「日比野久音くん、だったかな?」
名前を呼ばれて、つい足を止めた。
自販機から水を手に取り顔を上げると、高遠さんの柔和な笑みを貼り付けた顔がそこにある。笑っているはずなのに、その黒い瞳の奥はなにを考えているのかわからなかった。
「あなたは……」
ユズの話を思い出して、少しだけ警戒するように目を細める。
それに気づいたのか高遠さんは酷いなぁ、と他人事のように笑っていた。
「今日は君達のステージを見にきたお客さんだよ、伏見くんがあそこまで啖呵をきった素人達の実力をね」
ユズがいないからなのかあからさまな態度に顔をしかめると、そんなオレの様子すら楽しむようにじっとこちらを見ていた。品定めするような視線に、つい喉を鳴らす。
「……えっと、オレになんか用っすか」
ユズの話を聞く限り、この人が用もなく近づいてくるのは考えにくい。恐る恐る言葉を投げかけるとそれは本人もわかっていたようで、大した事じゃないよ、と笑っていた。
「今回の君達について、伏見くんの話を聞くに君がバンドを組もうと言ったらしいからね。だからただ、お願いにきただけだよ」
「お願い?」
「そう、簡単なお願い――伏見くんの事を大切に思っているなら、ぜひ伏見くんに東京へ戻るよう言ってほしいんだ」
目を細めた、それは言葉のない圧だった。
ピクリと指先が跳ねるとそれを見逃さなかった高遠さんは、また一歩と距離を詰めてくる。
「君も隣で弾いていたらわかるはずだよ、伏見くんの才能にね。彼はインディーズで止まってはいけない、プロとして世界に羽ばたくべき存在だ」
それは、なにも言い返せない。
ユズの才能は確かだ。ベースであれだけの音を出すのを見たのはユズが初めてだったし、初めて聴いたあの日の衝撃は今も忘れられない。
けどあれは、あの音はただの才能だけじゃない。
ユズがずっと練習してきた、豆だらけの手で頑張ってきた努力の塊だ。それを才能だけで片づけてしまう目の前の人が、なんだか不快だった。
「……ちなみに、ユズはなんて?」
「きっと伏見くんもそれを望んでいる」
ずいぶん身勝手な言葉だと思った。
ユズを思ってなんかいない、ユズを道具として見ているようで、その事がすごく、なんだか嫌だった。
「それで、協力してくれるだろ?」
柔和なようで、有無を言わせない言葉。
ユズがハイエナと呼んでいたのが、脳裏で過ぎる。
蹴落とされそうになりながらも深く息を吐きながら見据えた先、高遠さんを見つめしっかりと首を横に振る。
「それは、できません」
投げつけたのは明らかな拒絶の言葉だった。
その一言、たったそれだけだったが高遠さんが求めていた言葉とはほど遠い。
「……できない?」
高遠さんの表情に陰がさす。
あからさまなほどの無を貼り付けた表情に、さっきまでの飄々としたものはどこにもなかった。
「どうして、彼を思っているのなら」
「あいつの事を思っているからです」
思っているからこそ、自由であってほしい。
思っているからこそ、音楽に嘘はついてほしくない。
自分の好きな事を苦しいとだけは、思ってほしくなかった。
「それが本当にユズのためになるなら、ユズがそう思っているのならオレはその選択を喜んで受け入れます……けど、そうじゃない」
もう一度しっかり、首を横に振る。
「ユズが少なくともオレを選んでくれたから、なら今オレにできるのはそのユズに応える事です。ユズがアイを叫ぶように、オレもアイを叫び続ける……だから、あいつの横でずっとギターを弾き続けます」
「アイを……」
高遠さんが顔を歪ませる。
それはどちらかと言えば不快の色が濃く、スウと目を細めながらオレを見つめる。
「なるほど、それが君の選択かい?」
「選択と言うよりは、決意です。ユズみたいに覚悟はないけど……それでも素直でありたいと、嘘はつきたくないという決意です」
音楽にもユズにも、リツにもソウにも。
この先もずっと、嘘はつきたくなかった。
ただ音楽が好きだからと初めて持ったピックと、初めて鳴らした弦の音。それらが繋いでくれたのはきっと音楽をやっていなければ見つからなかった縁ばかりで、その一つ一つを大切にしたい。リツの言葉を借りるなら、オレの宝箱には今日までの時間で溢れているから。
