それは新月の日――花凜と清真が、初めて出会った夜に戻る。
夜更けの藤里家に、花凜の疲れ切った足音が響いた。重い包みを両手に抱え、そっと裏口から屋敷に滑り込む。迷子の幼女ちよの母をみつけ、無事に送り届けた。
そして継母に命じられた荷物をふたたび持ち、ようやく帰宅したのだ。重さで石畳に足を取られ、何度も転びそうになりながらも、花凜は荷物を大切に守り抜いていた。
帰宅した花凜の物音を聞いて、駆けつけたのだろう。玄関の暗がりで待ち受けていたのは――。
「一体こんな時間まで、どこで寄り道していたの?」
氷を思わせる声が、夜の静寂を裂いた。
継母の志津が腕を組んで立っている。その隣には義妹の乙音も控えており、二人とも花凜を見下すような視線を向けていた。
志津の顔は怒りの形相で歪み、乙音の唇には薄い冷笑が浮かんでいる。
「怨霊があらわれて……迷子の子供を送り届けて……それから……」
花凜は息を切らしながら、事の顛末を『正直』に話し、説明をした。
「――面白い作り話ね、笑えないわ」
乙音は花梨の話をまったく信じようとせず、鼻で笑った。
「馬鹿馬鹿しい。そんな話で誤魔化そうとして」
志津の目が細められる。その瞳に、獲物を見つけた猛禽類のような冷酷な光が宿った。
「本当はこんな時間まで何をしていたの? ……まさか男でもいるんじゃないの?」
「こんな薄汚れてみっともない義姉さんに、いるわけないじゃない」
乙音の残酷な笑い声が、部屋に響く。
花凜が震える声で弁解しようとした時、志津が動き出した。
「使いもまともにできないお前に、ふさわしい罰を与えなくてはね」
志津は、にいっと、悪鬼のような恐ろしい笑みを浮かべた。
その笑みには、悪意と嘲笑が混じり合っていた。花凜を苦しめることを心から楽しんでいる。
花凜の顔から血の気が引いた。志津の向かう先を見て、まさか……と全身が恐怖で硬直する。
奥座敷の仏壇。そこには花凜の母と父の位牌が、安置されている。それぞれの位牌に、戒名が金文字で刻まれていた。
「お母さま……!」
花凜の声が震えた。嫌な予感が胸を駆け上がる。
志津が位牌に手を伸ばす。その邪悪な指先が、母の魂の宿る聖域に触れようとしている。花凜にとって、この世で最も大切な母の位牌。
「やめてください! それだけは!」
花凜が駆け寄ろうとした時――。
バキーーッ、という残酷な音が響いた。
志津が位牌を床に叩きつけたのだ。
その音とともに、花凜の心も一緒に砕け散った。
黒檀の美しい位牌が砕け散り、破片が散らばった。母の戒名が刻まれた部分も、無残に割れている。
「あああああ! お母さま……お母さま……!」
花凜の魂を引き裂く悲鳴が屋敷に響く。心の奥底から絞り出されるような、絶望に満ちた叫び。
「死んだらおしまいなんだから、こんなものいらないでしょ?」
志津は冷笑を浮かべ、割れた位牌をさらに足で踏み潰した。その顔には、他人の苦痛を楽しむ残酷な愉悦が刻まれている。
花凜はひざをついて、破片を集める。震える指先が、一つ一つの欠片を愛おしく拾い上げる。大粒の涙が頬を伝い落ち、床を濡らした。
その母の位牌をぎゅうっと、胸に抱きしめた。血が滲むほど強く握りしめた手の中で、位牌の破片が痛々しく光る。
「お母さま……お母さま……ごめんなさい……」
花凜の嗚咽が部屋に響く。その声は絶望に満ちていた。
それを見て、志津と乙音が顔をみにくく歪めて笑った。
「あはははは! 最高の見世物ね!」
「見なさい、その惨めな姿」
乙音が手を叩いて狂ったように笑う。その笑い声は鈴を振るように美しく、それゆえに一層邪悪だった。他人の痛みを蜜のように味わっている。
