清真は重い口を開いた。その記憶は、彼の魂に深く刻まれた呪いだった。
「俺が、十歳の頃のことだ」
声が掠れた。忌まわしい過去が清真の中で、津波となって蘇ってくる。胸の奥で古い傷口が疼く。
清真の母は、月宮家の月の神の末裔で、人間の父と結ばれた美しい女性だった。いつも清真を抱きしめ、子守唄を歌ってくれる人。温かい手で頬を撫で、寝る前には必ず額に口づけをくれたやさしい人だった。
十歳の清真にとって、母は世界そのものだった。太陽よりも暖かく、月よりも美しい存在。
それは『黒月の夜』のことだった。屋敷に強大な怨霊が現れた。その夜、母は清真を庇って怨霊の前に立ちはだかったのだ。
『清真、下がっていなさい』
母上の声が、今でも耳の奥に焼きついている。
我が子を守ろうとする、母の必死な響き。その背中は小さくて細かったのに、清真には世界で一番頼もしく見えた。
幼い清真は震えながらも、必死に力を振り絞った。母上を守らなければ。一番大切な人を失うわけにはいかない。小さな拳を握りしめ、涙を流しながら怨霊に立ち向かった。
「母上を救いたい。その一心で『月光の力』を解放した」
清真の手が震えている。あの時の感覚が蘇る。体の奥底から湧き上がる巨大な力。制御できない激流となって溢れ出した月の光。
「怨霊は倒せた。――だが俺の力は制御を失い、暴走を始めた」
あの恐怖がいまでも胸を締めつける。自分の力が自分の意志を離れ、大切なものを脅かす嵐と化した瞬間の絶望。銀光が部屋中を駆け巡り、止まらなくなった。
止まって、お願いだから止まって! と心の中で叫び続けた。
「母上は、そんな俺を鎮めようと自らの『月詠み』の力を使った。そして優しく抱きしめてくれた。暴走する俺を、命をかけて包み込んでくれた」
母の温かい腕に包まれながら、清真は泣き叫んだ。力を止めてほしいと必死に願った。でも力は暴れ続け、最も大切な人を蝕んでいく。
――守りたい人を、自分の手で傷つけてしまう絶望に打ちのめされた。
「母上を守ろうとした力が、逆に彼女を傷つけてしまった」
清真の頬を、一筋の涙が伝った。
あの日々の記憶が蘇る。母が横たわる床のそばで泣き続けた夜。母の手を握りながら、自分を責め続けた日々。どれほど謝っても、どれほど泣いても、母の体は日に日に弱っていった。母の手は次第に冷たくなり、頬から血の気が失せていった。
「数日後、母上は眠るように息を引き取った。最期の言葉は『……清真、自分を責めてはいけません』と、俺を気遣うものだった」
十歳の清真は、母の枕元でただ泣くことしかできなかった。声が嗄れるまで泣いた。体が震えて立てなくなるまで泣き続けた。世界が終わったのだと本気で思った。
あの時の悲しみが、清真の胸を引き裂く。母上、母上と呼ぶ幼い声が、今でも魂の奥で響いている。二度と帰らない温もりを求めて、空っぽの闇の中で手を伸ばし続けている。
「それから毎年、『黒月の夜』になると俺の力は暴走する。あの夜を再現するかのように」
清真の肩が震えていた。あれから十二年の歳月が流れても、あの夜の絶望は少しも薄れていない。孤独な部屋で、毎年ひとり耐え続けてきた苦悩。血の涙を傷ついた心から流しながら。
誰にも理解されることのない重荷を一人で背負って生きてきた。
清真が花凜を見つめた。その瞳には言葉では表せない苦痛と恐怖、そして深い想いが混在していた。
「――だから、君のような美しく純粋な魂を、この運命に巻き込むわけにはいかない」
清真の声が震える。自分自身への嫌悪と、花凜への想いが胸の中で激しくぶつかり合う。
花凜の瞳に涙が浮かんでいるのを見て、清真の胸がさらに痛んだ。こんな過去を聞かせてしまった。彼女の心を傷つけてしまったのではないか。
「清真さま……お辛かったでしょう」
花凜の震える声に、清真は愕然とした。こんな告白を聞いても、彼女は俺を責めるどころか、優しさを向けてくれるのか。その慈しみが眩しくて、同時に申し訳なくて、胸が張り裂けそうになる。
