陰陽師たちの前に、陰陽寮(おんみょうりょう)の『特別顧問』の月宮(つきみや)清真(きよまさ)が、静かに立っていた。

 月の輝きを、集めて紡いだごとき銀糸の髪。夕日を受けて淡く光る美しい横顔には、微塵(みじん)の動揺も見えない。帝家に並ぶ格式を誇る『月宮家』の当主であり、陰陽寮の特別顧問(とくべつこもん)を務める人物だった。

 彼に憧れる若い陰陽師は、数知れない。

『陰陽寮』に集う陰陽師は、帝都でも特別な力を持つ選ばれし者たちだった。帝都月華の守護を担う特別な存在。霊的な脅威(きょうい)から都を守る使命を背負っている。

 彼らは皆、月の光をあやつり、邪悪な霊を払う神秘的な能力を持っていた。朝は瞑想(めいそう)から始まり、学習、実戦訓練——その生活のすべてが、都を守るために捧げられていた。

 だが、清真が足を運んだ夕刻の『陰陽寮』は、いつにも増して緊張に包まれていた。

「今日の儀式は延期だ。帝都に現れた『怨霊(おんりょう)』に対処する」

 大広間に集められた陰陽師たちの表情は一様に険しく、普段の落ち着いた雰囲気とはほど遠い。

「報告してくれ」

 清真の声が大広間に響くと、最前列の陰陽師が慌てたように頭を下げた。

「はい。各所から怨霊の気配が強まっているとの報告が入っております」
 男の声は、緊張で上ずっていた。

「東の封印地点では、結界に亀裂(きれつ)が確認されました。南からは、境内で異様な冷気が漂っているとの知らせも」

「北一帯では、怨霊の雄叫(おたけ)びが響き渡ると言った報告も、上がってきています」

 次々と告げられる報告に、広間の空気がさらに重くなっていく。陰陽師たちは皆、今夜が『新月』だということを知っていた。

――それは、彼らの霊力が弱体化する、危険な夜。

 清真は黙って報告を聞いていたが、やがて口を開いた。

「新月の夜は、我々の力が最も弱まる」
 その声は静かだが、確固とした意志に満ちていた。

 陰陽師たちは、月の満ち欠けと共に霊力が変動する。満月の夜には力が頂点に達し、逆に月が見えない新月の夜は、彼らの霊力が最も衰える時だった。
 そして、それは負の霊力を持つ怨霊たちにとっては、逆に力を増す絶好の機会でもある。

「だが、都を守るのが我々の使命だ」

 清真の蒼い瞳が、集まった陰陽師たちを見渡す。その視線を受けた者たちは、背筋を正した。

「怨霊たちが力を増そうとも、封印が弱まろうとも、この帝都月華を脅かすことは許さない」

 清真の執事で従者の(あおい)が、大広間の隅で控えていた。主人の横顔を心配そうに見つめている。清真の言葉に偽りはない。だが、清真自身が新月の今夜、最も危険にさらされるのだ。

 清真は腰の刀に手を添えた。

「各自、持ち場に()け。今夜は長い夜になる」

 陰陽師たちが一斉に立ち上がり、深々と頭を下げる。
「かしこまりました!」

 その声が広間に響く中、清真の瞳だけが静かに夜の闇を見据えていた。




 新月――その日は、月なき夜だった。
 帝都月華は、漆黒の深い闇に包まれていた。街角に立つガス灯だけが、ぼんやりとした光の輪を描いている。石畳に映る影はこく、夜気は肌を刺すように冷たい。

 花凜は継母に命じられた買い出しを終え、藤里家へと急いでいた。両手に重い荷物を抱え、足音を忍ばせるように歩く。荷物の重みが肩にくいこみ、腕がしびれている。

 こんな夜更けに、娘ひとりで出歩かせることを、継母の志津は何とも思っていない。

 ――角を曲がった時だった。

「おかあさん……」
 か細い声が、夜の静寂を破った。
 花凜の足が止まる。

 街灯の下で、ちいさな影がうずくまっている。五つか六つほどの女の子だった。うすい着物一枚を身にまとい、ふるえながら座り込んでいる。

「どうしたの?」
 花凜は荷物を置いて、その子の前にしゃがみ込んだ。冷たい石畳の感触が、ひざを通して伝わってくる。

 でも、この子の方がもっと寒いはずだ。

「おかあさんと、はぐれちゃった……」
 大粒のなみだが、ほおを伝い落ちる。小さな手で袖をぎゅっと握りしめて、おびえた瞳で花凜を見上げた。その瞳に映る絶望が、花凜の胸をしめつける。

