「過去の恋なんて、全部忘れてよ」

 青山の綺麗な瞳に驚いた自分の顔が映っている。何を言われたのか理解が追いつかなくて、瞬きを繰り返す。ぽかんと口を開けた自分がアホ面をしているって分かっているけれど、何度目をぱちぱちしてみたって、目の前のイケメンの表情は変わらない。

 なんだよ、めーっちゃ、目がマジじゃんか。
 ……って言いたいところだけど、さすがの俺も茶化す空気じゃないって分かってる。真正面から浴びるイケメンの圧に負けて視線を逸らそうとすれば、顎を掴んだ手にぐっと力が込められる。いや、ちょっと痛いんですけど。

 「ねぇ、分かった?」
 「…………」

 眉間にぐと皺を寄せていれば、何も返事が返ってこないことに焦れた青山は更に圧をかけてくる。

 いや、それ、どういう意味だよ。
 ……なんて、聞き返せる空気でもなく。

 ――コクン。
 暫しの沈黙の後、ぎこちなく頷くことしかできなかった。どういう意図でこんなことを言っているのかよく分かんないけど、肯定しておかないとこのまま解放してくれないと思ったから。

 すると、ふわりと満足気に微笑んだ青山。その手が顎を掴むのをやめて、ぽんと頭を撫でて離れていく。花だ、花が舞っている。どうやらイケメンはキラキラも花も自由自在に操れるらしい。そんな現実逃避をしてみたって、俺が頷いたという事実は取り消せず……。

 「うーん、れんちゃん、ちゃんと思い出にできるのかな」
 「いやそれよりも青山って、もしかして……」
 「檜山くん、しーっ」

 そんな三人の会話に混ざる余裕なんてなくて、ただ聞き流すことしかできない。

 「約束だよ、れんたろー」
 (あ、マズったかも……)

 もう既にキャパオーバー。この状況を何がなんだかよく分かっていない俺は、自分の席に腰掛けた青山が嬉しそうに甘く微笑みかけてくるのを真正面から受け止めることしかできない。

 (なんだよ、その笑顔……)
 (いつも仏頂面のくせに、反則だろ)

 だって、もう、キャパオーバーだ。照れ隠しにすぐに窓の方を向いて、片手で口元を隠したのは許してほしい。

 ◇◇

 青山ショックの後、すぐに予鈴が鳴って俺はようやく包囲網から解放された。五限目の始まる前、スマホを盗み見たけれど、ゲームの通知やメールマガジンしか届いていなくて「はぁ……」と肩を落とす。今日一日ずっと、休み時間の度にスマホの画面を確認しているけれど、待ち望んでいる人物からの連絡はいくら待ってもきていない。こうしてスマホを確認して落ち込むのも、もう、何度目だろう。最早、自分でも分からない。

 だけど、確認する手は止められなかった。ずっと待っているんだ。メッセージが来ていないか、そわそわして落ち着かない。あのメッセージを最後に、「るい」さんから連絡が一度もきていないから。もう、俺との関係を終わりにするつもりなのだろうか。……嫌だな。こんなことになるなら、ずっと恋心を秘めたままにするんだった。

 力を入れすぎたせいで、のろのろとノートを取っていたシャー芯が簡単に折れてしまった。ポキッと、俺の心が折れる音がした。

 「じゃあね、れんちゃん。俺は委員会行ってくるけど、これ以上落ち込むんじゃないぞ」
 「うん、分かってるよ。行ってらっしゃい」

 SHRを終えた後、よっちゃんがわざわざ俺のところまでやってきて、励ましの言葉をかけてから教室を出ていく。
 
 「蓮太郎、その、お前はいいやつだから……、きっとすぐにお前を好きな人が現れるよ」
 (というか、既に狙われて……。いや、これは本人が気づくまでは黙っておこう)
 「あはは、檜山がフォローしてくれるの珍しい。ありがと。生徒会頑張って」

 そんなに俺、落ち込んでいるように見えたのだろうか。駄目だなぁ、親友ふたりに心配かけるなんて。
 言いにくそうにしながらも、俺を気遣って声をかけてくれた檜山に手を振って見送る。

 「はぁ……」

 ひとりになって、またため息。
 いつの間にか、教室は俺だけになっていた。ぼすんと机に置いたリュックに顔を埋める。

 やっぱり、「るい」さんから連絡がこない。それが何を意味するのか、真意は「るい」さんしか分からないけれど、やっぱり俺には拒絶としか思えない。好きな人も友だちも、同時に失ったんだ。きゅと唇を噛みしめる。

 「っ、るいさん……」

 何も変わらない待受画面。失恋からまだ一日しか経っていないのだ。傷は全然癒えていない。誰も見ているひとがいないと思ったら、涙腺がゆるんできて視界がぼやける。

 (泣くな泣くな泣くな……)
 自分に言い聞かせるけれど、効果はない。遂に、つーっと一筋の涙が流れ落ちた。

 そのときだった。教室の入口の方から、ガタッと音がした。忘れものでもしたのか? やばい、泣いていることがバレたら気まずすぎる。寝ているふりでもするか? 思考を巡らせるけれど、足音はどんどん近づいてくる。