「――俺からしばらく離れていてくれ。黒月の日が終わるまで」
苦しみに満ちた声だった。大切に思うからこそ、遠ざけなければならない矛盾。しかし花凜は首を振った。
花凜の涙が瞳の中で溢れていた。十歳で母を失った清真の悲しみを、彼女なりに理解しようとしてくれている。その優しさが、清真の凍りついた心を激しく揺さぶった。
「私も清真さまと共に、立ち向かわせて下さい」
「俺の話を、聞いていなかったのか!?」
清真の声が荒くなる。
花凜の純真さが愛おしくて切なくて、そして恐ろしい。こんな小さな体で、どうやって俺の暴走を止められるというのか。
花凜の華奢な体が震えている。それでも彼女は、清真から視線を逸らそうとしない。黒い瞳に宿る強い意志が、清真の魂を射抜いていく。
「あなたがこんな暗く寂しい部屋で、ひとりで苦しみと向き合っておられる。それをただ黙って見ているなんて私にはできません」
花凜の言葉に、清真の胸が激しく波打った。十二年間、誰にも理解されることのなかった孤独。それを受け止めようとしてくれる人がここにいるのだ。
「だが、もし君まで失ったら、俺は――」
言葉が続かなかった。花凜を失う恐怖に、清真の全身が震える。もしも彼女を失えば、きっと自分は狂ってしまう。そして、もはや生きている意味を見失ってしまうだろう。
「私の『真月詠み』の力は、新月にも失われないと教えてくださった。なら清真さまの力を受け止め、黒月にも打ち勝てるかもしれません」
花凜の瞳に宿る優しい決意を見つめ、清真の心が揺れた。彼女の中にこれほどの温かな勇気があったとは。その言葉が心の奥で響き、凍りついた何かが溶け始めるのを感じた。
「一人で苦しまないで欲しいのです」
「私が泣いていた時に、清真さまはいつも私を優しく抱きしめてくださった。今度は私が清真さまのお役に立ちたいのです」
花凜のその言葉が、清真の心を溶かしていく。長年背負い続けた呪いのような孤独が、静かに癒されていくのを感じた。彼女の言葉が、魂の救済となって響いて清真の中に響いていた。
***
ついに『黒月』の夜がやってきた。月が完全に姿を消し、一年で一番暗い夜。清真が最も恐れる日だった。
清真は荒れ果てた部屋で、じっと時を待っていた。その手が微かに震えた。
――この夜の暴走は、清真の命をいつ奪ってもおかしくない。そんな恐怖にずっと十二年間、ひとりで耐え続けてきた。
清真の心は、いつもなら死への恐怖で支配されているはずだった。だが今年は違う、隣には花凜がいた。彼女の存在が、いつもなら恐れに染まる心を不思議なほど落ち着かせていた。守らなければならない人がいる。世界で一番大切な人が自分のそばにいてくれる。
「……そろそろ始まる」
静寂の中、清真は無言で花凜の手を握っていた。その小さく温かい手が、今の彼にとって唯一の支えであり、同時に最大の不安の種でもあった。
時間が過ぎるにつれ、清真の内側で何かが蠢き始めた。まるで獣が檻の中で暴れるように、霊力が制御を離れようとしている。
「花凜……もし無理だと思ったら、すぐに俺の傍から逃げ出してくれ」
清真の声が花凜への安否で震えた。花凜の手を握る力が、わずかに強くなる。
その刹那だった。
清真の体の奥から、銀色の霊力が激流となって湧き上がった。それは彼の意志など関係なく、制御を完全に失って部屋中に乱舞する。
光の嵐が壁を切り裂いた。石の破片が雨のように降り注ぎ、粉々に砕け散る。畳に深い亀裂が走り、天井が軋む音が響く。
あの夜と同じ破壊の力が、再び現れた。
「くっ……!」
清真の全身を苦痛が襲った。骨の髄まで焼けるような痛み。意識が朦朧とし、視界が銀光に染まる。自分が自分でなくなっていく恐怖に、心が引き裂かれそうになった。
だが清真の心に、それ以上の恐怖が突き刺さった。自分の暴走が、花凜を傷つけてしまう。
「清真さま!」
