背負ったギターの重みが、音楽と一緒に歩いているようで昔から好きだった。
身体が音楽の一部になったようで、なによりも嬉しかった。
「やば、遅刻……!」
溢れる音達を横目に、強く地面を蹴り上げる。
信号をギリギリのところで渡り向かった先は人混みの喧騒から少し離れた場所に位置するカフェで、躊躇いなくそのドアを開ける。カラン、と乾いたドア・チャイムの音を鳴らしながら店内へ入ると、それに気づいたようにカウンターの奥にいたマスターの亀島さんがオレの方へ目をやる。
「こんにちは久音くん、そんなに慌てなくてもまだ時間はあるよ」
「マスター優しい……いやけどギリギリすみません」
「またギターを弾いてたのか?」
グラスを拭きながら楽しそうに笑うマスターに、小さく首を縦に動かした。
「はい、ちょっとだけそこの噴水広場で」
外での弾き語りはギルドのアコースティックギター。
父親のお下がりでもらったそれを大切にしているオレにとっては、度胸を付けるための路上ライブではかけがえのない相棒になっていた。
名古屋市栄音地区、音楽が栄える音楽に愛された街。
小さな箱が何個か重なってできた事で発展したこの街は、どんな時も音楽に溢れていた。ストリート系を中心にしつつジャズやロック、レゲエも溢れる街は定期的に屋外フェスも開催され、どんな時も音楽が隣にある。
そしてオレも、日比野久音も例外なく、栄音の音を愛する一人だった。
「この前うちの奥で弾き語りしてくれた時思ったけど、また腕が上がっていたよね」
「え、本当っすか。マスターにそう言われると嬉しいです」
音楽の街栄音地区の片隅で息をする『アフターザドリーム』は、いわゆる楽器が所狭しと並ぶ音楽カフェバーだった。奥には演奏スペースも完備されており、まさしく音楽の街に相応しいカフェとして知る人ぞ知る隠れ家のようになっている。
オレがバイト先として選んだのも、栄音地区でもバンド好きとして有名な亀島さんがマスターをしているからだった。
数多くのバンドマンを見てきたマスターの耳は確かで、時に彼の後押しでデビューをしたバンドもあると噂程度にささやかれている。
時折演奏スペースを借りて、若い頃からバンドが好きだと言うマスターに評価をもらう。
少しでも上手くなりたかったから。もっと上を目指したかったから。そのために音を聴いてほしいからとバイトの面接で嬉々として話したオレに負けて採用を決めてくれたマスターの楽しそうな顔が、一年ほど経っているはずなのに鮮明に思い出せる。
「最初に弾いた時は、弦の張りすぎだったり力の入れすぎで散々だったけどね」
「そ、それはもう昔の話ですよ……!」
自分でもわかるくらい、動揺の色が濃くなった。けど、確かにそうだ。あの頃のオレは弦を張ると力の入れすぎで細い弦が切れて、そもそも演奏のスタートラインにすら立てなかったから。それでも上手くなりたい。上手くなって、プロになりたかった。
「……けど、マスターがそう言ってくれてもまだ足りないんです」
もっと上手くなりたかった。
もっと度胸をつけたかった。
もっと、音に正直でありたい。
「もっと、もっと上手くなりたいんです。上手くなって……あの時見たバンドみたいにプロになって、ずっと音楽に正直でありたいんです」
少しだけ、気づくと無意識に手を強く握りしめていた。
それはマスターの目にも留まったようで、嬉しそうに頬を緩めてオレの事を見る。
「そうか、なら僕はそんな久音くんを応援するよ」
「アリーナツアーした時にはマスターの事関係者席に呼びますから!」
「期待しないで待っているよ、それにアリーナツアーをやりたいならまずは仲間探しからだね」
「うっ、それはそうっすけど……」
この人、時々だけど痛いところを突いてくる。
含みのある言い方をしながらも反論できないのは事実で、小さく首を縦に動かすしかない。
