「リツ」
ピクリと肩を揺らした。
けどそれはオレではない、ユズの言葉に対して信じられないものを見たようにリツが目を丸くしていた。
教室の真ん中、まだ朝の予鈴も鳴っておらず人も疎らな時間。
まるでその時間すら止まったように、リツが呼吸をするのも忘れて目を丸くしている。
「ゆ、ユズ?」
普段のユズなら多分だけど、苗字で呼ぶはずなのに。それなのにオレみたいに名前で呼ぶのは、なにか意味があってなのか。それがわからず首をかしげるとユズはおもむろにスマホを取り出して画面をリツに見せた。
なにかと思い覗き込むと、ちょうどピアノと人の手だけが見てる画角の動画が流れている。
「これ、お前だろ」
音が流れる。最新流行りのネット配信曲のピアノアレンジ版らしいそれは、軽快で楽しそうだと思える。音から伝わってくるそれはなによりも明るくて、つい聴いていると頬が緩む。
「うわ、上手い……」
鍵盤の上で指が踊っているようだった。
このピアノを弾いている人は心の底から音楽が好きなんだって事がよくわかる。曲の世界に浸りかけた瞬間リツは慌てたような表情になり、ユズの手の中で再生されていた動画を慌てて止めた。
「ちょっと、二人ともこっちきて」
いきなり腕を掴まれて、そのまま教室から連れ出されてしまう。
そのまま二人で連れて行かれたのは準備室の多い旧校舎の廊下でさらに奥、階段のちょうど影になっているところ。周りに誰もいない事を確認すると、リツは安心したように深く息を吐いていた。
「……で、脅し?」
けどその瞬間、リツの声が突然低くなる。
「脅しもなにも、これは八田かと確認をしただけだ。動画サイトのおすすめで上がってきた正体不明の覆面ピアニストの『リツ』、そいつの手にあるホクロの位置が、つい最近見たクラスメイトの手と同じ場所にあったら気になるだろ」
確かに、ユズの言っている事はなに一つ間違っていない。
それでもリツにとっては多分、さっきの動画の事自体がバレたくなかったのかもしれない。案の定険しい表情を貼り付けたリツは自虐的に笑っている。
「面白いだろ、こんな男がピアノだなんて。笑ってくれていいぞ」
「別に脅しでも笑うつもりもない……お前は昔からピアノが好きだっただろ」
「昔から……ユズ、もしかしてリツと面識あったの?」
「少しだけな、名前はこの動画を見るまで忘れていた」
「オレはあんたみたいな東京の奴は知らな……いや、ちょっと待て」
なにかに気づいたのか、リツは突然目を細めてじっとユズの顔を見る。
「どこかで見たと思えばお前……伏見さんところの次男か」
「そういうお前も、八田家の末っ子だよな」
お互いに名前というより家柄で話しているから首をかしげると、それに気づいたようにユズがオレの方へ目を向ける。
「俺の親父の話は、前に聞いただろ」
「あぁ、確か有名なベーシストだったよな?」
マスターから聞いた話を思い出したがら言うと、こくりとユズは頷いた。
「音楽家は必ず一人で活動をするわけではない、むしろ横の繋がりが大切と言われている……だからこそよく交流を兼ねて、俺の親父もパーティーは開いていた。八田家はよく子ども連れで参加してたから覚えている」
遠い昔の記憶を思い出すように目を細めるユズに対して、リツの表情は冷たかった。
「境遇や育った環境は似ていても、オレは音楽の英才教育一家の伏見家じゃない……オレは、お前みたいないい子ちゃんとは違うんだ。パーティーだって親父達の付き合いで行っていただけだ」
「ならばどうして、うちのパーティーで楽しそうにしていた。違うと言うならこなくても兄達に任せてよかったじゃないか、よく兄貴と連弾もしてただろ」
「ひー、よく覚えてるね」
茶化すように言っているけど、その目は笑っていない。
かなり大きめの溜息と共に視線を落とすと、なにかを諦めたようにリツは力なく首を横に振る。
「音楽なんて嫌いだよ、誰も笑顔にならねえ」
「嫌いだって?」
かつてのユズも言った言葉に、その本人が反応をする。
「じゃあお前、なんでピアノやってる事を隠してんだよ。嫌いならやっている事自体隠す理由はないだろ」
剛速球のストレートパンチのような言葉は、リツにもかなりダメージを与えたらしい。くしゃりと顔を歪めて、瞳には動揺の色がありありと滲んでいた。
「それ、は……」
