グラスを合わせる音が、少し遅れて耳に届いた。

「お疲れさまでーす!」という声の波に乗り遅れないよう、私は小さく笑ってグラスを掲げる。
アルコールの匂いが、いつもより遠く感じた。

週末の金曜。会社の歓送迎会は渋谷のビル7階。

コース料理の一品目はもう下げられ、ビールのジョッキは三分の一が泡に変わっている。

喧騒の中で、私はずっと黙っていたわけじゃない。
それなりに笑って、それなりに愛想を振りまいて、
でも、心の中にはずっと「帰りたい」が座っていた。

「先輩、こっち空いてますよ」

声をかけてきたのは、四月に異動してきたばかりの後輩、長谷川くんだった。
背が高くて、声がやたら通る。あと、笑うときにちょっと肩が揺れる。

たぶん年下モテ枠。私はそう分類して、特に興味もなくやり過ごしてきた。

「あ、ありがと。じゃあ、ちょっとだけ」

彼の隣に腰を下ろすと、テーブルの端っこに並んだグラスが視界に入る。

中身が半分も残ってるウーロンハイを見て、「飲みきれるかな」と小さく息をついた。

「お酒、あんまり強くないんですか?」

「うーん、嫌いじゃないけど、今日は疲れが勝ってるかも」

「わかります。金曜の夜って、会社員の限界見える気がするんですよね」

クスッと笑ってしまった。
ちょっとだけ、心の「帰りたい」が、ひとつ後ろの席に移動した気がした。

何を話したかは、正直よく覚えていない。
ドラマの話、会社の噂、あと、ラーメンが好きだってこと。
特別でもなんでもない会話が、特別みたいにスッと胸に入ってきた。


気づけば、時計は23時25分。
スマホを見て、私は軽く息を飲んだ。


「……終電、ないかも」

「え、ほんとですか?」

隣で画面を覗き込んだ長谷川くんが、眉を上げた。

「じゃあ――」

そう言いかけて、少し間を置いた。

「――ちょっと、寄り道しませんか?」



こんな時間に?と思いながらも、断る理由を探す前に、私はなぜか頷いていた。

「近くに、夜だけやってるカフェがあるんです」
「夜だけ?」
「はい、変ですよね。でも、雰囲気、好きなんです。あんまり人いなくて」

渋谷のネオンを抜けて、明るい通りから外れた坂道を歩く。
ビルの明かりが減って、足音だけがコツコツ響いた。

「よく行くの? そのカフェ」
「いえ、一回だけ。偶然見つけて。でも、なんか忘れられなくて」
「へえ」
「……今日、行けたらいいなって思ってました」
「……え?」

その言葉に、一瞬だけ足が止まりそうになった。
でも、長谷川くんは特に何も言い足さず、前を歩く。

エレベーターのない小さなビルの階段を上って、彼がノックしたのは、
まるで秘密基地みたいな、小さなドアだった。
控えめな明かりの中、店内は静かで、他に客の姿は見えなかった。

「屋上、行ってみますか?」
「屋上まであるの?」
「はい、夜景も見えるかもしれません」

彼に続いて階段をもう一段上がると、
夜風がふっと頬を撫でて、渋谷のざわめきが遠くに霞んでいた。

街はまだ動いてるのに、ここだけ別の時間が流れてるみたいだった。

「……いいとこ、見つけたね」

そう言った私の声が、やけに小さく聞こえた。




夜の屋上は、想像以上に静かだった。
遠くに響く救急車のサイレンが、一瞬だけ“現実”を引き戻す。
でも、目の前にあるこの空間は、まるで別の星みたいに穏やかで。

長谷川くんが注文してくれた紅茶が、ほんのり温かい。
カップ越しに、手のひらの冷えがじわじわとほどけていく。

「こんなとこ、ひとりで来たの?」

「はい。たまにですけど。人がいない場所って、落ち着くんで」
「……意外」
「そう言われます」

彼は笑った。
けど、その目元はちょっとだけ真面目で。
会社で見るより、ずっと大人に見えた。

「先輩って、疲れてるとき、すごい分かりやすいですよね」

「えっ、そうなの?」

「今日の飲み会でも、何回か“帰りたい”って顔してましたよ」
「うわ、恥ずかしい……」

思わず手で顔を覆った。
けど、顔を見せたくなかったのは、恥ずかしさよりも、
その通りすぎて胸に刺さったからだった。

「……ちょっと、いろいろあってね。仕事も、プライベートも」
「そういうの、言ってもいいと思いますよ」
「誰に?」
「今だったら、僕にとか」

さらっと言われたその一言に、紅茶が少しだけ苦くなった気がした。

「……じゃあ、少しだけ」
「はい」
「私ね、今の部署、ほんとは行きたくなかったの」
「……そうなんですか」
「異動のとき、何も言えなかった。全部“はい”って言ったから、
 納得してるって思われてる。でも、正直なとこ、全然そんなことなくて……」

