「おねーさん、寝てるの? 電車待ってるの? 乗らないの?」
突然声をかけられた。
日曜日の夜10時すぎ。もうすぐ夜も11時というころ。
駅のホームのベンチに座って、5本目の電車を見送ったとき。
声をかけられて閉じていた目をはっと開けると、正面に大学生くらいの男の子がいた。
ひょろりとしたシルエット。
あせた色のジーンズに濃紺のシャツ。
首筋の髪は短く整えられていて、ふんわりしたつむじのあたりの髪の色はプリンになっていない。きっと地毛の色なのだろう。やわらかそうな茶色の髪。このくらいなら指導の必要はないかな。
肌の色は白すぎず、適度に日焼けした色。すうっと涼しげな目の形。
総合的に判断すると、見覚えはない、と思う。
そんなことを考えながら男の子の顔を見つめていると、彼のほうが視線を逸らした。目の横あたりが少し赤い。
「大丈夫だよ。起きてるし。電車は……いつか、ちゃんと乗るから」
「もうすぐ終電だよ?」
男の子が呆れたような声をあげた。
まだ11時前だけど終電?
「こんなにはやいんだ」
思わず口にすると男の子はふわっと笑った。
──かわい。
「おねーさん、いつも電車乗らないの?」
「車通勤」
「ふうん」
やだ。どうしてこんな会話してるんだろう。こんなふうに。初めて会った男の子と。
可笑しくなって、くすりと笑いがこみ上げてきた。
口元を手で隠すけれど、たぶん隠せてない。
「おねーさん、笑うとかわいい」
「きみもね」
『──先生、笑うとすっごくかわいい。つきあって』
そうだ、昔、そうやって言ってもらったことがあったっけ。
ふいによみがえってきた記憶が、私の心に明かりを灯した。
目の前の男の子のかわいさとダブルで今の心を癒してくれる。
*
「きみ、高校生?」
「ほんとにそう見える?」
「見えない」
「よかった」
大げさに目をひらいて、男の子が目尻をさげた。
「大学の帰り?」
「日曜日だよ」
実にならない、花も咲かない、そんなどうでもいいような会話をしながら、また1本電車を見送る。男の子との会話は『仕事』を忘れさせてくれた。
「おねーさんは? どうして電車に乗らないの?」
「じゃあきみは?」
私がぼんやりと電車を見送ったことを知っているということは、この男の子も何本も電車を見送っていたということだ。
私はもう27歳だし、いい大人だから遅くなってもいい。
「実家住み? アパート借りてる?」
「おねーさんは?」
質問を質問でかえされて、そんなことを話しているとどうでもよすぎて楽しくなってくる。
もう家に帰りたくないくらいに。
明日、仕事に行きたくなくなるくらいに。
「帰りたくないんだ」
「え?」
「ちょっと今日は。っていうか明日は。仕事いきたくないなあって」
「え?」
男の子の顔を見ずに目を瞬かせる。
少し顎を上げて、涙がこぼれないようにキープする。
今日。
大学時代の友達である響子と、彼女の住んでるマンションあたりまで出かけてたくさんおしゃべりしてきた。
同じゼミで学んでいた彼女は、一緒に中世日本の歴史を学んでいたことなどあっさり捨てて自動車部品メーカーの事務に就職した。
もう5年目になる。
中堅と言われる企業で福利厚生も充実している。上司にも同期にも恵まれて、ミスはカバーしあい、よりよい結果を生み出すための努力も厭わない。最近上司から紹介されたという恋人ができ、結婚を視野に入れたお付き合いをしているとのこと。
