とぼとぼと、暗い道を歩く。

「うちの会社ブラックだし、残業だらけなのは、もうあきらめてたけど……」

 一本隣の通りからは、明るい光とにぎやかな声が聞こえてくる。こことは、まるで別の世界。

「とうとう、終電すら逃しちゃった……」

 近くに誰もいないのをいいことに、そんなことをつぶやきながら歩き続けていた。自然と、昼間のことを思い出しながら。

『山瀬さん、こちらの書類の処理、追加でお願い。今日中ね』

 そう言って上司が書類の山を押しつけてきたのが、午後四時。この調子なら定時に上がれそうだなと、ちょっぴり浮かれていた最中のことだった。

『あれっ、梨々花ちゃん、今日飲み行かないの? じゃ、俺たち先行っとくね。来れそうならおいでよ』

 同期たちはそんな私をスルーして、さっさと飲み会に行ってしまった。ちょっとくらい手伝ってくれてもよさそうなのに。

 うかつに手を貸せば、今度は自分が上司から仕事を割り振られてしまう。そんな事情は分かってるけど……これじゃあ、私一人がいけにえにされたようなものだ。

 会社から家まで、徒歩で一時間。頑張れば歩けないことはないけれど、疲れ切った体には辛い。

 先月彼氏と別れてしまって、迎えを頼むこともできない。実家は隣の県で、これまた助けを求めることができない。泊めてもらえるような友人も、この辺にはいない。

「タクシー、乗ろうかな……ううん、節約しなきゃ……」

 入社二年目、まだまだヒヨコの私は、当然ながら給料もそこまで多くない。深夜料金つきのタクシーに、それも一人で乗るなんて、そんなぜいたくは許されない。

 深々とため息をつきながら、横目で隣の明るい通りを見る。

 隣の通りは繁華街で、楽しげにはしゃいでいる人たちの声がする。あっちの若い子たちは、大学生かな。終電なくなっちゃったしカラオケ行こうぜ、という声がする。元気だな。

 また別の一角では、べろんべろんに酔ったスーツ姿の男性たちが、助け合うようにしてタクシーに乗り込んでいるのが見えた。

 足元がふらふらしているけれど、みんな幸せそうに笑っている。一日のうっぷんを、全部酒で流しきったような、そんな顔。

 みんな、終電を逃したのは同じだ。でもみんな、楽しそうだ。そのさまがあまりにもまぶしくて、近づくことすらためらわれてしまう。

 だって、今の私ときたら。

 たった一人、疲れた体を引きずって黙々と歩いているだけ。手に提げた袋に入っているのは、途中のコンビニで買ったおにぎり。晩ご飯を食べそびれたのだ。かといってこんな時間から重いものを食べたら、明日に響きそうだし。

 しかも帰宅したところで、誰が出迎えてくれるわけでもない。着替えてご飯を食べて、さっとシャワーを浴びて、寝るだけ。しかもこの時間だと……間違いなく、明日は寝不足だ。

 ああ、どうして私ばっかりこんな目にあっているんだろう。

 社会人になったら、自分でお金を稼げるようになったら、もっと色んなことができるようになるんだと思ってた。

 空き時間に英会話の学校に通ったり、自分磨きをしたり。欲しかった服を買ったり、旅行をしたり。頑張ってお金を貯めて、マンションを買ってもいいかも。いい人を探して、結婚もしてみたい。そんなことを夢に描いてた。

