正直賭けだった。
スタジオを借りられる時間は限られている。勝手に借りたのはオレだったけど、そこに全員が集まってくれると信じたかった。
「……で、どうすんだよ」
「もう少し、待つ。一応今日練習している事は場所と一緒に連絡してあるから」
チューニングが終わったギターのボディを撫でながら、静かにソウの方を盗み見した。不安そうな表情を貼り付けたソウは深く息を吐きながら、シンバルやペダルの位置を調整している。
「……おい野並、暗い顔するなら帰れ。感情は音に出るぞ」
「ユズ、そんな言い方しなくても」
「ううん、結弦くんの言っている事は正しいよ……ごめんね、切り替える」
深く息を吐きながら、ソウは前を見据える。
「八田くんにあんな事言っておいて、僕が逃げるなんてダサい事はしたくないから」
スティックを握りしめる手に力が入る。
リツが待つならオレも待つなんて、当然の事を考えるとユズも静かに頷いていた。
「なら、八田がくるまでに完璧でいる事だな。啖呵切った奴が不完全なんて、それこそダサいだろ」
「そうだね……あっ」
「なんだよ、なにが……」
「……あっ」
ソウの言葉に釣られて視線をドアの方へ向けると、さっきまで閉まっていたはずのそこが若干空いていた。そしてその先、廊下の方。僅かだが確かに、見慣れたミルクティーの髪が揺れていた。
「……リツ、入ってきたら?」
声をかけてやると、そいつはあからさまなくらいに驚きながらもゆっくりと顔を覗かせる。アンバーの瞳にオレ達を映して、申し訳なさそうにこちらを見ていた。
「えっと、その……」
「遅ぇぞ八田、全員お前待ちだ」
普段と変わらないユズの態度に目を丸くしたリツは、すぐに頬を緩ませてごめん、と小さく言葉を落とした。
「……八田くん」
「りつき」
「え?」
たった一言。
それは穏やかな声で、もう一度しっかり律樹、と自分の名前を口にした。
「名前、オレ八田くんじゃなくて八田律樹」
「う、うん」
「できたらみんなと同じように呼んでくれよ、ソウちゃん」
ニヘラと笑ったリツに、今度はソウが目を丸くする。
「えっと、律樹くん」
「うん、ソウちゃん」
まだ迷いはあるのかその表情はどこかぎこちなかったが、それでもあのね、と自分の言葉を選びリツは前を見る。
「……音楽はオレにとって、逃げていい存在じゃないから」
「……なら、よかった」
みんな一度手放したはずのそれを、バカみたいに好きで抱きかかえている。きっとそれは三人も、オレも同じ事だ。
「ほら遅刻野郎、話が終わったなら早く準備しろ。スタジオ借りれる時間も限られてんだよ」
あくまでも普段通り。
何事もないふうに言葉を投げたユズにリツは目を丸くしながらも、恐る恐るキーボードの前に移動した。初めてのタイプなのか音の調整を少しすると納得したようで、言葉はなかったが小さく頷く。
「野並、カウント任せた」
「う、うん!」
スティックを三回、カウントで鳴らす。それを合図に、オレ達はアイを叫んだ。
「すげぇ……無茶苦茶だ」
散々だった、オレもユズもなにもかも。音の粒は揃っていないし勝手に走り出すし、アレンジだって入ってて。コード進行だって初めての曲じゃままならなくて、ずっと指先が痛い。
それでも、聴いてて悪くなかった。
それでも、この音を楽しいと思えた。
「ふは……!」
ユズだって楽しそうに笑ってて、殴りつけるような音が空気を支配している。
痛いはずなのに、この手を止めたくなかった。何度だって弾きたいと、アイを叫びたいと思えた。
「……楽しい」
全部の音が重なって、知らない音になっていく。
まだ知らない音楽がある。まだ知らない音がある。それが、すごく楽しい。
噛み締めて、最後の一音までしっかりと。
