花凜は清真とともに、月宮家の屋敷に足を踏み入れた。美しく彫刻された格子扉がそっと開かれた瞬間、花凜はここは夢の世界なのではないかと思ってしまった。
「きれい……」
目の前に広がったのは、和の心と西洋の美が奇跡的に融合した空間だった。
高い格天井には、月と星を描いた蒔絵が施されている。そこから吊り下げられた切子硝子のシャンデリアが、和紙を通した柔らかな光と共に虹色に輝いていた。
その光は漆塗りの柱や金屏風に反射し、まるで平安の宮廷のような幻想的な美しさを演出していた。
廊下には、季節の花を活けた花瓶が置かれている。牡丹と桔梗の雅な香りが漂っていた。
欄間には透かし彫りの菊花が施され、そこから差し込む光が床の市松模様を美しく照らしている。
階段の手すりには螺鈿細工と洋風の装飾が見事に調和し、まるで屋敷全体が芸術品のような美しさだった。
足音を立てるのも憚られるほど美しい空間——雅と西洋の気品が織りなす、この世のものとは思えない優雅さ。
(ここは、現実だろうか——)
花凜は夢心地のまま、美しすぎる空間に圧倒されていた。
奥から足音が響き、着物姿の女性が現れた。三十代前半の上品な佇まいで、丁寧に結い上げた髪にかんざしが光っている。
「清真さま、お帰りなさいませ」
女性が深々と頭を下げる。その後ろから若い侍女や年配のものまで、皆一様に喜びの表情を浮かべていた。
「清真さまの月の半身が、ついに!」
「おめでとうございます!」
先頭の女性、侍女頭の鈴をはじめとし、使用人たちが花が咲いたような笑顔を見せる。
「これは何という慶事でございましょう! 心よりお祝いを申しあげます」
次々と降り注ぐ祝福の言葉に、花凜は混乱した。藤里家では罵声しか浴びたことがなかった彼女にとって、これほど丁寧に扱われるのは夢の中の出来事のようだった。
月の半身——それは月の神の末裔たちに伝わる伝承。言い伝えによれば、地上に降り立った月の神の魂は二つに分かれたという。一方は「神」の性質を色濃く持つ「月の末裔」となり、もう一方は地上に降り立った「人」の性質を持つ。分かたれた魂は、常に互いを求め会うという。
花凜は陰陽師だった父から聞いた話を思い出していた。
月の半身――その言葉を、屋敷の者たちは当然のことのように受け入れている。まるで、ずっと前から自分の到来を待ちかねていたかのように。
「これからは、ここで暮らすといい」
「彼女のことは、この俺に仕えると思って大切に扱ってくれ」
清真が花凜の肩にそっと手を置いた。その温もりが着物越しに伝わり、花凜の頬がほんのり紅葉する。
「この屋敷の者は皆、君の味方だ」
清真の声が、花凜の不安を包み込むように響く。
味方——その言葉が、彼女の胸の奥で小さく震えた。
「お嬢様、よろしければお名前をお聞かせいただけますでしょうか? どうお呼びすれば良いのか教えくださいませ」
侍女頭の鈴が花凜に向き直り、温かな笑みを浮かべる。
「……ふ、藤里花凜と申します」
花凜の声が上ずった。自分の名前を、こんなに丁寧に尋ねられるなんて。
「花凜さま」
「美しいお名前ですね。花のように美しく、凛として気高い——お名前のとおりの方でいらっしゃいます」
「どうぞよろしくお願いいたします」
侍女や従者たちが一斉に頭を下げる。その光景に、花凜は慌てて身を縮めた。
「さあ、花凜さま。まずはお疲れを癒していただきましょう。お風呂をご用意いたします」
鈴が花凜の手をそっと取った。その手は母親のように温かく、包み込むような優しさに満ちている。鈴の声には、本当に花凜を労わる気持ちが込められていた。それは作り物の親切ではなく、心からの優しさだった。
「着替えもお手伝いさせてください。こちらでお着物を用意いたします。きっとお似合いになりますよ」
花凜の声が、風前の灯火のようにかすれる。
「そんな……私は使用人と同じで構いません」
その言葉が口から出た瞬間、花凜は自分でも驚いた。継母の家で叩き込まれた『分をわきまえろ』という言葉が、無意識に出てしまったのだ。
「何をおっしゃいます」
「花凜さまは、清真さまの大切なお方でいらっしゃいます」
鈴の瞳が本当に驚いたように見開かれる。鈴の声には、花凜を大切に扱いたいというはっきりとした意思が込められていた。
屋敷の窓に琥珀色の光が踊る。その光の中で、清真が穏やかに微笑んだ。銀髪が風に揺れ、蒼い瞳がおだやかに細められている。
「花凜」
「君のことを、そう呼ばせてもらって構わないだろうか?」
「は、はい」
花凜の名前が清真の唇から零れ落ちた。
はじめて自分の名前が、彼から呼ばれた。清真が自分を呼ぶ声には、綿毛のような優しさが込められていた。
「鈴の言うとおりだ。君はもう、遠慮する必要はない。ここは君の家でもあるのだから」
「私の……家?」
「そうだ」
「君がそう望むなら、ずっとここにいてほしい」
(まるで狐に包まれているようで、現実感がない……どうして私に、こんなに親切にしてくれるの?)