 でも現実は、まるで違った。私、なんのために働いてるんだろう。仕事には慣れてきたし、お金も少しずつではあるけど貯まってきた。でも、それだけ。

 心の中に大きな穴が開いて、すうすうと風が通り抜けているような、そんな気分。吹きつける秋風が、腹が立つくらいに物悲しく感じられる。

 しかし、どれだけ空しくても、歩かなくてはならない。こんなところで立ち止まっていたら、睡眠時間がさらに削られてしまう。

 頭を空っぽにしながら歩いていたそのとき、足にずきりという痛みが走った。

「痛っ!」

 見た目優先のパンプスで延々と歩いたせいで、靴擦れができてしまったらしい。弱り目にたたり目どころじゃない。神様に意地悪されてるんじゃないかって気がしてきた。

 泣きそうになるのをこらえながら、状況を整理する。

 ともかく、どこかで足の手当てをしないと。まだ道のりの半分くらいしか来てないし、残り半分をこの足で歩くのは厳しい。

 ばんそうこうは持っているから、どこか座れるところ……。

 きょろきょろと辺りを見回したそのとき、見慣れないものに気づいた。

「こんなところに、公園?」

 すぐ近くの角を曲がったところに、小さな公園があった。繁華街からはさらに離れたところにあるからか、そこはとても静かだった。

 正直、夜の公園ってちょっと怖い。幽霊とか、不審者とか、そういうのが出そうで。

 でもこの公園はきちんと整備されていて、街灯の明かりによって隅々まで照らされている。ここなら、ちょっとくらいお邪魔しても大丈夫かな。

 そろそろと公園に足を踏み入れ、ツツジの茂みの前に置かれた木のベンチに腰を下ろす。カバンとコンビニの袋を横に置き、パンプスを脱いだ。

「うわあ……水ぶくれ、つぶれちゃってる……」

 これはお風呂のときしみるだろうなと身震いしながら、ストッキング地の靴下を脱ぐ。膝下までの、短いもの。パンツスタイルならこれで十分だし、何よりこういうとき便利だ。

 カバンの中からばんそうこうを取り出して、傷口を覆う。それから慎重に、また靴下をはいた。これで最低限の応急処置は済んだかな。

 さあ、あとはまた立ち上がって、家を目指して歩くだけ。……なのだけれど。

「……はぁ……疲れた……」

 どうにも動く気力が出てこなかった。座ってしまったとたん、疲れが一気に出てしまったのだ。肉体的にも、精神的にも。

 背中を丸めて、うつむいて。自分の膝だけを見つめていたら、思いもかけない声がした。

 にゃーん。

 いつの間にか、一匹の黒猫がすぐそばまでやってきていたのだ。洋猫の血が混ざっているのか体は大きめで、毛もちょっと長い。首輪のように生えた白い毛が、なかなかにしゃれている。目の色は……暗くてよく分からない。たぶん、緑かな?

 その猫は私のすぐ前にきちんと座り、まっすぐにこちらを見上げていた。うるうるの目は、何かを主張しているようにも思える。

「……もしかして、お腹空いたの?」

 うにゃ。

 話しかけると、返事をしてくれる。たったそれだけのことが、涙が出そうなくらいに嬉しい。

「そっか、ちょっと待っててね、何か食べるもの……」

 そわそわしているように見える猫にそう呼びかけて、隣に置いたコンビニの袋を探る。

「あ」

 そうして、思い出した。今日、おにぎり二つしか買ってない。

「……こんなことなら、さっきのコンビニでサラダチキン、買っておくんだった……」

 サラダチキン、好物だ。ホットスナックの唐揚げも大好き。でも今日は疲れ果てていて、まともに食べる気にすらならなかったのだ。

「ごめん……お米でよければ、食べる……?」

 おずおずとそう切り出して、おにぎりの片方、ツナマヨおにぎりをぱりっと開封する。具は塩分が多くてあげられないので、ご飯を少しと、それに海苔の端っこをつまんで差し出してみた。

 猫は地面に置かれたご飯の匂いをかいで、ためらうことなくぱくっと食べる。

「わあ、食べた! ……もっといる?」

 嬉しさに声が弾むのを感じながら尋ねたら、猫はふいっと顔をそらしてしまった。そこまでお腹が空いてなかったのか、それともご飯はもういらないのか。

「……ついでだし、ここで食べていこうかな……」

 そうつぶやいて、手の中のおにぎりにぱくりとかみつく。ひんやりしたおにぎりの、ほどよい塩味が胸にじんわりとしみてきて、なぜか泣きそうになっていた。

「夜中の公園で、泣きながらおにぎり食べてる女……それってもう、ホラーだよね……」

 笑おうとしたけれど、笑えなかった。ただ無言で、おにぎりを二つとも食べ終える。そうして、気がついた。さっきの黒猫が同じ位置にちょこんと座ったまま、じっとこちらを見ていたことに。

