「きっと……月見祭りの満月が、見せてくれた夢……」

 祭りの賑わいから離れた静かな小径。花凜は桜の古木に背中を預けてそっとつぶやいた。胸に手を当て、まだ止まらない動悸を鎮めようとしている。

 息が上手く吸えない。頭がくらくらして、足元がおぼつかない。

 先ほど起こったことが、現実のこととは思えなかった。あの美しい人の求婚。ひざまずく姿。真剣な眼差し——すべてが夢のように儚く、それでいて鮮烈に心に刻まれている。

 月の光を映したような銀の髪。宝石よりも深く透き通る蒼い瞳。天の月が地上に降り立ったかのような神秘的な青年。

『君こそが、俺が探し求めていた光だ』

 彼が自分の前で言った瞬間の衝撃が、まだ胸に残っている。

 花凜の頬に、再び熱が上った。――あの瞬間、確かに感じたのだ。心の最も深い部分での共鳴を。奥底からの震え。まるで魂が呼び合うような、不思議な感覚。生まれて初めて味わった繋がり。

 花凜の唇が小刻みに震えた。
 まるで長い間探していた何かを、ついに見つけたような安堵感を。 

 でも、それと同時に押し寄せてきたのは、激しい困惑だった。花凜は震える手で頬を覆った。

「なぜ、自分なんかに……」

 こんな薄汚れた身なりの、取るに足らない娘に、あんなにも美しい方が求婚を。まさか、そんなことがあるはずない。
 たぶん人違いだったのだろう。それとも、何かの冗談だったのか。

(きっと夢に違いない。月夜に見た、美しい幻想)

 それなのに——。花凜の胸の奥で、あの人の声が響き続けている。『私の花嫁になって欲しい』という、切なげな願い。その言葉を思い出すだけで、また胸が締め付けられるように苦しくなる。

 花凜の心には小さな光が灯っていた。あの美しい人の面影が、胸の奥で輝いている。なぜか懐かしく感じた、あの蒼い瞳。なぜか心が震えた、あの優しいまなざし。

 やがて花凜は、ゆっくりと振り返った。祭りの明かりが遠くに見える。賑やかな声も、楽しげな笑い声も、まるで別世界の出来事のように聞こえた。

 花凜は小さく息を吐いた。
 たとえ人違いだったとしても、——あの美しい瞬間は、確かに自分の心に刻まれた。誰にも奪われることのない、大切な宝物として。

 足取りは重いが、花凜は藤里家への道を歩き始めた。継母の冷たい言葉も、義妹の嘲笑も、厳しい日々も——今夜の想い出があれば、少しだけ耐えられそうな気がした。

 花凜と清真の二人の魂は、すでに深いところで結ばれていた。

 だが、それをお互いが理解するまでには、もう少し時間が必要だった。二人の恋物語は、静かに始まったばかりだった。




 数日後、月宮家の執務室に、張り詰めた空気が漂っていた。清真は暗い表情で、葵の報告を耳にしていた。その美しい顔に刻まれた憤怒の色が、室内の温度を下げているかのようだった。

「継母・志津は没落した子爵家の出身。財産目当てで藤里家に近づき、当主の死亡後は花凜さまを使用人同然に扱っているようです」

 葵の声が響く。だが報告の内容は、聞くに堪えないものばかりだった。

「近隣の商人や、藤里家に出入りする職人たちからの証言によりますと」

 葵がいったん報告を止め、言い淀んだ。

「——食事を毎日は与えず、暴力も日常的に……。使用人からも同様の話を聞いております」

「もういい」

 清真の声が氷よりも冷たく響いた。手にしていた古典の書物が、清真の握りしめた拳の力で音を立てて折れる。美しい装丁の表紙が歪み、和紙のページがはらりと舞い散った。

「清真さま……」

 葵が心配そうに声をかけたとき、清真はすでに立ち上がっていた。その動作に、普段の冷静さは微塵もない。激情に駆られた男の、制御の利かない衝動があった。
 後頭部で高く結い上げた銀髪が肩で揺れ、蒼い瞳に炎がうつる。美しい顔が怒りにゆがみ、まるで復讐の神が地上に降り立ったかのようだった。