同じゼミにいたのに。
こんなに差ができてしまったのはなぜなんだろう。
私は、といえば。
好きな歴史を学んで、小さい頃からの目標だった教師になった。
いや、それが悪いわけじゃない。
努力したし、中学教師になったことは誇れることだ。
でも、響子のキラキラした話を聞いていると、どうしても。
「おねーさん?」
黙り込んでいた私の顔を、男の子が覗き込んでいる。
「どしたの? 帰りたくないなら。ううん、仕事、行きたくないなら。俺、一緒にいるよ?」
どうやら涙はこぼさずにぎりぎり持ちこたえたようだった。
なんだろう、この男の子。
ふわふわしながら心の中にぐいっと入ってくる。
不思議なくらい。
だから、本当のこと、言いたくなってくる。
「私、先生なんだ。中学校の先生」
男の子が、なぜかほっとしたような顔をした。
「ちゃんと先生になれたんだ」
「うん。ずっと小さい頃から憧れてて、教育実習も楽しくて。だから響子みたいに企業に入りたいとは思わなくって」
「響子?」
「ふふ。友達の名前。教育実習にもいったのに普通の会社に就職しちゃった子」
「教育実習きてたっけ?」
「別の学校で実習したから」
ふうんどおりで、と呟いて男の子が目をくるりとさせた。
不思議な男の子だ。
言葉の端々から、全てのことを知っているような気すらしてくる。
知ってるはずはないのに。
「今思えば響子は賢かったんだよね」
「どうして?」
「子ども達と向き合うだけじゃなくて、学校の先生とか子ども達のお父さんお母さんとか。そういうのと付き合うのが大変ってこと、ちゃんとわかってたんだよ」
*
私、わかってなかった。
ううん、大変だとは思っていたけど、私はできる大丈夫! って。
図々しく考えちゃってたんだな。
授業の組み立てを考えるのが好きで。
どうやったら子ども達に理解してもらえるだろうか、とか。
いろいろ試したりして。子ども達が楽しく学んでくれるうちは本当に楽しかった。
がむしゃらに突き進んだ初めの2年くらいは大丈夫だった。
中学1年と中学2年の担任だったから。
その次の年で初めて3年生を受け持って。
受験と向き合うので私まで心が折れそうだった。
でもそんなこと言っていられない。
受験と向き合う子ども達を応援しつつ、保護者と連絡をとる。
目立って成績が悪くなった子には重点的に。
こんなときにはこうしたらいいっていうHOWTOの本をみて、一生懸命型にあてはめようとしてた。
でもひとり、どうしても成績の上がらない子がいて。
思い詰めちゃったんだな。──私も。彼女のお父さんやお母さんも。
『先生は、私のこと見てない。大勢の中のひとりじゃない。私は私なの。私、もうがんばれない』
その子は──美悠は置き手紙をして家出をしてしまった。
主任先生からもちろん注意を受けて、お父さん達にも合わせる顔がなくて。あのときは本当に、私のほうこそもうがんばれないって思ってた。
*
ぶわり、と風をおこしながら、私の乗る上り方面の最終電車がホームに入ってきた。
どうしよう。
こんなこと、こんな男の子に喋ってしまって。
私、どうかしてる。
「私、電車に乗らなきゃ」
ここから消えてしまいたくて。男の子との空間から逃げたくて。
私はベンチから立ち上がった。
一歩、踏み出そうとしたら。
「待って。おねーさん。ううん、川崎先生、待って」
「ごめんね、変なこと喋って。もう忘れて?」
どうして私の名前を知ってるの?