「嫌いって言うなら、過去の産物として笑い話に消化すればいい話だ。それなのに顔出しなしで投稿を今でもしているのは、どうしてだ?」
「っ……」
リツはなにも言わない。
「八田、お前は音楽が嫌いなんかじゃない……好きな音楽を隠さなければいけない事実に対して、好きなピアノに対して罪悪感があるんじゃねえか?」
「お前に、楽しく音楽を続けられているお前らになにがわかるんだよ!」
突然声を荒げたリツは、じっとユズを睨みつけている。けどその目にも臆する事なくいつものぶっきらぼうな表情を貼り付けたままのユズに、リツは諦めたように肩を落とした。
「……お前らにはわかんねえだろうな、ピアノって怖いんだよ」
けどそれはひどく弱々しい、いつものリツからは想像できないくらいに震えた声だった。
「やっているだけで女々しいって言われて、女っぽいって言われる気持ちがお前らにわかるか? わかんねえよな、ギターもベースもかっこいいって言われるんだから」
その声は嘘をついていた。
苦しそうで、嘘をつく事に罪悪感を覚えているようで。
「……リツは自分の楽器を、かっこいいと思っていないのか?」
「かっこいいに決まっている! ……決まっている、のに」
震える指先を必死に抑えながら、悲しそうに見つめていた。
「ピアノだってかっこいいと思っていた、今だって思っている……そのはずなのに、誰かの前で鍵盤を叩くのが怖いと思うようになっちまったんだ」
もしもオレがリツみたいになったらなんて、そんな事を考えてしまい一人でゾッとする。
ずっと好きだったものを人前で晒せなくなるというのは、どれだけ不安な事だろうか。どれだけ悲しい事だろうか。どれだけ、絶望的な事だろうか。
「ギターとかベースとか、そう言った楽器をやってる奴には一生理解なんてされない」
どいてくれ、と小さく言葉を落としたリツになにも言えずユズと道を開けると、おぼつかない足取りでリツは教室の方に歩き出す。
「もうほっといてくれ、オレは今のままでいたいんだ」
その背中はオレの知っているはつらつとしたリツより、どこか小さくて。
なにより、寂しそうに見えてしまった。
ピクリと肩を揺らした。
けどそれはオレではない、ユズの言葉に対して信じられないものを見たようにリツが目を丸くしていた。
教室の真ん中、まだ朝の予鈴も鳴っておらず人も疎らな時間。
まるでその時間すら止まったように、リツが呼吸をするのも忘れて目を丸くしている。
「ゆ、ユズ?」
普段のユズなら多分だけど、苗字で呼ぶはずなのに。それなのにオレみたいに名前で呼ぶのは、なにか意味があってなのか。それがわからず首をかしげるとユズはおもむろにスマホを取り出して画面をリツに見せた。
なにかと思い覗き込むと、ちょうどピアノと人の手だけが見てる画角の動画が流れている。
「これ、お前だろ」
音が流れる。最新流行りのネット配信曲のピアノアレンジ版らしいそれは、軽快で楽しそうだと思える。音から伝わってくるそれはなによりも明るくて、つい聴いていると頬が緩む。
「うわ、上手い……」
鍵盤の上で指が踊っているようだった。
このピアノを弾いている人は心の底から音楽が好きなんだって事がよくわかる。曲の世界に浸りかけた瞬間リツは慌てたような表情になり、ユズの手の中で再生されていた動画を慌てて止めた。
「ちょっと、二人ともこっちきて」
いきなり腕を掴まれて、そのまま教室から連れ出されてしまう。
そのまま二人で連れて行かれたのは準備室の多い旧校舎の廊下でさらに奥、階段のちょうど影になっているところ。周りに誰もいない事を確認すると、リツは安心したように深く息を吐いていた。
「……で、脅し?」
けどその瞬間、リツの声が突然低くなる。
「脅しもなにも、これは八田かと確認をしただけだ。動画サイトのおすすめで上がってきた正体不明の覆面ピアニストの『リツ』、そいつの手にあるホクロの位置が、つい最近見たクラスメイトの手と同じ場所にあったら気になるだろ」
確かに、ユズの言っている事はなに一つ間違っていない。
それでもリツにとっては多分、さっきの動画の事自体がバレたくなかったのかもしれない。案の定険しい表情を貼り付けたリツは自虐的に笑っている。
「面白いだろ、こんな男がピアノだなんて。笑ってくれていいぞ」
