夜明けのGコード

 カフェを出てから信号を渡って、噴水広場のさらに先。
 すっかり夜も更けた街を抜けると、リツの後ろ姿が見えた。営業時間が終わった角の店でショーケースを見ているその目はどこか悲しげで、オレもつい足を止めた。
「りつっ」
「馬鹿お前、こっちだ」
 首根っこを掴まれてユズに引っ張られると、そのまま建物の角に吸い込まれる。なにかと思えばもう一つの影、ソウがリツに近づいて静かにその姿を見つめていた。
「今は任せよう」
「お、おう……」
 ちょうど二人の表情が見える場所でユズと二人、静かに息を殺した。
「八田くん!」
「……なんだよ、まだ用かよ」
「えっと、少し話をしたくて」
「オレは話したい事なんてない」
「あ、ちょっと待って!」
 背中を向けようとしたリツをソウは呼び止めて、深く息を吐く。
「……逃げるの?」
「は?」
 けど飛び出したソウの言葉は思いのほか強めで、ついオレとユズも言葉は交わさずに顔を見合わせてしまう。
「僕からも、久音くんからも結弦くんからも」
「お前、なにを言って」
「好きってだけで都合の悪い事から逃げ出して、嫌な事だけやらないなんて……そんなの、僕達から逃げているだけだ」
 ソウの瞳に迷いはなかった。まっすぐ見つめる先、リツから視線はそらさずに息を吐き出した。
「それから――なによりも大好きなピアノからも」
「それはっ」
「逃げてるよ、全部。今の八田くんは都合の悪い事から逃げている臆病者だよ」
 まるで過去の自分に言い聞かせるように続けるソウは、それで、とリツに言葉を投げる。
「八田くんは、どうしたいの。このまま逃げるの?」
 なにからとは、言わなかった。
 けどそれだけで嫌というくらい理解ができてしまったのか、リツは苦しそうに表情を歪める。
「そんな、元々オレは音楽なんて」
 そこまで言って、リツは突然言葉を飲み込んだ。
 他でもないソウの視線に射抜かれたから。まっすぐな、なによりも鋭い視線を向けられたから。
「君にとっての音楽は、逃げていい程度の存在なの?」
「違う、そんなんじゃねえ!」
「じゃあどうして! どうして……逃げちゃったのさ」
 絞り出すような声だ。
 悲しさと苦しさと、それから自分自身へ問いかけるような言葉。感情を押し固めたような声は弱々しくて、けど確かにソウ自身が言葉を選んでいた。
「ずっと、ずっとわかっていた。久音くんや結弦くんの言う通り音楽が大好きだって」
 カバンを抱きしめていた。大切なものを確かめるように、それは街路灯の少ない道でもはっきりと見える。
「まだ迷っている、心の底では迷っていた……けど、一人にしないって二人が言ってくれたから、一緒にいてくれるって言うなら」
 少しだけ雲の切れ間から出た月はスポットライトだった。はっきりとソウを照らして、風が濡鴉の髪を静かに撫でている。
「僕はもう一度このスティックと、一緒に音楽を紡いでくれる誰かと向き合ってみようと思う……一度だけ二人を信じて、スティックを握ろうと思う」
 それから、ともったいぶったように言葉に続けたソウは柔らかく笑っていて、まっすぐリツの事を見つめる。
「その時八田くんもいてくれたら、すごく嬉しいな」
 けど、そんなソウの言葉にリツは顔をくしゃくしゃにしていた。眩しそうに目を細めながら、苦しさを押し殺すように何度も首を横に振る。
「オレは違う、お前みたいにまっすぐではいられない」
「じゃあなんで、そこにいるの――どうして、ピアノの店なんかでショーケースを見てるの?」
「っ……!」
 最初ソウの言っている事がわからず、つい首をかしげる。
 ピアノの店って、なにを言っているんだろう。視線を左右に動かして、ふと上を見上げる。ちょうどオレ達が隠れていた建物の看板、大きくピアノがデザインされたロゴがそこには書かれている。
「ここって……」
「お前今気づいたのか、ここはカワイピアノだろ。栄音地区でもピアノをメインに取り扱っている楽器屋だ」
 ユズは気づいていたみたいで、呆れたように肩を落とした。
「嫌になったなら、僕ならだけど……ここは通りたくもないと思う。それでもここにきてしまうのは、それは八田くんがまだピアノを好きって証拠じゃないかな」
「それ、は……」
「……僕だって弱い、きっとあの二人も僕達には話していないだけで苦労や苦しさは沢山味わってきたはず……それでも前を向いて手を差し出してくれたなら、僕は一度だけそれに応える」