ふっとそんな疑問が頭をかすめたけれど、はやくここから逃げ出したかった。
もう忘れて、と言い捨てて、逃げていこうとしたところで。
くい、と鞄の手の部分をつかまれてしまった。
「でもさ、先生。俺、バイト代あるから。ちゃんとタクシー乗せて送ってあげるから。もしも明日遅刻したとしても全部俺のせいにしてくれていいから。お願い、もう少し話聞かせて」
「……きみのせいになんてしないよ」
とても必死な顔をしてくるから。
すん、と鼻をすすって私はもう一度ベンチに座った。
ぽすん、と座り込んでしまった様子を見たのか、駅員さんが私たちのところに寄ってきた。
「この電車が上り方面の最終電車になりますよ」
プルルルルルルル
発車のベルが鳴っても、私も男の子も、そこを動かなかった。
*
「その子、家出しちゃった子は、見つかったの?」
「ん。すぐに見つかったよ。お金も持ってなかったし、携帯電話のGPSがあったし」
美悠は見つかったけど、それからが私にとってとてもとても大変な日々になった。
本人のケアはもちろんのこと。お父さんお母さんへのケア。主任先生や教頭先生校長先生への説明。
加えて学生の本分である勉強のことも。
下がってしまった成績を、志望校合格圏内まで上げるのは至難の業だった。
担当授業は当然休んだりできない。
そして他の子達に問題が全くないというわけでもなかったので。
そのすべてに対応することはなんというか、難しかった。
「私、自信がなくなっちゃって。やっぱり普通に企業に就職すればよかったかな、なんて思ったりしちゃって」
結局美悠は志望校のランクを下げた。もちろん彼女の問題だったけれど、私の心は削られた。
「でもさ、先生は頑張ってたんだと思うけどな」
「……そうかな」
「そうだよ。昔、同じようなことがあったじゃん」
「……え?」
「ほら。クラスの男子が、嫌いな先生のテストに白紙で答案だしたこと」
「……あ」
そうだ、よりにもよって私の教育実習中にそんな事件があった。
でもどうしてこの子は知ってるんだろ?
あのとき、確か。
「その男子のこと、先生はちゃんと怒ったんだよ」
*
『あのね、それはきみが損をするだけ。どうしたって、きみの評価は零点っていう結果しか残らないんだよ? もったいないよ』
生徒が帰った放課後、小テストの採点を教室の隅でやっていたとき。
その男子が私のところにきたのだ。
そこで、自慢げに『白紙で出した』って言うから思わずきつめに言ってしまったんだ。
「あのとき、その男子って先生から注目されたかったんだよね。教育実習生の、明るくて可愛くてすごく目立ってた川崎先生から」
どうしてこの男の子はそんなこと言うのだろう。
『先生、かわいい。つきあってよ』
うわ。ぶわっと。ついでに思い出した。
あのとき、からかってるみたいに、『先生、かわいい』って。あの男子が言ったんだ。
顔とか名前もおぼえてないけど。
でも、かわいいって言われたことは覚えてる。
「あのときさ、『きみが損するのはもったいない』って教えてくれたときさ」
「え?」
「先生はひとりひとりと接してくれてるんだなって思ったんだ。大勢の中のひとり、じゃなくて。ひとりとひとり、と」
「そう、だったの、かな」
教育実習中の私、そんなことを言えてたのかな。
夢とか希望とか。子ども達にそういう気持ちを伝えられてたのかな。
「俺、すげーうれしくて」
美悠はそんなふうに言ってくれなかったけど。
夢とか希望とか。
美悠のことがある前までは、ちゃんと。
ひとりひとり大切な子ども達として、接していたんだ。
そうだ。そういうこと、もう一回。
ちゃんと思い出して。
ちゃんと、向き合おう。
終電には乗らなかったけど、子ども達へはまだ間に合うはず。
「先生、泣いてるの?」
「泣いてない」
「涙声だけど」
「夏風邪」
「うそばっかり」
「そっちこそ」
「俺は嘘なんか言ってない。ほんとのこと言ってないだけで」
「……ほんとのことって?」
「秘密だよ」
「うそ」
『かわいい、川崎先生ってすげーかわいい。つきあってよ』
「もしかして、きみってあのときの。だから、私の名前知って」
「ちがうよ」
「ちがうの?」
「言わない」
この子の名前を、聞きたい。
たぶん、きっとあのときの。
口を開こうとしたとき、男の子がさっと立ち上がった。
手にはお財布を持っていて。
「川崎先生。これでタクシー乗って帰って。ひきとめちゃってごめんなさい。先生と話せてうれしかった」
男の子は私の手に10000円札を握らせてくれた。
「困るよ、こんなお金──」
返す間もなく。
風のように。
本当に、風のようにホームから走っていった。
最終電車に乗らなかった夜。