これまで想像もしたことがないような目まぐるしいことばかりで、疑心暗鬼になる心を完全に捨てることはできなかった。
清真の蒼い瞳が、花凜を真っ直ぐに見つめている。
その瞳には嘘偽りなど微塵もなく、心の底からの願いが込められていた。彼の瞳に虚像があるように、花凜には見えなかった。
ひょっとしたら……信じがたいことだけれど、彼は本当に、自分のことを大切に思ってくれているのかも知れない。
「ありがとう……ございます。清真さま」
か細い声で礼を言うのが、いまの花凜には精一杯だった。だが、その小さな声には、清真を信頼してみようと思う気持ちと、新しい人生への一歩を踏み出す勇気が込められていた。
何かができるわけでもなく、なにかのお返しもできない。そんな私に見返りも求めず、藤里家から連れ出し救ってくれた。この人の言葉には嘘がない——そう直感できたのだ。
大理石と檜が調和した湯殿に、湯気が立ち上っている。洋風のタイルと和の簾が絶妙に配され、花びらが湯面に浮かんでいた。まるで天上の湯殿に招かれたような心地。
「花凜さま、お湯加減はいかがでございますか?」
「……だ、大丈夫です。その、あまりに……すばらしくて」
花凜の声が震えた。継母の屋敷では、冷たい水で身を清めるのが精一杯だった。こんな贅沢が許されるのだろうか。
でも、湯に身を沈めると、全身の痛みが溶けていくのを感じた。やわらかい花の香りが身体を包み、温かな湯が傷ついた心を癒していく。
ああ、天国というのは、きっとこんな場所なのだろう。
浴室を出ると、清潔な着物が用意されていた。淡い紫色の生地に袖を通すと、滑らかさが肌に溶けるように馴染んだ。清楚だが、とても良い生地で作られている。ゆったりとくつろげるようにと、花凜のために用意されたものだった。
淡い紫色、それは偶然だが花凜の母が好んだ色だった。
髪を整える鈴の手を見つめながら、花凜は小さく微笑んだ。懐かしい記憶が、胸の奥で温かく蘇る。
「花凜さま、とてもお似合いでございます」
汚れていた黒髪は漆黒の絹糸のように輝き、頬には桜のような紅が差している。着物のやわらかい色が肌を陶器のように美しく見せ、瞳も星のように輝いていた。
「ありがとうございます」
「お支度が整いましたら、御膳所でお待ちください。清真さまもお見えになります」
花凜が頭を下げると、鈴は母のような温かな笑顔を返した。
夕食の膳には、季節の花が活けられていた。桔梗をはじめとした秋の七草が、切子ガラスの花瓶に可憐に揺れている。
清真が先に席についていた食堂に、花凜がそっと現れる。足音を忍ばせるようにして歩く姿は、どこか遠慮がちだった。薄紫の着物が歩くたびに優雅に揺れ、黒髪が肩に流れている。
清真の蒼い瞳が花凜を捉えると、その表情が穏やかに和らいだ。
「花凜、君らしい清らかさが戻ったな」
清真の声が甘く響く。その言葉には魂の美しさを讃える想いが込められていた。自分の本質を褒めてくれる言葉に、花凜の胸の奥が温かくなる。
「……だが、着物の大きさが、少し合っていないようだ」
清真が花凜の袖を見て、優しく眉をひそめる。確かに、袖が長すぎて白い手首が隠れてしまっていた。鈴が急いで用意してくれたとはいえ、花凜の華奢な体には少し大きかったのだ。
「明日、君に合うものを揃えよう」
その言葉に、花凜は慌てて両手を振った。
「いえ! こんなに美しい着物をいただいただけで、十分すぎるほどです」
花凜の声に困惑が滲む。これまで古い着物の継ぎ接ぎばかりを着ていた自分には、この上品な着物でさえ身に余る贅沢だった。
清真の唇に、春の陽だまりのような甘い微笑みが浮かぶ。花凜が愛おしくてならないといった表情だった。
「花凜。君にふさわしいものを贈りたい。それが俺の願いだ」
朱塗りの椀が、清真と向かい合う席に並んでいた。季節の恵みを活かした豪華な料理でありながら、一つひとつが消化の良いものが選ばれていた。