「泣き虫で、みっともなくて、本当に醜いわ。でも、苦しむ顔は面白い」
「なによ、その顔! もっと泣きなさいよ」
志津が憎悪を込めて花凜を足蹴にした。足で思い切り蹴られ、花凜の細い体が冷たい床の上に倒れる。それでも彼女は、母の位牌の破片を守るように胸に抱きしめていた。
志津の顔に、さらなる嘲笑が浮かぶ。
「三日間、食事抜きよ」
志津が氷の女王のように冷然と告げた。その声には、人間の温かさのかけらもない。
「反省しなさい。自分がどれだけ愚かで、価値のない存在かを」
志津の着物の裾が、花凜の頬を掠めて行く。絹の感触が、まるで刃物のように冷たかった。高級な着物とそれを纏う冷酷な心。
「ついでに、使用人の仕事も全部あんたがやりなさい」
乙音が母に習って残酷に追い打ちをかけた。
「炊事、洗濯、掃除、庭の手入れまで全部よ。使用人たちには休暇をあげるから。あんたが倒れるまで働きなさい」
志津と乙音が、満足そうな笑みを浮かべて部屋を出て行く。その足音が廊下に響き、やがて遠ざかっていった。
最後に聞こえたのは、二人の心の底から楽しそうな笑い声だった。
一人残された花凜は、畳の上で小さく丸くなって泣いていた。母の位牌の破片を大切そうに抱きしめ、声を殺して嗚咽する。
この広い屋敷で、ただ一人。月のない夜の闇が、彼女の悲しみを包み込んでいた。
「お母さま……ごめんなさい……守れなくて……」
花凜の謝罪の言葉が、誰もいない暗い部屋に響いた。
継母の志津は奥ざしきで酒を飲んでいた。乙音は慇懃に母にお酌をする。
上等なさつま焼きの徳利と猪口が膳に並び、舶来品の琥珀色の酒が注がれている。志津は既に顔を赤らめており、猪口を傾けながら乙音に語りかけていた。
「私だって元は子爵家の娘よ! それが没落して……屈辱的な思いを!」
志津が猪口を畳に叩きつける。酒が飛び散って、美しい着物の袖を汚した。
「上流階級の女たちが私を見下した。『成り上がり』『品がない』『血筋が悪い』って……あの高慢な顔が今でも忘れられない」
志津の瞳に、復讐の炎が燃え上がる。憎悪で歪んだ表情が、酒の赤らみでさらにみにくく見える。
「あの女たちの顔を見返してやりたくて、花凜の父に近づいたのよ」
「陰陽師の名門の家系なら、地位も財産も手に入る」
「私の思惑通りだったわ。計算通りに事が運んで、本当に愉快」
乙音は母の恨み節を聞き慣れていた。黙って頷きながら、上品にお酌をする。美しい顔に、母と同じ冷酷な笑みが浮かんでいる。
志津の瞳に、蛇めいた狡猾な光が宿った。
「あの男、本当に間抜けだったわ。私の正体にも気づかずに、まんまと騙されて」
「お義父さまって、本当に愚かだったのね」
乙音が美しい唇に冷笑を浮かべる。
「お母さまの計画通りに、簡単に引っかかって」
「そうよ。あんな愚鈍な男、利用するだけ利用して、さっさと死んでくれて良かったわ」
志津が酒を喉に流し込みながら続ける。
志津と乙音が花凜の父を酒のえさにし、声を合わせて笑った。その笑い声は美しく響きながら、悪魔の合唱めいて聞こえる。
しかし、志津の表情が急に険しくなった。酔いが回ったせいか、感情が露わになっていく。
「でも一番気に食わないのは、あの男が最後まで花凜を可愛がっていたことよ。――霊力の高い私の乙音よりも、あの何の力も持たない義娘を」
乙音の霊力は強く、優秀な力を持っていた——だが陰陽師の名門の子息令嬢たちの中ではそこまで抜きん出るものではなく、本人もそれを痛いほど自覚していた。だからこそ『月欠け』と呼ばれた花凜を見下すことで、自分の優越感を保とうとしていた。
「花凜を見ていると、虫唾が走るわ」
