チューニングくらいちゃんとしろよ」
悪態をつきながら出した低い声は、どこからともなく聞こえてくるベースに対して。
けどその表情は、その顔は。
なによりもその下手くそと評した音を楽しんでいて、嬉しそうに目を細めている。
多分、多分だけど。
こいつは、ユズは音楽を嫌いになりきれていないんだ。好きでたまらない、きっと音楽バカってやつなんだ。
「……ユズは、さ」
喉元で、言葉が詰まった。
聞いてはいけないと思う。それでもユズを見ていると音楽が嫌いとは思えなくて。ずっと腹の底になにかを閉じ込めているように見えて、それを見ているとオレの方まで苦しく感じる。
「ユズは……なんでベースをやめたんだ?」
「それは……」
瞬間、ユズは顔をしかめた。
それは苦しさや諦め、誰かへの怒りがこもっているようで、深く息を吐きながら力なく首を横に振るだけだった。多分今、オレはユズの地雷を踏んだ。それは他でもない自分がよくわかっている。けど、それでも言葉を飲みこむ事ができなかった。
「……お前に言ったところで、わかんねえだろ」
「あぁ、わかんない。わからないけど、ユズが好きな音楽に対して苦しそうなのは嫌だから」
「っ……」
ハッと顔を上げた。
なにかに気づいたようで、ぐっと顔をしかめる。しばらすなにかを考えているのか押し黙ったまま、深く息を吐き出した。
「……好きな、音楽」
言葉を一文字ずつ咀嚼するように落として、力なく首を横に振る。
「教えてやるよヒビ、お前が思っているほど音楽は優しくない」
けどそれは肯定ではない、諦めの色が滲み出た否定だった。
「ギタリストは、その腕一つでアイを叫ぶ事ができるんだ。お前にその覚悟はあるのか?」
「かく、ご……」
首をかしげる。
考えた事もなかった、そんな事。覚悟とかアイを叫ぶとか、そんな事。けどきっとユズだから、ユズにはその覚悟があるのかもしれない。
「プロになるって事は、裸になるって事だ。野ざらしの状態で知らない誰かにアイを叫ぶ……誰の感情だって揺さぶってしまう、愛も哀もその音で支配できるんだ。その覚悟がない奴とは話す気もない」
まるでユズが、ユズ自身に言っているようだ。
オレじゃない誰かに、オレに言っているはずなのにそれは横をすり抜けていく。
「ない、そんな覚悟は」
だからオレも、誰に言うでもなく言葉を落とす。
「は…………?」
ユズは目を丸くした。
困惑や動揺が色濃いそれはオレの意図がわからないと言いたげで、じっとオレの事を見つめている。
「そんな覚悟はないけど、オレは音に正直でありたいんだ。音に真っ向から挑む事に、理由なんていらないってオレは思う」
本音だった、心の底からの言葉だった。
音には正直でありたいから。
指先一つで紡がれた音には感情が乗るからこそ、喜怒哀楽がわかりやすい。怒りに任せた音も悲しみで手が震える音も、なにもかもが聞き手にとってはノイズになってしまう。だからこそせめて、オレの音楽を聴く人には楽しいと思ってほしい。乗っかった音が正直で、素直だなと思ってほしかった。
「って言っても、これ受け売りなんだけどな。オレの大好きなバンドと……それから、大切な師匠が言ってた言葉だ」
昔読んだ大好きなバンドのインタビュー記事。
そこでギターの人が言っていた言葉は音楽に携わっている一部の人には語り継がれているものなのか、マスターもいつだったか同じ事を言っていた。だからこれは、オレの中でも大切な言葉。ただそれだけの話だったが、視界の端に揺れたユズの表情はなにか違っていた。
驚いたような苦しいような、今にも泣き出しそうな。
「……ゆう、じ」
アンバーの瞳は、オレのヘーゼルの瞳とぶつかっているはずなのに。
それなのにどこか遠く、オレじゃない誰かを見ているようだった。
「って、ユズ? どうしたボーっとして」
「……あ、いや」
名前を呼んでやると我に返ったのか、ハッと顔を勢いよく上げた。口の中で言葉を転がしながらなにかを考えているのかしばらく視線を泳がせて、やがて深く息を吐き出す。
「……なんでもない」
ゆっくりと立ち上がりながら、静かにドアの方へ歩いて行ってしまう。追うにもその背中はなんだか寂しそうで、苦しそうで。
ただ静かに、それを見送る事しか今のオレにはできなかった。
昼下がりの屋上は誰もいない。
ただ空を見るように大の字で寝ていたユズの顔を覗き込むと、あからさまに顔をしかめながらゆっくりと身体を起こしていた。
「なんだ、ヒビか」
「お、その呼び方みんなから聞いたのか?」
大譜高校に入学してからすぐに付けられた愛称、日比野久音だからヒビくん。
ユズにこの話はした事がなかったはずだが、すでに耳には入っていたらしい。
「こっちきてしばらく経つんだ、いい加減慣れたよ……クラスじゃかなり人気者みたいだな、ヒビくん?」
「別に、人気者ってほどじゃないよ」
小さく首を横に振ってもユズは興味なさそうにオレを見ているから、空いていた隣にオレも腰を下ろす。
「いいよ久音で」
「……気が向いたらな」
絶対気が向かない時の言い方だ。
そのつもりなんてないくせに。
「それで、なにしてたんだよ。皆LHRあるから教室にほとんど残ってるのに」
「休み時間なにをしてても俺の勝手だろ」
あからさまなくらい不機嫌そうな顔を作ったユズは、そのまま肌を撫でる風に目を細めていた。