「ユズは道具ではないし、音楽は誰かに指をさされていいものではない……あなたがやっている事は、音楽に対して失礼な行為であり自由を阻む私情です」
だからこそユズの事を自分の保身に使う事が許せなかった、音楽を替えの利く道具のように思われるのが嫌だった。
感情に任せた言葉に、高遠さんはなにを思ったのか。スウと目を細めると、なにか納得したようにゆっくりと頷いていた。
「……あぁなるほどね、君はきっかけではなく核だったわけだ」
「核って……?」
首をかしげても返事はなくて、代わりにまとわりつくような視線に不快感を覚えた。
「そうか、君さえ伏見くんの前からいなくなれば――」
ゆっくり、ゆっくりとオレに手が伸びる。
その手の行方がわからず半歩下がるが、さらに手はオレの首元に向かって伸びてくる。ゾッと正体のわからない不快な感じが身体を支配して、喉を鳴らした時だ。
「ヒビから離れろ」
聞き慣れたテノールの声と共に、後ろに強く腕を引かれる。
突然の事で声すら出せずにいると、そのまま三つの影がオレを隠すように高遠さんとの間に立ち塞がった。
「こんにちは、高遠さん――うちのバカギターに何の御用で」
あからさまなほどの嫌悪を顔に出すリツと、少し震えながらもオレの手を握っているソウ。
それから、冷たい感情が読めないほどの表情を貼り付けたユズがいる。
「久音くん大丈夫?」
「なにもされなかったか?」
「ったくお前、勝手な行動はするなとあれほど……!」
「いひゃいユズ」
お決まりのように頬をつねると、ユズは安心したように肩を落とした。
けどそれも一瞬の事で、深く息を吐き出しながら目を伏せたユズはおい、と低く喉を鳴らす。
「……それで?」
もう一度、ユズが高遠さんの方へ顔を向ける。
けどその表情は明確な怒りを孕んでいて、今にも殴りかかりそうなほどだ。
「今あんた、こいつの首に触ろうとしたな……なにをしようとした」
首なんて、なにが。
思わず自分の喉を撫でると、少し浮き出た喉仏が動く。あのままここに触れられていたらと考えると冷たい汗が背中を流れて、途端に脳内が冷静に情報の処理を始めた。もしかして、さっきのは。
「まさかとは思うが、潰そうとしたか? こいつが歌えなくなれば俺達はこの後のステージに立てなくなるからな」
「そんな、そんな野蛮な事をするわけないじゃないか」
「どうだか……」
吐き捨てるように投げたユズに、高遠さんは目を細めながらのらりくらり交わしていく。
「本当さ、君達の成功を見届けるために今日は見に来たのだからね」
「どの口が……まぁ、期待してくれてもいい」
笑いながらオレ達三人の腕を掴んだユズは、そのまま抱き寄せるようにまとめて自分の方へ近づける。
「俺はこの仲間達と、あんたを黙らせるくらいの演奏をするからな」
べえと舌を出したのは、明らかな挑発だ。
それは挑発された高遠さん自身もわかっているのか、悔しげな顔を貼り付けていた。
なにかを言いたげな高遠さんは、ふと視線を下に向ける。そのまま誰からの連絡なのかスマホの画面を見ると、嬉しそうに口元を歪ませながらユズの方へ目を向けた。
「……東京に持ち帰る荷物の準備は、早くした方がいいかもね」
小物の言うような捨て台詞を残して背中を向けた高遠さんにユズは舌打ちをすると、すぐ興味をなくした様子でくるりと身体をこちらに向けてきた。
「なんだよあいつ、ユズちゃんに突っかかりやがって」
「いい、あの人は前々から嫌味しか言えない口を持っているからな」
高遠さんに引けを取らない嫌味を吐き出したユズは、そのまま視線をオレの方へ向けてくる。なにかと思ったがしばらくオレの顔を見ておい、とぶっきらぼうに声をかけてくる。
「……怖気づいたか?」
「……え?」
けど飛び出したのは突拍子もないもので、つい目を丸くした。
「こういった他のところからの妨害や邪魔は、プロはここまででなくともハニートラップとか日常茶飯事だ……音に正直だけでは生きていけねえ時もある」
ユズだから、ユズが言うからこそその言葉には重みがあった。
「……いや、少しびっくりしただけだ。もう大丈夫」
