まるで龍が鳴いているみたいだ。
 静けさを切り裂く咆哮のようで、まるでなにかを歌っているようで。どこまでも伸びやかな鳴き声であるそれを、つい眺めてしまう。チューニングもそこそこに終わらせていつものヘビーピックを持ち直し、呼吸を整えながら指を滑らせていく。長い長い鳴き声は屋上に響いて、運動部のボールの音と共に空へ溶けてしまった。その一音すらもったいないなんて面と向かって言ったら、こいつはどう反応するのだろう。
「……なら」
 ほんの少しだけ、イタズラをしたいと思った。
 かけていたネックの位置を調整してから、ポケットにしまってあったピックを手に取る。指を滑らせるとキュ、とギターが鳴いて、鳴き声は重なっていく。
 長い、長いロングトーンを一回。
 夏の終わりが少し見える空に、その音はよく伸びた。
 共鳴させるように音を鳴らしてやると、さすがに気づいたらしく一瞬肩を揺らすとゆっくりと頭を持ち上げてきた。ブルーブラックの髪の向こう、いつもと変わらない鮮やかなアンバーの瞳と視線がぶつかる。
「お前……いつから」
「ユズがチューニングし始めた辺り」
「最初からって言うんだよ」
 怒っているわけではない、楽しそうだった。
 ただ穏やかな表情で笑うと、なにかに気づいたようにヒビ、と名前を呼ばれる。
「で?」
「ん?」
「こっち、こないのかよ」
 ユズが座り込む場所の隣、コンクリートのそこをトントン、と叩くと小さく手招きをしていた。
「行く」
 足取りは軽かった。
 大股で数歩近づいて横に腰を下ろすと、オレが入ってくるのを待っているかのようにユズは同じコードを何度も繰り返している。それに誘われて、オレも手に持っていたピックをそっと振り下ろした。
「入りが甘い」
「即興なんだから文句言うなよ」
 平凡な、けど優しいコード進行だった。
 運動部の声にかき消されない程度の音の中で、ふとユズが口を開く。
「そういや高遠さん、レコード会社辞めたってアッシュ時代のマネージャーが教えてくれた……自主退職だったらしいけど、実質はクビだろうな」
「……そうなんだ」
「あぁ……巻き込んで悪かった」
「別に、気にしてないって」
 本当に、まったくと言っていいほど気にしていなかった。
 だってあの時の一瞬はなによりも楽しくて、ずっと心臓がうるさかったから。だからこそユズの言う巻き込んだという部分は実感がなく首をかしげていると、そんなオレを様子を見たユズは少しだけ笑っていた。
「……じゃあ、ありがとうな、久音」
「ん?」
 小さな、風に乗れば消えてしまうくらいの言葉だった。
 けれどもそれはオレの耳にしっかりと届いて、笑い返してやる。
「なに、そんな改まって」
「……いや、思っただけだ」
 小さく首を横に振ると、一瞬指を止めてオレの方を見る。
「やっぱりお前は夜明けだなって、そう思っただけだ」
 それ以上の言葉はなかった。
 ただ優しく撫でた弦は小さく鳴いて、風に乗って消えていく。
 オーソドックスなコード進行、大好きな音。
 それがなによりも心地よくて楽しくて、またコードを繰り返していく。
 あてのない音を何個か重ねた後、ちょうどオレがGコードを出した瞬間。ユズの手が止まりピクリと指先が跳ねた。どうしたのかと顔を向けると不思議と言わんばかりの表情をオレに向けていてなに、と言葉を投げるといや、と言葉を選んでいるようだった。
「前から思っていたが」
「おう?」
「お前……なんでGコードでりきむんだ?」
「りき、む?」
 マスターにも言われた事がなかった。
 初めての事で目を丸くしたが、少しだけ考えれば答えは案外すぐに出るものだ。
「まぁ、元々Gコード苦手で練習を一番したって事はでかいな」
「なるほどな」
「あと、それとな」
 目を細めながら、そっと弦を撫でた。
 いつも通り優しく鳴いたそれは明るくて、幸せの音がする。
「Gコードはダイナミクスコードだからなのもあって、ここからだって感じするだろ」
「ここ、から……」
 今度はユズが目を丸くする。
 驚いたように、けどどこか楽しそうに笑い、そうかよ、とだけ言葉を落とした。
「ここから、か……」
 噛み締めるように落とした言葉の先はオレには見えない。ただユズが嬉しそうだからいいかなんて考えていると、さっきまでオレがいた方向からキイ、と錆びついたなにかが開く音が聞こえてきた。
「あ、いたいた」
「ギターとベースの音がすると思ったら、こんなところでやってたんだね」
「あれ、リツとソウ」
 ドアの方で顔を覗かせる二人を見ると、楽しそうに駆け寄ってくる。けどなぜだか少し怒っているようにも思えて、オレ達の腕の中にあるギターとベースに視線は行っていた。
「なになに、オレ達仲間はずれ?」
「二人の楽器みたいに、僕達は移動ができるわけじゃないからちょっと羨ましくは思っちゃう」
