数日後。宮廷の中務省(なかつかさしょう)に設けられた、陰陽寮の特別講義室。

 清真がときおり見せる表情の変化さえも、まるで月の満ち欠けを見ているかのように幻想的だった。人と異なる血を引く者だけが持つ、畏怖(いふ)すべき美しさがそこにある。

 陰陽師たちが束になっても敵わない怨霊を、彼はたった一振りで消し去った。清真は、月の神の血を引く異能者として生まれ、『陰陽』と『月詠み』両方の力を併せ持つ稀有な存在だ。

 だが今日の清真は、いつもと様子が違った。

「結界の修復において最も重要なのは、術者の集中力だ。心に迷いがあれば、霊力は不安定になり……」

 声が一瞬、途切れる。

 陰陽師たちの間にかすかなざわめきが走った。いつもの鋼のような冷静さを保つ清真が、講義の途中で言葉を失うなど前代未聞だった。

 講義室の格子窓から差し込む午後の陽光が、清真の銀糸の髪を白金に輝かせている。だが、その蒼い瞳はときおり虚空を彷徨い、窓辺に咲く白つばきの花を見つめては、まるで別の何かを重ねているかのようだった。

 清真の手が、強く握りしめられる。その仕草に、見る者は彼の内に秘められた激情を感じ取ることができただろう。

 それでも清真は、一刻ごとに休憩時間を挟みながら、きっかり三刻の講義を最後まで務め上げた。だが普段の完璧な講義とは違い、ときおり言葉に詰まり、視線が窓辺の花に吸い寄せられる瞬間があった。

 特別顧問官としての責務を果たしながらも、その心は明らかに別の場所を彷徨っていた。

「――以上で、今日の講義を終わる」

 陰陽師たちが深々と頭を下げて退室していく。講義室に一人残された清真は、窓辺に歩み寄った。

 宮廷の庭園に咲く菊が、風に揺れている。清真の指先が無意識に胸に当てられた。
 その純白の花びらが舞い散る様を見つめる瞳に、かすかな痛みの色が宿った。

「清真」

 声が、清真の背後から響いた。

 振り返ると、月の光のごとき金色の髪と、紫の狩衣を纏った青年が立っている。端正な顔立ちに穏やかな微笑みを浮かべ、品のある仕草で清真に近づいてくる。

 孝斗皇子(たかとのみこ)――それは帝の第二皇子にして、清真の対等に話せる数少ない友人だった。

「……孝斗」
 清真が、皇子に軽く頭を下げる。

「今日の講義、随分と……心ここにあらず、といった様子だったな」
 孝斗が窓辺に並んで立った。庭園を眺めながら、横目で清真の横顔を見る。

「どうした? お前がこれほど動揺するとは珍しい」

 清真は答えに窮したようだった。彼と孝斗は幼い頃からの付き合いで、清真の性格をよく知っている人物だ。普段の清真は、どんな時でも氷壁のような冷静さを保ち、感情を表に出すことは滅多にない。