花凜の声が、破壊の嵐の中に響いた。清真は彼女の方を見た。恐怖で震えながらも、彼女は清真のそばを離れようとしない。
清真は必死に花凜から離れようとした。しかし暴走する力が体を支配し、意思とは関係なく霊力が暴れ回る。制御など効くはずもない。
花凜の顔が青ざめ、恐怖に震えているのが見えた。
「花凜、……逃げて……くれ」
暴走は激しくなるばかりだった。意識が遠のき始める。このまま意識を失えば、俺は――。
「清真さま、私はここにいます!」
破壊の轟音の中で、花凜の震える声が響いた。
恐怖で体が震えて普通なら逃げ出すはずなのに、彼女は清真に向かって手を伸ばしている。
清真の心が絶叫した。なぜだ。なぜその小さな体で、この破壊の力に立ち向かおうとする。
暴走する銀光が花凜を襲う中、彼女の手から月光が溢れ出た。それは清真の暴れる力に必死に寄り添い暴走にあらがう。
清真の混濁した意識に、一筋の光が差し込んだ。
花凜が……彼女が俺を……。
だが花凜の小さな体が、清真の暴走する力に耐えきれずに激しく揺れていた。それでも彼女は、必死に月光で清真を包み込もうとしていた。
清真の血の気が完全に引いた。
彼女が傷ついている。またあの時と同じだ。自分の力で、この世で最も大切な人を——。
「だめだ……やめろ……!」
俺の力が、世界で一番守りたい人を苦しめている——。清真の脳裏に、母の最期が蘇った。あのやさしい人の姿。
「やめてくれ……頼む……」
「俺の全てよりも大切な花凜を……」
清真の心に絶望が押し寄せる。この世で最も愛おしい人を、自分の手で失うことの恐怖。
清真の心が悲鳴を上げた。やめろ、やめてくれ。花凜に触れるな。
君だけは、絶対に! 俺の命よりも大切な人を——君だけは。
「俺の力が、君を傷つけるなら……」
清真の瞳に、死を覚悟した狂気が宿った。花凜を失うくらいなら、今すぐ俺が死んだ方がましだ。君さえ無事なら、俺の命など。
「いっそ俺が死んだ方が——」
清真が自らの霊力を心臓に向けようとした瞬間、花凜の魂を震わせる叫びが響いた。
「清真さまっ!」
花凜の震える声が、混濁する清真を貫いた。
彼女が震える手を伸ばし、彼の頬に触れた。その小さく温かな手の感触に、清真の動きが止まった。
「……私の声が聞こえますか?」
「清真さま、お願いです」
花凜の声は恐怖で震えていた。けれど、その中に確かな意志の強さがあった。涙で濡れた瞳で、必死に清真を見つめている。
花凜の手が、清真の手をしっかりと握りしめる。
「私はここにいます。私たちは魂の半身なのでしょう?」
花凜の涙が、清真の手に落ちる。怯えながらも彼女は清真を見つめている。その瞳に宿る想いが、暴走の闇に沈む清真の意識に届いた。
「私がいます。……ずっと、あなたのそばにいます」
花凜が必死に清真を呼び続ける。
ああ、花凜は俺を、こんなにも一生懸命に救おうとしてくれている。
「花凜……」
花凜の言葉が、清真の心の奥底まで響いていく。――そうだ、俺はもう独りではない。
清真の心に、かすかな希望が芽生えた。俺には花凜がいる。
清真は意識を集中させた。暴走する力に飲み込まれそうになりながらも、『花凜への想い』だけは決して手放さなかった。
(君は俺にとって、何よりも大切な存在だ。花凜が、自分の欠けた半身が――隣にいてくれる)
清真は震える手で花凜の手を強く握った。彼女の小さな手が自分の全てを包み込んでくれるほど、こんなにも温かい。
――清真の意識がゆっくりと戻ってきた。暴走の闇から解放された瞬間、彼の頭に最初に浮かんだのは——。
「花凜!」
清真が弾かれるように身を起こし、慌てて花凜を探す。
「花凜、無事か? 怪我はないか?」
清真の手が震えながら花凜の体を確認していく。
「はい、大丈夫です」
花凜が清真を安心させようと頷く。
彼女に外傷がないことを確認すると、清真の肩から力が抜けた。深い安堵のため息が漏れ、緊張で強張っていた表情が緩む。