「黒猫ちゃん……クロ、どうしたの? どこかいかないの?」

 にゃあん。

 とっさに、適当に名前を付けて呼んでみた。そうしたら、返事をしてくれた。

 それを聞いて、また泣きそうになる。私、こんなに涙腺が弱かったかな。

「……ねえ、クロ。聞いてくれる?」

 そうして、私はクロ相手に話し続けた。今の境遇の苦しさについて、昔抱いていた夢について、そのほか、思いつくままに色々と。

 クロはまるで話が分かっているかのように、にゃ、うにゃと相槌を打ってくれていた。

 結局一時間近く、私はクロと過ごした。それまでの暗い気分は、もうすっかり消えていた。



 いつもの日常、朝起きて会社に行って、一日働いてまた帰ってくる。そんな中、クロと過ごしたあの夜のことを時折思い出していた。

 夜の公園で、猫に会った。客観的に考えれば、ただそれだけのこと。取り立てて、特別な体験ではない。それなのに、不思議なくらいに気にかかっていた。

 またあの公園に行ってみようかなと、何回かそう考えた。けれどそこでクロに会えなかったら、きっと寂しくなってしまう。

 あの日の出会いは、心の中だけで秘めておこう。私はそう考えて、せわしない日々をただひたすらに乗り切ることに専念していた。



 そんなある日、私はまた終電を逃してしまった。

 しかし辛い、苦しいという気持ちよりも、とまどいが先に来てしまった。今なら、またクロに会えるかもしれない。そう、思ってしまったのだ。

 迷いに迷って、またあの公園に向かうことにした。今度はおにぎりに、猫のおやつまで買って。クロに会えなかったら無駄になるけれど、猫にあげるのならサラダチキンよりこっちのほうがいい。

 そうして足早に、あの公園に向かった。ぐるりと一周歩いてみたけれど、クロどころか他の猫もいなかった。

 ちょっとだけ迷って、猫のおやつを開封する。スティック状のパッケージの端を破ると、強烈な魚の臭いが漂い始めた。これだけ臭うのなら、クロもかぎつけてくれるに違いない。