もやもやしていた私の話を聞いてくれた人がいた。
もう一度、子ども達に向き合うようにって。
思い出させてくれた人。
初心を思い出させてくれた人。
*
「それでは令和──年度、新しく赴任されてきた先生がたの紹介をいたします」
壇上には8人の先生が立っている。
私はその様子を見上げていた。
「可愛い顔しちゃって」
ぽそりと呟く。
ひとり、ひょろりとした男性教師が、ちらちらとこちらをみては口元を緩めたり引き締めたりしている。
スーツを着ると、途端に大人の男性に見えるから不思議だ。
先月行ってきた響子の結婚式で、スーツの似合う素敵な男性ばかり見てきたけれど、あの中の誰よりもこの男性教師が可愛いのは確かだ。
今、壇上で挨拶をしている『男の子』が。
もう仕事に行きたくないな、
そういって泣きたかったあの夜に、子ども達ひとりひとりに向き合うことを思い出させてくれた、あの男の子。
あの子が、今、新任の先生として我が中学校の体育館でマイクを握っている。
『井上健といいます。新任で、わからないことはたくさんありますが、みなさんといっしょに成長していきたいと思っています。そして生徒のみんなのひとりひとりと向き合える先生になりたいと思っています。どうぞよろしくお願いします!』
*
学校内では話せないけど話があります、と言われて。
5月最初の日曜にふたりで遠出をした。
子ども達や保護者に見られてもいけないので、近くの店とかには入れないから、遠出。
平日はスーツを着ているこの『男の子』は今日は普通のシャツとジーンズ。また幼くなって、かわいい。あ、ついそう思ってしまう。
「1年生の担任になりました」
「知ってます。井上先生」
「『川崎先生、かわいい。つきあって』」
「──何言って──」
その言葉、何度も聞かされた気がする。顔が赤くなるのがわかる。
平常心でいようと思っている強い気持ちが、マシュマロのように柔らかくなってしまう。
「俺、教育実習のあのときより大人になったよ?」
「私はあのときもいまも、大人です」
「終電に乗らなかった日、すっげー葛藤してた。偶然にも駅で遭遇してさ。すごく嬉しくて。俺のこと、川崎先生が覚えててくれたら好きだって言おうって思ってたんだけど。何本も電車を見逃す先生を見つけて、そんでラッキーにも話せちゃったでしょ? そしたらちょっとイメージと違ってて。なんかこんな夜に流されてるみたく好きとか言うべきじゃないなって思って」
「……それで逃げるみたいに風みたいに走り去ったの?」
「川崎先生のこと追いかけて先生になりたいって思ったんだから。俺がちゃんと先生になってから、ちゃんと言いたくて」
「待って。まだ」
「教育実習できてくれた川崎先生のこと、あのころから今も、ずっと好きです」
「まだって言ったのに」
「言っちゃった」
ペロリと舌をだした顔は、大人なのに可愛い。
終電に乗らなくて、でもちゃんと子ども達には間に合ったはず。
ひとりひとりにちゃんと向き合うって、思い出せたから。
今年も、できることをできる限り。
私は今年の受け持ちのクラスの子ども達を思い出して顔がほころぶ。
この目の前にいる新任の先生は、スーツを着ていなかったらクラスの子ども達と同化してしまいそうだ。それくらい、なんていうか可愛い。
教育実習で初めて言われたあの言葉。
『先生、かわいい。つきあって』
思い出すたびにニヤニヤしていたあの言葉が、まだ有効であることに驚くばかりだけれども。
とりあえずは。
先生という職業を選んだことを後悔したくないし、この人にも後悔させたくない。
できたら、これから一緒に。
たくさん悩んで解決していきたいから。
「これから先、どうぞよろしくね」
突然声をかけられた。
日曜日の夜10時すぎ。もうすぐ夜も11時というころ。
駅のホームのベンチに座って、5本目の電車を見送ったとき。
声をかけられて閉じていた目をはっと開けると、正面に大学生くらいの男の子がいた。
ひょろりとしたシルエット。
あせた色のジーンズに濃紺のシャツ。
首筋の髪は短く整えられていて、ふんわりしたつむじのあたりの髪の色はプリンになっていない。きっと地毛の色なのだろう。やわらかそうな茶色の髪。このくらいなら指導の必要はないかな。
肌の色は白すぎず、適度に日焼けした色。すうっと涼しげな目の形。
総合的に判断すると、見覚えはない、と思う。
そんなことを考えながら男の子の顔を見つめていると、彼のほうが視線を逸らした。目の横あたりが少し赤い。
「大丈夫だよ。起きてるし。電車は……いつか、ちゃんと乗るから」
「もうすぐ終電だよ?」
男の子が呆れたような声をあげた。
まだ11時前だけど終電?
