藤里家の深夜の台所にひびくのは、重いなべをあらう音。花凜の手は、冷たい水で荒れはてている。ひび割れた指先からは、血がにじんでいた。明日の月見茶会の準備で、夕刻から休みなくはたらき続けている。

 もう何時間になるだろう――食事をとる余裕もない。

 かつて陰陽師(おんみょうじ)の名門として名を()せた藤里家。代々、月の力を操る者たちを生み出し、帝都の結界を守ってきた。今も屋敷の外観は荘厳(そうごん)さを保っている。

 帝都に住む人々の多くは、陰陽師たちの存在を当然のものとして受け入れている。この帝都月華では、人と異能種、そして霊的な存在が共存する不思議な調和がたもたれていた。ガス灯と電灯が混在し、馬車と人力車が行きつどう、和と洋が溶け合った都。

 その美しさの裏には、つねに霊的な脅威(きょうい)が潜んでいるのだ。

 だが、藤里家の長女でありながら、今や使用人同然の扱いを受ける藤里花凜(ふじさとかりん)の姿は、この家の現状を物語っていた。

 なべの鉄錆(てつさび)の匂いが、鼻をつく。
 着古した薄い着物は、何度も継ぎを当てられ、みすぼらしく色褪せていた。帯も切れそうなほど古く、十七歳の少女が着るにはあまりに貧相(ひんそう)だった。

 細い手が汚れた、なべや皿を洗い続ける。一枚でも割れば、また叱責(しった)が飛ぶ。
 ふと、母の顔が脳裏(のうり)に浮かんだ。
 病床で苦しんでいた顔。『花凜……すまない……』とあやまり続けていた声。

 母は自分に、『月詠みの力』――霊力がないことを、最期まで悔やんでいた。力なき者は、この世界では生きる価値もない。

「花凜!」

 継母、志津(しず)の声が、台所に響いた。花凜の肩が、びくりとふるえる。その声には、いつも底知れない冷たさが込められている。

「はい……」

 振り返ると、紫の豪華な着物を着た志津が立っていた。四十五歳になってもどこか少女めいた美しさを保つ女性だが、その瞳には氷のような光が宿っている。

 高価なかんざしを髪に挿し、宝石の帯留めを身に着けている。花凜の質素なすがたとは、雲泥(うんでい)の差だった。

「まだ終わっていないの? 本当につかえない子ね」
 志津の視線が、花凜を値踏(ねぶ)みするように見下ろす。

「申し訳ありません……」
 花凜が頭を下げた瞬間、ばちんと頬を激しく叩かれた。

「謝ればいいと思っているの? お客様をお迎えするのに、この体たらくは何?」

 頬がじんじんと痛む。けれど、花凜は表情を変えなかった。涙を見せれば、もっとひどい仕打ちが待っている。

 志津の後ろから、乙音(おとね)がひらりと現れた。

 十六歳の義妹は、桜色の絹の着物に身をつつみ、愛らしい顔立ちをしている。髪には真珠のかんざしが輝き、着物には金糸の刺繍(ししゅう)が施されている。

 けれど、その笑みには花凜への軽蔑(けいべつ)が込められていた。

「お母さま、新しい術式ができましたの」

 乙音が笑顔で言うと、手のひらを上に向け、短い呪文を唱えた。指先からあわい青い火が灯り、それが彼女の手の上で小さな鳥の形に変化する。陰陽師の力で操る「霊火(れいび)」だった。

「まあ、素晴らしいわ! さすが私の娘ね!」

 志津は、実子の娘へ感嘆(かんたん)の声を上げる。
 乙音はそのほめ言葉に得意げな表情を浮かべ、花凜にむき直った。霊火の鳥を消し、その眼差しは一瞬で冷たく変わる。

「義姉さん、あらあら」

 乙音の声は、(みつ)のように甘い。しかし、その言葉の裏にはとげがあった。

「『月欠(つきか)け』のみにくい姉さんは、台所がお似合いですわね。そのけがれた身で、月の宴に出るなど不快ですもの」

 花凜の胸が、ぎゅっと痛んだ。

 月欠け――それは、月詠み能力を持たない者への蔑称だった。陰陽師の家柄では、能力なき者は人として扱われない。血筋と霊力が全てを決める世界で、力なき者は虫けら同然なのだ。