「ほら、クロ、あなたのために買ってきたんだよ」

 魚の臭いをまといつかせながら、公園をもう一周。けれどこちらも、空振りだった。

「やっぱり、そう都合よく会えたりはしないよね……」

 がっくりと肩を落としてため息をつき、とぼとぼと引き返そうとしたそのとき。

 にゃあ。

 背後のほうから、聞き覚えのある声がした。ばっと振り返り、もう一度呼びかける。

「クロ? ねえクロ、どこ?」

「あ、はい」

 返事があったことに驚いて、思わず飛び上がる。目の前の茂みを回り込んで、声がしたほうに向かった。

「え、クロ……?」

 そこに立っていたのは、若い男性だった。私よりちょっと年上かな。彼は私を見て目を丸くしてから、はにかんだように笑った。

「ええと、僕は確かにクロって呼ばれていますが……」

「猫が、人になった……?」

 冷静に考えれば、そんなことはありえない。でもこの男性は、猫のクロによく似ていた。

 黒いセーターに白いマフラー、黒っぽいズボン。背は高めですらりとしていて、ちょっと癖のある長めの黒髪が目の辺りまで垂れている。

 それにクロは、猫だとは思えないくらいに賢かった。私の話をきちんと聞いてくれて、相槌まで打ってくれたのだ。あんな猫、他に知らない。

「あれ、でも、ということは……」

 そんなことを考えていたら、とんでもないことに気がついた。

「うわあ、どうしよう! あんなことやこんなこと、絶対他人に聞かせられないようなこと、いっぱいクロに喋っちゃったのに!」

 他人には、というか家族にすら聞かせたくない話、てんこもり。……駄目だ。一刻も早く、口封じをしなくては。

「お願い、クロ! 内緒にしていて! おやつ、あげるから!」

「ええっと……内緒、は構わないのですが……その、僕は……」

「猫相手に人生相談していたなんて、他の人に知られたら困るの!」

「……猫って、時々妙に真剣に人の話を聞いてくれますよね。かと思えば、次の瞬間大あくびをしていたりしますが」

 クロが突然、そんなことを言い出した。彼に向かっておやつを差し出した姿勢のまま、その言葉に耳を傾ける。

「気持ちは分かります。僕も、人相手には話せないことを猫に話したりしますから」

 あれ、これって。

「ですから、あなたが人生相談していたのは、僕ではなくて猫ですよ。この公園に住み着いている、地域猫のうちの一匹」

 彼の言葉を聞いているうちに、ようやく冷静になってきた。

「あ……」

 つまり私は、初対面の人相手にとんでもない失態をさらしてしまったわけで。

 さあっと、血の気が引く音がする。いや、本当に音はしないけれど、音が聞こえるような錯覚が……!

「す、すみません! ……疲れてたせいで、混乱しちゃってて……とんでもないところをお見せしました……」

 深々と頭を下げたら、困ったような声が降ってきた。

「いえ、気にしていないので、どうぞ顔を上げてください」

 そろそろと顔を上げると、彼はちょっぴりおかしそうに微笑んでいた。

「僕は黒田翔也といいます。ここの近くに住んでいて……たまに、深夜こっそり、この公園の猫たちと遊んでいるんです」

 クロ、改め黒田さんは、そう言って申し訳なさそうに眉根を寄せた。

「実はさっきも、猫たちとぼんやり月を見ながら歩いていて……そうしたらいきなり『クロ』と呼ばれたものだから、うっかり返事をしてしまいました。そのせいで混乱させてしまいましたね。すみません」

「あ、その、黒田さんは悪くないです! 勘違いした私が悪いので!」

「そういってくれますか、ありがとう。僕、子どものころから『クロ』って呼ばれてたんです。『クロさん』とか『クロ君』とか、バリエーションはありましたが。最近ではなぜか、家族までそう呼ぶんですよ。みんな黒田なのに」

 そう話す黒田さんの足元には、見覚えのある黒い猫が姿を現していた。

「あっ、クロ! さっき思わせぶりに鳴いたの、あなたね!」

 んにゃあ。

 平然とそう答えるクロの顔は、気のせいか笑っているように思えた。

「というかクロって呼んだんだから、あなたが先に返事しなさいよ!」

 にゃにゃん。

「あっ! どさくさにまぎれておやつを強奪した! 泥棒猫!」

 クロは素早く私の手に飛びかかると、持ったままだったおやつをパッケージごとくわえて逃げたのだ。

「ははっ、仲がいいですね。ここの猫たち、よその人には中々気を許さないんですが……君のことは、気に入ったみたいです」

 さっきから黒田さんは、私のことを『君』とだけ呼んでいる。そのとき、ふっと気がついた。そういえば私、まだ自己紹介してない!