「本当かよ」
「おう」
しっかり頷くと、ユズもそれに返すように小さく頷きてくれた。
確かにびっくりはした。音楽を道具として見ているのは嫌だったし、きっと高遠さんとはこの先仲良くなれないと思う。けど今のオレにとっては些細な話だから。だって、そんな妨害があってもオレの心臓は暴れ続けている。
「びっくりしたけど、今この四人で早く演奏したいって気持ちのがでかいから」
驚いたように目を丸くして、ふとユズが頬を緩める。嬉しそうに、楽しそうに笑っていた。
「……そーかよ」
背中を向けられてしまったからその表情は見えない。ただその声を聞いているとオレも嬉しくなって、楽屋の方へ歩き出したユズの隣に並んだ。
「だって、アイを叫ぶ事には変わりないんだ、そうだろ?」
「……あぁ、そうだな」
優しく、呼吸をするように笑ったユズの表情は穏やかで、三人でそれを見ているとつい嬉しくなる。
自販機からそれほど遠くない楽屋まで歩くと、スタッフシャツを着た人達とすれ違った。目深にかぶった帽子にはクリーニングの文字が書かれていて、小さく頭を下げられる。
「ご苦労さまです」
楽屋清掃の服を着た人達に挨拶をして、物置部屋のそこに戻る。
「清掃も入るなんてしっかりしてるね」
「野並、お前一番準備に時間かかるんだから話してないで早く動くぞ」
戻るなりいつもの様子に戻ったユズは、早々にさっき触っていた荷物置き場からスマホを取り出して準備を始めた。
一気に、部屋の中に緊張感が漂う。
時間を見ると確かにオレ達の出演はもうすぐで、心臓がよりうるさくなった。
誰かと、いつもよりも大きなステージに立てる。
一人じゃない、誰かと音が紡げる。
ニヨニヨと口元が緩むのをなんとか抑えていると、そういえばさ、と声が上がった。
「ねえ、アレやらない?」
少し嬉しそうに笑ったリツは、おもむろに自分の手を差し出してくる。
「アレ?」
「ほら、一致団結! って感じの」
「円陣ならやらねえぞ」
「ユズちゃん冷たい、やろうよ」
「やらねえ」
断固拒否するユズに口を尖らせるリツは、またずいとユズに顔を近づけた。
「ねえユズちゃん、ピアノってこういうの滅多にしないんだ。一回くらいやらせてよ」
「僕もちょっとだけ、やってみたいかも」
「オレも、今まで一人だったから経験ないし!」
「っ……」
「ほら、三対一」
勝ち誇ったようにニヤつくリツを睨みながら、ユズはわざとらしく肩を落とした。
「……今回だけだからな」
折れたのはユズの方で、リツも勝ち誇ったようにガッツポーズをしていた。
「ほらそこ、やるならやるぞ」
お得意のぶっきらぼうだったが、少しだけその表情は柔らかい。
ゆっくりと出された手の上に重ねたのはソウで、その後をリツが重ねる。
三人の手の上、最後のオレが重ねると隣にいたユズがおい、とオレの方を見る。
「ヒビ」
名前を呼ばれて首をかしげると、早く、と話の意図が読めない催促をされた。
「お前が音頭取れ」
「お、オレ?」
「お前以外に誰がいるんだよ」
ユズもソウもリツも、オレを見て笑っている。
楽しそうに笑って、オレの言葉を待っていた。
「お前だろ、俺達を無理やり引っ張り出したのは」
「僕も、久音くんにしてほしい」
「早くくうちゃん、時間になっちゃうよ」
三人に言われて、ううん、と唸りながらも同じように笑っていた。言葉は迷わない、案外すんなりと落ちてくる。
「えっと、まずはオレのわがままに付き合ってくれて三人ともありがとう」
「そうだな」
「ちょっとユズ、そこは否定して」
ケラケラ笑いながらも、それでも心臓はずっとうるさい。
早く叫びたいんだと、そうオレに訴えかけていた。
「きっとオレ達の音はちっぽけだ、それでも誰かにこのアイが届くなら……丸裸なオレ達の音でも聴いてくれるなら、それだけでこの一瞬に意味はある」
ずっと一人でかき鳴らした時間も。
ずっと罪を背負うと覚悟をした時間も。
ずっと孤独と戦った時間も。
ずっと周りの目に怯えた時間も。
全部、今日に繋がっているはずだ。
「最高の音楽を――光とアイを、叫んでやろう!」
オレ達なりの最光のアイってやつを。
ここがゴールじゃない、ここがスタートラインだ。