不規則な食事を続けていた花凜に食べやすいよう、丁寧に配慮されていた。使用人たちは遠慮して下がり、二人だけの静寂が流れている。
最初は緊張して、箸がうまく進まなかった。
藤里家では粗末な食事を一人で取ることが多く、こんなに上品な膳を前にすると、どう振る舞えばいいのかわからない。
「急ぐ必要はない、ゆっくりと」
清真の優しい声が、花凜の緊張を解きほぐす。その言葉に背中を押されて、花凜は少しずつ食べ始めた。
けれど時々、箸を持つ手が宙で止まってしまう。煮物の里芋を見つめたまま、遠くを見るような眼差しになる。
母と一緒に作った料理の記憶が、不意に心を訪れるのだ。あの頃は、母の愛情がどんな調味料よりも料理を美味しくしてくれた。
小さく首を振って我に返り、慌てて箸を動かす花凜。その繰り返しを、清真の蒼い瞳が静かに見つめていた。
花凜の心の奥に、何かがあるのを清真は感じている様子だった。けれど無理に聞き出そうとはせず、優しく見守っている。
「食事が口に合わないか?」
清真が気遣うように尋ねると、花凜は慌てて首を振った。まるで何か悪いことをしてしまったかのような、申し訳なさそうな表情を浮かべる。
「とても美味しいです、ただ……」
言いかけて、花凜の唇が震える。言葉の続きを探すように唇を開きかけるが、結局は俯いてしまった。心の中で渦巻く感情を、どう表現すればいいのかわからない。
やがて静かに食事を終えた花凜が、深々と頭を下げた。
「ごちそうさまでした」
「ありがとう、一緒に食事ができて嬉しかった」
清真の言葉に、花凜の頬に薄紅が差した。誰かと一緒に食事をして、それを喜んでもらえるなんて、どれほど久しぶりのことだろう。
廊下で若い侍女とすれ違った時、花凜が軽く会釈をすると、侍女は顔を、ぱっと明るくして丁寧にお辞儀を返してくれた。
「花凜さま、何かお困りのことはございませんか? どうぞ気兼ねなくおっしゃってください」
その屈託のない笑顔に、花凜の心も自然と温かくなった。
「花凜さま、今夜は客間でお休み下さいませ」
鈴に案内された客間は、心が自然と落ち着く美しい和室だった。
上品な畳の香りと、月光が障子を透かして柔らかく差し込む静寂。床の間には季節の白い菊が慎ましやかに活けられ、部屋全体に穏やかな気品が漂っていた。
「近日中に、花凜の部屋を用意させよう」
清真の言葉に、花凜の胸が温かくなる。自分だけの居場所――それは花凜にとって、心から安らげる大切な願いだった。
客間に座った花凜は、清真の視線を感じていた。障子越しに差し込む月光が淡く照らし、二人の間に静かな時間が流れている。清真のあの蒼い瞳が、夕食の時と同じように自分を見つめている
その瞳には心配そうな色が浮かんでいる。彼女を見守るような、優しく慈愛に満ちた表情だった。花凜は思わず視線を逸らしてしまう。
しばらくの静寂が客間を支配する。虫の音が遠くから聞こえる。清真が何かを言いたげに見えたが、慎重に言葉を選んでいるようだった。
やがて、清真がそっと口を開いた。
「何か心配事があるのか?」
その声が、夜風のように優しく響く。問い詰めるような調子は微塵もなく、ただ花凜の心に寄り添おうとする温かさに満ちていた。
「もし話したくなければ無理はしなくていい」
清真がさらに続ける。花凜に選択の自由を与え、決して強要しようとはしない。
「だが、一人で抱え込む必要はないと知ってほしい」
その言葉が花凜の胸に深く響いた。これまでずっと一人で耐えてきた。母を失った悲しみも、継母たちからの仕打ちも、すべて一人で抱え込んできた。誰にも頼れず、誰にも理解されることもなく——。
花凜は俯いて、膝の上で小さく手を組んだ。その仕草は幼い子供のように無防備で儚い。
「清真さまには、既に十分すぎるほど……これ以上ご迷惑をおかけするわけには」
花凜の声が震える。これ以上甘えてはいけない。蚊の鳴くように小さくなる。自分の存在そのものを謝罪するかのような、痛々しい響きだった。