「……実は」
 清真がゆっくりと口を開いた。

「探し求めていた人を見つけたかもしれない」

「ほう?」
 孝斗の眉が僅かに上がった。

「それは興味深い。お前が『人を探している』とは」

 清真は庭園の向こうを見つめた。白菊の花びらが、ひらりと舞い散っていく。

「あの夜、新月の闇の中で見た少女の瞳……」
 清真の声が低く響く。その音色に、かすかなふるえが混じっていた。

「ひと目で、分かった。彼女は特別だと」

 独り言を呟くかのような口調。だが、その言葉には深い意味が込められている。

「もしかして、それは私たち『月の神の末裔(まつえい)』に伝わる『半身』のことか」

 孝斗の表情が変わった。穏やかだった瞳に、驚きの色が浮かぶ。
 清真が首を振る。銀髪が肩で揺れ、午後の陽光を反射した。

「だが、そんなおとぎ話。本当に存在するのか」




 月和皇朝の帝都「月華」。人々と異能種が共存するこの古い都には、言い伝えがあった。
 それは『月の神の血を引く者』たちに、長く語り継がれている。

 かつて天にあった一つの月の魂が、人の世に降りる時、二つに分かれて生まれた。片割れ同士は、お互いを求め探し続けている。

 だが、それは神話の域を出ない話だった。実際に半身を見つけたという記録は、古い文献にしか残されていない。

「ここ何百年と、誰も片割れを見つけられた人はいない」

 清真が羽音のようなため息と、その拳が無意識に握りしめられる。

「分からない」

「だが、これまでに覚えがないほどの心の震えを感じた。――もう一度会って、確かめてみたい」

 孝斗は、清真の横顔をじっと見つめた。幼い頃から知る友人が、こんな姿を見せるのは珍しい、とでも思っているような表情だ。純粋な想いが清真の瞳に宿っている。

「それで、その相手は誰だ?」

「……見失ってしまった」
 清真の唇が、苦い笑みを浮かべた。

「臣下たちがあらゆる手を尽くして探しているが、見つからない」
 清真が孝斗の方を向いた。その蒼い瞳に、切なる願いが宿っている。

「君の力を借りたい」

 孝斗は一瞬、目を見開いた。
「清真が、私に頼み事をするのは極めて稀なことだな」

 皇子には他の誰にもできない貴重な力があった。清真は、それを借りたいと言っているのだ。

「わかった」
「私の宮に来てくれ。今夜、月が昇る頃に」

 孝斗は袖の中から、小さな鈴を取り出した。薄紫の紐で結ばれた、美しい銀の鈴。それは儀式に使う神器の一つだった。

「ただし」
 孝斗の表情が、少し曇る。
「私の先読みは、お前も知っている通り確実ではない」

 先読みの力――それは未来の断片を垣間見ることができる、極めて稀有な能力だった。帝都月華の中でも、この力を持つ者は数名しかいない。

 孝斗皇子もその一人だったが、見える未来は霧の中の影のように曖昧で、時として全く違う結果になることもあった。

「断片的な、手がかりを与えることしかできないが」

「構わない」
 清真が即座に答えた。その声に迷いはない。
「どんな小さな手がかりでも欲しい」

 孝斗は鈴を袖に戻し、清真の肩に手を置いた。
「では、夜半に私の宮で。準備をしておこう」

 清真が深く頭を下げる。
「ありがとう、孝斗」

「礼には及ばない。友人として当然のことだ」

 清真が講義室を出て行く。その足音が廊下に響き、やがて消えていく。
 一人残された孝斗は、窓から庭園を眺めていた。午後の陽光が、白菊の花びらを金色に染めている。
 しばらくして、孝斗の唇に複雑な笑みが浮かんだ。

「もし本当に『半身』に巡り会えたとしたら、私は心底お前を羨ましく思うよ」

 その言葉は、誰にも聞こえることなく、静かな講義室に響いた。


***

 宮廷の奥深くには、一般の人々が足を踏み入れることのできない聖域がある。

 そこでは『月の神の末裔』と呼ばれる美しい帝と皇子たちが、金色の髪を持ち、月光のような衣装に身を包んでまつりごとを司っていた。彼らの一言一言が国の運命を左右する。まさに現世に降り立った神々のような存在だった。

 宮廷の廊下を歩くだけで、千年の歴史と格式が肌に伝わってくる。

 孝斗の私的な宮は、他の建物とは離れた場所に建つ、瀟洒な造りの御殿。周囲を竹林に囲まれ、静寂に包まれている。

 孝斗の側近が、深々と頭を下げて清真を迎える。案内されたのは、宮の最も奥にある小さな部屋だった。

「孝斗皇子さまが、お待ちになられております」

 清真が到着したとき、既に月が中空に迫っていた。
 その夜、孝斗の宮の奥座敷で、神秘的な儀式が始まろうとしていた。
 畳が敷かれた和室に、低い卓が一つ。壁には古い掛け軸が飾られ、薄暗い明かりが幻想的な雰囲気を演出していた。

「清真、来たか」

 孝斗が現れたとき、その装いは午後とは一変していた。白い浄衣に身を包み、頭には金の冠を戴いている。皇子の正装――先読みの儀式に臨む、神聖な装束だった。

「準備はできている」

 孝斗が卓の前に座る。清真もその向かいに正座した。
 卓の上には、様々な道具が並べられていた。水晶玉、古い鏡、先ほどの銀の鈴、そして燃え盛る香炉。紫色の煙が立ち上り、部屋に神秘的な香りを漂わせている。

「始める」

 孝斗が目を閉じた。その顔に、深い集中の色が浮かぶ。
 室内の灯りが、ゆらりと揺れた。風もないのに、掛け軸がかすかに動く。空気そのものが変化し、霊的な力が部屋を満たし始めた。

 孝斗の手が、ゆっくりと水晶玉の上に翳される。その指先から、淡い光が放たれた。光は水晶の中を泳ぎ、虹色に輝いている。

 清真は息を殺して見守った。

 孝斗の唇が、かすかに動く。呪文か、それとも祈りか。聞き取れない言葉が紡がれていく。
 水晶玉の光が強くなった。部屋全体が青白い光に包まれ、現実と幻想の境界が曖昧になっていく。

 鈴の音が、静寂を破って響いた。

 清真は固唾を呑んで見つめた。
 孝斗の額に、汗が浮かんでいる。先読みの術は、術者に大きな負担をかける。だが孝斗は諦めず、より深い集中に入っていった。

 やがて――。孝斗の瞳がぱっと開かれた。その瞳に、神秘的な光が宿っている。

「見えたぞ……清真」

 かすかな声が、孝斗の唇から洩れた。部屋の灯りが元に戻り、霊的な力がゆっくりと引いていく。孝斗は額の汗を拭い、深く息をついた。

「孝斗、お前が見たことを教えてくれ」

 清真が身を乗り出す。
 孝斗は温和な表情を浮かべた。見えた映像を思い返すかのように、ゆっくりと語り始めた。

「……この日、この場所へ行け」

 孝斗の言葉に、清真の瞳が輝いた。

 分かたれし魂は、永劫の時を経て再び巡り会う。不完全な月が、ようやく満ちるその日まで。