自分でも、なんで話してるのか分からなかった。
ただ、あの静けさと、彼の聞き方が、ちゃんと“受け止めてくれる”気がして。

「……それ、知ってます」

「え?」

「僕、そのとき同じフロアで研修受けてて。
 ――先輩、覚えてないですよね」
「…………え?」

その声だけが、夜の屋上に静かに響いた。



風の音が、急に遠くなった気がした。

覚えていない。――確かに、そうかもしれない。

人がたくさんいた研修のフロア。
何人もとすれ違ったし、話した記憶も曖昧だ。
だけど彼は、その中の一人として、私のことを覚えていた。

「先輩、あのとき『じゃあ誰か発表してくれる?』って言ったの、覚えてます?」

「……うん。なんか、そんなこと言った気がする」
「僕、手、挙げたんですよ」
「えっ」
「……でも、当ててもらえなかった」

そう言って、彼は笑った。
冗談みたいに軽く言ったのに、その笑いには、
やけに静かな色が混じっていて、
どこか、ずっと抱えてきたものを隠しているように見えた。

「……ごめんね。ほんとに、覚えてなくて」

「いえ。いいんです」
「でも……なんで?」
「ずっと、気になってたんです。
 一言も交わせなかったけど、
 なんか――ちゃんと話してみたいって、ずっと思ってて」

胸の奥が、ふっと揺れた。

「それで……異動希望、出したんです」

「……まさか、それだけの理由で?」

彼は目を伏せたまま、でも声は真っ直ぐだった。

「会って、ちゃんと話してみたくて。
 ――それだけの理由じゃ、ダメですか?」

私は何も言えなかった。
ただ黙って、温くなった紅茶を見つめた。
もう一度、飲もうとしたけど、手が少しだけ震えて、飲めなかった。

 

「……あと、もう一つだけ」

「え?」

彼は私の目をまっすぐ見て言った。

「先輩って、昔、教育実習で□□高校に来てましたよね」

「……えっ、なんでそれ……」

「僕、そのときの生徒でした。
 3年3組の、長谷川です」

「……うそ……」

言葉が、喉にひっかかった。

「覚えてないですよね。仕方ないです。
 でも、僕……
 10年、ずっと、忘れたことなかったんです」

彼は少しだけ視線を落として、けれど声はまっすぐ届いてきた。

「先輩が“将来って、わりとなんとかなるよ”って言ってたの、今でも覚えてて。
 なんとなく、それを信じて……ここまで来たんです」

「……」

「そして今、やっとちゃんと、話せてる。

――これが、僕の“はじめまして”です」




そこまで言うと、長谷川くんは少しだけ笑った。
どこか照れているような、でもその奥に、何かがこぼれそうな表情だった。

「……高校のとき、教育実習に来てた先輩は、
 他の先生たちと全然ちがってて。
 距離感とか、話し方とか、なんかすごく自然で――
 でも、だからこそ、逆にすごく遠く感じたんです」

「……」

「いつも生徒に囲まれてて、僕なんかが話しかけられる雰囲気じゃなくて。
 でも、ある日、たまたま廊下ですれ違ったときに、
 “おはよう”って言ってくれたんです。たったそれだけなのに、
 なんかもう、それがずっと残ってて」

夜の風が、静かに吹き抜ける。
彼の声だけが、ゆっくり、静かに響いていた。

「大学に入ってからも、ふと思い出すことがあって。
 でも、もう二度と会えないだろうって思ってました」

彼はカップのふちを見つめながら、続ける。

「だから、入社して何年か経って、
 社内の名簿で“あのときの先生”の名前を見つけたとき、
 ほんとに信じられなくて……

先輩が社内報に載ってるのを見た瞬間、
高校のときのことが、一気にブワッと蘇ってきたんです。
 制服のまま見上げた視線とか、廊下で追いかけてた背中とか――
 全部、急に色まで戻ってきて。