 八田くんは? と聞かれたリツの瞳が揺れた。揺れて、そっと目の前にいるソウから逃げるように視線を逸らす。冷たいアスファルトを睨みつけてなにかを考えるように息を吐き出すと、ゆっくり、ゆっくりと顔を上げた。遠い昔を思い出すような、穏やかな嬉しそうな表情で。
「……ミニピアノのレ」
「……え、れ?」
「オレが初めて触ったピアノの鍵盤、四十四鍵盤で迷う事なくそれを押したらしい」
 その一言から始まったのは、優しいリツ自身の思い出だった。
「初めて弾いた曲はキラキラ星、コンクールで演奏したのはヘンデルのガヴォット……賞を取ったのは、大好きなドビュッシーの組曲ピアノのために」
 アルバムをゆっくりとめくるように、目を細めながら出た言葉はどれもピアノの曲だ。
「……わかってる、オレだって。なにも嫌いになれないって、未練がましくネットで活動なんかして。それでもオレはあの瞬間が、指先一つで音を生み出す瞬間がたまらなく好きなんだ」
「だったらなんで」
「だからだよ」
 自分の指先を静かに、じっと見つめる。
 見えない鍵盤を押して、笑って。けど同時に苦しそうな表情を貼り付けて力なく首を横に振った。
「自分の好きなものを誰かに否定された時、その言葉は凶器になるんだ」
 ニヘラと笑った作り笑いは、なんだか苦しかった。
「自慢をするつもりも目立ちたいわけでもなかった、ただ純粋にピアノが好きだって言いたかっただけなんだ……あの時、中学三年生の時合唱コンクールでピアノを弾けるって立候補したのもただピアノが弾きたかったからなんだ……それなのに、なんて言われたかわかるか?」
「それは……ごめん、僕にはわからない」
「――らしくない」
「え……?」
「律樹くんらしくない、ピアノってお嬢様かよ、女々しい女っぽい……あとなに言われたっけ、目立ちたいだけなら女子に譲れよだったかな。オレだって、ピアノが好きなのに」
 聞いているだけで、胸の奥が軋むような感覚だった。
 あまりにも酷い言葉で、けどきっとこれが現実で。確かに、ピアノを習うイメージは女子の方が多いけど、それでも男性ピアニストだって世界には沢山いる。けど世間の偏見は無意識でも少なからずあるもので、リツが向けられた言葉の刃達はきっとリツを傷つけた事にすら気づいていないはずだ。
「鍵盤に針が仕込まれているみたいだった。押すたびにあの時言われた言葉が反響して、ずっとオレの頭の中から離れてくれない……」
 静かに、右手が左手の指を撫でている。ユズの言う通りピアニストの指だ、爪は綺麗に揃えられていて指のひらもまっすぐで、何度も鍵盤を叩いた指だった。
「……なんでお前も、あの二人も。一人でいいって思ってるのに追いかけてくるんだよ。なんで暴こうとするんだよ……ピアノが好きだって事、墓場まで持っていくつもりだったのに」
 服をくしゃくしゃになるまで握りしめていた。息をする場所を求めるように、アンバーの瞳が恨めしそうにソウを写している。
「……けど、そんなお前らに期待しているオレ自身が、一番許せないんだ」
 懺悔だった、震えた声は確かにオレとユズに届く。
 リツは、八田律樹はそういう男だ。周りのせいにできない真面目な性格で、だからこそピアノを捨てきれない自分が、好きなピアノを好きだと言えない自分が嫌いなのかもしれない。
「せっかく追ってきてくれたのに、ごめんな」
「は、八田くん!」
 背中を向けたリツに、ソウは声を張る。
「逃げていい、辛くなったら手放していい……けど、八田くんが好きって気持ちを大切にしたいなら、少しでもまだピアノが好きなら……僕は、そんな君と一緒に音を紡いでみたい」
「っ……」
 返事はない、背中が遠くなる。けど、ふと足を留めた。少しだけこちらへ顔を向けたその表情はどこか苦しそうで、けど少し穏やかにも見えた。
「……ごめん、ありがとう」
 たったそれだけ、その一言。
 それ以上はなにも言わず、リツはその場を立ち去ってしまう。
「い、今の大丈夫か……?」
「さあな、それは八田次第だろ……野並がやれる事をやったんだ、俺達はそれを信じて待つしかない」
 わかっている、今のオレ達は傍観者でしかないって。
 わかっていたけど、まるで自分が言われているみたいで。
 それなのにこの手を差し出せなかった自分自身にもどかしさを感じたのは、多分オレの身勝手な感情だ。
「……リツ」
 ただその背中を追う者はいない。
 ユズもオレも、そしてソウも。信じて見送る事しかできなかった。