鳴らした音を聴きながらも心臓はずっとうるさくてつい笑うと、突然頬を軽くつねられる。
「バカヒビ、お前まさかこれで満足してないだろうな!」
「いはいユズ」
「痛い、じゃねえよ最初から走りやがって」
思いっきり頬をつねられて抗議をすると、すかさずユズの目は楽しそうにオレ達を眺めていたリツとソウに向けられる。
「お前もだ八田、サビ前勝手にアレンジ入れただろ!」
「いいじゃん、そっちの方が楽しそうだったし」
「野並お前もシンバルがでけえ! スティック持ったら性格変わるタイプか!?」
「えっと、ごめん?」
次々に指さしながら指摘をするユズを見ていると、ふと我に返ったのか深く息を吐いていた。それはどちらかと言えば呆れよりも楽しそうという表現の方が似合っていて、咄嗟にベースを抱き抱えながら蹲ってしまう。
「……けど」
「けど?」
「……すげえ、楽しかった」
ベースに隠せたと思っているらしい表情は緩みきっていて、楽しそうに目を細めている。
「そうだな、オレもすげえ楽しかった!」
「まだ三人とも改善の余地があるけどな」
「うっ、けどそういうユズだってベースソロアレンジ入れただろ」
「ソロはいいんだよ」
「なにそれ暴論」
舌を出しながら反論すると、すかさずまた頬をつねられて喉の奥から声にならない声を出した。
いつものやり取りだけど、今日は違う。さっきからだんまりな存在に目を向けると案の定リツは自分の手を見つめていて、少しだけ笑っているようにも思える。
「……リツ?」
「えっと、やっぱりまだ怖い?」
心配するようにソウが覗き込むと、違う、とうわ言のような言葉が聞こえる。優しく、穏やかな声が。
「――手が、痛いんだ。痛くて、すげえ熱い」
整えられた指先をじっと見つめる。愛おしそうに撫でて、ゆっくりと鍵盤にそれを添えた。
「気づいたんだオレ、ピアノはオレにとっての宝箱だって」
オレを、ユズを、そして他でないソウをゆっくりと見つめる。嬉しそうに笑って、静かにキーボードからレの音を鳴らした。
「誰だって宝箱を抱きしめて生きているんだ、オレの宝箱があるとすればきっとそれは――音楽で溢れている」
その表情は、幸せに満ちている。
「ありがとう、オレの宝箱を思い出させてくれて」
その言葉にはなにも言わない。
ただ三人で穏やかに目を細め頷くと、リツも満足したように鍵盤を撫でた。けどその視線の先、ふとあるものに気づいたようでそっと手を伸ばす。無造作に隅のテーブルに置かれていた紙を拾い上げて、目を走らせた。
「これは」
「あ、それは……今度出ようと思ってるサカミナフェスの曲だよ。これに出たくて二人を誘ったんだ」
「ふーん……」
しばらく見つめると黙り込んでしまったリツは、なにを考えているのか目を細めながら五線譜を指で撫でていく。なにをしているのかと思えばある一点を指さして、くうちゃん、と顔は向けずオレの名前を呼んできた。
「……ここ、この辺りなら多分キーボードでアレンジ入れられる。元々オレは室内でのピアノ演奏だからバンドだと足引っ張るかもしれないけど、これでもコンクールは入賞常連だからそこら辺の野良ピアニストよりは頼りにしてよ」
楽譜を指さしながら紡がれた言葉に、オレもユズもソウも三人で顔を見合わせる。それって、今のってつまり。
「じ、じゃあリツ……!」
「いいよ、やろうバンド。オレも、もっと弾きたいんだ。繊細でもいい、荒々しいと言われてもいい。男とか女とか関係ない――ただ純粋にオレが、この八十八の音には素直でありたい」
「律樹くん……!」
嬉しそうに声を張るソウに一瞬肩を揺らしたが、すぐ気まずそうに言葉を選んでゆっくりとソウの方を見た。
「あと、その……ソウちゃん」
「なに?」
「……ごめん、悪かった」
