夜明けのGコード

 なにが起きたのかわからなかった。
 跳ねた弦はオレの頬を掠めていき、チリと少しだけ痛みが走る。
「久音……!?」
 横からユズの慌てたような声が聞こえる。
 後ろからもスティックの重なる音と意図しない不協和音が聞こえて、前の観客も騒然としていた。
「……あぁ」
 ギターの弦が、第三弦が切れたらしい。
 頭は冷静だった、状況だってわかっている。
 ペグを締めすぎたかと思ったがそれなら切れやすいのは細い一弦だから、ただ純粋に運が悪かったのだろう。
 わかっている、演奏は止めるべきだと。
 わかっていた、今のままじゃ不完全だって。
 わかっているのに、この指先の熱だけはおさまらなかった。
 やめなきゃって、頭のどこかではわかっている。
 心配するユズの顔だって見えている。
 きっと後ろでソウは不安そうな顔をしているだろうし、リツだって驚いているって。全部、なにもかもわかっている。
 あぁけど――止まりたくない。
「……ふふ、ふはっ」
 この指を、この音を止めたくなかった。
 心臓を止めたくなかった、呼吸を止めたくなかった。
 全部なにもかもを、オレは止めたくない。
「ははっ……!」
 心臓の脈打つ方へ、信じて進みたい。
 それが今この一瞬なら、誰にも邪魔はされたくない。
 丸裸になったアイを、感情のままかき鳴らす音を止めたくはなかった。
 だってこんなにも熱いから。
 だってこんなにも心臓はうるさいから。
 ずっと、ずっとこの時間の中にいたい。
 この腕一つで叫ぶ音楽を、止めたくない。
 幸い第三弦は他のポジションでもなんとかなるし、最悪ユズには怒られるかもしれないけど別コードでアレンジしてしまえばいい。そしてそれも、その事を考える事すら今のオレには楽しいと思える。
 あぁ、音楽に溺れていくような感覚だ。
「こいつ、笑っている……?」
 ユズの声が遠くに聞こえた、なにを言っているのかはわからない。ただこの一瞬を忘れたくなくて笑ってやると、ユズの指先が僅かに跳ねる。目を丸くして、呼吸をするのすら忘れているようだった。
「お前っ、その顔……ユウジっ」
 オレより向こう、遠くを見ているみたいだ。
 けどそれは一瞬で、すぐにいつものぶっきらぼうな顔を貼り付けたと思えば、ニイと口元を歪めオレと視線をぶつけてくる。
「……わかった。付き合ってやるよ、化け物」
 瞬間、ユズの音が爆発する。
 ギアを上げた音はステージを貫いて、観客席を切り裂いていく。それはもうベースというには凶暴で、脳天から殴りつけるような唸り声だ。あの時聴いた、カフェでのベースよりも感情がこもった、ユズ自身の叫びだ。
「僕も、僕だって――今この世界を、この空間を支配したい!」
 すかさずドラムの音が支配する。
 優しく独裁的な支配欲は形になってベースの唸り声とオレの叫びをまとめていた。まとめて、それでも確かにそこに存在する音は王者のようだった。
「ちょっと、くうちゃんにみんな引っ張られすぎでしょ……!」
 またグリッサンドが風のように通り抜けていく。けどそれはさっきまでとは違う、力強い疾風の音だった。リツの指から生み出される音一つが、オレ達の音に厚みを生み出していく。
 あぁ、楽しい。
 やっぱりバンドは楽しいんだ。楽しくて、こんなにも胸が高鳴る。
「叫ぶぞ久音、ずっと遠くまで……どこまでも、俺達のアイを叫んでやろう」
 あぁ、心地よい。
 一人で弾いていた時には知らなかった感覚だ。噴水広場でもカフェでも、誰も教えてくれなかった事。音は嘘をつかなければ、こんなにも素直に返してくれる。泣き叫んで啼き叫んで、それでもこの瞬間のためにすべてを注ぎたい。
 例え声が枯れ果てたとしても、例え指が動かなくなっても。それでもオレは、音楽に正直でありたい。
 その考えはずっと、この先も変わらない。
「ふはっ……」
 また自然と頬が緩む。指先はずっと熱かった。それでも、熱さで喉が爛れそうでもオレは。
「……叫びたい」
 この一瞬を、この瞬間をすべて。
 この感情を、この想いを。
「叫びたいんだ」
 全部ありのまま、骨の髄まで。
 汗で滲んだ視界すら楽しくて、深く息を吐く。