 クラスメイトを無視する嫌なヤツって思われるかもしれないけど、もうさっさと教室を出て行こう。
 そう決めて顔を上げると、思いの外、近くまで来ていたらしいその人の影が差し掛かる。慌てて涙を拭って、リュックを引っ掴みながら立ち上がった。そのまま退散しようとしていたのに、そいつは俺の前に立ちはだかる。

 「っ、なんだよ」
 「……うん」
 「いや、『うん』じゃないだろ」
 「…………」

 青山だった。コイツには見られたくなかったのに。また昼休みみたいにいじられるんじゃないかって身構えるけれど、返ってくるのは中身のない言葉。

 じいっと、俺を観察するみたいに見つめられると気まずさが増す。沈黙をかき消そうと、作り笑いを浮かべて質問を投げかけた。

 「忘れものでもした? 久野とか、友だち待たせてんじゃないの? 早く帰りなよ」
 「れんたろーは?」
 「今、帰ろうとしてたとこだよ」

 なんだかこのやりとりが馬鹿らしくなって、再び涙を拭う。もうバレたっていいや。全部どうでもいい。青山も、さっさと帰ればいいのに。こんなの、ほとんど八つ当たりだって分かっているのに、トゲのある言い方になってしまう。更なる自己嫌悪。むっと唇を尖らせていれば、青山が言葉を続ける。

 「れんたろーを泣かせたのは、だれ?」
 「っ……」

 直球な言葉に思わず息を飲む。狼狽えていることはすぐにバレただろうから、今更取り繕えない。結局、こいつも俺のことをからかいたかったのかよ。キッと、背の高い青山を睨み上げる。

 「っ、退けよ、そこ」
 「やだ」
 「はぁ?」

 これ以上、構ってられない。もう話にならないと諦めて、横をすり抜けようとすればガシッと手を掴まれた。

 「はぁ……、何なんだよ」
 「…………」
 「話すこともないならいいだろ。離してくれよ」

 青山を見ていると、劣等感が湧いてくる。こんな綺麗な顔なら、俺の人生はきっと百八十度変わっていた。告白したってフラれることはなかっただろうし、ちやほやされながら生きてこられただろう。

 所詮ないものねだりだってわかってる。これ以上、ひどいことを言う前に、俺を自己嫌悪に塗れたバケモノにする前に、とっとと解放してくれないか。

 「……ごめんね」
 「っ、」
 「でも、そんな顔をしているれんたろーをひとりにしたくない」

 「るい」さんからのメッセージがフラッシュバックする。どうしてこいつは、俺の感情をこんなにも揺さぶるんだ。今、一番聞きたくなかった言葉を口にしてトラウマを蘇らせたと思ったら、拒絶しようとして頑なな俺に寄り添おうとする。

 「れんたろー、」
 「っ……」
 「泣きたかったら泣いていいよ。俺が一緒にいるから」

 ぽろり、無意識に溢れた涙。それが床に落ちる前に手を引かれて、優しい腕の中に閉じ込められた。一度溢れたら歯止めがきかなくて、青山の制服にどんどん染みができていく。

 「よしよし、今日一日頑張ったね」
 「…………っ」
 「俺しか見てないんだから、今ここで全部吐き出していいんだよ」

 一定のリズムを刻みながら、頭をぽんぽんと叩かれる。なんだかそれが心地よくて、溜まりに溜まった本音がぽろりと零れ落ちていく。

 「……ちゃんと、すき、だったのに……っ」
 「うん、みんなにバカにされて嫌だったね」
 「うぅ……、おまえもへんなこと言うし……」
 「俺のは本気だよ」
 「意味わかんねー……、俺にそんな優しくすんな」
 「ふふ、れんたろーにしかしないよ。俺はれんたろーの味方だから」
 「誰にでも言ってるくせに……」

 学年一のイケメンに慰められている、よく分かんないこの状況。だけどいっぱい泣いたら、頭の中がだんだんスッキリしてきた。散々いじられて荒んだ俺はもう甘い言葉には騙されない。ムスッとしながら小さく呟けば、青山の手がぴたりと止まった。

 「言わないよ、れんたろーにしか言わない」
 「どうだか……」
 「じゃあ……、信じてもらえるように頑張るから、ちゃんと“俺”のことを見ていてよ」

 さっきまでの甘い声とは違う、少し焦ったような、懇願するような声色。あまりにも真剣だから、茶化すことも突っぱねることもできなくて、黙り込んでしまう。そんな俺の反応に困ったのか、青山は抱きしめていた腕から俺を解放して、迷子のように見つめてきた。

 「れんたろー、」
 「分かった、分かったから。そんな目で見んなよ……」

 俺の負けだ。
 早々に白旗をあげる俺を見た青山は、安堵するようにほっと息を吐いた。

 「……ねぇ、」
 「ん?」
 「俺を……になって」
 「え? 何て言った?」
 「……ううん、なんでもない」

 小さな声で呟かれた言葉。青山の声と重なるように、ちょうど野球部の掛け声が聞こえてきて、聞き取れない。たぶん、一番大事なところ。聞き返してみるけれど、諦めたように瞳を伏せた後、青山は誤魔化すように無理やり笑顔を作って首を横に振った。

 その顔を前にしたら、それ以上踏み込めない。何を言ったのか確認なんてできなくて、モヤモヤしたものだけが残る。窓の外から流れてくる生温かな風が、そっと俺たちの間を通り過ぎていった。