「どこに行こうとしてるんだ?」
 関係者用の、電気もろくについていない薄暗い廊下。
 ユズのひどく平坦な言葉に、その影はあからさまなくらいに肩を揺らす。
 ブリキのおもちゃのようにギギ、と首をこちらに向けてきた高遠さんは忌々しげにユズのことを事を睨みつけていた。
「こんにちは高遠さん……せっかくなら、今日の主役であるヒビに挨拶してったらどうですか」
 わざとらしい敬語には怒りを孕んでいて、それは高遠さんも気づいているだろう。感情を隠す事なく憎悪の色を出しながらオレの方を睨みつけると、深く息を吐きながら薄く作った笑みを貼り付けている。演技じみたその動きは、あくまでもシラを切るつもりらしい。
「おや伏見くん、それにソラリスの三人も……いやぁ、先ほどは素晴らしい演奏だったよ」
「とぼけるな」
「ユズ、オレは気にしてないから」
「ヒビ達は下がってろ」
 深く息を吐きながら呼吸を整えたユズの瞳が、ぎろりと光る。
 アンバーの瞳は獲物を見つけたオオカミのようで、睨まれていないはずのオレ達もつい喉を鳴らす。
「これは、俺としてのケジメだ」
 低い声がその場を支配した。ふと顔を上げたユズは高遠さんを見ると、感情の籠っていない声でおい、とぶっきらぼうに言葉を続ける。
「あんただろ、ヒビのギターに変な細工をしたのは」
 けどそれは確かに怒りの色が濃く、高遠さんを突き刺していく。
「なんの事か、確かに日比野くんのアクシデントは可哀想だったがこちらもそこまで鬼ではない」
「鬼ではない、ねえ」
 ユズが目を細める。
 それは探りを入れるようで、多分高遠さんもそれに気づいている。あくまでも対峙するように睨み合った二人を横目に見ていると、最初に動いたのはユズの方だった。
 ゴソゴソとポケットに手を突っ込むと目的のものを見つけたようで、あぁ、と言葉を落としながらそれを手に取る。
 何の変哲もない、見慣れたユズのスマホだ。
「これを見て、まだそんな事を言えるのか」
 目線はスマホの画面に落としたままなにかを探しているようで、ふとある一点でその指を止めた。お目当てのものだったのか険しい表情のまま、それでも勝ち誇ったように口元を歪める。
「ほら、これ」
「ユズ、なにを……」
 つい、オレ達もそれを覗き込んだ。
 画面に映し出されているのは楽屋だが、ピントも合っていないし角度も定点なのか少し見にくい。けどよく見るとそれはオレ達の楽器を映しているようで、その端ではオレが外に出ていくのが見える。
「これ……もしかして、オレが水買いに行った時?」
「あぁ」
 まだ動画は終わりじゃないらしい。
 小さく頷いたユズが画面をそのまま見せているからオレ達も見ていると、今度は三人も外へ出て行ってしまう。これは多分、高遠さんとの時。
 ユズがなにをしたいのかわからず首をかしげたが、その答えはすぐに出た。
 まだ誰も戻っていないタイミング。画面の端でなにかが動く。それはあの時すれ違った、清掃の人達だ。
『……えっと、高遠プロデューサーの言っていた部屋ってここでいいのか?』
『確か、やるのはギターだよな』
 音声もちゃんと残っていたらしい。
 三人組らしいその人達はなにかを探すようにしばらく周りを見ていたが、ふとオレのギターの前に立つとごそごそと清掃道具の袋に手を入れながらなにかを探している。
 けどそれは、清掃道具なんかじゃない――小さな、プラモデル作製で使うようなステンレスのヤスリだった。
『な、なぁ、本当にやるのか……これって次に出るバンドのだよな』
『やるしかねえだろ――高遠さんに頼まれたんだから』
『ほら、帰ってくるまでに終わらせるぞ。失敗したら怒られるのは俺達なんだ』
「それは……!」
「こっちだってなにも対策をしていなかったわけじゃない……元々物置の隅になにかあった時を考えてスマホをビデオ録画で置いておいたが、案外くっきり映るもんだな」
 画面を自分の方に向けたユズは改めてその三人のやり取りをしばらく眺め、ゆっくりと高遠さんの方へ再度顔を上げる。
「確かにギターの弦が演奏中切れるのは珍しくない……けどだからこそ、音楽に純粋なヒビが演奏前にそこのチェックをしないとは考えにくかった。こいつのギターは手入れが行き届いているからギター自体の原因は考えにくかったし、弦の張りも申し分なくそれは俺達三人が見ている……だからこそ、あそこでこいつがペグを締めすぎた一弦以外、ましてやそこそこ太い弦が切れるのは考えにくかったんだよ」