「大丈夫よ。一緒に探しましょう」

 継母は花凜の帰りが遅いことに激怒するだろう。また罰を受けることになるかもしれない。
 それでも、この子をひとりにしておくことはできなかった。

 花凜は重い荷物を人目につかないところに一旦隠し、幼女の方に向き直る。

「お名前は?」
「ちよ……」
「ちよちゃんね。私は花凜。きっとお母さんも探しているわ」

 花凜は、ちよの手を優しく握った。氷のように冷たい小さな手が、鳥の羽根のようにふるえている。

 二人は手を繋いで歩き始めた。ちよは花凜の着物の裾を握りしめ、小さな足音を響かせる。夜風がほおを撫でていく度に、花凜の心の奥で何かがささやいていた。

「あの辺りに、屋台があったでしょう? そこで待っているかもしれないわ」

 幼女に語りかけた。
 だが、胸の奥で警鐘(けいてき)が鳴り響いている。夜気に混じって、じめっとした重い気配が――怨念の匂いが漂っている。

 花凜は立ち止まった。ちよの手を握る力が、無意識に強くなる。

「どうしたの、お姉ちゃん?」

「……何でもないの」

 それは、嘘だった。ちよを安心させたくて、とっさに口から出ていた。

 空気が変わったのを、花凜は肌で感じ取っていた。それはずっと自宅で時々、感じていたような不穏。夜風が急に冷たくなり、街の向こうから異様な気配が這い寄ってくる。まるで見えない蛇が、石畳を這い回っているかのように。

 その刹那(せつな)――。

 遠雷が空をふるわせているのかと思った。
 いや、違う。それは足元の大地が呻き声を上げる、恐ろしい地鳴りだった。

 大地がふるえ、石畳がびりびりと振動する。ガス灯の炎が激しく揺れ、建物の窓ガラスがかたかたと音を立てた。花凜の足裏に、不吉な波動が伝わってくる。

「きゃあ!」

 ちよが花凜にしがみついた。小さな体がふるえている。そのおびえが花凜にも伝わり、二人は身を寄せ合って縮こまった。

 遠くから悲鳴が聞こえてくる。人々が何かから逃げ惑う足音。慌てふためく声。そして――。
 恐怖が風に乗って伝わってきて、花凜の喉が渇き切る。唾を飲み込もうとしても、口の中がからからに乾いていた。

 空が、禍々しい夕焼けのように、赤く染まった。
 帝都の中心部から、巨大な黒い影が立ち上っている。悪意が形を成したかのような、おぞましい存在。

「怨霊……」

 花凜の唇から声がもれた。喉の奥が渇き、心臓が激しく跳ねる。
 あれは普通の怨霊ではない。都の結界を破って現れた、強大な悪霊だ。

 それは人の背丈の三倍はあろうかという、禍々しい化け物だった。漆黒の霧をまとい、赤く燃える眼が闇を見据えている。低いうなり声が街全体をふるわせた。

 新月の夜――月詠み師と陰陽師たちの力が、最も弱まる時を狙って。

 街の向こうから、鐘の音が響いてくる。陰陽寮の警鐘だ。都に危機が迫ったことを知らせる、絶望的な音色。

「お姉ちゃん、怖い……」
 ちよが泣き声を上げた。花凜は、ちよを抱きしめた。この子を安全な場所まで連れて行かなければ。

「大丈夫よ、お姉ちゃんがついてるから」

 ――この子を、守らなければ。

 ちよを抱いたまま、周囲にどこか逃げ込める場所はないかと探した。だが、巨大な怨霊の気配は刻一刻と強まっている。街角から街角へと、黒い瘴気(しょうき)が毒蛇のように這い回り始めた。

