帝都月華は、月見祭りの(よい)を迎えていた。

 夜空に浮かぶ満月は、まるで天界の宝石のように輝いている。石畳の上に映る影は濃く、祭囃子(まつりばやし)の調べが遠くから響いてくる。街角に揺れるちょうちんの光と、ガス灯の青白い輝きが交じり合い、帝都の夜を幻想的に彩っていた。

 清真は、神社の境内に立ち、眼下に広がる祭りの光景を見つめていた。色とりどりの着物を纏った人々が、まるで花びらのように舞い踊っている。

 だが清真の心は、ただ一人の少女を探すことにのみ向けられていた。

「今夜、ここへあの少女が……」

 孝斗皇子の先読みは、この場所を告げていた。『君の探す人は、月見祭りに現れる』――その皇子の言葉が、清真の胸に響いている。

 だが、それは確実なことではなかった。先読みは手掛かりになることもあるが、霧の中に浮かぶ船に似て、時として全く違う答えを出すことがある。孝斗自身がそう言い、また清真もそれを知っている。

 清真は、深く息を吸った。

(あの夜の出来事は、本当に現実だったのだろうか)

 黒い瞳の少女。その澄んだ瞳に宿っていた、清らかな光。彼女を見つめた瞬間に感じた、あの衝撃(しょうげき)——。
 そして新月の闇の中で感じた、あの完全なる調和。魂の奥底から湧き上がってきた充足感。

 それらは、他者との距離に慣れすぎた『自分の心』が作り出した幻ではないのか。

 清真の蒼い瞳に、かすかな迷いが宿った。
 月の神の血を引く者として、これまで数多の現象を体験してきた。だからこそ、己の感覚を疑う理性も持ち合わせている。

「……私の母が言っていたことを覚えているか、葵」

 清真が、傍らに控える従者の葵に話しかけた。声には、どこか遠い響きが込められていた。

「ええ、『月の神の末裔』たちに伝わる伝説ですね」

 葵が静かに答える。
 清真の瞳が遠くを見つめた。幼い頃の記憶が、水面に映る月影のように蘇ってくる。


***

 月光が差し込む清真の母の部屋。幼い清真を膝の上に抱いて語り聞かせた物語。

『私たちは、月の神の末裔――』

 その時の母の声は、今も清真の胸の奥で聞こえてくる。

 ――遥か昔、人の世界は絶望に包まれていた。
 夜な夜な現れる怨霊たちが生者を襲い、邪悪なあやかしたちが大地を蹂躙していた。人々は恐怖に震え、多くの命が奪われていく。このままでは人間という種族そのものが滅び去ってしまう——そんな危機的な状況だった。

 その様子を、月の世界から見つめていた一柱(ひとはしら)の神がいた。

 神は人間たちの苦しみを見るに見かねた。幼子が親を失い泣き叫ぶ声、絶望に打ちひしがれる人々の姿——それらが神の慈悲深い心を動かした。

 だが、天の掟により、神が人の世に直接干渉することは固く禁じられていた。それでも神は人間たちを見捨てることができず、ついに月の世界を捨てて地上に降り立った。

 神の力は絶大だった。強大な怨霊も邪悪なあやかしも、神の清浄な月光の前では瞬く間に浄化されていく。人々は救われ、再び平和な日々を取り戻すことができた。

 しかし、天の(おきて)を破った神に厳しい罰が下された。

 二度と月の世界に帰ることは許されず、その魂は、神と人との二つに分たれて、この世に留まることとなった。その魂は、再び月へ帰る日を願い、お互いを求め探し続けている。




『――その「月の神の後裔(まつえい)」たちが、いまのこの都の基礎を作ったと言われているの』

 幼い清真は母の温かな膝の上で、その神秘的な物語に聞き入っていた。

『月の神様が人の世に降りる時、ひとつの月の魂が二つに分かれて生まれた。だから、私たちは常に失われた半身を探している』

『半身なしでは、私たちは永遠に不完全なままなの』

 月光が母子を包み込み、まるで神話の一場面のように美しい光景を作り出していた。
 母の指先が、清真の銀髪を優しく撫でていた。その感触が、今も懐かしい。

『母さまにも、半身はいるの?……半身を見つけられたの?』

 幼い清真が上目遣いに尋ねた時の記憶。母の表情が一瞬曇り、悲しげな微笑みを浮かべたのを 子供心にも覚えている。
 母は清真の小さな手を両手で包み込んだ。その温かさが、いまも指先に残っているように感じられた。