「こんなにはやいんだ」
思わず口にすると男の子はふわっと笑った。
──かわい。
「おねーさん、いつも電車乗らないの?」
「車通勤」
「ふうん」
やだ。どうしてこんな会話してるんだろう。こんなふうに。初めて会った男の子と。
可笑しくなって、くすりと笑いがこみ上げてきた。
口元を手で隠すけれど、たぶん隠せてない。
「おねーさん、笑うとかわいい」
「きみもね」
『──先生、笑うとすっごくかわいい。つきあって』
そうだ、昔、そうやって言ってもらったことがあったっけ。
ふいによみがえってきた記憶が、私の心に明かりを灯した。
目の前の男の子のかわいさとダブルで今の心を癒してくれる。
*
「きみ、高校生?」
「ほんとにそう見える?」
「見えない」
「よかった」
大げさに目をひらいて、男の子が目尻をさげた。
「大学の帰り?」
「日曜日だよ」
実にならない、花も咲かない、そんなどうでもいいような会話をしながら、また1本電車を見送る。男の子との会話は『仕事』を忘れさせてくれた。
「おねーさんは? どうして電車に乗らないの?」
「じゃあきみは?」
私がぼんやりと電車を見送ったことを知っているということは、この男の子も何本も電車を見送っていたということだ。
私はもう27歳だし、いい大人だから遅くなってもいい。
「実家住み? アパート借りてる?」
「おねーさんは?」
質問を質問でかえされて、そんなことを話しているとどうでもよすぎて楽しくなってくる。
もう家に帰りたくないくらいに。
明日、仕事に行きたくなくなるくらいに。
「帰りたくないんだ」
「え?」
「ちょっと今日は。っていうか明日は。仕事いきたくないなあって」
「え?」
男の子の顔を見ずに目を瞬かせる。
少し顎を上げて、涙がこぼれないようにキープする。
今日。
大学時代の友達である響子と、彼女の住んでるマンションあたりまで出かけてたくさんおしゃべりしてきた。
同じゼミで学んでいた彼女は、一緒に中世日本の歴史を学んでいたことなどあっさり捨てて自動車部品メーカーの事務に就職した。
もう5年目になる。
中堅と言われる企業で福利厚生も充実している。上司にも同期にも恵まれて、ミスはカバーしあい、よりよい結果を生み出すための努力も厭わない。最近上司から紹介されたという恋人ができ、結婚を視野に入れたお付き合いをしているとのこと。
同じゼミにいたのに。
こんなに差ができてしまったのはなぜなんだろう。
私は、といえば。
好きな歴史を学んで、小さい頃からの目標だった教師になった。
いや、それが悪いわけじゃない。
努力したし、中学教師になったことは誇れることだ。
でも、響子のキラキラした話を聞いていると、どうしても。
「おねーさん?」
黙り込んでいた私の顔を、男の子が覗き込んでいる。
「どしたの? 帰りたくないなら。ううん、仕事、行きたくないなら。俺、一緒にいるよ?」
