ずっと胸の奥にあいつの言葉が残っていた。
 くるくると指先でシャープペンシルを回しながら、肩を落とす。やらないって、なんでだよ。どうしてあんなにも楽しそうに音楽雑誌を見て楽器カフェなんかにくるのに、それなのに誰ともセッションしないなんて言うんだ。
 ふつふつと腹の底から湧く疑問は徐々に怒りに変わっていて、ぐぐぐと喉の奥から唸り声が漏れ出てしまう。
 多分だけどオレ、もったいないってどこかで思っているんだ。
 あれだけ楽しそうなのに、あれだけ幸せそうに見ているのに。それなのにもうやめただなんて、そんな事。
「やっぱ、もったいねえよ」
「こら日比野、話聞いてたか」
「え、あ……すみません、ぼーっとしてました」
「お前って奴は……」
 首をかしげると目の前にいた担任は呆れたように笑っていて、クラスの奴らも楽しそうにそんなオレ達のやり取りを見て笑っている。
「転入生の紹介くらいちゃんと聞いてろ」
「ごめんなさいー……って、転入生?」
 こんな時期に珍しいと思い顔を上げると、ふとそいつと目が合った。
 何度も考えた、何度も見たあの瞳と視線がぶつかる。
「東京から引っ越してきた伏見結弦くん、卒業までこのまま文系二科だからみんなには仲良くしてほしい」
 ブルーブラックが揺れている。
 アンバーの瞳がじっと、オレの事を静かに見つめていた。
「――ユズ?」
「…………げ」
 あからさまなくらい嫌な顔をしたユズは、オレの事を見るなり喉の奥から低い声を漏らす。
「おま、なんでっ」
「ユズこそ、え、クラス一緒!」
「やめろ近づくな暑苦しい」
 顔を近づけようとしたオレから距離を取ろうとしたユズだったが、そんな事は気にせずズイと距離を縮める。半歩下がられたから大股でまた近づいてやると、観念したようにユズは肩を落としていた。
「なんだ日比野お前、伏見と知り合いだったのか」
「はい、バイト先でちょっと」
「お前のバイト許可証は書いた覚えないぞ、聞かなかった事にしてやるから二度と言うなよ」
 ドッと教室が沸くのを横目に、ユズは少しだけ居心地が悪そうに顔をしかめている。
 やっぱりだ、遠くから見てもわかるくらい指は太くてごつごつしてて、弦を押さえている指だ。
 オレと同じ、バカみたいに音楽が好きな奴の手をしていた。

 ***

「おい痛、離せ!」
「離したらお前逃げるだろ」
「当たり前だ!」
 栄音地区の街を、ユズの腕を掴んだまま抜けていく。
 通り慣れた道を進んで街の隅、少し年季が入ったドアをぐっと押すといつもと同じ乾いたドア・チャイムがカラン、と静かに音を鳴らした。
「マスターこんにちは!」
「おい、ちょっと!」
「おや、久音くんこんにちは。今日はシフト入ってなかったよね……それに、君は」
 オレの後ろにいるユズに気づいたのか、マスターはなにかを察したように笑っていた。
「今日はお客さんって事かな」
「はい……マスター、その」
「いいよ、今日は誰もいないから好きなだけ使ってくれ」
「ありがとうございます!」
 マスターの返事を聞くなり弾かれたように返事をすると、そのまま困惑した表情を貼り付けたユズの手を引きながら店の奥へ進んでいく。いつもの見慣れたカフェスペースのさらに奥、マツヤニの匂いが濃くなったそこに足を踏み入れると、声を上げたのはオレではなくユズの方だ。
「これまさか、全部楽器……?」
 アコースティックギターやエレキはもちろん、ベースやビオラも。ドラムやキーボードと言った弦楽器以外もあれば、変わり種で琵琶までところ狭しと壁や床に並んでいる。
「ここ、は……?」
「全部マスターのコレクション」
「ぜんぶっ、これだけのものを……!?」
「あぁ、チューニングは毎朝マスターがしているからそのまま弾けるぞ」
「この量を、毎朝……?」
 信じられないものを見るような目で口をパクパクと動かしていた。
「音楽が好きとか、そういうレベルじゃない……なんだよこれ」
 正直、連れてきたのは賭けだった。
 ユズが楽器を弾いてくれるかなんてわからない。わからなくてもなにもしないのは嫌だった。これで嫌がるならきっとユズはもう、バンドが本当に好きじゃない。けどオレにはそうと思えない。だってユズはこんなにも楽しそうで夢中だから、このままなんてもったいないから。
「そう褒められるとメンテナンスをしてよかったと思えるよ……どうだい、一曲」
 カウンターからマスターが顔を覗かせると、ユズは少しだけ驚いた様子で目を丸くしていた。オレの視線とマスターの視線。二つに挟まれたユズはなにも言えないようで、むしろどこか居心地が悪そうに顔をしかめながら深く息を吐き出していた。
「……お前のためじゃない、これだけ全部メンテナンスしているこの店のマスターのためだ」
 近くに置かれていた椅子に鞄を下ろし、視線を壁に向ける。
 なにかを悩んでいるのはわかるからその様子を見ていると、ふと手がある一つの楽器に伸びた。