 人々の悲鳴が近づいてくる。
「怨霊だ! 怨霊が現れた!」

「結界がやぶられた!」「逃げろ!」

「陰陽師さまは! 陰陽師さまはいないのか!」

 慌てふためく民衆が、花凜たちの前を駆け抜けていく。着飾った商人、怯える女性、泣き叫ぶ子供たち。誰もが恐怖に顔を歪ませ、ただせまってくる闇から逃れようとしていた。

 花凜は女の子をしっかりと抱きしめた。小さな体がはげしくふるえている。





 その時――。空を駆ける影があった。
 白い装束に身を包んだ陰陽師たちが、次々と怨霊の現れた方角へ向かっていく。

避難(ひなん)の誘導を頼む。こちらは食い止める」

 だが、陰陽師たちの霊力が、いつもより弱い。新月の夜は、月の力を借りる者たちには、命がけの試練(しれん)に等しい。

 そして、その中に一つの影があった。
 他の者たちとは違う、圧倒的な存在感を放つ影が。

「左右から挟め。正面は俺が引き受ける」

 月光をまとった刀身が、闇を切り裂いている。その美しい光に、花凜の心臓が激しく跳ねた。胸の奥で、何かが共鳴するような感覚。

「月宮さま……!」
「月詠み師さまだ」
「来てくださった! 月宮清真さまが……!」

 希望を込めて、人々がその名を叫ぶ。

 『月詠み師』とは、陰陽師の上位に位置する特別な存在。帝都「月華」で最も尊ばれる霊的職能者であり、月の神の力を直接操る稀有(けう)な能力者だ。

 一般の陰陽師が呪符(じゅふ)や器物に月の力を込めるのに対し、月詠み師は自らの体を媒体(ばいたい)として、月の力を直接顕現(ぐげん)させる。

 月詠み師は、月そのものの力を自在に操り、強大な結界を張り都を守護する。帝都にいる月詠み師は十数名、陰陽師と合わせても百名余り。その中で両方の力を持つ者は、帝を含めて十五人に満たない。清真がいかに特別な存在かが分かる。

 月光をまとったような銀。

 高い位置で結われた長い髪が風に舞い、その一房一房が星屑(ほしくず)の金属のように煌めいている。
 蒼玉を溶かしたような瞳は冷たい炎を宿し、刃のように研ぎすまされた横顔に、影を落とす。

 抜き放たれた霊剣が月を映し、その刀身に浮かぶ『神代文字』が青白く脈動(みゃくどう)していた。

 月宮清真。月の神の血を引く異能種にして、帝都最強の『月詠み師』。都を守護する貴公子が、陰陽師たちをひきいて、怨霊と戦っている。

 ――だが、その銀の光が不安定に揺らいでいた。
 清真の動きにも、いつもの鋭さがない。新月は彼の力をも削いでいるのだ。

 新月の夜は、月詠み師や陰陽師たちの力をよわめる。普段なら一撃で倒せる相手も、今夜は手強い。刀身の光が明滅し、危うげにふるえている。

「そいつに近づくな。俺が相手をする」

 清真の刀が月光をはじき、銀の軌跡(きせき)を描いて怨霊を切り裂いた。その両脇では、彼の『式神(しきがみ)』二匹の大きなオオカミが主人と歩調を合わせて戦っている。
 式神とは、陰陽道の力で召喚され、使役(しえき)された霊獣たちだ。その姿は様々で、主人の霊力に応じて異なる能力を発揮する。

 白色のオオカミが、天からの優雅な跳躍(ちょうやく)で怨霊の群れに飛び込んだ。するどい牙で闇を食い破る。

 黒色のオオカミは野性的な力強さで地面を蹴り、重い体を活かして敵をなぎ倒していく。
 清真の剣技と、式神たちの連携(れんけい)は完璧だった。

 白色のオオカミが空中から敵を押さえつけると、清真の刀がその隙をついて一閃(いっせん)。黒色のオオカミが敵の注意を引きつけているあいだに、清真は次の怨霊へと移動する。

