夜空が無愛想という名の服を着て揺れている。
 それは夜明けを押し固めたようだった。 
 向けられたコップに対して反射的に瞑った瞼を恐る恐る持ち上げると、少しだけ視線の上の方でブルーブラックの髪が目の前に広がっている。多分だけど、歳はオレと同じくらいで高校生。濡れたその髪の間からは朝日のように鮮やかなアンバーの瞳が覗いていて、目の前にいる男をじっと睨んでいた。重力に従って滴り落ちる水滴を軽く頭を振りながら落として、そいつは深く息を吐いた。
「おいジイさん、いくら客だからって店員に水かけるのはどうかと思うぞ」
 低い、冷たい声だ。
「私はその後ろにいる彼女と良い感じに話してたのに、そいつが間に入ってきたのが悪いんだろ」
「いい感じ? どう考えてもタチが悪いナンパだろ。それで、こいつが間に入った。今見る限りジイさんが悪者だぞ」
 強い言葉で反論されると思っていなかった男は苦虫を嚙み潰したような顔をすると、アンバーの瞳で自分を睨みつけてくるそいつに対し忌々しそうに舌打ちをしながら背中を向けた。冷たいドア・チャイムの音と叩きつけるようなドアの閉まる音に、髪が濡れたままのそいつは顔を上げ追いかけようとする。
「あ、おい待て話はまだ……!」
「追いかけなくていい少年、久音(くおん)くんは後で塩撒いといて」
「おっけーです、いつもより多めに撒いておきましょう」
「ほどほどにね」
 オレが庇った同じバイトのセンパイを落ち着かせるためにスタッフルームへ下げながらも、マスターはそんなオレの様子を見てケラケラと笑っていた。けれどもその目は据わっていて、オレを含めその場にいた常連達も荒れた神には触れないよう目を逸らす。
「後ほら、タオル」
「ありがとうございます」
 マスターから受け取ったそれは、オレに対してではない。滴り落ちた水をそのままにして怒り狂っているそいつに近づくと、そいつは今にも男を追いかけて走り出しそうだったから咄嗟に空いている手で腕を掴んでタオルを差し出した。
「納得できねえだろ、こんなところでナンパして」
「いい、むしろありがとうな。あいつこの辺りの店で適当な難癖付けるってので厄介者扱いされているんだ。スパッと言ってくれてこっちもスッキリした、これに懲りてしばらくはこないだろ」
「……なおさら追い払った方がいいだろ」
「いいって、それより早く拭かねえと風邪ひくぞ」
 怪訝そうに顔をしかめたそいつは、周りを一瞥し静かに目を伏せる。
「……さんきゅ」
「おう……って、ん?」
 ふと、足元になにかが落ちているのに気づいた。
 小さなそれは中の透ける巾着袋に入っていて、外からでもそれはハッキリと見える。少し角が取れた三角のそれは見間違えるはずがない。
「これって……」
 使い古したピックだった。
 練習をした傷が深く残った、ギタリストのものだった。
「なあ、もしかしてギターとかやってる?」
「は……?」
「ほら、これ」
 そいつは瞬きをしながら目を丸くする。
 おもむろにオレから巾着袋を受け取ったそいつは最初なにを言っているかわからなさそうにしていたが、すぐに目を細めて巾着袋を見つめている。掠めた指先は、オレと同じで硬くなっていた。
「別に、これは……」
「単に形で持ってるわけじゃないだろ……だってそれ、すげえ使い込んでるから。傷がつくまで、割れる寸前まで使っている。きっとそれだけ練習したんだろうなって、オレもギターやってるからわかる」
「……ギター」
 ピクリと、そいつの指先が跳ねた。
 なにかを押し殺したように顔をしかめて、息を吐き出す。けどそれも一瞬の事で、すぐ隠すように首を横に振ると逃げるように視線を落とした。
「悪いけど、俺はなにもやってない」
「じゃあ、なんでギターのピックなんか大切にしてんだよ」
「それはっ……」
 手の中にあるそれを、強く握りしめた。
「違う、これは……」
 その目には迷いがあった。苦しそうに息をまた吐き出して違う、とうわ言のように言葉を繰り返す。まるで手の中の欠片に、擦り切れたピックに縋るように。
「……ギターはやってねえ、やっててもやめた」
 そいつは強く、首を横に振った。
 それはオレに対してではない、まるで自分を戒めるように強く。

「音楽なんて真剣にやったところで――誰かを殺すだけだ」