「準備を」

「はい。使者を立てて正式な手順を――」

「今すぐだ」
 清真の声が執務室に響く。その迫力に、葵は言葉を失った。

「一刻たりとも、あの場所に彼女を置いておくことはできない」

 清真は既に歩き出していた。廊下を大股で進む姿は、戦場に向かう騎士のような凄絶な美しさを纏っている。

「馬車の用意を! 急げ!」

 普段は冷静沈着な主人が、これほど取り乱すのを見たことがない従者たち。慌てふためいて準備に取りかかった。月宮家の屋敷全体が、主人の激情に巻き込まれているかのようだ。

「清真さまのお気持ちは、よく分かります」

 葵の声には、主人と同じ憤りが込められていた。報告しながら自分自身も怒りで震えていたに違いない。花凜への同情と、継母たちへの怒りで、その表情は硬く引き締まっていた。


***

 石畳の道をひずめの音が、はげしく響き渡る。藤里家の門前に、すさまじい勢いで豪華な馬車が滑り込んできた。

 月宮家の家紋がきざまれた漆黒の馬車。二頭の白馬があらい息を弾ませ、汗で濡れた体をふるわせている。御者台には月宮家の紋章を胸に付けた従者と葵がすわり、手綱を強くにぎりしめていた。

 あまりの迫力に、通りを行く人々が驚いて道を空け、息を殺して成り行きを見つめている。
 その到着を知った藤里家の門番が、血相を変えて屋敷の中に駆け込んだ。

「奥さま! つ……、つき、月宮家さまのお迎えが!」

 馬車の御者台から一足先に降り立った葵が、主人の先触れとして玄関に現れた。

「月宮清真さまが、こちらへお越しになります」

 屋敷の奥で茶を飲んでいた志津と乙音が、ポロッと茶碗を取り落とした。がしゃんと陶器の破片が、飛び散る音も聞こえないほど、二人は衝撃に打ちのめされていた。
 志津の声がひきつり、甲高く裏返った。

「月宮さま? あの……あの、月宮清真さまが?!」

 帝都の国民的英雄、最強の『月詠み師』。帝と皇族にならぶ帝家のひとつ、月宮家の貴公子。
 その名を口にするだけで、帝都の民は憧れと強い畏怖の念を抱いた。陰陽師の上位存在であり、月の神からの直接の加護を受ける『月の神の末裔』たち。

 その清真が、この屋敷を訪れる。藤里家にとって、それはまるで天変地異でも起こったかのような驚きだった。

「嘘でしょう?!」

 乙音は震え声を上げながら慌てて立ち上がり、手鏡を取り出して自分の顔を確認した。

「整った鼻筋、潤んだ瞳、薄紅色の唇。この完璧な美貌なら、清真さまの目に留まるのも当然かも」

「きっと私の美しさの噂を聞いて……」
 乙音が恍惚とした表情で呟く。

「この街一番の美女である自分に、ついに帝都最高の男性が求婚に来たのだわ」

「そうよ! きっと乙音の美貌に心を奪われて!」

 志津も興奮で顔を真っ赤にしながら叫んだ。

 二人は転がるように部屋を駆け回った。乙音はとっさに鏡の前で髪を直し、頬をつねって血色を良くし、一番美しく見える角度を研究する。

「清真さまったら、私の美しさに夢中になっていらっしゃるのね」

 乙音が自分に酔いしれながら微笑む。その表情は美しいが、心の醜さが滲み出ている。
 やがて玄関に向かう二人の足取りは、まるで舞踏会の女王になったかのように高揚していた。

「――お越しになりました」

 志津と乙音が深々と頭を下げた。二人の心臓が太鼓のように打ち鳴らされているのが、その表情から見て取れる。興奮で全身が震え、夢見心地になっているのが丸わかりだった。

 清真が現れた。

 漆黒の着物に身を包み、風に舞う銀髪が夕陽を反射する。蒼い瞳は、静かな怒りを湛えていた。その美しさは、近くで見ると現実のものとは思えないほど圧倒的だった。
 まるで古い絵巻物から抜け出したかのような華麗な立ち姿。月光から作り上げた幻想の美貌。だが今のその表情には、静寂な湖面の下に渦巻く嵐のような怒りが宿っている。