「……確かに」
 初めてマスターの前で切った弦も初心者の時に切った弦も、全部一弦だ。今まで三弦より太いのは切った事がなかったし、練習で消耗が激しいのは自分でわかっていたから定期的に弦の張り直しは意識してやっていた。
 弦が切れる事自体は初心者にはよくあるらしく楽しそうに笑っていただマスターを思い出していると、ユズはオレの様子を横目に言葉を続けた。
「だから演奏が終わった後、真っ先に画面を確認した。なにかこいつのギターにあったんじゃないかって……そしたら、残っていたのはこれだよ」
「なんの事だか、自分にはサッパリ……誰かが私に罪を擦り付けるためにわざと言葉にしているのだって考えられる」
「……ふうん」
 あくまでも自分は無関係である事を貫きたいらしい。
 動画の音声からも言い逃れはできないのに、と思って見ていると、その返事すらユズには予想の範囲だったのか表情は変えないまま動画へ視線を落とす。少し巻き戻して止めたところ、清掃の人の中で一人顔が見てるところで動画を止めると、画面を拡大してまたオレ達の方へ見せてきた。
「この人、東京にいた時だが見覚えがある」
「なに?」
「多分、叩けばホコリは出てくるだろうな……たとえば、あんたのレコード会社の社員だって経歴とか」
「それは……!」
「なんなら、今からアッシュだった時のマネージャーに電話して調べてもらってもいいぞ」
 空いている片手で電話をするようなジェスチャーをすると、高遠さんは苦虫を嚙み潰したような顔をする。退路は塞がれた、これ以上の言い訳もできないのだろう。
 悔しそうに肩を落としながら、壁に右手の拳をぶつけている。
「くそっ……!」
「それはパフォーマンスを邪魔されたこっちの、特にヒビのセリフだろ。本当なら殴り飛ばしてやりたいくらいだ……けど、それはしない、この腕はアイを叫ぶためにあるからな」
 動画を閉じたユズはそのまま、じっと高遠さんを睨みつけながら冷たい声で言葉を続けた。
「ただ、抗議はきちんとさせてもらう。俺だってまだ東京で顔は利くんだ……なにをしたのか、しっかりと理解してくれ」
 あくまでもぶっきらぼうなまま、けれどもその表情は怒りそのものだった。
 けど、それに簡単に折れる高遠さんではない。深く息を吐いたと思えば顔を上げて、オレとユズの事を睨み返してくる。
「……ぜだ」
「ん?」
「なんで、なぜだ、東京に戻ってデビューできるのは君にも悪い話ではないはずだ!」
「デビュー、か……」
 ユズの声が一瞬だけ沈む。
 なにかを考えるように泳いだ視線はなにか迷いがあるようで、けどそれはすぐ答えを見つけたのか力強く首を横に振る。
「確かにあんたの言う通り、またデビューの道を目指す事はできた。もっと、少なくともここより環境は整っているって事くらいわかっている」
「なら!」
「けど……それじゃだめなんだ」
 もう一度首を横に振る。
 それは確かな否定のものだった。
「東京にはうるさいギターも言う時は言うドラムも馴れ馴れしいキーボードもいない……雰囲気のいいカフェも、噴水広場の喧噪だってここにしかない」
 息を吐いた。
 小さく幸せに満ちた吐息を。
「だめなんだよ、ここじゃないと」
「それは、どうして」
「もっとここにいたいって、ここなら息がしやすいって俺自身が叫んでいる……だから、ここじゃないとだめなんだ」
 穏やかに目を伏せながら頬を緩めたユズは、それ以上なにも言わない。
 誰もがそんなユズを見た、静かな時間。けど次の瞬間顔を上げたユズは普段通りに戻っていいて……ううん、普段以上に獰猛で不敵な笑みを貼り付けている。
「あぁけど、感謝もしているのは本当だな……高遠さん、あんたは静かに眠っていた純粋無垢な化け物を起こしてくれたから」
「か、感謝……?」
「あぁ」
 やけにすっきりした顔をしたユズはオレの方を見ると、嬉しそうに笑っていた。
「なぁ、久音?」
「うん?」
 突然名指しをされて曖昧な返事をするとそれでよかったらしく、ステージの上みたいに肩を寄せてくる。べえと舌を一瞬出したユズはまた笑って、高遠さんに対して言葉を投げつけた。

「眠っていた化け物を、あんたは図らずも叩き起した。せいぜい震えて見ていればいい……あんたが素人だと揶揄した化け物が、この先音楽界を支配していく姿を」

 それは宣戦布告のようだ。
 勝ち誇った顔で笑うユズの表情にもう影はさしていない、なにもかもが吹っ切れたように清々しいものだった。