心の底から申し訳なさそうに謝るリツに、ソウは首をかしげていた。
「この前、あれだけ言ってくれたのにオレ、ソウちゃんにとんでもねえ事を沢山言って……許されないってわかってるけど、どうしても謝りたかった。許してほしいわけじゃない、これはオレのエゴだ」
ずっと気にしていたらしい。目線を逸らしながら言葉を続けるリツは、力なく首を横に降っていた。少し悩んだように目を伏せて、ゆっくりと顔を上げて。ユズよりも少し明るめのアンバーの瞳にはソウを写しながら、穏やかに笑う。
「くうちゃんとユズちゃんがソウちゃんのヒーローだって言うなら、八田律樹にとってのヒーローは野並奏志郎だよ」
心の底からの言葉だと、そう思った。
それはユズも、そして他でもないソウもわかっている。それぞれ目を見合わせるとソウは笑って、律樹くん、と名前を呼ぶ。
「僕、怒ってないよ」
その言葉は優しかった。その声音は柔らかかった。その表情は、嬉しそうだった。
「怒っていなくても、傷つけた。それはオレがやった事で謝って済む話じゃない……だから、許されなくてもいい」
贖罪を並べるリツをソウは静かに見つめていた。優しく慈愛に満ちた目を向けながら、ゆっくりと首を横に振る。
「許すよ、例えその謝罪がエゴでも律樹くんの自己満足でも、僕は許す。だって、僕も酷い事を言ったから」
「え……?」
「だって律樹くんにとってピアノは大切ってわかっているのに、それなのに僕は逃げていいのなんて聞いたでしょ? あれは酷い事だよ、僕だって言われたら悲しくなるから」
そっとソウが、リツの手を取る。豆だらけの手と綺麗に爪が揃えられた手はどちらもかっこよく見えて、けどそれは少しだけ震えている。
「だから僕も、ごめんね律樹くん」
あまりにも弱くて、優しくて。けれどもはっきりとした言葉。初めて産声を上げた感情を確かめるように、二人は笑っていた。
スタジオを借りられる時間は限られている。勝手に借りたのはオレだったけど、そこに全員が集まってくれると信じたかった。
「……で、どうすんだよ」
「もう少し、待つ。一応今日練習している事は場所と一緒に連絡してあるから」
チューニングが終わったギターのボディを撫でながら、静かにソウの方を盗み見した。不安そうな表情を貼り付けたソウは深く息を吐きながら、シンバルやペダルの位置を調整している。
「……おい野並、暗い顔するなら帰れ。感情は音に出るぞ」
「ユズ、そんな言い方しなくても」
「ううん、結弦くんの言っている事は正しいよ……ごめんね、切り替える」
深く息を吐きながら、ソウは前を見据える。
「八田くんにあんな事言っておいて、僕が逃げるなんてダサい事はしたくないから」
スティックを握りしめる手に力が入る。
リツが待つならオレも待つなんて、当然の事を考えるとユズも静かに頷いていた。
「なら、八田がくるまでに完璧でいる事だな。啖呵切った奴が不完全なんて、それこそダサいだろ」
「そうだね……あっ」
「なんだよ、なにが……」
「……あっ」
ソウの言葉に釣られて視線をドアの方へ向けると、さっきまで閉まっていたはずのそこが若干空いていた。そしてその先、廊下の方。僅かだが確かに、見慣れたミルクティーの髪が揺れていた。
「……リツ、入ってきたら?」
声をかけてやると、そいつはあからさまなくらいに驚きながらもゆっくりと顔を覗かせる。アンバーの瞳にオレ達を映して、申し訳なさそうにこちらを見ていた。
「えっと、その……」
「遅ぇぞ八田、全員お前待ちだ」
普段と変わらないユズの態度に目を丸くしたリツは、すぐに頬を緩ませてごめん、と小さく言葉を落とした。
「……八田くん」
「りつき」
「え?」
たった一言。
それは穏やかな声で、もう一度しっかり律樹、と自分の名前を口にした。