「あれ……?」
 ユズが手に取ったのはギターではない、マスターのお気に入りであるリッケンバッカーのベースだった。
 なんで、ギターじゃなくてベースなんだろう。明確にベースやギターのピックは決められていないが、それでも弦の関係で厚みの善し悪しは存在する。ギターは薄め、対して低音を出すベースは弦も太く割れやすいから厚めのピックを好まれる傾向が多い。
 この前のピックは持った感じ薄くて、どちらかと言えばオレみたいなギター向けだ。てっきりこいつもそうかと思ったのに、ポケットから取り出したピックはこの前と違うものだった。鈍く銀色に光るフェルナンデスのヘビーピック、形は小さめのドロップ型。しっくりくるところに持ち直して、ふと息を吐き出した。
「――これっきりだからな」
 それが合図だった。
 地を這うような音が、世界を震わせるような音がカフェを支配する。
「っ……!」
「……ほう、いい音を鳴らすね」
 最初は、本当にただのオスティナートだった。どこまでもしっかりとした粒はブレもぼやけもせず、的確に繰り返される。けどそれはほんのウォーミングアップだったらしい。
 動いた視線が、右手の指先がすべてを持っていく。自分の身体のように操り生み出された音は、ベースのはずなのにまるで生きているみたいだ。
 激しい、龍が叫ぶようなスラップで生み出された音達が全身に流れ込んでくる。
「す、すげえ……」
 悔しいくらい夢中になっていた。
 悔しいくらい、その音に掴まれていた。
 息をするのも忘れそうなそれは魂が叫んでいるようだ。叫んで、全部なにもかも喰い尽くされそうだと思う。
 なんだよお前、やっぱり好きじゃん。
 どうしようもなく好きで、音楽バカじゃん。
 きっと一分に満たない、けど永遠にも感じた演奏は余韻を残して消えていく。
「……これで満足か」
 ユズのテノールの声が不機嫌そうに投げられる。思わず頷こうとしたがそれを遮ったのは一つの拍手で、オレの横で楽しそうに笑っているマスターのものだった。
「ふふ、いいのを聴かせてもらったよ」
 ゆっくりと前に出たマスターはなにかを察したように目を細めながら、やはり、と小さく言葉を落とす。
「もしかしてと思っていたけど、君はアッシュのユズルだね。お見事」
「……どーも」
 ベースを壁に戻しながら小さく頭を下げたユズは、その名前を聞くと少しだけ嫌そうな表情を貼り付けていた。
「マスター、アッシュって……」
「結弦くんが東京で所属していたバンドだよ、そうだよね?」
「知ってて聞いてますよね、意地が悪い」
 諦めたように首を力なく横に振ったユズはどこか悲しそうで、言葉にはしなくても小さく首を縦に動かす。
「デビュー目前だったインディーズバンドだよ。圧倒的な技術とパフォーマンスはインディーズの時からプロ顔負けだったね、特にベーシストである父親の伏見弦哉から英才教育を受けた結弦くんのベースは頭一つ飛び出て上手かったと」
「……どこまで知ってるんですか」
 否定をしないところから、マスターの言っている事は本当らしい。
「デビュー目前なのに、なんでユズはこっちに」
「目前だった……つまりデビューは白紙になってしまったんだよ、確か理由はボーカルが」
「あいつは死にました――俺が殺した」
 ユズの言葉がマスターを遮る。
 苦しそうな、今にも泣き出しそうな顔だった。 
「殺したって、それ」
「これで満足しただろ、もう俺に関わるな」
「あ、おいユズ!」
 勢いよく走り出したから追いかけようとしたがすでにユズはドアの向こうで、ガタン、と冷たくドアが閉まる音が響くだけだ。伸ばした手はなにも掴めなくて、ただ無力だった自分の手を静かに見つめる。
 そんなオレの隣、マスターはオレとユズをしばらく眺めていたが、小さく肩を落としながらなにやら納得したように首を縦に動かしていた。
「……アッシュのユズル、そうか彼が」
「マスター、東京にいた時のユズを知ってるんですか?」
「いや、さっき言った通り知識程度だよ……解散した理由も、ユウジが自殺したのも知識程度さ」
「自殺……?」
 つい顔をしかめた。
 ずっとユズは自分が殺したと言っていた。自分を呪うように繰り返す言葉だったのに、その言葉とマスターの言う事がなんだか違う気がした。
「バンドのデビューは時に仮面を付けなければいけない、歌で伝えたい内容によっては仮面をつけスポットライト越しの自分をどれだけ見てもらうかが時に必要になってくる……そしてそれに行きつくまでには、途方もない努力と時間が必要になってくる」
 まるで自分の話をしているみたいだ。
 まるで過去の自分を話しているみたいだ。
 少し悲しげに目を伏せたマスターは力なく首を横に振りながら、ここにいない誰かを見ている。
「きっと疲れてしまったんだ……それを彼は、自分のせいだと恨み続けている」
 ジャズが流れる、その音だけが支配する店内。
 マスターの言葉は、なによりも重く感じた。