 花凜自身、幼い頃から母と父に何度も能力を測定された。けれど、いつも結果は同じだった。
『霊力反応なし』――その無情な言葉が、花凜の心に深い傷を刻んだ。

「明日の月見茶会、来るのは皆、高貴な方々ばかり」

「私の結界で清めておかないと、浄らかな月の光も曇ってしまうわ」
 その言葉は明らかに、花凜を暗に貶めるものだった。

「お前は使用人よ。身のほどを知りなさい」
 志津が冷たく言い放つ。

「能力なき者が、華族(かぞく)の宴に出るなど許されないわ」
 花凜は黙って頭を下げた。反論すれば、もっと辛い仕打ちが待っている。

「そうそう」
 志津の唇が、意地悪く歪んだ。

「お前の母の形見のかんざしだけれど……昨日、古物商に売ったわ。思った以上にいい値段がついたのよ。五千円にもなったわ」

 花凜の顔が、血の気を失った。
「あ……あの、かんざしを?」

「ええ。お前のような『月欠け』には、もったいない品だったもの」
 志津が嘲笑する。

「第一、お前の母も月詠みの力が弱くて、みじめに死んでいったじゃない」
「病弱で、使い物にならなくて。まあ、その血を引くお前に、まともな霊力があるはずがないわね」

 花凜の手が、がくがくとふるえた。
 あのかんざしは、母との唯一の思い出だった。銀で作られた繊細な細工で、小さな月の形をした飾りが付いている。亡くなる前、母がふるえる手で渡してくれた、たった一つの宝物だった。

 母の最期の姿が、胸によみがえる。
 苦しそうに咳きこみ『花凜……すまない……力がなくて……すまない……』と謝り続けていた、あの悲しい姿。

 あのかんざしだけが、母が遺してくれたただ一つのものだった。――それすらも、私から奪われてしまった。

「ちゃんと聞いているの?」

 乙音がいらだったように言う。ばしんと、今度は乙音の手が花凜のほおを強く叩いた。爪が引っかかり、薄く血がにじむ。

「泣いているの? みっともない」
 乙音がくすくすと笑う。

「『月欠け』のくせに、感情なんて持たなくてもよろしいのに。使用人らしく、黙って働いていればいいんですわ」

「本当に図々しい子ね」
 志津が花凜の髪を掴んで、無理やり顔を上げさせた。

「お前みたいな出来損ないを、よくも今まで養ってやったものだわ。感謝しなさい」

 髪が引っ張られて、頭皮がひりひりと痛む。けれど花凜は、じっと耐えるしかなかった。

「それでも、多少は役に立つじゃない」

 志津が花凜の手首を掴んで、力任せにひねり上げる。
「こうして働かせれば、使用人代が浮くもの。お前の存在意義なんて、それくらいよ」

 関節がきしんで、涙が浮かぶ。けれど声を上げれば、もっとひどいことになる。

「明日の茶会の準備、まだまだ残っているわよ」

「朝まで寝てはダメ。客間の掃除も、庭の手入れも、茶菓子の準備も全て済ませなさい」

 花凜の肩が、重くのしかかった。食事もとらず夜通し働けば、力尽きて動けなくなるだろう。それが狙いなのかもしれない。

 継母たちは花凜が苦しむのを、まるで娯楽を見るかのように、楽しんでいる。

「あ、そうそう」
 乙音が思い出したように手を打つ。

「お客様用の食器も、全部洗っておかなくてはね」
 ばしんと、またほおを叩かれた。今度はより強く、花凜の体がよろめく。

「急ぎなさい。私たちは美容のために、たっぷり睡眠を取らなくてはいけませんの」

「それと」
 志津が最後の一撃を加える。

「明日、もしお客様の前に姿を現したら……分かっているわね?」

 その瞳に、恐ろしい光が宿っていた。過去に一度、客の前に出てしまった時のことを思い出す。あの時の仕打ちは――今でも体にあざが残っている。

 そう言い残して、二人は去って行った。高下駄の音が、廊下に響いて遠ざかる。

 台所に、再び静寂(せいじゃく)が戻る。
 花凜は崩れるように座り込んだ。母のかんざし……もう、二度と戻らない。あの小さな月の飾りも、母の記憶も、全て失ってしまった。