『いいえ……自らの半身を見つけられた人は、ほとんどいないわ。それは人の世に降りた私たちへの「罰」なの』

『永遠に別れた魂を探し求め、――そして彷徨(さまよ)う定め』

 母の声には、深い諦めと哀しみが込められていた。月の血を引く者たちの宿命を、身をもって知っていたからだろう。

 それでも清真は、かすかな希望を抱いて母に問いかけた記憶がある。

『もし、もしも自分の半身という人に出会った時は、どうやったらわかるの?』

 清真の問いかけに、母は長い間黙っていた。やがて、まるで遠い夢を語るように答えた。

『さあ、私にはわからないわ。それはどんな素敵なことなのでしょうね』

『でも想像はしてみるの。きっと魂が震えるのでしょうね。失われていたものが戻ってくる喜びで、――心が張り裂けそうになるほどに』

 母の瞳には、叶わぬ憧れの光が宿っていた。そして数日後、母は、ある事件をきっかけに静かに息を引き取った。見果てぬ夢を抱えたまま寂しく旅立った。


***

「罰か……」
 清真が苦く微笑んだ。

 月の神の末裔として生まれた者たちは、皆この宿命を背負っている。母も、父と清真を愛していながらも、心の奥底では常に失われた半身を求め続けていたに違いない。その矛盾が、母の(はかな)い微笑みの理由だったのかもしれない。

 失われた半身を求める渇望が、魂を絶え間なく苛み続けるのだ。

 どれほど愛する人がいても、どれほど愛されても、完全に満たされることはない。それが清真にとっても、そして母にとっても、逃れることのできない現実だった。今の清真には、母の哀しみが痛いほどよく分かる。

 清真の胸に宿る空洞感も、その現れに他ならない。誰も埋めることのできない空白が、彼の心を蝕み続けている。
 母が語った通り、これが人の世に降りた『月の神の末裔』への罰なのだろう。

 ――だが、あの夜。

 新月の闇の中で、清真は確かに感じていた。心が震える瞬間を。魂の奥底から込み上げてくる、圧倒的な歓喜を。

 それが錯覚でないと確かめたくて、清真は今夜この場所に来ていた。

「清真さま、いかがなさいますか」
 葵の声が、清真を現実に引き戻した。

 清真の表情が一変した。
「葵、屋敷の臣下や従者たちを全て連れてきているな」

「は、はい!」

「式神たちも総動員する。祭りの会場を隅々まで探し出せ。必ずあの少女を見つけるのだ」

 傍らにいた式神たちが主の名を受け、一足先に飛び出していく。

 清真の声には、切迫感が込められていた。石段を降り、祭りに興じるたくさんの人波の中へ、みずから捜索に入っていった。




 清真の姿を認めた民衆が、畏敬の念を込めて道を開ける。銀髪が月光を受けて煌めき、漆黒の着物に身を包んだ清真は、まるで月の化身が地上に降り立ったかのような神秘性を放っていた。

 彼は群衆の中を歩きながら、一人一人の顔を確認していく。月宮家の従者たちが、祭りの人波に散らばって同じく捜索を続けている。

 葵をはじめ、彼の家に使える家来や従者たちまで――清真の全てがこの夜にかかっていた。

 肩までの黒髪の少女、黒い瞳の粗末な着物を着た娘、――だが、心を震わせるような響きを感じる相手は見つからない。

 祭りの屋台が立ち並ぶ通りを抜ける。色とりどりの提灯が夜風に揺れ、暖かな光を投げかけている。焼き鳥の香ばしい匂い、ふわふわの綿菓子の甘い香り。お面を売る威勢のいい声。
 金魚すくいの水面がちらちらと光る。飴細工の屋台では虹色の飴が宝石のように輝いていた。

 だが、これらの華やかな祭りの音色も、清真の耳には遠い世界の出来事のように聞こえた。

 祭りに集まっている人数は、数千から一万人。

 今宵は『月見祭り』の宵で、大勢の都の人々が集まっている。これだけの人の中からたった一人を探し出す困難さはあるとしても、八十名を超える人数で探していながら、まだ見つからない。