 志津と乙音が息を呑む音が聞こえた。美しすぎて、直視することさえ畏れ多く感じるほどだった。

「神話の中の神様って、こんな方なのかしら……」

 志津が震え声で呟く。人間の美の概念を超越した、畏怖すべき美しさがそこにあった。
 月の神が人の姿を取って現れたかのように、二人の目には映っているようだった。

 乙音が一歩前に出る。練習した通りの微笑みを浮かべ、もっとも美しく見える角度で清真を見上げた。

「ようこそお越しくださいました。私は――」

 だが清真の視線は、乙音をあっさり素通りした。

 まるで透明人間であるかのように、一瞬たりとも焦点を合わせない。乙音の存在など、最初から認識していないかのような冷淡さ。

 乙音の笑顔が凍りつく。練習した角度も、身繕いも、美しい着物も、全て無意味。清真の瞳には、彼女という存在すら映っていない。

「お前に用はない、そこを退け」

 清真の声が氷河のように冷たく響く。その視線はそこに居ない人だけを見つめ、志津と乙音の存在など眼中にない様子だった。

 志津と乙音の顔が青ざめた。特に乙音は、完全に無視されたことに打ちのめされたような表情を浮かべている。

「どうして……私を見てくださらないの……」

 乙音が小さく呟いたが、清真は二人を見ることすらせず、屋敷の奥へと向かった。その足取りに迷いはない。

「どちらへ……」
 志津が慌てて声をかけるが、清真は振り返ることもない。

 一つ一つ部屋を確認していく清真。客間、寝室、書斎、どの部屋にも、探し求める人がいないかのように、より奥へと進んでいく。

 さらに奥に向かう途中、使用人の老人が震え声で、清真に話しかけた。

「旦那さま……もしや花凜お嬢さまを?」

 清真の足が止まる。蒼い瞳に、初めて人間らしい光が宿った。
「……奥の間で、掃除をされております」
 使用人の言葉が終わる前に、清真は駆け出していた。

 屋敷の最も奥まった、薄暗い一角。そこには使用人ですら足を向けたがらない部屋があった。不気味な気配がし、奇妙な物音も聞こえる開かずの間。
 だが扉が半分開いており、中からかすかに人の気配が感じられる。

 全く使う予定もない部屋だというのに、志津たちは花凜にわざと掃除をさせていた。
 花凜は薄暗い部屋の隅で、床を磨く作業を続けていた。継母に命じられた掃除は、まだ半分も終わっていない。手は既に痛みで震え、膝は板の硬さで痺れていた。

 そんなとき、扉の向こうに花凜は人の気配を感じた。足音はしないが、誰かがそこにいる。

 扉が押し開かれた音に、花凜はびくりと肩を震わせた。

 床に膝をつき、濡れた雑巾で板を磨いていた手が止まる。ぼろぼろの着物を纏い、やつれた頬をした花凜の姿は、まるで陽の光を知らない地下牢の囚人のようだった。

 花凜は、恐る恐る顔を上げた。
 そこに立っていたのは――あの夜の人だった。銀髪の美しい人。月光のような神秘的な青年が、なぜこんな場所に。花凜の黒い瞳が困惑に揺れる。

「なんと……ひどい扱いを」

 青年の声と拳が震えているのが、花凜の目には映った。

 あの夜の人が、なぜ自分を見てこんなにも動揺しているのだろう。花凜は茫然と立ち上がり、清真を見上げ続けていた。

 清真の唇から、花凜を見つけたことに安心したのか、安堵の息が洩れた。
 その瞳が一瞬にして輝くのが見えた。先ほどまでの厳しい表情が、温かな光に満ちた優しさへと変わっていく。

「俺は、月宮清真」

「――君を迎えに来た」

 その名前が空気を震わせた瞬間、周囲の喧騒が嘘のように静まり返る。花凜は、呆然と清真を見上げていた。

「え!……迎え……?」

 花凜は、呆然と清真を見上げていた。銀髪が月光のように煌めき、蒼い瞳が自分だけを見つめている。夢の中の出来事だと思っていたあの夜が、突然現実となって目の前に立っている。

 言葉が途切れ途切れになる。頭の中が真っ白になって、何も考えられない。あの美しい人が、本当に自分を迎えに来たというのだろうか?