 なぜ、こんなにも辛いのだろう。
 自分だけが、苦しまなければならないのだろう。

 父が生きていた頃は、まだこんなことはなかった。体が弱かった母に代わって、別妻としたやってきた志津とその娘の乙音も、表面上は優しく振る舞っていた。

 母が病いで、そして父が事故で亡くなった途端、手のひらを返したように変わった。
 本性は今の通りだったのだ。父の財産と地位が目当てだった。

 胸の奥で絶望が渦巻いている。
 このまま一生、使用人として生きていくのだろうか。誰からも愛されず(さげす)まれながら。
 だが、月詠み能力のない自分にはそれしか道がないのだ。
 ほおの傷が、痛む。

「お嬢さま……」
 大きな物音とともに後ろから、力無い声が聞こえた。

 振り返ると、老使用人の吉兵が床に倒れている。七十を超えた老人は長年、藤里家に仕えてきた。花凜の父の代からの、数少ない味方だった。

「吉兵さん!」
 花凜は慌てて駆け寄った。
「大丈夫ですか?」

「す、すみません……ちょっと目眩(めまい)が……」
 老人の額は、熱でほてっている。風邪をこじらせているようだった。志津は病気の使用人など気にかけない。働けなくなれば、容赦なく追い出すだろう。

「無理をしてはダメです。お布団で休んでください」
 花凜は吉兵を支えて、使用人部屋まで運んだ。薄い布団しかないが、せめて横になってもらう。ぬれた手拭いで額を冷やしながら、そっと労わった。

「ありがとうございます……お嬢さまは、本当にお優しい……」

 吉兵の瞳に、涙が浮かんだ。
「すみません……こんな私のために……」
「いえ、気にしないでください。早く元気になってくださいね」

 花凜の声が、ふるえた。自分のような出来損ないが、人の世話をするなど烏滸がましいのかもしれない。

「お嬢さま……」
 吉兵が、花凜の手を握る。
「どうか……ご自分を責めないでください……」
 その言葉に、花凜の瞳がうるんだ。

 けれど、現実は変わらない。自分は能力のない、価値のない存在。それは紛れもない事実なのだ。

「お大事に、なさってください」
 花凜はほほえんで、再び台所に戻った。
 夜はまだ深い。やらなければならない仕事が、山のように残っている。でなければ、またひどい仕打ちが待っている。

 ――その時、空気が、ひやりと変わった。

 台所の隅で、何かが(うごめ)いている。
 影が揺らめき、嫌な気配が立ち込めていた。よどんだ負の霊力が、花凜の肌を這うように撫でていく。まるで、屋敷にたまった憎悪や嫉妬が、形を成したかのように。

 誰も気づいていない。

 けれど花凜には、はっきりと感じ取れた。その正体が何なのかは分からないが、決して良いものではない。きっと、あやかしや怨霊の類だろう。人の負の感情に引き寄せられて、屋敷に巣食っているのかもしれない。

 花凜は身を竦ませながらも、そっと手を伸ばした。

 すると――不思議なことに、その邪悪な気配がうすれていく。まるで、花凜の存在に反応したかのように。温かい光が、指先からあふれ出すのを感じた。

「これは……いったい?」

 でも、そんなはずはない。『月欠け』の自分に、そんな力があるわけがない。きっと気のせいだろう。

 月明かりが、小さな窓から差し込んでいる。その光が頬を照らすと、不思議と心が落ち着いた。月だけは、自分を見下したりしない。静かに見守ってくれている。

 いつか――この辛い日々が終わる時は来るのだろうか。

 でも、そんな希望を抱いてはいけない。自分のような出来損ないに、幸せになる資格などないのだから。そう自分に言い聞かせて、花凜はふたたび重いなべを手に取った。

 外では月が銀の(おうぎ)のように、みやびやかに光を広げていた。まもなく訪れる、花凜と清真『二つの魂』の出会いを静かに照らしながら。