いつも以上に先生の話している言葉が頭に入ってこないのに、いつもなら襲ってくる眠気は全くなくて、ただぼーっと窓の外を眺めていたらいつの間にか授業が終わっていた。ドキドキは強くなっていく。

 青山を前にすると、どうしても素直になれない。自分が自分じゃなくなってしまう。ぐるぐると頭の中をめぐり続ける思考を簡単に手放せたらよかったのに……。

 ショートホームルームも終えて、あとは帰るだけ。五限目が始まってからずっと、気まずくて隣を見れていない。どうしよう、と視線を下に向けたまま立ち上がることもできずにいると、たたたとよっちゃんが駆け寄ってきた。

 「れんちゃん、もう帰るー?」
 「よっちゃん……」

 何と言おうか迷いながら口を開けば、すっと立ち上がった長身にそれを遮られる。

 「ごめんね、吉野くん。今日はれんたろーのこと借りてもいい?」
 「えっ、あっ、うん。どうぞどうぞ、持ってっちゃって!」
 「人をものみたいに言いやがって……」

 俺と青山の顔を交互に見たよっちゃんが、にっこりと笑みを浮かべて俺を差し出す。あまりにも軽いノリにぶつくさ文句を言えば、よっちゃんに耳打ちされる。

 「なんか今日のれんちゃん、どんよりしてる。思ってることがあるなら、全部ぶつけちゃった方がいいよ」
 「俺は別に……」
 「じゃあ、ぶつけられるのもちゃんと受け止めてあげて」
 「……ん、わかってる」

 きっとよっちゃんは、俺が意地を張って素直になれないことを見透かしているんだ。親友からのアドバイスにこくりと頷けば、「えらいえらい」と褒められる。いや、俺のこと、何歳だと思ってんだ。

 「じゃあ、俺は檜山とかーえろっ。檜山ぁ!」
 「ぐぇっ、急に抱きついてくんな!」

 よっちゃんに潰されかけている檜山に内心両手を合わせながら、青山に向き直る。叱られるのを覚悟した犬のように、しょんぼりとした様子の青山に声をかけた。
 
 「はぁ……、帰んぞ」
 「うん」

 教室を出て、廊下を歩いていると、隣に並ぶこいつがいかに人気かを思い知らされる。そうして会話もないまま、ただ歩き続けた。すれ違う人の視線はやっぱり俺を通り過ぎて、青山に向かう。それを見て、やっぱりモテるんだなあと実感した。

 まぁ、確かに綺麗な顔してるもんなぁ。ちらりと盗み見れば、思わず見惚れてしまいそうになる。ハッと我に返って視線を戻す前に気づいた青山が「ん?」と首を傾げた。

 「どうかした?」
 「いや、別に、なんでもない」
 「そう」

 ぎこちない空気に耐えられない。
 早く決着をつけないと。

 学校の近くの川沿いの道を歩く。昨日の雨のせいで水の量がいつもよりも多い。濁ったその色は、俺の心の中に似ている。水の流れる音、風に揺れる木の葉の囁き、どこかの軒先にぶら下げられた風鈴がチリンチリンと音を立てている。穏やかな昼下がりだっていうのに、俺たちの間に流れる空気は重い。

 「…………」
 「…………」

 沈黙が痛い。青山の半歩後ろを歩きながら、その後ろ姿を見つめる。手を伸ばせば触れられるほどこんなに近くにいるのに、どうしてここまで遠く感じるのだろう。

 「れんたろー」

 俺の名前を呼んだ青山が、踏切の前で立ち止まって振り返った。

 「れんたろーは俺の憧れだったんだ」
 「ふっ、急になんだよそれ」
 「一年生のときからずっと、れんたろーの目に映りたいと思ってた」
 「…………」
 「自分の感情に素直で、周りを巻き込んで場の空気を明るくする。そんなれんたろーにいつしか目を奪われるようになってたんだ」

 学年で一番人気のある青山が?
 ただの平凡な同級生を目で追っていたって?
 そんなの、本人の口から聞いたって半信半疑。あまりにも疑わしくて、眉間に皺が寄る。

 「じゃあ、何で『友だちだと思ってない』とか言ったんだよ。そんなに俺を認めてくれてたなら、友だちだと思えばよかったじゃん。現に俺はお前を友だちだと思ってたんだから」
 「……友だちじゃ、足りないよ」
 「え……?」

 思わず聞き返すと、青山が切なく笑った。

 「れんたろーのたくさんいる友だちの中のひとりになりたくない」
 「何言って、」
 「だめだね、俺。またれんたろーを困らせてる」

 ――カンカンカンカン。
 そう言って顔を伏せた青山に一歩近づけば、けたたましい音が鳴り響いた。電車が来る。あ、と言葉を零す暇もないまま、青山が逃げるように線路を渡っていく。追いかけようにも遮断機が降りてきていて、俺だけ取り残された。