「無事で……本当に無事で良かった」
清真の声が震える。もし自分の暴走で彼女を傷つけていたら——その想像だけで、胸が締め付けられるようだった。
「俺はこの力を制御することを諦めていた……俺にはもう希望なんてないと思っていた。この呪われた力と共に、一人で朽ち果てていくものだと」
清真の瞳に、かすかな光が戻る。
「……でも、どんな闇も君となら恐れない。花凜は俺の光だ」
君となら乗り越えられる。清真は花凜の手をそっと取る。その温もりが、彼の心に新たな気づきをもたらした。
――清真の心が決まった瞬間、それは起こった。
二人の力が共鳴し、銀光と月光が美しく調和し始めた。光は互いを包み込み、踊るように融合していく。
陰と陽、月の魂の力が一つとなったとき、世界が息を止めたかのようだった。
清真の暴走していた力が徐々に静まり、代わりに温かな光が二人を包み込んだ。
部屋の破壊は止まり、深い静寂がゆっくりと空間を満たしていった。清真の荒れた呼吸が落ち着き、狂気の色が消えていく。花凜の放つ月光も、今は穏やかに二人を照らしていた。
そして、さらに神秘的な現象が起こった。二人の周りに、淡い月の光が舞い始めたのだ。それは幾千もの蝶が羽ばたくような、繊細で美しい光の粒子だった。
「これは……」
「私たちの力が……」
清真の声には畏敬の念が滲んでいた。花凜も言葉を失い、目の前で起きている現象に見入っていた。
二人の力が完全に調和し、魂の深いところで一つになっていくのを感じる。
長い歳月、彼の心を闇で覆い、苦しめ続けてきた悪夢が、ようやく終わりを告げようとしていた。
「君がいなければ、俺は永遠に闇の中を彷徨っていただろう」
もはや黒月の夜も、清真にとって恐怖ではなくなった。清真の瞳が潤む。長年の恐怖と深い孤独から、ついに解放されたのだ。
「この夜が来るたびに母を思い出し、自分を責め続けてきた。だが俺はもう二度と、この夜を恐れることはない」
清真が花凜をぎゅっと強く抱きしめる。その腕には、もう迷いはなかった。花凜もそっと彼の胸に顔を埋め、その温もりに全身を預けた。二人の心臓の鼓動が重なり合い、まるで一つの命が脈打つように、同じリズムを刻んでいる。生きている。二人はともに生きている。
「清真さま……あなたが無事で、本当に嬉しいです!」
「花凜が……俺のそばにいてくれたから乗り切ることができた」
静寂の中で、清真と花凜は互いの瞳を見つめあっていた。言葉では表現できない深い感動が、胸の奥で静かに燃え続けている。
「この夜のことを俺は忘れない……」
「私もです……清真さま」
花凜の声も揺れていた。彼は深く理解する——清真の暴走する力を受け止めた時、彼女もまた清真に支えられていたことを。自分が彼女を必要とするように、彼女もまた自分を必要としてくれているのだと。
二人は互いの存在によって、本当の強さを手にしていたのだ。
「花凜……」
清真の花凜への想いが、彼の心の奥底から湧き上がり、胸を熱く焦がしていく。
「感じてほしい、この鼓動を」
清真は花凜の手を取り、自分の胸元へと導いた。その下で力強く脈打つ心臓は、まるで彼女の名を呼び続けているかのようだった。
「この心の底から、魂の奥底から……俺は君を愛するために生まれてきたんだ」
その言葉には偽りがなかった。長い時を経て再会した魂の叫びだった。
「花凜と共にいられることが、俺の生きる意味だ」
二人は言葉を超えた思いで強く抱き合った。その抱擁には、もう二度と離れたくないという願いが込められていた。
「君のすべてが愛おしい……」
清真の指先が、花凜の頬をそっと撫でる。
「花凜の優しい瞳。人を思いやる温かな心。そして……君が時々見せる、少し困ったような表情も」
清真の唇に、柔らかな微笑みが浮かぶ。
「君の声も、笑顔も、涙も……すべてが俺には宝物だ。君の存在そのものが、俺の世界を照らす太陽だ」
清真が花凜の手を取った。