名前を呼ばれて、つい足を止めた。
自販機から水を手に取り顔を上げると、高遠さんの柔和な笑みを貼り付けた顔がそこにある。笑っているはずなのに、その黒い瞳の奥はなにを考えているのかわからなかった。
「あなたは……」
ユズの話を思い出して、少しだけ警戒するように目を細める。
それに気づいたのか高遠さんは酷いなぁ、と他人事のように笑っていた。
「今日は君達のステージを見にきたお客さんだよ、伏見くんがあそこまで啖呵をきった素人達の実力をね」
ユズがいないからなのかあからさまな態度に顔をしかめると、そんなオレの様子すら楽しむようにじっとこちらを見ていた。品定めするような視線に、つい喉を鳴らす。
「……えっと、オレになんか用っすか」
ユズの話を聞く限り、この人が用もなく近づいてくるのは考えにくい。恐る恐る言葉を投げかけるとそれは本人もわかっていたようで、大した事じゃないよ、と笑っていた。
「今回の君達について、伏見くんの話を聞くに君がバンドを組もうと言ったらしいからね。だからただ、お願いにきただけだよ」
「お願い?」
「そう、簡単なお願い――伏見くんの事を大切に思っているなら、ぜひ伏見くんに東京へ戻るよう言ってほしいんだ」
目を細めた、それは言葉のない圧だった。
ピクリと指先が跳ねるとそれを見逃さなかった高遠さんは、また一歩と距離を詰めてくる。
「君も隣で弾いていたらわかるはずだよ、伏見くんの才能にね。彼はインディーズで止まってはいけない、プロとして世界に羽ばたくべき存在だ」
それは、なにも言い返せない。
ユズの才能は確かだ。ベースであれだけの音を出すのを見たのはユズが初めてだったし、初めて聴いたあの日の衝撃は今も忘れられない。
けどあれは、あの音はただの才能だけじゃない。
ユズがずっと練習してきた、豆だらけの手で頑張ってきた努力の塊だ。それを才能だけで片づけてしまう目の前の人が、なんだか不快だった。
「……ちなみに、ユズはなんて?」
「きっと伏見くんもそれを望んでいる」
ずいぶん身勝手な言葉だと思った。
ユズを思ってなんかいない、ユズを道具として見ているようで、その事がすごく、なんだか嫌だった。
「それで、協力してくれるだろ?」
柔和なようで、有無を言わせない言葉。
ユズがハイエナと呼んでいたのが、脳裏で過ぎる。
蹴落とされそうになりながらも深く息を吐きながら見据えた先、高遠さんを見つめしっかりと首を横に振る。
「それは、できません」
投げつけたのは明らかな拒絶の言葉だった。
その一言、たったそれだけだったが高遠さんが求めていた言葉とはほど遠い。
「……できない?」
高遠さんの表情に陰がさす。
あからさまなほどの無を貼り付けた表情に、さっきまでの飄々としたものはどこにもなかった。
「どうして、彼を思っているのなら」
「あいつの事を思っているからです」
思っているからこそ、自由であってほしい。
思っているからこそ、音楽に嘘はついてほしくない。
自分の好きな事を苦しいとだけは、思ってほしくなかった。
「それが本当にユズのためになるなら、ユズがそう思っているのならオレはその選択を喜んで受け入れます……けど、そうじゃない」
もう一度しっかり、首を横に振る。
「ユズが少なくともオレを選んでくれたから、なら今オレにできるのはそのユズに応える事です。ユズがアイを叫ぶように、オレもアイを叫び続ける……だから、あいつの横でずっとギターを弾き続けます」
「アイを……」
高遠さんが顔を歪ませる。
それはどちらかと言えば不快の色が濃く、スウと目を細めながらオレを見つめる。
「なるほど、それが君の選択かい?」
「選択と言うよりは、決意です。ユズみたいに覚悟はないけど……それでも素直でありたいと、嘘はつきたくないという決意です」
音楽にもユズにも、リツにもソウにも。
この先もずっと、嘘はつきたくなかった。
ただ音楽が好きだからと初めて持ったピックと、初めて鳴らした弦の音。それらが繋いでくれたのはきっと音楽をやっていなければ見つからなかった縁ばかりで、その一つ一つを大切にしたい。リツの言葉を借りるなら、オレの宝箱には今日までの時間で溢れているから。