「あの……私、山瀬梨々花っていいます……二十四歳、です……」

 そろそろと名乗ったら、彼が驚いたように目を見張った。

「なんだ、同い年だったんですね」

 その言葉に、今度はこちらが驚いてしまう。

「えっ、年上だとばかり」

 ついうっかりそんな言葉が飛び出てしまい、あわてて首を横に振る。

「あ、いえ、今のはその、落ち着きがあるなって意味ですから!」

「はは、ありがとうございます。でも大丈夫ですよ」

 わたわたしている私に、彼は柔らかな苦笑を返してきた。

「よく言われるんです。クロは見た目はそうでもないのに、態度が老けてるな、って」

「えっ、老けてるなんてこと、ないですよ!」

 精いっぱいフォローしようと思ったら、彼はおかしそうに笑って続けた。

「月を眺めるのが趣味だって言ったら、年寄り扱いされました」

 そう言いながら、彼はついと顔を上げる。その先には、まんまるの大きな月。空のてっぺんで、のびやかに輝いている。

 その姿を見ていたら、自然と心が落ち着いてきた。笑みを浮かべて、素直な感想を口にする。

「……きれいな、月ですね」

 一呼吸おいて、また余計なことに気づいた。『月が綺麗ですね』って、状況によってはその、一種の口説き文句になるとかならないとか……勘違いされたらどうしょう!?

「でしたら、少し一緒に眺めていきませんか。猫たちも集まってきたようですし」

 幸い、黒田さんは私が動揺していることには気づかなかったらしく、おっとりとそう言ってきた。それをいいことに、元気いっぱい返事をする。

「はい、ぜひ!」

 それからしばらく、並んで月を見上げる。どちらも、無言になっていた。

「……こうしていると、悩みもどこかにいってしまいそうです」

 辺りは暗く、月の光はどこまでも優しい。そのせいか、ついうっかりそんなことを口走ってしまった。

 一瞬、しまった、と思った。クロだけでなく黒田さんにまで、悩んでいることを話してしまうなんて。

 けれど気づけば、私の口はその続きを勝手に喋ってしまっていた。

「……最近、分からなくなってしまったんです。自分がなんのために頑張っているのか。毎日必死に働くだけで、他には何もなくて……こんな日々に、なんの意味があるのかな、って」

 たぶん、こんなことを言ってしまったのは、この現実味のない状況のせいなのだろう。深夜の公園で、初対面の人と一緒に月を見ている。普段の私なら、まず考えられない。

 けれど言ってしまってから、やっぱり言わないほうがよかったかなと後悔する。こんなことを聞かされても、返事に困るだろう。

「意味なんて、なくてもいいんじゃないですか?」

 ところが黒田さんは、すぐにそんな言葉を返してきた。

「僕なんて、まだ大学で勉強中ですよ。それも、遠い遠い星について」

「星の……勉強?」

「ええ。……よく、聞かれるんです。『それって何の役に立つの?』って。そのたびにこう答えてます。『たぶん、僕たちが生きている間は役に立たないと思いますよ』と」

 おっとりとした雰囲気からは想像もつかないほど堂々と、彼は言い放った。ちらりと横を見たら、彼の顔にはとても楽しそうな笑みが浮かんでいた。

「実はこのせりふには『もしかしたら未来永劫役に立たないかもしれませんが』っていう続きがあるんですけどね。さすがにそれは、黙っておくことにしています」

「あ、あの……黒田さんは、それでいいんですか……?」

 なんだか、とんでもないことを聞いてしまった気がする。急に、自分の悩みがちっぽけに思えてきた。だって黒田さんは、自分が頑張っていることは丸ごと無駄かもって、そう言っているようなものなのだし。