 か細い声が震えた。きっと人違いなのだ。自分のような者が、こんな夢のような出来事に巻き込まれるはずがない。

「……その、別の方と……お間違いなのでは」

 清真の唇が、ほんの少し微笑みの形に変わる。

「間違いなどない」

 その声が羽毛のように優しく響く。花凜の否定を、愛おしい子供の戯言を聞くかのように受け止めている。

 清真の蒼い瞳が、真っ直ぐに花凜を見つめた。その瞳に映る自分を見つめられると、花凜の胸が苦しくなった。まるで魂の奥底まで見透かされているようで、同時に温かく包まれているような不思議な感覚に襲われる。

「君こそが、俺の探し求めていた人だ」

 その確信に満ちた声に、花凜は言葉を失った。そして次の瞬間――。

「きゃっ!」

 花凜の体が宙に浮いた。清真が彼女を抱き上げたのだ。横抱きの形で、花凜は清真の腕の中にいた。

「君を迎えに来た」

「俺は知っている。君こそが、俺の真の月の光だということを」

 確固たる意志に満ちた声が、すぐ近くで響く。花凜の心臓が激しく跳ねた。清真の胸板の温かさ、包み込むような腕の力強さ——生まれて初めて感じる感覚に、花凜は混乱していた。

 それでも不思議と怖くはなかった。清真の腕の中は、これまで感じたことのない安らぎに満ちている。まるで長い間探していた、帰るべき場所を見つけたような感覚。

「私が……あなたの月の光……」

 彼の瞳に映る自分は、本当に輝いて見えるのだろうか。信じられなかった。
 だが、この人と一緒にいると、不完全だった自分が完全になるような気がした。説明のつかない感覚に、花凜は戸惑いながらも彼の腕に抵抗はしなかった。




 志津と乙音が血相を変えて駆けつけてきた。二人の顔は死人のように蒼白で、唇は震え、必死に取り繕おうとする表情がみにくく歪んでいる。

「お待ちください! それはただの使用人で……!」

 志津が狼狽しながら割って入ろうとする。その声は裏返り、普段の威張り散らしていた威厳は微塵もない。

「『月欠け』の無能な娘でございます! 月宮さまがお相手になるような者では……!」

 乙音の声が甲高く響いた。自分が完全に無視されたことへの屈辱と嫉妬で、美しい顔が真っ赤になっている。

 清真の蒼い瞳が、氷の刃のように二人を見据えた。その視線は北の氷原よりも冷たく、二人の魂を凍らせるほどの威圧感があった。

「藤里家夫人と義妹。お前たちの彼女への冷酷な仕打ちは、すべて把握している」

 低く響く声に、絶対的な怒りが込められていた。ゆらりと清真の影から、二つの巨大な影が躍り出る。

 天狼と地狼——清真の式神のオオカミだった。

 白毛の天狼が静かに威厳を放ち、氷の獣王のような気品を纏っている。黒毛の地狼が獣の本能を剥き出しにして低い唸り声を上げ、牙を剥いた。
 二匹のオオカミの黄金の眼光が、志津と乙音を射抜き、二人は恐怖で足がすくんだ。

「ひっ……!」

 志津が悲鳴を上げ、乙音は顔面蒼白で立っていることもできない。

 屋敷の空気が劇的に変わった。圧倒的な霊力が部屋を満たし、まるで異界の扉が開かれたかのようだった。志津と乙音は声も出せず、死神に魂を掴まれたかのような、底知れぬ恐怖に支配されている。

「もし、君が嫌だと言っても」

「こんなところに置いておくことなど、俺にはできない」

 清真が花凜を優しく見つめる。その表情は先ほどまでの氷のような厳しさとは一転し、春の陽だまりのような慈愛に満ちていた。

「で、でも……」
 花凜は、清真を見上げて困惑する表情を見せた。

 だが清真は、花凜の戸惑いの言葉には耳を貸さず、もう志津と乙音も眼中にないかのように、花凜を抱いたまま悠然と玄関へと向かっていく。
 その足取りには迷いがなく、まるで最も大切な宝物を運んでいるかのような慎重さがあった。

 葵が恭しく馬車の扉を開ける。清真は花凜を抱いたまま優雅に乗り込んだ。馬車の豪華な内装の中でも、清真は花凜を大切な陶磁器を扱うように、そっと抱きしめ続けていた。

 花凜は清真の腕の中で小鳥のように震えていた。恐怖ではない。あまりに劇的な運命の変化に、自分が夢の中にいるような錯覚を覚えているのだ。

(――本当に、自分はこの人に求められているのだろうか。蔑まれ続けた自分が、こんなにも大切に扱われている……)

 まるで自分が姫君にでもなったかのような、現実離れした感覚だった。

 馬車が滑らかに動き出した。
 窓から見える風景が、花凜の見慣れた下町から徐々に変わっていく。小さな商店や、庶民の家並みが消え、やがて荘厳な門構えの屋敷が立ち並ぶ雅な街並みへと変わった。