それからは……見かけるたびに、なんとなく目で追ってしまってました。

エレベーターでたまたま一緒になった日とか、
 会議室の前で、先輩が誰かと笑ってるのを見かけたときとか――

声をかけようと思ったことも、何度もありました。
 でも……変に思われるかもしれないって思って、ずっと黙ってました。

それくらい、自分の気持ちに自信がなかったんです。
 でも今日、終電を逃して、こうして話せたことが……
 僕にとっては、奇跡みたいで」


私は、何も言えなかった。

こんなに覚えていてくれた人がいたなんて。

自分が忘れていた時間を、誰かが大切にしていてくれたなんて――
そんな奇跡、思いつきもしなかった。

 

長谷川くんが、ゆっくりと私を見た。

「……今日、やっとちゃんと会えて、話せて。
 だから僕、今この瞬間だけでも、
 ほんとはすごく、嬉しいんです」



そう言って、長谷川くんはそっと左手に目を落とした。

腕時計のフェイスに反射した光が、一瞬、彼の表情を照らす。

「……終電、逃してもいいですか?」

その声は、ふいに訪れた告白みたいに、静かで真っ直ぐだった。

彼が見せてくれた腕時計の針は、終電まで残り“3分”を示していた。

……なんだろう。
少し、早いような気もしたけど、
今この時間にケチをつけるのがもったいなくて――
私は、何も言わなかった。


「逃してもいい。
 ――だって、もう二度とこんな夜は来ない気がするから」

私がそう言ったとき、
長谷川くんの口元が、ふっとほぐれるように笑った。

ああ、今、たしかに私たちは、
“同じ時間”を生きているんだと思った。

 
それから、ふたりの会話は、特別な話題もないまま、少しずつ続いていった。
好きな食べ物。苦手な上司。最近読んだ小説の話。
一つひとつは、なんてことのないやりとりなのに、
不思議と、どの言葉も心にやさしく染み込んでいく気がした。



コップを指先でくるくる回しながら、
長谷川くんは時折、遠くの景色を眺めていた。
その横顔を、私はたぶん、何度も見ていた。



「……ねえ」
「はい?」
「今日が金曜日で、ほんとによかった」

ぽつりとこぼした私の言葉に、彼はちょっと驚いた顔をして、
すぐにやわらかく笑った。

「僕もそう思ってました」



屋上の風が少し強くなってきたころ、
店のマスターに「そろそろ閉店です」と静かに声をかけられた。

私たちはカフェをあとにし、駅までの道を歩いた。

始発まであと少し。眠らない街は、まだどこか明るかった。




ベンチで始発を待ちながら、私たちは他愛のない会話を続けていた。
さっきより少し静かに、少し近い距離で。

長谷川くんが左手の袖をめくって、ちらりと腕時計を見る。
それを見た私も、なんとなく顔を上げて、駅のデジタル時計に視線を移す。

ん?

……ズレてる?

「……あれ、長谷川くんの時計……」

そう言いかけた瞬間、さっきの“終電の時間”が頭をよぎった。

私が見せてもらったあの時刻と、実際の終電――
あれ、もしかして……

「……さっきの終電、本当はまだ間に合ってたんじゃ……?」

私が思わず振り返ると、
長谷川くんが小さく笑って、肩をすくめた。



「……バレたか」

「うわ、ズルい……わたしが“終電急がなきゃ”って言ってたらどうしてたの?」

思わず笑ってしまった私に、
彼は、ほんの少しだけ顔を横に向けて、こんなことを言った。

「駅まで走ったふりして、
 間に合わなかったって戻ってきてたと思います。
 ……どうしても、一緒にいたかったので」

心臓が、すこし跳ねた。

風の音も、電車のアナウンスも、
今は、何も聞こえなかった。

 

そうか、あのとき私が残ったのは、
たぶん彼の“ズル”だけじゃなくて、
“この気持ち”のせいだったんだ。

彼の声が、夜の空気の中に溶けていく。

私もそれに応えるように、
「ズルいな」と小さくつぶやいて、肩をすくめた。

そしてふたりで、少し笑った。

 

しばらくして、始発がホームに入る音が聞こえてきた。
そろそろ、朝が来る。
私たちはそれぞれの場所に戻らなくちゃいけない。

ベンチから立ち上がると、
長谷川くんが少し歩いたあと、ふと立ち止まって、振り返った。

いつものあの、少しだけ照れたような笑い方で、こう言った。

 

「じゃあ、月曜……おはようって、言ってください」

 

その言葉に、私は一瞬だけ、息を飲んだ。
けれど、すぐに、頷いた。

ううん、微笑んで、頷いた。

きっとまた、あのオフィスで“おはよう”って言える。
この夜の続きを、ちゃんと明るい場所で始められる。

それが、
こんなにうれしいなんて、
昨日までの私は知らなかった。

 

終電を逃した夜。
でも私は、
――未来に、間に合った。