「ユズは道具ではないし、音楽は誰かに指をさされていいものではない……あなたがやっている事は、音楽に対して失礼な行為であり自由を阻む私情です」
だからこそユズの事を自分の保身に使う事が許せなかった、音楽を替えの利く道具のように思われるのが嫌だった。
感情に任せた言葉に、高遠さんはなにを思ったのか。スウと目を細めると、なにか納得したようにゆっくりと頷いていた。
「……あぁなるほどね、君はきっかけではなく核だったわけだ」
「核って……?」
首をかしげても返事はなくて、代わりにまとわりつくような視線に不快感を覚えた。
「そうか、君さえ伏見くんの前からいなくなれば――」
ゆっくり、ゆっくりとオレに手が伸びる。
その手の行方がわからず半歩下がるが、さらに手はオレの首元に向かって伸びてくる。ゾッと正体のわからない不快な感じが身体を支配して、喉を鳴らした時だ。
「ヒビから離れろ」
聞き慣れたテノールの声と共に、後ろに強く腕を引かれる。
突然の事で声すら出せずにいると、そのまま三つの影がオレを隠すように高遠さんとの間に立ち塞がった。
「こんにちは、高遠さん――うちのバカギターに何の御用で」
あからさまなほどの嫌悪を顔に出すリツと、少し震えながらもオレの手を握っているソウ。
それから、冷たい感情が読めないほどの表情を貼り付けたユズがいる。
「久音くん大丈夫?」
「なにもされなかったか?」
「ったくお前、勝手な行動はするなとあれほど……!」
「いひゃいユズ」
お決まりのように頬をつねると、ユズは安心したように肩を落とした。
けどそれも一瞬の事で、深く息を吐き出しながら目を伏せたユズはおい、と低く喉を鳴らす。
「……それで?」
もう一度、ユズが高遠さんの方へ顔を向ける。
けどその表情は明確な怒りを孕んでいて、今にも殴りかかりそうなほどだ。
「今あんた、こいつの首に触ろうとしたな……なにをしようとした」
首なんて、なにが。
思わず自分の喉を撫でると、少し浮き出た喉仏が動く。あのままここに触れられていたらと考えると冷たい汗が背中を流れて、途端に脳内が冷静に情報の処理を始めた。もしかして、さっきのは。
「まさかとは思うが、潰そうとしたか? こいつが歌えなくなれば俺達はこの後のステージに立てなくなるからな」
「そんな、そんな野蛮な事をするわけないじゃないか」
「どうだか……」
吐き捨てるように投げたユズに、高遠さんは目を細めながらのらりくらり交わしていく。
「本当さ、君達の成功を見届けるために今日は見に来たのだからね」
「どの口が……まぁ、期待してくれてもいい」
笑いながらオレ達三人の腕を掴んだユズは、そのまま抱き寄せるようにまとめて自分の方へ近づける。
「俺はこの仲間達と、あんたを黙らせるくらいの演奏をするからな」
べえと舌を出したのは、明らかな挑発だ。
それは挑発された高遠さん自身もわかっているのか、悔しげな顔を貼り付けていた。
なにかを言いたげな高遠さんは、ふと視線を下に向ける。そのまま誰からの連絡なのかスマホの画面を見ると、嬉しそうに口元を歪ませながらユズの方へ目を向けた。
「……東京に持ち帰る荷物の準備は、早くした方がいいかもね」
小物の言うような捨て台詞を残して背中を向けた高遠さんにユズは舌打ちをすると、すぐ興味をなくした様子でくるりと身体をこちらに向けてきた。
「なんだよあいつ、ユズちゃんに突っかかりやがって」
「いい、あの人は前々から嫌味しか言えない口を持っているからな」
高遠さんに引けを取らない嫌味を吐き出したユズは、そのまま視線をオレの方へ向けてくる。なにかと思ったがしばらくオレの顔を見ておい、とぶっきらぼうに声をかけてくる。
「……怖気づいたか?」
「……え?」
けど飛び出したのは突拍子もないもので、つい目を丸くした。
「こういった他のところからの妨害や邪魔は、プロはここまででなくともハニートラップとか日常茶飯事だ……音に正直だけでは生きていけねえ時もある」
ユズだから、ユズが言うからこそその言葉には重みがあった。
「……いや、少しびっくりしただけだ。もう大丈夫」
「本当かよ」
「おう」