どうやら涙はこぼさずにぎりぎり持ちこたえたようだった。
なんだろう、この男の子。
ふわふわしながら心の中にぐいっと入ってくる。
不思議なくらい。
だから、本当のこと、言いたくなってくる。
「私、先生なんだ。中学校の先生」
男の子が、なぜかほっとしたような顔をした。
「ちゃんと先生になれたんだ」
「うん。ずっと小さい頃から憧れてて、教育実習も楽しくて。だから響子みたいに企業に入りたいとは思わなくって」
「響子?」
「ふふ。友達の名前。教育実習にもいったのに普通の会社に就職しちゃった子」
「教育実習きてたっけ?」
「別の学校で実習したから」
ふうんどおりで、と呟いて男の子が目をくるりとさせた。
不思議な男の子だ。
言葉の端々から、全てのことを知っているような気すらしてくる。
知ってるはずはないのに。
「今思えば響子は賢かったんだよね」
「どうして?」
「子ども達と向き合うだけじゃなくて、学校の先生とか子ども達のお父さんお母さんとか。そういうのと付き合うのが大変ってこと、ちゃんとわかってたんだよ」
*
私、わかってなかった。
ううん、大変だとは思っていたけど、私はできる大丈夫! って。
図々しく考えちゃってたんだな。
授業の組み立てを考えるのが好きで。
どうやったら子ども達に理解してもらえるだろうか、とか。
いろいろ試したりして。子ども達が楽しく学んでくれるうちは本当に楽しかった。
がむしゃらに突き進んだ初めの2年くらいは大丈夫だった。
中学1年と中学2年の担任だったから。
その次の年で初めて3年生を受け持って。
受験と向き合うので私まで心が折れそうだった。
でもそんなこと言っていられない。
受験と向き合う子ども達を応援しつつ、保護者と連絡をとる。
目立って成績が悪くなった子には重点的に。
こんなときにはこうしたらいいっていうHOWTOの本をみて、一生懸命型にあてはめようとしてた。
でもひとり、どうしても成績の上がらない子がいて。
思い詰めちゃったんだな。──私も。彼女のお父さんやお母さんも。
『先生は、私のこと見てない。大勢の中のひとりじゃない。私は私なの。私、もうがんばれない』
その子は──美悠は置き手紙をして家出をしてしまった。
主任先生からもちろん注意を受けて、お父さん達にも合わせる顔がなくて。あのときは本当に、私のほうこそもうがんばれないって思ってた。
*
ぶわり、と風をおこしながら、私の乗る上り方面の最終電車がホームに入ってきた。
どうしよう。
こんなこと、こんな男の子に喋ってしまって。
私、どうかしてる。
「私、電車に乗らなきゃ」
ここから消えてしまいたくて。男の子との空間から逃げたくて。
私はベンチから立ち上がった。
一歩、踏み出そうとしたら。
「待って。おねーさん。ううん、川崎先生、待って」
「ごめんね、変なこと喋って。もう忘れて?」
どうして私の名前を知ってるの?