 笑いながらオレの横に座った二人に頷くと、確かにな、なんて曖昧な返事をしながらおもむろにユズはスマホを触り始めた。
「ユズちゃん他人事だなぁ、こっちは本気で言っているのに」
「二人が弾いているの見ちゃうと、やりたくてうずうずするのにね」
 そう呟きながら笑ったソウは、どこか遠くを見ながらいいな、と小さく言葉を続けた。
「誰かと音楽をするのは怖いと思っていたのに、あの時のフェスは本当に楽しくて……また演奏したいって、そう思えるの」
「オレも、あの時の痛かった指先がずっと忘れられないんだ……いつかまた人の目が怖くなるとわかっているのに、それを押さえつけるくらいにあの一瞬の音がなによりも綺麗に聴こえた」
「……ふうん」
「あ、またユズちゃん他人事」
「ちげえって、ちゃんと聞いてる」
 しばらく視線はスマホに落としたままだったユズはなにかを探していたのか、ふとあるものを見てその指を止めた。画面の内容を確認するようにじっと見ていると、納得したようで今度はその画面をオレ達の方へ向けてくる。
「……そんなに楽しかったなら、ほらこれ」
「これって……」
「デジタルチラシ?」
「真ん中の写真、楽器持ってる」
 ユズが見せてきた画面は、少しチープなお知らせの文字とあまりパソコン操作が慣れていない人が作ったような画像で、真ん中には屋外で演奏をするバンドの写真が少し画素数低めので貼られている。
「俺も東京にいた時の知り合いから教えてもらったけど、今度栄音の商店街にあるライブハウスで合同ライブをするから参加バンドを募集してるって……あぁこれだ、プロアマは関係ないって書いてあるしそこなんて、どう、だ……」
 オレ達の方を見たユズが、なにかに気づいたように言葉を飲み込む。
「……なんだよ、三人揃ってその目は」
 どうやらオレ達、同じ顔をしていたらしい。
 三人で顔を見合わせると目を丸くしていて、口元もこころなしか緩んでいる。
 だってそれは、今までユズからは想像できない言葉だったから。
「あ、いや……」
「えっと、ゆ、ユズちゃん、つまりさ」
「それってもしかして、まだソラリスで活動してくれるって事か?」
 自分の言葉にやっとユズも理解をしたのか、タコのように顔を赤くする。
「いや、これはお前らが演奏したいって言うから……!」
 ごまかすように顔を背けても全然隠せていなくて、それを見ていると口元がニヨニヨと緩んでしまう。
「ユズちゃん可愛いー!」
「おい八田うるさ、引っ付くな暑苦しい!」
 リツを無理やり引き剥がそうとするユズはなんだか面白くて、ついその様子を眺めてしまう。いつからか日常になってくれた、とりとめのないやり取りを。
「……あぁ」
 楽しいだなんて、ひどく安直な感情がオレを満たした。
 嬉しかったんだ、誰かの声が隣にある事が。
 お手軽な幸せであるそれはオレにとってなによりも重たくて、また嚙み締めるように目を伏せた。
 あの時、オレがもし水をかけられていなかったら。
 あの時、ユズがオレの手を取ってくれなかったら。
 あの時、ソウが誰かとの演奏を諦めたままだったら。
 あの時、リツが後ろ指さされる事を諦めたままだったら。
 一つでも違う道だったら、自分達はどうなっていたのだろう。
 きっと隣になんていない、出会ってすらいなかったはずだ。音楽という交差点がなければ知らなかった音ばかりだ。ならばきっとこの出会いは、この気持ちには意味があるから。
 そう思えるのが、この一瞬が今のオレにとってはなによりも楽しいと思える。幸せに満ちて、ゆっくりと頬を緩めた。
「バカヒビ」
「え、って痛ぁ!?」
 突然額に激痛が走り顔をしかめると、いわゆるデコピンを撃ち込んだ後のような指をこちらに向けるユズと心配そうに顔を覗き込むソウとリツがいる。
「おいヒビ、聞いてたか」
「レンタルスタジオ、今電話したら空いているから一緒に行こうってソウちゃんが」
「早くしないと久音くんだけ置いてくよ」
 レンタルスタジオ、この四人で。
 なにをしに行くかは聞いてないのにすぐわかって、まだ痛みの引かない額を撫でながらも心臓はすでに暴れ始めていた。
 早く弾きたかった、早く音楽を紡ぎたかった。
 早く、アイを叫びたい。
「ほら、立てるか」
 手を差し出された。
 その手を取ると硬くなった指先がしっかりわかって、それすらも今のオレにとってはなんだか嬉しかった。
「行くぞ、久音」
 ユズは笑っていた。
 優しく微笑んで、ほんの少しだけオレの手を引いてくれる。
「あぁ、結弦」
 ギターを握り、三人の背中に続く。
 風がオレ達の髪を撫でるように流れていく。それは祝福のようだ、それは背中を押されたようだ。
 誰もいない屋上で吹く風を見ながら、前へ歩く。
 叫んで歌うために、四人で太陽まで歌うために。
 今日もオレ達は丸裸のまま、夜明けに向けてアイを叫んでいる。