わかっている、マスターの言いたい事は。
ギター一本身体一つで夢を叶える人はいるが、きっとそれはオレの求めているものと違う。バンドが好きなんだ、あの重なった音が好きだ。だからこそわかっているのに、この隣には誰もいない。
けどきっと、簡単な話じゃない。そしてそれは、何度かインスタントバンドを組んだ時に痛感した話だ。どれだけ音楽が好きでも、バンドが好きでも音に出てしまう。悪いわけではないのにその音とこれから夢を目指せるとは思わなくて、言葉だけは大きくてもその道は半ばのままだ。
そして他でもない、オレ自身になにかが足りない。
ずっと、ずっと腹の中に居座った名前のわからない感情は今もそう叫んでいる。
「あぁそうだ、渡すのを忘れていた」
沈みきった思考を、マスターの言葉が遮る。なにかと顔を上げると目の前にモスグリーンの布が出されていて、それがカフェのエプロンである事はすぐわかる。
「ほら久音くん、新しいエプロン。この前のはお客さんのおかげで濡れなかったけど、念のため新しいのだよ」
「ありがとうございますマスター!」
「あれは僕の注意不足もあったからね……それより、あの後大丈夫だったかい?」
「っす、帰りも誰かに絡まれる事なかったし大丈夫です」
数日前のクレーム騒動は、瞬く間に栄音地区に広がったらしい。あのおじさんももう見かけないが、それでもマスターはオレの事を心配してくれているってわかる。
けど、同じバイトが絡まれて見過ごすのはもっと嫌だったから。ヒーロー気取りで間に入ったが結局なにもできなかったのは我ながらマヌケだったし、結局あの場を沈めてくれたのは名前も知らない奴だ。
年齢はオレとそう変わらないくらい。最低限整えただけのようなブルーブラックの髪とアンバーの瞳は獣のようで、その目で睨みつけられた客は早々に立ち去った。
けどオレが気になったのは、そこじゃない。
彼の手が、指先がどうしても忘れられなかった。
「……それに、あのピック」
あの時拾い上げたピックの傷の深さが、巾着袋越しでもオレの指先に残っている。薄めのピックだったからそれは多分ギター用で、今にも割れてしまいそうなくらいだった。一目見ればがむしゃらに練習したという事は容易に想像できくらいに。それなのにどうして、とつい考えてしまうのはここ数日同じ事で、深く息を吐いた。
あいつは音楽が人を殺すと言ったから。
ならなぜ、擦り切れたピックを持っているのか。
言葉と見たものはチグハグでそれがどうしても納得できないが、答えを見つける事はできない。
深く息を吐きながら、ゆっくりと前を見る。
「よし、今日も頑張ります!」
「うん、期待してるよ久音くん」
差し出されていたエプロンを受け取ると、そのまま勢いよく着替えて近くにあった鏡で簡単に整える。モスグリーンのエプロンは自前のカーキ色をした髪とヘーゼルの瞳に合っていて、自分の中ではお気に入りだ。くせっ毛の髪を手ぐしで整えながらぐっと背伸びをして、マスターの方へすぐ戻る。
「マスター、今日はなにからすればいいっすか」
「そうだね、じゃあお客さんがくるまで床掃除をお願いできるかな?」
「了解です!」
言葉よりも先にモップを手に取り、勢いよく床に滑らせていく。
カフェは道から外れているのもあり常連客がほとんどだが、それでもマスターの噂を聞きつけてくる客も少なくはない。次の客の波がくるまでに掃除をして、ついでにテーブル拭きまで終わらせて。そんな事を考えながら身体を動かしていたタイミングで、カラン、と乾いたドア・チャイムの音が響いた。
「あ、いらっしゃい、ま、せ……」
その姿を見つけ、ゆっくりと目を丸くする。
間違えるはずがなかった、そこに立っているのはずっと考えていた姿だから。
ブルーブラックの最低限整えられた髪も、その隙間から覗くアンバーの瞳も全部。なにもかもあの日と同じものだ。