ふっとそんな疑問が頭をかすめたけれど、はやくここから逃げ出したかった。
もう忘れて、と言い捨てて、逃げていこうとしたところで。
くい、と鞄の手の部分をつかまれてしまった。
「でもさ、先生。俺、バイト代あるから。ちゃんとタクシー乗せて送ってあげるから。もしも明日遅刻したとしても全部俺のせいにしてくれていいから。お願い、もう少し話聞かせて」
「……きみのせいになんてしないよ」
とても必死な顔をしてくるから。
すん、と鼻をすすって私はもう一度ベンチに座った。
ぽすん、と座り込んでしまった様子を見たのか、駅員さんが私たちのところに寄ってきた。
「この電車が上り方面の最終電車になりますよ」
プルルルルルルル
発車のベルが鳴っても、私も男の子も、そこを動かなかった。
*
「その子、家出しちゃった子は、見つかったの?」
「ん。すぐに見つかったよ。お金も持ってなかったし、携帯電話のGPSがあったし」
美悠は見つかったけど、それからが私にとってとてもとても大変な日々になった。
本人のケアはもちろんのこと。お父さんお母さんへのケア。主任先生や教頭先生校長先生への説明。
加えて学生の本分である勉強のことも。
下がってしまった成績を、志望校合格圏内まで上げるのは至難の業だった。
担当授業は当然休んだりできない。
そして他の子達に問題が全くないというわけでもなかったので。
そのすべてに対応することはなんというか、難しかった。
「私、自信がなくなっちゃって。やっぱり普通に企業に就職すればよかったかな、なんて思ったりしちゃって」
結局美悠は志望校のランクを下げた。もちろん彼女の問題だったけれど、私の心は削られた。
「でもさ、先生は頑張ってたんだと思うけどな」
「……そうかな」
「そうだよ。昔、同じようなことがあったじゃん」
「……え?」
「ほら。クラスの男子が、嫌いな先生のテストに白紙で答案だしたこと」
「……あ」
そうだ、よりにもよって私の教育実習中にそんな事件があった。
でもどうしてこの子は知ってるんだろ?
あのとき、確か。
「その男子のこと、先生はちゃんと怒ったんだよ」
*
『あのね、それはきみが損をするだけ。どうしたって、きみの評価は零点っていう結果しか残らないんだよ? もったいないよ』
生徒が帰った放課後、小テストの採点を教室の隅でやっていたとき。
その男子が私のところにきたのだ。
そこで、自慢げに『白紙で出した』って言うから思わずきつめに言ってしまったんだ。
「あのとき、その男子って先生から注目されたかったんだよね。教育実習生の、明るくて可愛くてすごく目立ってた川崎先生から」
どうしてこの男の子はそんなこと言うのだろう。
『先生、かわいい。つきあってよ』
うわ。ぶわっと。ついでに思い出した。
あのとき、からかってるみたいに、『先生、かわいい』って。あの男子が言ったんだ。
顔とか名前もおぼえてないけど。
でも、かわいいって言われたことは覚えてる。
「あのときさ、『きみが損するのはもったいない』って教えてくれたときさ」
「え?」
「先生はひとりひとりと接してくれてるんだなって思ったんだ。大勢の中のひとり、じゃなくて。ひとりとひとり、と」
「そう、だったの、かな」
教育実習中の私、そんなことを言えてたのかな。
夢とか希望とか。子ども達にそういう気持ちを伝えられてたのかな。
「俺、すげーうれしくて」
美悠はそんなふうに言ってくれなかったけど。
夢とか希望とか。
美悠のことがある前までは、ちゃんと。
ひとりひとり大切な子ども達として、接していたんだ。
そうだ。そういうこと、もう一回。
ちゃんと思い出して。
ちゃんと、向き合おう。
終電には乗らなかったけど、子ども達へはまだ間に合うはず。
「先生、泣いてるの?」
「泣いてない」
「涙声だけど」
「夏風邪」
「うそばっかり」
「そっちこそ」
「俺は嘘なんか言ってない。ほんとのこと言ってないだけで」
「……ほんとのことって?」
「秘密だよ」
「うそ」
『かわいい、川崎先生ってすげーかわいい。つきあってよ』
「もしかして、きみってあのときの。だから、私の名前知って」
「ちがうよ」
「ちがうの?」
「言わない」