志津の声には、腹の底から湧き上がる憎悪が込められていた。乙音の顔にも影が差す。
「あんな継娘なんてどうなっても構わないわ」
「もっともっといじめてやる。その方が楽しい」
「そうね、お母さま」
乙音の瞳に、母と同じ残虐な光が宿った。
「花凜が苦しむ顔を見るのは、とても愉快よ」
「明日からもっと厳しくしましょう」
志津が立ち上がり、ふらつきながら廊下へ向かう。
「朝から晩まで働かせて、休む暇も与えない。食事も一日おきにしてやりましょう」
「素晴らしい考えね、お母さま」
乙音も後に続いた。美しい着物の裾を翻して歩く姿は優雅だが、その心は悪鬼そのものだった。
「あのみにくい娘には、地獄を味あわせてあげる」
二人の笑い声が廊下に響き、夜の闇に溶けていった。
翌日の夕刻、花凜は母屋の奥で一人座っていた。
三日間の絶食が始まって、既に一日が過ぎている。それでも朝から晩まで働かされた。体は衰弱し、時折激しいめまいに襲われた。立ち上がるたびに視界が揺らぎ、足元がふらついた。
彼女は、母の位牌の破片を一つ残らず継母たちに見つからないように、大切に集め袋に納めていた。継母に処分されてしまう前に、手元で大切に保管しておきたかった。
「いつか必ず、元通りに……」
細い声でつぶやく。唇は渇き、頬は痩けているが、その瞳に宿る輝きは失われていなかった。
後ろから静かな足音が近づいてきた。
「お嬢さま」
老いた男の声だった。振り返ると、藤里家に長年仕える使用人の吉兵が立っている。皺だらけの顔に、深い心配の色を浮かべていた。
「吉兵さん……」
花凜の声が、嬉しさと心配で震えた。
「これをどうぞ」
吉兵が小さな風呂敷包みを差し出した。中には握り飯と漬物が入っている。湯気がほのかに立ち上り、優しい香りが花凜の鼻をくすぐった。空腹の体が、本能的に反応する。
「……いけません」
しかし花凜は首を振った。
「吉兵さんが、もし継母様に見つかってしまったら」
「お嬢さま……」
吉兵の目に涙が浮かんだ。この屋敷で、唯一の味方である老人を、花凜は守ろうとしていた。
「吉兵さんには、……ご迷惑をおかけできません」
花凜の声に、確固たる意志が込められていた。
吉兵は花凜の眼差しを受け、悲しそうな目で無言で包みを懐にしまった。そして深々と頭を下げて、その場を去っていく。その背中が小刻みに震えている。
一人残された花凜は、再び母の位牌の破片に視線を向けた。小さな欠片を一つ一つ大切に見つめる。
「お母さま……」
夜風が格子窓から吹き込んで、花凜の黒髪を揺らした。新月にまだ近い夜空が、彼女の孤独を包み込んでいる。
ふと、暗い空を窓から見上げる。雲間から薄い新月の月光が差し込んだ。
花凜の心に、先日の出来事が浮かんだ。銀髪の美しい人。月の化身のような神秘的な存在。
『……君は、俺が探し求めた光なのか?』
自分に向けてささやいた、あの声。
その声は花凜の心の奥で、今も響いている。
あれは、どういう意味だったのだろう。でも、あの人が自分を見つめる眼差しは、とても優しかった。
あれは、本当にあったことなのだろうか。まるで夢のような出来事だった。彼の表情を思い浮かべるだけで胸が温かくなる。花凜の心の最も深い場所に宿り、彼女の存在そのものを肯定してくれるように感じられた。
花凜の唇に、小さな微笑みが浮かんだ。そっと思い出すぐらいなら、誰にも咎められないだろう。——そんなささやかな希望が、花凜の心を支えていた。
だが、遠い宮廷では、ある男が夜を徹して彼女を探し続けていた。銀髪の美しい青年が、ただ一人の少女を。
彼女の人生は、すでに大きく動き始めていた。