「い、いた……!」
身体が音楽の一部になったようで、なによりも嬉しかった。
「やば、遅刻……!」
溢れる音達を横目に、強く地面を蹴り上げる。
信号をギリギリのところで渡り向かった先は人混みの喧騒から少し離れた場所に位置するカフェで、躊躇いなくそのドアを開ける。カラン、と乾いたドア・チャイムの音を鳴らしながら店内へ入ると、それに気づいたようにカウンターの奥にいたマスターの亀島さんがオレの方へ目をやる。
「こんにちは久音くん、そんなに慌てなくてもまだ時間はあるよ」
「マスター優しい……いやけどギリギリすみません」
「またギターを弾いてたのか?」
グラスを拭きながら楽しそうに笑うマスターに、小さく首を縦に動かした。
「はい、ちょっとだけそこの噴水広場で」
外での弾き語りはギルドのアコースティックギター。
父親のお下がりでもらったそれを大切にしているオレにとっては、度胸を付けるための路上ライブではかけがえのない相棒になっていた。
名古屋市栄音地区、音楽が栄える音楽に愛された街。
小さな箱が何個か重なってできた事で発展したこの街は、どんな時も音楽に溢れていた。ストリート系を中心にしつつジャズやロック、レゲエも溢れる街は定期的に屋外フェスも開催され、どんな時も音楽が隣にある。
そしてオレも、日比野久音も例外なく、栄音の音を愛する一人だった。
「この前うちの奥で弾き語りしてくれた時思ったけど、また腕が上がっていたよね」
「え、本当っすか。マスターにそう言われると嬉しいです」
音楽の街栄音地区の片隅で息をする『アフターザドリーム』は、いわゆる楽器が所狭しと並ぶ音楽カフェバーだった。奥には演奏スペースも完備されており、まさしく音楽の街に相応しいカフェとして知る人ぞ知る隠れ家のようになっている。
オレがバイト先として選んだのも、栄音地区でもバンド好きとして有名な亀島さんがマスターをしているからだった。
数多くのバンドマンを見てきたマスターの耳は確かで、時に彼の後押しでデビューをしたバンドもあると噂程度にささやかれている。
時折演奏スペースを借りて、若い頃からバンドが好きだと言うマスターに評価をもらう。
少しでも上手くなりたかったから。もっと上を目指したかったから。そのために音を聴いてほしいからとバイトの面接で嬉々として話したオレに負けて採用を決めてくれたマスターの楽しそうな顔が、一年ほど経っているはずなのに鮮明に思い出せる。
「最初に弾いた時は、弦の張りすぎだったり力の入れすぎで散々だったけどね」
「そ、それはもう昔の話ですよ……!」
自分でもわかるくらい、動揺の色が濃くなった。けど、確かにそうだ。あの頃のオレは弦を張ると力の入れすぎで細い弦が切れて、そもそも演奏のスタートラインにすら立てなかったから。それでも上手くなりたい。上手くなって、プロになりたかった。
「……けど、マスターがそう言ってくれてもまだ足りないんです」
もっと上手くなりたかった。
もっと度胸をつけたかった。
もっと、音に正直でありたい。
「もっと、もっと上手くなりたいんです。上手くなって……あの時見たバンドみたいにプロになって、ずっと音楽に正直でありたいんです」
少しだけ、気づくと無意識に手を強く握りしめていた。
それはマスターの目にも留まったようで、嬉しそうに頬を緩めてオレの事を見る。
「そうか、なら僕はそんな久音くんを応援するよ」
「アリーナツアーした時にはマスターの事関係者席に呼びますから!」
「期待しないで待っているよ、それにアリーナツアーをやりたいならまずは仲間探しからだね」
「うっ、それはそうっすけど……」
この人、時々だけど痛いところを突いてくる。
含みのある言い方をしながらも反論できないのは事実で、小さく首を縦に動かすしかない。
わかっている、マスターの言いたい事は。