 石畳は美しく磨かれ、街路樹は芸術品のように手入れされている。行き交う人々の着物は絹の光沢を放ち、身に纏う品格も全く違う。
 やがて馬車が、静かに止まる。

(……ここが、清真さまのお屋敷)

 花凜が見上げた月宮邸は、おとぎ話の絵巻物から抜け出たような美しい屋敷だった。月光のように白い漆喰で造られた宮殿然とした建物。優雅な曲線を描く屋根、まるで絵画のような広大な日本庭園には、季節の花々が宝石のように咲き誇っている。

 花々の甘美な香りが夜風に乗って漂い、まるで香水の調べのようだった。
 和と洋が混在した、宮廷と見紛うばかりの荘厳さと、人の世のものとは思えない美しさ。
 これが、清真さまが住まう雲の上の世界なのか。

 月和皇朝の総人口は約五千百万人。頂点に立つ帝と帝家。華族は上級、中級、下級合わせて、わずか六百家程度。
 それに次ぐ陰陽師や僧侶などの霊的権威が続き、一般民衆は人口のほぼ大半、九十九%を占める。

 その中で、月宮家のような『月詠み師』の宮家はわずか十五家。

 ここは別次元の世界なのだと、花凜は圧倒された思いで実感した。
 帝都最上級の華族街——雲の上の人々が住む聖域。自分のような身分の者が足を踏み入れることなど、夢にも思わなかった場所。

「――俺の行動に君が戸惑っているとしても、今はこの屋敷にいてくれないか」

 清真が花凜を羽毛のように軽やかに降ろしながら、まるで壊れ物を扱うように丁寧に言った。その声は夜風のように穏やかで、花凜の震える心を静めようとする優しさに満ちている。

「君に危害を加えるつもりはない。身の回りの安全は、この清真の名にかけて保証する」

 その言葉には、誓いのような重みと、絶対的な意志が込められていた。月宮家の威光をかけた約束——それがどれほど重いものか、花凜にも伝わってくる。
 花凜はあまりに劇的すぎる運命の転換に、現実感を失いそうになっていた。なぜ自分が、このような天上のお屋敷で暮らすことになったのだろう。

 どうして帝都最強の月詠み師が、取るに足らない自分をあそこから救い出したのか。まるで夢物語の主人公になったかのような、信じがたい出来事の連続。

 けれど、清真の深い蒼の瞳に真摯な光を見つめられると、心の最も深い部分で、言葉にならない安堵が静かに広がっていくのを感じた。


***

 一方、藤里家では、嵐が過ぎ去った後のような静寂の中で、志津と乙音が怒りにまみれて立ち尽くしていた。

 清真の馬車が去った後、二人は現実を受け入れることができずにいた。

「なぜ……なぜあの花凜が……」

 志津の声が憎悪で震えている。美しい顔が嫉妬で醜く歪み、普段の気品など微塵も残っていない。

「信じられない……あの虫けら同然の娘が、月宮清真さまに選ばれるなんて」

 乙音は玄関の前に崩れ落ちるように座り込み、手鏡に映る自分の顔を凝視していた。いつもなら自信に満ち溢れていた美貌が、今は色褪せて見える。偽物の宝石を見るような、価値のないもののような表情をしていた。

「私の方が何百倍も美しいのに……なぜあの花凜を……」
 その呟きは恨み節となって部屋に響く。

「清真さまの目には、最初から私など存在していなかった」

 空気のように扱われ、完全に無視された屈辱が、彼女の心を黒く染めていく。

「見ていらっしゃい……」

 志津の声が低く響いた。その瞳に宿った憎悪の炎は、もはや理性を失った狂気の光を放っている。

「このままで済むと思っているの? 私たちを馬鹿にして……」
 乙音も立ち上がり、母と同じ邪悪な光を瞳に宿した。美しい顔に浮かぶ表情は、悪鬼のように醜い。

「必ず花凜を地獄に突き落としてやる。二度と立ち上がれないほど、徹底的に……」

「吉兵、お前はクビよ! よくも月宮さまに花凜の居場所を教えたわね! 路頭に迷ってのたれ死ね!」

 老使用人に八つ当たりをぶつけ、志津の拳が白くなるまで握りしめられる。その震える手には、恐ろしい復讐への意志が込められていた。
 二人の心に、取り返しのつかない悪意が芽生えようとしていた。

 やがてそれは、帝都月華の人々の運命までも巻き込んだ恐ろしい事件へのきっかけとなっていくのだ。