「君の悲しみを分かち合うことが、俺にとって迷惑だと思うか?」
清真の言葉が、柔らかくけれど力強く響く。それは花凜の心の扉をそっと押し開く、魔法の鍵のような言葉だった。
花凜はゆっくりと顔を上げた。清真の瞳に宿る深い慈愛を見て、長い間閉ざしていた何かが決壊するように心が開かれていく。
この人になら話してもいいかもしれない。いや、話したい——そんな気持ちが、花凜の胸に芽生えていた。
「……清真さま」
「実は……母のことを思い出していました」
花凜の声が、遠い思い出の中で蝋燭のように温かく輝き始める。記憶の中の母の姿が、目の前に現れたかのように鮮やかに蘇ってきた。
「いつも薄紫の着物を着ていて……雲間から射す月光のように、気品に満ちた人でした」
「今日この着物を見て、まるで母が選んでくれたような気持ちになって……」
清真が静かに耳を傾けている。一言も口を挟まず、ただ花凜の言葉を大切に受け止めている。その温かい眼差しに包まれて、花凜の心がさらに安らいでいく。
「幼い頃、よく二人で月を見上げたんです」
花凜の目に、懐かしさと愛おしさが混じった光が宿る。
「母は月の神秘を教えてくれて、『月の兎』や『竹取物語』を語って聞かせてくれました」
「いつも天女の羽音のような子守唄を歌ってくれて……」
そのときの母の優しい声が、今でも耳に残っている。花凜の声が次第に細くなり、涙が頬を伝った。だがそれは悲しみだけの涙ではなく、美しい思い出への涙でもあった。
「『花凜は月に愛された特別な子なのよ』って、いつもそう言ってくれました」
「その頃の私には意味が分からなかったけれど……母の愛に包まれて、世界で一番幸せな子供でした」
声が風鈴のように震える。母の無償の愛に包まれていた頃の記憶が、胸の奥で薔薇のつぼみのように甘く疼いていた。
だが花凜の表情が、次第に陰りを帯びていく。幸せな記憶の先にある、辛い現実へと心が向かっている。
「母は長い間、病気でした……」
その声が小さくなる。床に視線を落とし、膝の上で握りしめた手が震えていた。
「でも最期の最期まで、私を愛してくれました」
その言葉と共に、涙が頬を伝い落ちる。母の最期を思い出すのは辛いが、それでも母の愛だけは確かだったという想いが、花凜の支えになっていた。
口に出した瞬間、花凜の心が少し軽くなったような気がした。
清真の表情が優しく和らぐ。清真は少し間を置いてから、ゆっくりと口を開いた。
「君の母上は、きっと君を見守っている」
彼の声が、その言葉が、花凜の傷ついた心に薬湯のように温かく染み込んでいった。清真の声に計り知れない優しさと、確信めいたものが込められているのを感じた。
花凜が顔を上げる。清真の瞳にやさしい光が宿る。
「母が……本当に見ていてくれるでしょうか」
小さく頷き、目に天の雫のような涙が滲む。か細い声が、羽根のように舞い散る。花凜の声には、信じたいという切ない願いが込められていた。
「ああ、必ず」
清真の声は確信に満ちていた。それは単なる慰めの言葉以上のものがあるように花凜には感じられた。
「君のような純粋で美しい心を持つ娘を、母上がどれほど誇りに思っているか」
「きっと天国で、君の幸せを祈ってくれているだろう」
「……ありがとう……ございます」
清真の言葉が、花凜の心の闇に一筋の光を投げかける。長い間、母は死んでしまって二度と会えないのだと思い続けてきた。だが清真の言葉によって、母の愛は死によって終わるものではなく、永遠に自分を見守り続けているのだと、信じることができた。
「これからは、一人で悩み苦しまなくてもいい」
清真が立ち上がり、花凜のそばに静かに膝をついた。その手がそっと花凜のほおに触れる。その刹那、不思議な温かさが全身に広がっていった。春の陽だまりのような、優しい力が花凜の心に流れ込んでくる。