しっかり頷くと、ユズもそれに返すように小さく頷きてくれた。
確かにびっくりはした。音楽を道具として見ているのは嫌だったし、きっと高遠さんとはこの先仲良くなれないと思う。けど今のオレにとっては些細な話だから。だって、そんな妨害があってもオレの心臓は暴れ続けている。
「びっくりしたけど、今この四人で早く演奏したいって気持ちのがでかいから」
驚いたように目を丸くして、ふとユズが頬を緩める。嬉しそうに、楽しそうに笑っていた。
「……そーかよ」
背中を向けられてしまったからその表情は見えない。ただその声を聞いているとオレも嬉しくなって、楽屋の方へ歩き出したユズの隣に並んだ。
「だって、アイを叫ぶ事には変わりないんだ、そうだろ?」
「……あぁ、そうだな」
優しく、呼吸をするように笑ったユズの表情は穏やかで、三人でそれを見ているとつい嬉しくなる。
自販機からそれほど遠くない楽屋まで歩くと、スタッフシャツを着た人達とすれ違った。目深にかぶった帽子にはクリーニングの文字が書かれていて、小さく頭を下げられる。
「ご苦労さまです」
楽屋清掃の服を着た人達に挨拶をして、物置部屋のそこに戻る。
「清掃も入るなんてしっかりしてるね」
「野並、お前一番準備に時間かかるんだから話してないで早く動くぞ」
戻るなりいつもの様子に戻ったユズは、早々にさっき触っていた荷物置き場からスマホを取り出して準備を始めた。
一気に、部屋の中に緊張感が漂う。
時間を見ると確かにオレ達の出演はもうすぐで、心臓がよりうるさくなった。
誰かと、いつもよりも大きなステージに立てる。
一人じゃない、誰かと音が紡げる。
ニヨニヨと口元が緩むのをなんとか抑えていると、そういえばさ、と声が上がった。
「ねえ、アレやらない?」
少し嬉しそうに笑ったリツは、おもむろに自分の手を差し出してくる。
「アレ?」
「ほら、一致団結! って感じの」
「円陣ならやらねえぞ」
「ユズちゃん冷たい、やろうよ」
「やらねえ」
断固拒否するユズに口を尖らせるリツは、またずいとユズに顔を近づけた。
「ねえユズちゃん、ピアノってこういうの滅多にしないんだ。一回くらいやらせてよ」
「僕もちょっとだけ、やってみたいかも」
「オレも、今まで一人だったから経験ないし!」
「っ……」
「ほら、三対一」
勝ち誇ったようにニヤつくリツを睨みながら、ユズはわざとらしく肩を落とした。
「……今回だけだからな」
折れたのはユズの方で、リツも勝ち誇ったようにガッツポーズをしていた。
「ほらそこ、やるならやるぞ」
お得意のぶっきらぼうだったが、少しだけその表情は柔らかい。
ゆっくりと出された手の上に重ねたのはソウで、その後をリツが重ねる。
三人の手の上、最後のオレが重ねると隣にいたユズがおい、とオレの方を見る。
「ヒビ」
名前を呼ばれて首をかしげると、早く、と話の意図が読めない催促をされた。
「お前が音頭取れ」
「お、オレ?」
「お前以外に誰がいるんだよ」
ユズもソウもリツも、オレを見て笑っている。
楽しそうに笑って、オレの言葉を待っていた。
「お前だろ、俺達を無理やり引っ張り出したのは」
「僕も、久音くんにしてほしい」
「早くくうちゃん、時間になっちゃうよ」
三人に言われて、ううん、と唸りながらも同じように笑っていた。言葉は迷わない、案外すんなりと落ちてくる。
「えっと、まずはオレのわがままに付き合ってくれて三人ともありがとう」
「そうだな」
「ちょっとユズ、そこは否定して」
ケラケラ笑いながらも、それでも心臓はずっとうるさい。
早く叫びたいんだと、そうオレに訴えかけていた。
「きっとオレ達の音はちっぽけだ、それでも誰かにこのアイが届くなら……丸裸なオレ達の音でも聴いてくれるなら、それだけでこの一瞬に意味はある」
ずっと一人でかき鳴らした時間も。
ずっと罪を背負うと覚悟をした時間も。
ずっと孤独と戦った時間も。
ずっと周りの目に怯えた時間も。
全部、今日に繋がっているはずだ。
「最高の音楽を――光とアイを、叫んでやろう!」
オレ達なりの最光のアイってやつを。
ここがゴールじゃない、ここがスタートラインだ。