 青山に抱えていたモヤモヤがまたひとつ増えていく。こっちから近寄ろうとすれば、するりと逃げていく。ミラージュのように、本質を掴めない。

 ひとりだけ渡り終えた青山を睨みつけていれば、くるりと彼が振り返る。そして、静かに口を開いた。

 「レン」
 「は、」
 「――――」

 彼の口が動いた瞬間、俺たちの間をびゅーっと快速電車が通り過ぎていく。十両の電車が通り過ぎるその時間があまりにも長く感じて、早く早くと気が急いてしまう。ドクンドクンと心臓がうるさい。

 長い電車が蜃気楼を消し去って、やっと答えが見つかった気がした。

 まだ、そこにいろよ。
 勝手に言い逃げして帰るなんて、許さねぇからな。
 なぁ、青山、……るい。

 遮断機がゆっくりと上がっていく。
 その向こう側で、青山が泣きそうに笑っていた。

 無言で近づいてきた俺から、青山は逃げようとはしなかった。全て諦めたような顔をしていることに腹が立って、青山の胸に頭をぐりぐりと押し付けた。そんな行動が予想外だったのか、頭上から小さく「えっ」と声が聞こえてきて、途端に体が強ばったことに少しだけ溜飲が下がる。

 「……なんでその言葉なんだよ」
 「うん……」

 聞こえなくたって、口の形でわかる。「ごめ」ときたら、次は「んね」が続くだろうってこともわかってる。

 俺が今、世界で一番嫌いな言葉。
 最後に恋した人から言われた、最後の言葉。

 「全部話すから聞いてくれる?」
 「ん、聞く」

 こんな近くに「るい」さんがいたなんて。
 モヤモヤの正体がわかったものの、理解は全然追いついていない。そっと体を離せば、ぽつぽつと青山が話し始めた。

 「れんたろーにどうやったら近づけるんだろうって思ってたら、トラアンを好きって知って。いつか話のタネにできたらいいなと思って始めたのに、たまたまれんたろーとマッチングして……。自分のことを明かせないまま時間だけが過ぎていって、せめて女の子だってことは勘違いだよって言うべきだったのに、れんたろーから話しかけてくれるのが嬉しくてずっと言い出せなかった。……ごめん、たくさん傷つけてごめんね」
 「……もうそれ以上謝んなよ。『ごめんね』はあの一回だけで十分だから」
 「ごめ、……あ、」
 「ったく、青山の口癖かよ」

 「るい」さんが本当のことを言い出せなかったのは、俺が醸し出していた空気感のせいもあったのだろう。

 青山だけを責めようという気にはなれなかった。だって、俺の知ってる青山はいつだってまっすぐに俺にぶつかってきて、正直に気持ちを伝えてくれていたから。

 「で? お前は俺とどうなりたいの?」
 「……言ってもいいの?」
 「友だちってのが嫌なら、正直に言ってみればいいんじゃない?」
 「…………好きです。いつも明るくて、みんなを太陽みたいに照らしてるれんたろーが好きです」
 「……うん」
 「俺をれんたろーの一番にしてほしい」

 少し涙で潤んだ瞳がキラキラと輝いている。
 その瞳には俺しか映っていない。
 ずっとそうだったって、今なら気づける。

 不安と期待に揺れる瞳。
 学年一のモテ男だなんて、大層な呼び名をつけられてんだからもっと堂々と偉そうにしていればいいのに。
 つい、ふと笑みをこぼしてしまう。

 「青山、」
 「はい」
 「くだらない話もちゃんと聞いてくれるところとか、どんなときも俺の味方でいてくれるところとか、青山が思ってる以上に俺は救われてきたから」
 「……うん」
 「『るい』さんでも、青山でも、俺は結局お前に惹かれる運命だったのかもな」
 「っ、」
 「俺も、どんな青山でも好きだよ」

 目を見開いた青山の瞳から宝石のように綺麗な雫がぽろりと零れた。ほんと、綺麗な顔。泣き顔ですら絵になるなぁと感心してしまう。

 「れんたろー、すき」
 「はいはい、わかったから」
 「わかってない、俺がどれだけれんたろーを好きなのか全然伝えられてないんだから」
 「どうしたのお前、もっとクールじゃなかった?」
 「あれはその、れんたろーにいいところ見せようとして緊張してただけだから……」
 「ふはっ、なんだよそれ」
 
 愛しくって、心の中がぽかぽかする。
 顔がいいのに不器用で、優しくて、ちょっぴり秘密主義な子の男に、俺の一番を全部あげる。

 「なぁ、トラアンも一緒にやってくれる?」
 「いいの?」
 「もう断る理由ないだろ?」
 「うん、俺がキャリーしてあげる」
 「バカ、俺だってやればできるんだからな」

 今度はふたり連れ添って歩いていく。
 晴れやかな気持ちで、未来予想図を描きながら。


 【完】