「名前、オレ八田くんじゃなくて八田律樹」
「う、うん」
「できたらみんなと同じように呼んでくれよ、ソウちゃん」
ニヘラと笑ったリツに、今度はソウが目を丸くする。
「えっと、律樹くん」
「うん、ソウちゃん」
まだ迷いはあるのかその表情はどこかぎこちなかったが、それでもあのね、と自分の言葉を選びリツは前を見る。
「……音楽はオレにとって、逃げていい存在じゃないから」
「……なら、よかった」
みんな一度手放したはずのそれを、バカみたいに好きで抱きかかえている。きっとそれは三人も、オレも同じ事だ。
「ほら遅刻野郎、話が終わったなら早く準備しろ。スタジオ借りれる時間も限られてんだよ」
あくまでも普段通り。
何事もないふうに言葉を投げたユズにリツは目を丸くしながらも、恐る恐るキーボードの前に移動した。初めてのタイプなのか音の調整を少しすると納得したようで、言葉はなかったが小さく頷く。
「野並、カウント任せた」
「う、うん!」
スティックを三回、カウントで鳴らす。それを合図に、オレ達はアイを叫んだ。
「すげぇ……無茶苦茶だ」
散々だった、オレもユズもなにもかも。音の粒は揃っていないし勝手に走り出すし、アレンジだって入ってて。コード進行だって初めての曲じゃままならなくて、ずっと指先が痛い。
それでも、聴いてて悪くなかった。
それでも、この音を楽しいと思えた。
「ふは……!」
ユズだって楽しそうに笑ってて、殴りつけるような音が空気を支配している。
痛いはずなのに、この手を止めたくなかった。何度だって弾きたいと、アイを叫びたいと思えた。
「……楽しい」
全部の音が重なって、知らない音になっていく。
まだ知らない音楽がある。まだ知らない音がある。それが、すごく楽しい。
噛み締めて、最後の一音までしっかりと。
鳴らした音を聴きながらも心臓はずっとうるさくてつい笑うと、突然頬を軽くつねられる。
「バカヒビ、お前まさかこれで満足してないだろうな!」
「いはいユズ」
「痛い、じゃねえよ最初から走りやがって」
思いっきり頬をつねられて抗議をすると、すかさずユズの目は楽しそうにオレ達を眺めていたリツとソウに向けられる。
「お前もだ八田、サビ前勝手にアレンジ入れただろ!」
「いいじゃん、そっちの方が楽しそうだったし」
「野並お前もシンバルがでけえ! スティック持ったら性格変わるタイプか!?」
「えっと、ごめん?」
次々に指さしながら指摘をするユズを見ていると、ふと我に返ったのか深く息を吐いていた。それはどちらかと言えば呆れよりも楽しそうという表現の方が似合っていて、咄嗟にベースを抱き抱えながら蹲ってしまう。
「……けど」
「けど?」
「……すげえ、楽しかった」
ベースに隠せたと思っているらしい表情は緩みきっていて、楽しそうに目を細めている。
「そうだな、オレもすげえ楽しかった!」
「まだ三人とも改善の余地があるけどな」
「うっ、けどそういうユズだってベースソロアレンジ入れただろ」
「ソロはいいんだよ」
「なにそれ暴論」
舌を出しながら反論すると、すかさずまた頬をつねられて喉の奥から声にならない声を出した。
いつものやり取りだけど、今日は違う。さっきからだんまりな存在に目を向けると案の定リツは自分の手を見つめていて、少しだけ笑っているようにも思える。
「……リツ?」
「えっと、やっぱりまだ怖い?」
心配するようにソウが覗き込むと、違う、とうわ言のような言葉が聞こえる。優しく、穏やかな声が。
「――手が、痛いんだ。痛くて、すげえ熱い」
整えられた指先をじっと見つめる。愛おしそうに撫でて、ゆっくりと鍵盤にそれを添えた。
「気づいたんだオレ、ピアノはオレにとっての宝箱だって」