ギター一本身体一つで夢を叶える人はいるが、きっとそれはオレの求めているものと違う。バンドが好きなんだ、あの重なった音が好きだ。だからこそわかっているのに、この隣には誰もいない。
けどきっと、簡単な話じゃない。そしてそれは、何度かインスタントバンドを組んだ時に痛感した話だ。どれだけ音楽が好きでも、バンドが好きでも音に出てしまう。悪いわけではないのにその音とこれから夢を目指せるとは思わなくて、言葉だけは大きくてもその道は半ばのままだ。
そして他でもない、オレ自身になにかが足りない。
ずっと、ずっと腹の中に居座った名前のわからない感情は今もそう叫んでいる。
「あぁそうだ、渡すのを忘れていた」
沈みきった思考を、マスターの言葉が遮る。なにかと顔を上げると目の前にモスグリーンの布が出されていて、それがカフェのエプロンである事はすぐわかる。
「ほら久音くん、新しいエプロン。この前のはお客さんのおかげで濡れなかったけど、念のため新しいのだよ」
「ありがとうございますマスター!」
「あれは僕の注意不足もあったからね……それより、あの後大丈夫だったかい?」
「っす、帰りも誰かに絡まれる事なかったし大丈夫です」
数日前のクレーム騒動は、瞬く間に栄音地区に広がったらしい。あのおじさんももう見かけないが、それでもマスターはオレの事を心配してくれているってわかる。
けど、同じバイトが絡まれて見過ごすのはもっと嫌だったから。ヒーロー気取りで間に入ったが結局なにもできなかったのは我ながらマヌケだったし、結局あの場を沈めてくれたのは名前も知らない奴だ。
年齢はオレとそう変わらないくらい。最低限整えただけのようなブルーブラックの髪とアンバーの瞳は獣のようで、その目で睨みつけられた客は早々に立ち去った。
けどオレが気になったのは、そこじゃない。
彼の手が、指先がどうしても忘れられなかった。
「……それに、あのピック」
あの時拾い上げたピックの傷の深さが、巾着袋越しでもオレの指先に残っている。薄めのピックだったからそれは多分ギター用で、今にも割れてしまいそうなくらいだった。一目見ればがむしゃらに練習したという事は容易に想像できくらいに。それなのにどうして、とつい考えてしまうのはここ数日同じ事で、深く息を吐いた。
あいつは音楽が人を殺すと言ったから。
ならなぜ、擦り切れたピックを持っているのか。
言葉と見たものはチグハグでそれがどうしても納得できないが、答えを見つける事はできない。
深く息を吐きながら、ゆっくりと前を見る。
「よし、今日も頑張ります!」
「うん、期待してるよ久音くん」
差し出されていたエプロンを受け取ると、そのまま勢いよく着替えて近くにあった鏡で簡単に整える。モスグリーンのエプロンは自前のカーキ色をした髪とヘーゼルの瞳に合っていて、自分の中ではお気に入りだ。くせっ毛の髪を手ぐしで整えながらぐっと背伸びをして、マスターの方へすぐ戻る。
「マスター、今日はなにからすればいいっすか」
「そうだね、じゃあお客さんがくるまで床掃除をお願いできるかな?」
「了解です!」
言葉よりも先にモップを手に取り、勢いよく床に滑らせていく。
カフェは道から外れているのもあり常連客がほとんどだが、それでもマスターの噂を聞きつけてくる客も少なくはない。次の客の波がくるまでに掃除をして、ついでにテーブル拭きまで終わらせて。そんな事を考えながら身体を動かしていたタイミングで、カラン、と乾いたドア・チャイムの音が響いた。
「あ、いらっしゃい、ま、せ……」
その姿を見つけ、ゆっくりと目を丸くする。
間違えるはずがなかった、そこに立っているのはずっと考えていた姿だから。
ブルーブラックの最低限整えられた髪も、その隙間から覗くアンバーの瞳も全部。なにもかもあの日と同じものだ。
「い、いた……!」