 清真の喉の奥が渇き、呼吸が浅くなっていく。

 再び神社の境内へと足を向ける。石灯籠に灯された炎が、参道を幻想的に照らしていた。夜風に揺れる火の粉が、まるで天界の星屑のように舞い踊る。

 清真自身も境内を一周したが、該当する人影はない。

「葵、報告は何か上がってきていないか?」

「いえ、残念ながら」
「似たような年頃の娘は、たくさん見かけていますが……『月詠み』の力の片鱗を感じさせるようなものは、まだ」

 清真の心に、諦めにも似た思いが芽生え始めた。

(やはり、あの夜の出来事は幻だったのだろうか。渇きに慣れすぎた自分の心が、作り出した幻想ではないのか)

 先読みは絶対ではない。孝斗の力も時として間違いを犯すことがある。
 清真が、踵を返そうとした時――。足が、突然止まった。

 境内の古い桜の木の下。石段のすみに身を隠すようにして、一人の少女が立っている。
 薄汚れた着物を纏い、人波から離れてたたずむ黒髪の娘。月光が彼女の横顔を照らし、その清楚な顔立ちを浮かび上がらせていた。服装は質素だが、背筋の伸びた佇まいに気品がある。

 清真の心臓が、激しく跳ね始めた。清真の手が震えた。掌に汗が滲み、息が詰まる。

(――間違いない。あの夜の少女だ)

 新月の闇の中で、子供を守ろうとしていた少女の姿。その時に感じた、魂の共鳴――そのすべてが目まぐるしい走馬灯のように、色鮮やかに蘇った。

 清真の喉が乾き切り、呼吸が乱れる。あれは夢ではなかった。

 清真は花凜をじっと見つめた。蒼い瞳が月光に煌めいている。彼女を見つめるほどに、心の奥で何かが激しく脈打った。
 少女が新月の日に放っていた清らかな月光は、現在は発現していなかった。――だが、その純粋な魂の輝きは今も変わらずそこにある。

 清真の心に、深い確信が宿る。この少女こそ探し求めていた存在。
 これまでの心の空虚感、空白が、静かに埋まっていくのを、清真は本能に近いもので感じていた。

 清真は群衆を掻き分けて、少女の元へ向かった。まるで磁石に引き寄せられるように、抗いがたい力に導かれた。

 彼女は満月を見上げていた視線を、こちらに向けた。澄んだ黒い瞳が清真を捉えた瞬間、清真の全身に月光のような神聖な暖かさが広がった。息が止まりそうになる。魂の奥底で、何かが激しく共鳴していた。

 すべてが確信に変わった瞬間だった。

 清真の蒼い瞳に、これまで誰も見たことのない輝きが宿った。陰陽剣士として畏れられる男が、まるで純真な少年のような歓喜を湛えている。

(だが、どう声をかければいいのか)

(突然話しかけたら、驚かせてしまうだろうか?)

 清真の心に、一瞬の戸惑いが生じた。
 しかし、魂の奥からあふれ出る想いを抑えることはできなかった。

 清真は少女の前で、ゆっくりと膝をついた。その動作は神聖な儀式のように美しかった。

 群衆がどよめいた。月宮清真が、帝都最強の月詠み師が、見知らぬ少女の前に跪いているのだ。人々は息を呑み、この前代未聞の光景を見つめていた。

 清真は少女の手を取った。その手は小さく、まるで月光を固めたような清らかさを宿していた。

 ――触れた瞬間、清真の霊力が穏やかに脈打ち、完全な調和を奏でる。
 清真の心に、揺るぎない確信が芽生える。花凜の透き通るような魂の輝きが、彼の心の空白を静かに満たしていく。
 それは、千年の時を経て果たされた再会だった。