「別に脅しでも笑うつもりもない……お前は昔からピアノが好きだっただろ」
「昔から……ユズ、もしかしてリツと面識あったの?」
「少しだけな、名前はこの動画を見るまで忘れていた」
「オレはあんたみたいな東京の奴は知らな……いや、ちょっと待て」
なにかに気づいたのか、リツは突然目を細めてじっとユズの顔を見る。
「どこかで見たと思えばお前……伏見さんところの次男か」
「そういうお前も、八田家の末っ子だよな」
お互いに名前というより家柄で話しているから首をかしげると、それに気づいたようにユズがオレの方へ目を向ける。
「俺の親父の話は、前に聞いただろ」
「あぁ、確か有名なベーシストだったよな?」
マスターから聞いた話を思い出したがら言うと、こくりとユズは頷いた。
「音楽家は必ず一人で活動をするわけではない、むしろ横の繋がりが大切と言われている……だからこそよく交流を兼ねて、俺の親父もパーティーは開いていた。八田家はよく子ども連れで参加してたから覚えている」
遠い昔の記憶を思い出すように目を細めるユズに対して、リツの表情は冷たかった。
「境遇や育った環境は似ていても、オレは音楽の英才教育一家の伏見家じゃない……オレは、お前みたいないい子ちゃんとは違うんだ。パーティーだって親父達の付き合いで行っていただけだ」
「ならばどうして、うちのパーティーで楽しそうにしていた。違うと言うならこなくても兄達に任せてよかったじゃないか、よく兄貴と連弾もしてただろ」
「ひー、よく覚えてるね」
茶化すように言っているけど、その目は笑っていない。
かなり大きめの溜息と共に視線を落とすと、なにかを諦めたようにリツは力なく首を横に振る。
「音楽なんて嫌いだよ、誰も笑顔にならねえ」
「嫌いだって?」
かつてのユズも言った言葉に、その本人が反応をする。
「じゃあお前、なんでピアノやってる事を隠してんだよ。嫌いならやっている事自体隠す理由はないだろ」
剛速球のストレートパンチのような言葉は、リツにもかなりダメージを与えたらしい。くしゃりと顔を歪めて、瞳には動揺の色がありありと滲んでいた。
「それ、は……」
「嫌いって言うなら、過去の産物として笑い話に消化すればいい話だ。それなのに顔出しなしで投稿を今でもしているのは、どうしてだ?」
「っ……」
リツはなにも言わない。
「八田、お前は音楽が嫌いなんかじゃない……好きな音楽を隠さなければいけない事実に対して、好きなピアノに対して罪悪感があるんじゃねえか?」
「お前に、楽しく音楽を続けられているお前らになにがわかるんだよ!」
突然声を荒げたリツは、じっとユズを睨みつけている。けどその目にも臆する事なくいつものぶっきらぼうな表情を貼り付けたままのユズに、リツは諦めたように肩を落とした。
「……お前らにはわかんねえだろうな、ピアノって怖いんだよ」
けどそれはひどく弱々しい、いつものリツからは想像できないくらいに震えた声だった。
「やっているだけで女々しいって言われて、女っぽいって言われる気持ちがお前らにわかるか? わかんねえよな、ギターもベースもかっこいいって言われるんだから」
その声は嘘をついていた。
苦しそうで、嘘をつく事に罪悪感を覚えているようで。
「……リツは自分の楽器を、かっこいいと思っていないのか?」
「かっこいいに決まっている! ……決まっている、のに」
震える指先を必死に抑えながら、悲しそうに見つめていた。
「ピアノだってかっこいいと思っていた、今だって思っている……そのはずなのに、誰かの前で鍵盤を叩くのが怖いと思うようになっちまったんだ」
もしもオレがリツみたいになったらなんて、そんな事を考えてしまい一人でゾッとする。
ずっと好きだったものを人前で晒せなくなるというのは、どれだけ不安な事だろうか。どれだけ悲しい事だろうか。どれだけ、絶望的な事だろうか。
「ギターとかベースとか、そう言った楽器をやってる奴には一生理解なんてされない」
どいてくれ、と小さく言葉を落としたリツになにも言えずユズと道を開けると、おぼつかない足取りでリツは教室の方に歩き出す。
「もうほっといてくれ、オレは今のままでいたいんだ」
その背中はオレの知っているはつらつとしたリツより、どこか小さくて。
なにより、寂しそうに見えてしまった。