 三者の息の合った攻撃に、怨霊たちは次第に数を減らしていく。やがて最後の怨霊が消滅すると、二匹の式神は自然に清真の両わきへと戻った。

「民衆を安全な場所へ。一人も取り残すな」

 民衆の避難状況を確認しようと、清真が周囲に視線を巡らせた。

 清真の蒼い瞳が、その方向を捉える。怨霊から少し離れた場所で、一人の少女が幼い子を庇うように抱きしめていた。薄汚れた着物を着た娘だ。

「あの娘は……」

 清真の蒼い瞳が、その少女をとらえた瞬間、その表情が変わった。普段の冷静さにわずかな驚きが混じり、剣を握る手がふるえた。
 まるで何か重要なものを見つけたかのように、清真の視線が少女から離れなくなった。

 花凜もまた、戦う銀髪の美青年を見つめていた。月の雫さながらの髪、天上の光の美貌、そして――なぜだろう、あの人を見ていると胸が苦しくなる。

 二人の視線が交錯(こうさ)した瞬間、時が止まったように感じられた。

 清真の蒼い瞳と、花凜の黒い瞳が見つめ合う。戦場の喧騒(けんそう)が遠ざかり、世界には二人だけが存在するかのようだった。

 清真の唇が、かすかに動く。
「君は……」

「きゃあああああ!」
 ちよの悲鳴が夜空を裂いた。

 花凜ははっと現実に引き戻される。清真もまた、その声に鋭く振り返った。巨大な黒い塊が、空から降ってくるのが見えた。

 清真の表情が一変する。蒼い瞳に緊張が走り、瞬時に剣を構え直した。銀の髪をひるがえして花凜たちの方向へ駆け出す。しかし距離がありすぎた。

 怨霊の分身が、花凜たちの真上に迫っている。鋭い爪を伸ばし、憎悪に燃える赤い目で見下ろしていた。その瞳から、底知れない悪意がしたたり落ちる。

 清真の足が地を蹴る。銀糸が風に舞い、漆黒の外套(がいとう)の裾が翻る。

 ――間に合わない。

 花凜はとっさに幼女を庇った。小さな体を自分の胸に抱き寄せ、背中を丸める。爪が背中を裂く痛みを覚悟し、目を強く閉じた。

(怖い……でも、この子は絶対に……!)

 心の奥で、必死な祈りにも似た思いが燃え上がる。小さな命を守りたいという、純粋な愛情が花凜の魂を包み込んだ。

 その瞬間、まるでその想いに呼応するように、温かい光が花凜の心の奥からあふれ出した。
 それは月光だった。新月の夜にも関わらず、花凜の体から純白のうすくわずかな光が立ち上る。怨霊の爪が、その光に触れた瞬間に弾かれた。

「え……?」

 花凜自身が驚いた。自分の手のひらから、腕から、全身から――本当にわずかなものではあったが、なぜか月の光が放たれている。
 その光は清らかで、けがれを払う力を秘めていた。触れるものを浄化する『慈愛(じあい)に満ちた光』だった。

 銀髪の貴公子が、花凜を見る。蒼い瞳に、深い驚愕の色が浮かんだ。月光を受けて、その美しい顔が青白く輝いている。

 清真の剣を持つ手に、強い力が込められる。

「その光は……!」

 清真の声に、心を揺さぶるような感動が込められていた。

 花凜の月光が、清真の霊力と呼応していく。彼の周囲を取り巻いていた不安定な銀の光が、まるで花凜の月光に導かれるように輝きを増している。

 二人の光が『共鳴し合い』、夜空に美しい光の輪を描き出していた。

 清真の霊剣が、かつてない程の光を放つ。刀身に刻まれた神代文字が燃えるように脈動し、その輝きは新月の闇を切り裂いた。
 彼は一瞬の躊躇(ちゅうちょ)もなく、花凜たちを守るようにして怨霊の前に立ちはだかる。

 銀髪が風に舞い、漆黒の外套のすそが翻る。月光の刀身を構え、怨霊に向かって跳躍(ちょうやく)した。その動きは水のように流麗で、同時に稲妻(いなづま)のようにするどい。