「君を探していた」

 清真の声が震える。生涯で最も重要な言葉を紡ぎ出そうとしている。魂の底から湧き上がる、純粋な想いを込めて。

「君の瞳に映る光こそ、本物の『月詠みの力』だ」

「俺は長い間、君を探し続けていた。この孤独な魂を救ってくれる、真の光を」

 周囲の群衆が息を呑んだ。女性たちの悲鳴にも似た声が囁く。清真の心臓が激しく脈打ち、全身が震えていた。

「私は……私なんて……」

「いや」

 清真の心は、純粋な歓喜に満たされていた。ついに見つけた。ついに出会えたのだ。

「君こそが、俺が探し求めていた光だ」

 清真の蒼い宝玉の瞳が、優しく細められる。清真が立ち上がり、花凜のほおに手を添えた。

「君は美しい。その清らかな魂も、秘められた力も」
 
 花凜もまた、同じ感覚を抱いているようだった。清真の魂の変化が、彼女の心にも響いているのがわかる。運命に導かれた二つの魂。

 『魂の片割れ』との出会い。清真の心臓が、新しい命を刻むように激しく鼓動を打つ。
 花凜の瞳が、深い黒い眼差しが、清真の全てを受け入れているかのように感じた。

「どうか、俺の花嫁になって欲しい」

 だが――。花凜の瞳がゆっくりと見開かれ、長い睫毛が小刻みに震えていた。薄い唇がかすかに開かれたまま、言葉を失っている。

 頬に淡い紅が差したかと思うと、次の瞬間には血の気が引いて青白くなった。
 細い肩が震え、手をぎゅっと胸の前で握りしめている。足元がふらつき、まるで現実を受け入れられずにいるかのようだった。

「なぜ……私に。……からかうのは辞めてください」

 震え声で言った少女の言葉が、清真の心を射抜いた。花凜の瞳に涙が浮かび、混乱と困惑で揺れている。首を小さく振りながら、一歩、また一歩と後ずさりしていく。

 清真の顔が青ざめ、手の震えが止まらなくなった。

 彼女は自分の想いを理解していない。いや、理解できるはずがない。突然現れた見知らぬ男が、いきなり求婚などしたのだから。

 少女は清真の手を振り払い、人波に紛れて逃げ出してしまった。着物の裾が翻り、あっという間に群衆の中に消えていく。

「待ってくれ――」

 清真が追いかけようとした時、葵が静かに制止した。

「私が、密かにあとを追います」

 葵の問いかけに、清真は一瞬躊躇した。

 追いかけたい。今すぐにでも彼女の元に駆け寄り、自分の真の想いを伝えたい。だが、それは彼女をさらに怖がらせることになるだろう。

 清真は深く息を吸った。冷静さを取り戻そうと努める。指先の震えを抑えようとするが、思うようにいかない。

(気持ちが焦りすぎて、驚かせてしまった)

(あの少女が逃げ出してしまうのも当然だ。自分の正体も明かさず、いきなり求婚などしてしまったのだから)

 ――我ながら、この手のことに関しての自分の不器用さが恨めしい。

「……頼む」

 清真が頷く。声が掠れて、息苦しさを隠せない。

「だが、遠くから見守るだけにしてくれ。彼女を怖がらせてはならない」

「かしこまりました」

 葵が一礼して、少女が消えた方向へ向かっていく。その足音が夜の静寂に響き、やがて遠ざかっていった。

 清真は一人その場に立ち尽くしていた。
 群衆が清真の周りを取り囲み、ざわめき合っている。だが清真の耳には、何も聞こえなかった。心の中は、ただ一人の少女への想いで満たされている。

 清真の瞳が、少女が消えた方向を見つめ続けていた。

 失われた半身を見つけた圧倒的な喜びと、彼女を驚かせてしまった深い後悔が、胸の中で複雑に絡み合っていた。清真の手は握りしめられ、爪が掌に食い込んでいる。

 だが、清真の確信は揺るがない。

(あの少女こそ、自分の宿命の人だ。永遠に探し求めてきた、魂の片割れ)

 今度は必ず、適切な方法で接近しなければ。彼女の気持ちを確かめ、自分の真の想いを正しく伝えなければならない。

 清真は群衆を静かに掻き分けて、その場を後にした。夜風が銀髪を揺らし、月光が彼の後ろ姿を照らしている。

 しかし、内なる歓喜を抑えることはできなかった。
 これほどの高揚感を覚えたのは、生まれて初めてのことだった。語られてきた伝説が、現実となった瞬間を味わっているのだ。

 彼女の小さな手の感触が、まだ掌に残っている。あの純粋な瞳の輝きが、脳裏に焼き付いて離れない。

 清真は振り返った。祭りの光の中にもう彼女の姿はない。

「君は、どこで何をしているのだろう」

 清真が夜風につぶやく。その声には切ない響きが込められていた。今の清真には、武勇も権力も意味を持たなかった。ただ、少女を想う心だけがすべてを支配していた。

 だが清真はまだ知らない。彼女がどれほど苛酷(かこく)な境遇に置かれているかを。継母と義妹の残酷な仕打ちに、日々苦しめられていることを。