「それでもオレは、叫びたい……どこまでも、どれだけ暗い夜だって明けるまでオレはアイを叫び続けたい!」

 ユズが暗い夜だと言っていた。
 それなら音楽は、きっと夜明けだ。
 人の感情すら容易く操ってしまう魔力であり救いであり、呪いのようなものだ。
 誰かの感情を揺さぶって、支配して。
 そして、応えてくれる。
 なによりも愛おしく、なによりも暴力的な存在だ。
「――!♪」
 けどそれが、今のオレ達にとっては救いだった。
 今までの苦しさも悲しさも喰い尽くす、暴力的な救いだ。
「……終わる」
 終わってしまう、まだ終わらないでくれ。
 この一音がなによりも愛おしいから、一小節がなによりも幸せに満ちているから。だから、ずっと終わらないでほしい。
 そう思えるのは他でもなく、きっとオレが幸せ者だからだ。
 ユズに出会えたから、ソウが頷いてくれたから、リツが笑ってくれたから。
 オレも誰もが、前を向いたから。
 重なった音を噛み締めながら、コードを丁寧に弾いていく。
 それでも永遠なんてないとわかっていた。最後に撫でた音はどこまでも響く、名残惜しくてつい目を細めた。
 息を吐きながら目を細めて、そっとピックを握っていた腕を下ろす。
 長い、長い静寂だった。
 それを遮ったのは一つの拍手で、音の方へゆっくりと目を向けるとマスターが嬉しそうに笑っていた。
 それを皮切りに湧き上がったのはあの時の、大譜祭とは違う拍手の海。指笛なんかも聞こえて愉快なそれは、音楽に愛された街ならではの敬意だ。
「……すげえ」
「久音!」
 余韻が終わるなり血相を変えて近づいてきたのは隣にいたユズで、オレの名前を叫びながら左の頬に手を添えてくる。
「お前っ、弦が……それに血!」
「血って……あっ」
 ユズに言われて初めて気づいた、頬を拭うと確かにぬるりとした感覚がある。
「本当だ、演奏に夢中で全然気づいてなかった……」
「バカかお前、早く裏行って消毒しろ!」
 普段の冷静なユズからは考えられないくらい慌てふためいた表情が見れて、なんだか面白い。ついそれに頬を緩めるとちゃっかり見られていたみたいで、途端にユズの表情がいつもの不機嫌そうなものに戻ってしまった。
「お前、こっちが心配しているのに笑いやがって」
「ごめっ、ちょ、そこ傷!」
 力任せにつねられて悲鳴を上げていると、すかさずソウとリツも楽器から離れ駆け寄ってきた。
「久音くん、大丈夫!?」
「ユズちゃん、くうちゃんも一応怪我人だからね!」
 全員慌てふためいていて、数ヶ月前では考えられない光景がそこには広がっている。
 オレ、ちゃんと仲間ができたんだ。
 一緒にアイを叫んでくれて、一緒に心配してくれて一緒に笑ってくれる。一緒にコードをかき鳴らしてくれる仲間が、目の前にいるんだ。
「ふふ、ふは!」
 暖かい、まるで陽だまりの中にいるようだ。
 ついこぼれ落ちた笑みはユズに見られていたようで、怪訝そうな顔を貼り付けておい、と低い声を投げられた。
「お前、自分の立場が」
「ふふ、ごめんユズ、けどどうしても笑っちゃってさ。今オレ、たまらなく嬉しいんだ」
「あ?」
 なにがとは聞かず、首だけをかしげられた。
 だって、ずっと知らなかったから。
 ベースと弾く音はこんなにも心地が良いって。
 ドラムのある音はどこまでも安心できるって。
 キーボードと一緒に紡ぐ音は幸せに溢れているって。
 息付く間もなく続く音はどれも楽しくて幸せで、一人では生み出せない。
「いや、すげえ楽しかったなぁって、そう思っただけ」
 ギターを抱きしめながら、そっと言葉を落とした。
 それを見た三人は顔を見合わせると、優しく笑いながら傷を労わるように撫でてきた。
「本当、こんな状況でよく……」
「久音くんって肝が据わっているというかなんというか……」
「肝だけじゃねえだろこいつは」
 呆れたように笑ったユズは、そっとオレの肩を抱き寄せてきた。なにかと思えば額がぶつかり呼吸が混ざり合うくらいの距離にユズがいる。
「お前は正真正銘、化け物ってやつだよ」
 静かに、けどしっかりと言葉を紡がれる。
 鳴り止まない拍手の中、まるで現実味がない。
 けど確かに立つのは渦の中で、ずっと心臓はうるさいままだ。