この子の名前を、聞きたい。
たぶん、きっとあのときの。
口を開こうとしたとき、男の子がさっと立ち上がった。
手にはお財布を持っていて。
「川崎先生。これでタクシー乗って帰って。ひきとめちゃってごめんなさい。先生と話せてうれしかった」
男の子は私の手に10000円札を握らせてくれた。
「困るよ、こんなお金──」
返す間もなく。
風のように。
本当に、風のようにホームから走っていった。
最終電車に乗らなかった夜。
もやもやしていた私の話を聞いてくれた人がいた。
もう一度、子ども達に向き合うようにって。
思い出させてくれた人。
初心を思い出させてくれた人。
*
「それでは令和──年度、新しく赴任されてきた先生がたの紹介をいたします」
壇上には8人の先生が立っている。
私はその様子を見上げていた。
「可愛い顔しちゃって」
ぽそりと呟く。
ひとり、ひょろりとした男性教師が、ちらちらとこちらをみては口元を緩めたり引き締めたりしている。
スーツを着ると、途端に大人の男性に見えるから不思議だ。
先月行ってきた響子の結婚式で、スーツの似合う素敵な男性ばかり見てきたけれど、あの中の誰よりもこの男性教師が可愛いのは確かだ。
今、壇上で挨拶をしている『男の子』が。
もう仕事に行きたくないな、
そういって泣きたかったあの夜に、子ども達ひとりひとりに向き合うことを思い出させてくれた、あの男の子。
あの子が、今、新任の先生として我が中学校の体育館でマイクを握っている。
『井上健といいます。新任で、わからないことはたくさんありますが、みなさんといっしょに成長していきたいと思っています。そして生徒のみんなのひとりひとりと向き合える先生になりたいと思っています。どうぞよろしくお願いします!』
*
学校内では話せないけど話があります、と言われて。
5月最初の日曜にふたりで遠出をした。
子ども達や保護者に見られてもいけないので、近くの店とかには入れないから、遠出。
平日はスーツを着ているこの『男の子』は今日は普通のシャツとジーンズ。また幼くなって、かわいい。あ、ついそう思ってしまう。
「1年生の担任になりました」
「知ってます。井上先生」
「『川崎先生、かわいい。つきあって』」
「──何言って──」
その言葉、何度も聞かされた気がする。顔が赤くなるのがわかる。
平常心でいようと思っている強い気持ちが、マシュマロのように柔らかくなってしまう。
「俺、教育実習のあのときより大人になったよ?」
「私はあのときもいまも、大人です」
「終電に乗らなかった日、すっげー葛藤してた。偶然にも駅で遭遇してさ。すごく嬉しくて。俺のこと、川崎先生が覚えててくれたら好きだって言おうって思ってたんだけど。何本も電車を見逃す先生を見つけて、そんでラッキーにも話せちゃったでしょ? そしたらちょっとイメージと違ってて。なんかこんな夜に流されてるみたく好きとか言うべきじゃないなって思って」
「……それで逃げるみたいに風みたいに走り去ったの?」
「川崎先生のこと追いかけて先生になりたいって思ったんだから。俺がちゃんと先生になってから、ちゃんと言いたくて」
「待って。まだ」
「教育実習できてくれた川崎先生のこと、あのころから今も、ずっと好きです」
「まだって言ったのに」
「言っちゃった」
ペロリと舌をだした顔は、大人なのに可愛い。
終電に乗らなくて、でもちゃんと子ども達には間に合ったはず。
ひとりひとりにちゃんと向き合うって、思い出せたから。
今年も、できることをできる限り。
私は今年の受け持ちのクラスの子ども達を思い出して顔がほころぶ。
この目の前にいる新任の先生は、スーツを着ていなかったらクラスの子ども達と同化してしまいそうだ。それくらい、なんていうか可愛い。
教育実習で初めて言われたあの言葉。
『先生、かわいい。つきあって』
思い出すたびにニヤニヤしていたあの言葉が、まだ有効であることに驚くばかりだけれども。
とりあえずは。
先生という職業を選んだことを後悔したくないし、この人にも後悔させたくない。
できたら、これから一緒に。
たくさん悩んで解決していきたいから。
「これから先、どうぞよろしくね」