「下がっていろ」

 低く響く声が、花凜の魂をふるわせた。

 その声音は――氷の上を滑る刃のように冷たく、けれど不思議と温かい。まるで『花凜だけを守る』ために紡がれた言葉のようだった。

 花凜の胸が、どくんと大きく跳ねた。
 清真の剣が一閃した。

 花凜の光と完全に同調した霊力が、刀身を通して解放される。それは今までにない程の威力だった。神々しいまでの光の軌跡(きせき)が宙に描かれ、怨霊の分身を一刀両断する。

 黒い塊が、光の粒子となって散っていく。

 清真が振り返る。月光に照らされたその横顔は、まさに神話の戦神そのものだった。銀髪に一筋の汗も見えず、蒼い瞳には勝利の光が宿っている。

「大丈夫か?」

 その優しい声に、花凜の頬が熱くなった。

(この方が……私を守ってくださった)

 清真もまた、花凜を見つめていた。彼女の放つ月光は既に消えていたが、その清らかな魂の輝きは今も変わらずそこにある。

 夜風が二人の間を吹き抜けていく。それは、花凜と清真の初めての出会いだった。

 周囲に、静寂が戻る。
 清真は花凜をじっと見つめた。蒼い瞳が月光に煌めいている。

「無謀だが……」
「君の揺るぎない勇気、そして『瞳に宿る月の光』」

 まるで夢の中を漂っているような感覚が、花凜をおそった。

(この人を、どこかで知っている)

 花凜の胸の奥で、何かが激しく脈打った。不思議な既視感(きしかん)が込み上げてくる。
 初めて会ったはずなのに、不思議な胸のふるえを感じた。

(懐かしい。胸が締め付けられるほど、懐かしい。
 なぜだかわからないけれど、涙があふれそう……)

 清真もまた、驚愕しているようだった。これまで感じたことのない心のふるえ。体の深く。いや、もっと深い。彼が魂とも呼べる共鳴を感じていることが、なぜか花凜にはわかった。

 帝都最強の月詠みと呼ばれる方が、なぜこんなにも動揺しているのだろう。花凜の心臓が、太鼓(たいこ)のように激しく鼓動を打つ。

 清真の瞳が、深い蒼色の眼差しが、言葉にならない何かが燃えている。

 渇望。切望。そして――恐れ。

「……君は、俺が探し求めた光なのか?」

 清真が花凜に、近づこうとした時だった。

 街の向こうから、ざわめきと共に人々の足音が響いてきた。避難していた民衆が、怨霊が去ったことを知って戻ってきたのだろう。やがて群衆が波のように二人の間に流れ込んできた。

「月宮さまが、怨霊を退治してくださった!」
「都が救われた!」
「ありがとうございます!」

 興奮した人々の声が夜空に響く。花凜の周りを民衆が取り囲み、感謝の言葉を口々に叫んでいる。群衆に押し流され、清真の姿は見えなくなってしまった。

 その喧騒の中で、花凜は、はっと我に返った。ちよの小さな手を握り直す。

「行きましょう。おかあさんを探しに」
 花凜はちよと共に、群衆に紛れて歩いていく。


***

 少女が立ち去った場所で、清真は呆然と立ち尽くしていた。

 人々が称賛(しょうさん)の言葉を投げかけても、その声は遠い波音のように聞こえているようだった。清真の眼差しは、消えた少女の面影だけを追っていた。

「清真さま?」

 従者の葵の声が、清真の意識を現実に引き戻した。
 清真がゆっくりと振り返る。月光を受けた蒼い瞳の奥で、何かが燃えていた。普段の冷静さとは異なる、強い光。

「葵。あの少女を、必ず見つけ出せ」

 清真の声は低く、確固たる意志に満ちていた。
 その命令には、今まで聞いたことのない切迫感が込められていた。清真の手が、無意識に剣の柄を握りしめている。

 葵が一瞬、驚いたような表情を見せた。しかし、すぐに深く頭を下げる。

「承知いたしました」

 帝都最強の月詠み師が、一人の少女を探すために動き出した。

 この夜の偶然の出会いが、古き都、帝都月華に希望の光をもたらすことになる。
 夜の天空に浮かぶ、銀の月は知っていた。千年の時を経て、二つに分かれた『月の魂』が再び一つになる日のことを。


挿絵