なにをするわけでもない、静かで穏やかな時間。ふとそこに聞こえてきたのは弦の音で、チューニングを早々に済ませたと思えばデタラメにコードを弾き始めた。
「……楽器の音」
「あぁ、もうすぐ大譜祭だからそれかも」
「おお、ふさい?」
首をかしげたユズに、オレは小さく頷く。
「文化祭、外部も呼んでいいけっこうデカめの文化祭だよ」
大譜高校は、栄音地区の中でも比較的大きい私立高校だ。音楽やサブカルチャーの発展した名古屋は、比較的バンド系も活発だ。大譜の文化祭と言えばバンドステージなんて近所では言われているくらいで、毎年この時期になると隙間の時間によく練習の音が聴こえてくる。
「ユズは東京にいた時、文化祭なにしたんだ?」
興味本位で言葉を投げたら、ユズの表情が険しくなる。
「してない、ちょうど一年生の文化祭辺りでプロの打診があったからな。そこまで学校行事にも参加してなかった……二年生は、やる前にこっちきたから」
少し、ほんの少しだけ苦しそうに言葉を吐き出していた。
そんなユズのかける言葉は見つからなくてただ聞いていると、どこか遠くを見ている。けどそれはどちらかと言えば、不快よりも楽しそうという言葉が似合う。
「……下手くそ、チューニングくらいちゃんとしろよ」
悪態をつきながら出した低い声は、どこからともなく聞こえてくるベースに対して。
けどその表情は、その顔は。
なによりもその下手くそと評した音を楽しんでいて、嬉しそうに目を細めている。
多分、多分だけど。
こいつは、ユズは音楽を嫌いになりきれていないんだ。好きでたまらない、きっと音楽バカってやつなんだ。
「……ユズは、さ」
喉元で、言葉が詰まった。
聞いてはいけないと思う。それでもユズを見ていると音楽が嫌いとは思えなくて。ずっと腹の底になにかを閉じ込めているように見えて、それを見ているとオレの方まで苦しく感じる。
「ユズは……なんでベースをやめたんだ?」
「それは……」
瞬間、ユズは顔をしかめた。
それは苦しさや諦め、誰かへの怒りがこもっているようで、深く息を吐きながら力なく首を横に振るだけだった。多分今、オレはユズの地雷を踏んだ。それは他でもない自分がよくわかっている。けど、それでも言葉を飲みこむ事ができなかった。
「……お前に言ったところで、わかんねえだろ」
「あぁ、わかんない。わからないけど、ユズが好きな音楽に対して苦しそうなのは嫌だから」
「っ……」
ハッと顔を上げた。
なにかに気づいたようで、ぐっと顔をしかめる。しばらすなにかを考えているのか押し黙ったまま、深く息を吐き出した。
「……好きな、音楽」
言葉を一文字ずつ咀嚼するように落として、力なく首を横に振る。
「教えてやるよヒビ、お前が思っているほど音楽は優しくない」
けどそれは肯定ではない、諦めの色が滲み出た否定だった。
「ギタリストは、その腕一つでアイを叫ぶ事ができるんだ。お前にその覚悟はあるのか?」
「かく、ご……」
首をかしげる。
考えた事もなかった、そんな事。覚悟とかアイを叫ぶとか、そんな事。けどきっとユズだから、ユズにはその覚悟があるのかもしれない。
「プロになるって事は、裸になるって事だ。野ざらしの状態で知らない誰かにアイを叫ぶ……誰の感情だって揺さぶってしまう、愛も哀もその音で支配できるんだ。その覚悟がない奴とは話す気もない」
まるでユズが、ユズ自身に言っているようだ。
オレじゃない誰かに、オレに言っているはずなのにそれは横をすり抜けていく。
「ない、そんな覚悟は」
だからオレも、誰に言うでもなく言葉を落とす。
「は…………?」
ユズは目を丸くした。
困惑や動揺が色濃いそれはオレの意図がわからないと言いたげで、じっとオレの事を見つめている。
「そんな覚悟はないけど、オレは音に正直でありたいんだ。音に真っ向から挑む事に、理由なんていらないってオレは思う」
本音だった、心の底からの言葉だった。
音には正直でありたいから。
指先一つで紡がれた音には感情が乗るからこそ、喜怒哀楽がわかりやすい。怒りに任せた音も悲しみで手が震える音も、なにもかもが聞き手にとってはノイズになってしまう。だからこそせめて、オレの音楽を聴く人には楽しいと思ってほしい。乗っかった音が正直で、素直だなと思ってほしかった。
「って言っても、これ受け売りなんだけどな。オレの大好きなバンドと……それから、大切な師匠が言ってた言葉だ」
昔読んだ大好きなバンドのインタビュー記事。
そこでギターの人が言っていた言葉は音楽に携わっている一部の人には語り継がれているものなのか、マスターもいつだったか同じ事を言っていた。だからこれは、オレの中でも大切な言葉。ただそれだけの話だったが、視界の端に揺れたユズの表情はなにか違っていた。
驚いたような苦しいような、今にも泣き出しそうな。
「……ゆう、じ」
アンバーの瞳は、オレのヘーゼルの瞳とぶつかっているはずなのに。
それなのにどこか遠く、オレじゃない誰かを見ているようだった。
「って、ユズ? どうしたボーっとして」
「……あ、いや」
名前を呼んでやると我に返ったのか、ハッと顔を勢いよく上げた。口の中で言葉を転がしながらなにかを考えているのかしばらく視線を泳がせて、やがて深く息を吐き出す。
「……なんでもない」
ゆっくりと立ち上がりながら、静かにドアの方へ歩いて行ってしまう。追うにもその背中はなんだか寂しそうで、苦しそうで。
ただ静かに、それを見送る事しか今のオレにはできなかった。