「いいかもしれませんし、よくないかもしれません」

 そして黒田さんは、やっぱり穏やかに言う。

「ひとまず今は、そうやって折り合いをつけることにしたんです。将来また悩んでしまったら、そのときはそのときです」

 黒田さんって、真面目そうに見えるのに意外と大胆というか、おおざっぱというか……。

 頭の中に浮かんだそんな言葉を胸の奥にぎゅうぎゅうと押し込めていると、黒田さんの笑う気配がした。

「今、僕のことを考えなしだって思いました?」

「い、いえ、さすがにそれは」

 とっさに否定してから、考える。この言い方だと、ほんのり肯定しているようにも取られかねないかも。

 私がさらに焦ってしまったのがおかしかったのか、黒田さんは小さく声を上げて笑った。

「……思いますよね。というか、自分でもそう思ってます。星が好きだからっていうただそれだけの理由で、役にも立たない勉学や研究にうつつを抜かしているんですから」

 そう言いつつも、彼の声は穏やかだった。ああ、この人は本当に星が好きなんだなと、今日会ったばかりの私にも感じ取れるような、そんな声だった。

「僕からすれば、あなたはとても立派ですよ。苦しみながら、悩みながら、それでもきちんと社会の一部として頑張っているのですから」

 彼は真上の満月をじっと見つめながら、静かに続けている。

「僕の人生に、意味はないかもしれません。でもあなたは違うという気がします。きっと後から、意味のほうがついてくると思いますよ」

 んにゃ。

「ほら、クロもそう言っています」

 いつの間にかおやつを食べ終わったらしいクロが、また黒田さんの足元にやってきていた。彼がかがみ込んでクロの頭をなでると、クロは目を細めてまた一声鳴いた。

 にゃうん。

 そうやって仲良く戯れている一人と一匹を見ながら、じっと考える。

 私たちはこの公園で、たまたま出会っただけだ。けれど彼は私の話をきちんと聞いてくれて、こんなにも真剣な言葉をくれた。これだけまっすぐに向き合ってくれた人って、家族以外では初めてかもしれない。

 だったら私も、何かお返しがしたい。彼にかけたい言葉は、もう胸の中にある。あとは、勇気を出せば。

「その……」

 ためらいながら口を開くと、黒田さんとクロが同時にこちらを見た。吸い込まれそうに深い二組の視線にたじろぎつつ、言葉を続ける。

「……黒田さんの人生にも、ちゃんと意味はあります」

 それは思いもかけない言葉だったのだろう、黒田さんが目を見張った。

「私、今こうやって励ましてもらえて、元気になれました。黒田さんのおかげです!」

 どうにかこうにかそう言い切ったものの、気恥ずかしくて口ごもってしまう。もうちょっと、何か言いようがある気がするのに……私も、黒田さんみたいにすらすらと話せたらなあ。

 悔しさを抱えながら必死に言葉を探していると、ふふっという小さな笑い声が聞こえた。

「……こんなに懸命にフォローしてもらえたのって、生まれて初めてかもしれませんね」

 そうして彼は、きゅっと目を細めた。

「ありがとう。とっても嬉しいです」

 そのとき彼が浮かべた笑みの、素晴らしいことといったら! 透明で純粋で、どうしようもなく目を引きつけて離さない。

 かっと頬が熱くなるのを感じる。今が深夜でよかった。優しい月の光は、私の顔色を隠したままでいてくれる。

 そうやって黒田さんを見つめたまま立ち尽くしていると、彼は不意に小首をかしげてにこりと笑った。

「ところで、この近くにおいしいラーメン屋があるんです。深夜になると、スープが煮詰まってさらに濃厚になるって評判の」

 文脈もムードも無視した言葉に、さっきまでの現実離れした空気が、一気にどこかに消え去る。

「よければ、一緒に行きませんか? お近づきのしるしに、おごりますよ」

 その言葉がちょっぴりおかしくて、ついくすりと笑ってしまう。

「翔也さん、言い回しが古くないですか? お近づきのしるしに……って」

「高校生のころは、文学少年だったもので」

 黒田さんの笑顔につられるようにして、こちらも笑顔で答えた。……文学少年って……さっきの『月がきれいですね』、やっぱり気づいてたのかな。でも、勘違いされてもいいなって、今はそう思う。

 そんなことを考えてしまった拍子にまたしても恥ずかしさを覚えながら、わざとらしく明るい声を出す。

「深夜のラーメンって、罪悪感たっぷりで魅惑的ですよね。それじゃあ、ごちそうになります!」

「期待してくださいね。あ、帰りはここまでまた送りますから」

 そうして二人で、公園を後にする。

 振り返ると、行ってらっしゃい、とばかりにクロがにゃんと鳴いた。大きな目を細めて、満足そうな顔で。