母への想いが、悲しみから愛しい記憶へと静かに変化していく。胸を締め付けていた痛みが、いつの間にか安らかな温かさに包まれていた。
——清真の手から伝わってくる不思議な力。まるで月の腕に抱かれてるようなぬくもり。
「もう君は、独りではない」
清真の声が、子守唄のように響く。その優しい調べに、花凜の心が深く安らいでいく。
「これからは俺が、花凜のそばにいる」
その言葉と共に、清真が花凜を優しく抱きしめた。まるで羽を痛めた雛鳥を包むように。清真の大きな手が、そっと花凜の頭を撫でていく。
花凜の体がゆっくりと弛緩していった。緊張していた肩の力が抜け、これまでの長い間凍りついていた心が溶けていくようだった。清真の腕の中で、深い安らぎに包まれていく。
母の愛の記憶と、清真の温かさが重なり合って、心の奥で静かな光を灯していた。
もう怖くない——そんな安心感に包まれて、花凜の意識は優しい眠りの中に沈んでいった。
翌朝、花凜がゆっくりと瞼を開けると——清真の腕の中にいることがわかって、心臓が止まりそうになった。
「きゃっ!」
思わず小さな悲鳴を上げてしまった。
月光で作り上げたような美しい寝顔が、自分の顔のすぐ間近にある。星の雫でできたかのような長い睫毛が影を落とし、稜線の気高い鼻筋、夜露に濡れた花弁のような薄い唇。
「き、きっ、清真さま?!」
花凜の心臓がドキドキと音を立てるほど激しく鼓動した。こんなに近くで清真の顔を見るのは初めてで、その神々しいまでの美しさに息がかすれる。
なぜ自分がこんなところに——昨夜の記憶が曖昧で、混乱した花凜の瞳が泳いでいる。
「おはよう」
清真の瞳がゆっくりと開く。蒼い宝石のような瞳が朝の光を受けて、海のように深く輝いていた。こんなに美しい瞳で見つめられると、花凜の胸が苦しくなる。
「お、おはよう……ございます」
「よく眠れたか?」
その優しい声に、花凜の頬が薔薇色に染まる。清真の声は朝の静寂に溶け込んで、まるで夢の中の出来事のようだった。
「ひょっとして、ずっと……そばにいてくださったのですか?」
花凜の声が震える。一晩中、自分を見守っていてくれたのだろうか。
清真の指が、そっと花凜の頬を撫でた。その触れ方は、まるで壊れ物を扱うように慎重で、愛おしさに満ちている。
「花凜が、安らかに眠れるように」
「心配しなくても、何もしていない。ただ君の傍にいただけだ」
花凜が躊躇する。こんな風に抱きしめられていると、胸の奥が蜂蜜のように甘く熱くなる。この感情が何なのか、花凜にはまだわからない。ただ混乱するばかりだった。
清真が彼女のその様子を見て、何か残念そうな、切ないような表情を一瞬浮かべる。
「君の心が、俺の性急な求婚についてこれていないのは、分かっているつもりだ」
「――本当は順序を立て、君の心を確認してから改めて、求婚するつもりだった。だが藤里家の君への対応を知り、あのような家に置いておくことなどできなかった」
清真の腕がゆっくりと、まるで名残惜しそうに離れていく。
「急がせるつもりはない。俺のことをよく知ってからで構わない」
「俺の花嫁になるかどうかの答えを出してほしい」
清真の瞳を見つめると、そこには深い愛情と同時に、かすかな不安のようなものが宿っているのを感じた。この強く美しい人も、私のように思い悩むこともあるのだろうか?
「花凜、君は俺の『月の半身』。魂を二つに分けたもう一人だ」
「君が心を開いてくれるまで、俺は待っている」
花凜の胸が、締め付けられるように痛んだ。魂の奥底で何かが震える気がする。
(『月の半身』。魂を二つに分けたもう一人)
その言葉が、花凜の心に不思議な痛みを刻む。この人は自分のために、こんなにも優しくしてくれる。できるなら、彼の願いに応えたい。でも――。
朝の光が障子を透かして客間を照らし、二人を包み込んでいた。新しい一日が静かに始まり、花凜の心にも名前のつけられない感情が、そっと芽生え始めていた。