オレを、ユズを、そして他でないソウをゆっくりと見つめる。嬉しそうに笑って、静かにキーボードからレの音を鳴らした。
「誰だって宝箱を抱きしめて生きているんだ、オレの宝箱があるとすればきっとそれは――音楽で溢れている」
その表情は、幸せに満ちている。
「ありがとう、オレの宝箱を思い出させてくれて」
その言葉にはなにも言わない。
ただ三人で穏やかに目を細め頷くと、リツも満足したように鍵盤を撫でた。けどその視線の先、ふとあるものに気づいたようでそっと手を伸ばす。無造作に隅のテーブルに置かれていた紙を拾い上げて、目を走らせた。
「これは」
「あ、それは……今度出ようと思ってるサカミナフェスの曲だよ。これに出たくて二人を誘ったんだ」
「ふーん……」
しばらく見つめると黙り込んでしまったリツは、なにを考えているのか目を細めながら五線譜を指で撫でていく。なにをしているのかと思えばある一点を指さして、くうちゃん、と顔は向けずオレの名前を呼んできた。
「……ここ、この辺りなら多分キーボードでアレンジ入れられる。元々オレは室内でのピアノ演奏だからバンドだと足引っ張るかもしれないけど、これでもコンクールは入賞常連だからそこら辺の野良ピアニストよりは頼りにしてよ」
楽譜を指さしながら紡がれた言葉に、オレもユズもソウも三人で顔を見合わせる。それって、今のってつまり。
「じ、じゃあリツ……!」
「いいよ、やろうバンド。オレも、もっと弾きたいんだ。繊細でもいい、荒々しいと言われてもいい。男とか女とか関係ない――ただ純粋にオレが、この八十八の音には素直でありたい」
「律樹くん……!」
嬉しそうに声を張るソウに一瞬肩を揺らしたが、すぐ気まずそうに言葉を選んでゆっくりとソウの方を見た。
「あと、その……ソウちゃん」
「なに?」
「……ごめん、悪かった」
心の底から申し訳なさそうに謝るリツに、ソウは首をかしげていた。
「この前、あれだけ言ってくれたのにオレ、ソウちゃんにとんでもねえ事を沢山言って……許されないってわかってるけど、どうしても謝りたかった。許してほしいわけじゃない、これはオレのエゴだ」
ずっと気にしていたらしい。目線を逸らしながら言葉を続けるリツは、力なく首を横に降っていた。少し悩んだように目を伏せて、ゆっくりと顔を上げて。ユズよりも少し明るめのアンバーの瞳にはソウを写しながら、穏やかに笑う。
「くうちゃんとユズちゃんがソウちゃんのヒーローだって言うなら、八田律樹にとってのヒーローは野並奏志郎だよ」
心の底からの言葉だと、そう思った。
それはユズも、そして他でもないソウもわかっている。それぞれ目を見合わせるとソウは笑って、律樹くん、と名前を呼ぶ。
「僕、怒ってないよ」
その言葉は優しかった。その声音は柔らかかった。その表情は、嬉しそうだった。
「怒っていなくても、傷つけた。それはオレがやった事で謝って済む話じゃない……だから、許されなくてもいい」
贖罪を並べるリツをソウは静かに見つめていた。優しく慈愛に満ちた目を向けながら、ゆっくりと首を横に振る。
「許すよ、例えその謝罪がエゴでも律樹くんの自己満足でも、僕は許す。だって、僕も酷い事を言ったから」
「え……?」
「だって律樹くんにとってピアノは大切ってわかっているのに、それなのに僕は逃げていいのなんて聞いたでしょ? あれは酷い事だよ、僕だって言われたら悲しくなるから」
そっとソウが、リツの手を取る。豆だらけの手と綺麗に爪が揃えられた手はどちらもかっこよく見えて、けどそれは少しだけ震えている。
「だから僕も、ごめんね律樹くん」
あまりにも弱くて、優しくて。けれどもはっきりとした言葉。初めて産声を上げた感情を確かめるように、二人は笑っていた。