「これまで俺は、生きている実感が持てなかった。だが君といると、俺の心に太陽が昇る。君が俺に与えてくれる温もりは、どんな光よりも眩しく、美しい」
清真は花凜の顔をそっと見つめた。彼女の頬は、淡い桜色に染まっている。その黒い瞳には、彼への想いが星のように煌めいていた。
花凜の唇が、かすかに震えているのに気づく。それは恐怖ではなく、初々しい緊張からくるものだった。
「花凜……」
清真の声は、これまでで最も優しく響いた。彼の指先が、羽毛のように軽やかに花凜の頬を撫でる。その肌の柔らかさが、指先に甘い痺れを伝えた。
「君を愛している」
その言葉と共に、清真はゆっくりと顔を近づけた。花凜の息遣いが、彼の唇に温かく触れる。彼女の瞳が閉じられるのを見て、清真の胸が高鳴った。
そして——。
清真の唇が、花凜の唇にそっと触れた。
それは花びらに触れるような、慎重で優しい口づけだった。花凜の唇は、春の吐息のように柔らかく、ほのかに甘い香りがした。
清真の心臓が、激しく鼓動を打つ。これまで感じたことのない、純粋で深い喜びが全身を駆け巡った。花凜の唇から伝わる温もりが、彼の魂の奥底まで染み渡っていく。
時が止まったかのような、永遠にも思える瞬間。
やがて清真は、名残惜しそうに唇を離した。花凜の瞳がゆっくりと開かれ、そこには涙が浮かんでいた。それはあふれるほどの幸福の涙だった。
花凜の声は、羽音のように小さく震えていた。
「ああ、俺の大切な人……」
「……清真さま」
清真は花凜の額にそっと唇を寄せ、もう一度優しく口づけた。
清真と花凜は魂の半身。それぞれが不完全だった存在が、今ようやく真の姿を取り戻していく。彼らはお互いの存在の尊さを、全身全霊で感じていた。
二人の間に、言葉にならない想いが流れる。それは互いを求める心だった。朝日に照らされた二人の姿は、まるで古の神話の一場面のように美しく、神秘的だった。
――欠けていた月が満月になるように。二つの光が一つになり、真の輝きを放つように。
「俺が、十歳の頃のことだ」
声が掠れた。忌まわしい過去が清真の中で、津波となって蘇ってくる。胸の奥で古い傷口が疼く。
清真の母は、月宮家の月の神の末裔で、人間の父と結ばれた美しい女性だった。いつも清真を抱きしめ、子守唄を歌ってくれる人。温かい手で頬を撫で、寝る前には必ず額に口づけをくれたやさしい人だった。
十歳の清真にとって、母は世界そのものだった。太陽よりも暖かく、月よりも美しい存在。
それは『黒月の夜』のことだった。屋敷に強大な怨霊が現れた。その夜、母は清真を庇って怨霊の前に立ちはだかったのだ。
『清真、下がっていなさい』
母上の声が、今でも耳の奥に焼きついている。
我が子を守ろうとする、母の必死な響き。その背中は小さくて細かったのに、清真には世界で一番頼もしく見えた。
幼い清真は震えながらも、必死に力を振り絞った。母上を守らなければ。一番大切な人を失うわけにはいかない。小さな拳を握りしめ、涙を流しながら怨霊に立ち向かった。
「母上を救いたい。その一心で『月光の力』を解放した」
清真の手が震えている。あの時の感覚が蘇る。体の奥底から湧き上がる巨大な力。制御できない激流となって溢れ出した月の光。
「怨霊は倒せた。――だが俺の力は制御を失い、暴走を始めた」
あの恐怖がいまでも胸を締めつける。自分の力が自分の意志を離れ、大切なものを脅かす嵐と化した瞬間の絶望。銀光が部屋中を駆け巡り、止まらなくなった。
止まって、お願いだから止まって! と心の中で叫び続けた。
「母上は、そんな俺を鎮めようと自らの『月詠み』の力を使った。そして優しく抱きしめてくれた。暴走する俺を、命をかけて包み込んでくれた」
母の温かい腕に包まれながら、清真は泣き叫んだ。力を止めてほしいと必死に願った。でも力は暴れ続け、最も大切な人を蝕んでいく。
――守りたい人を、自分の手で傷つけてしまう絶望に打ちのめされた。
「母上を守ろうとした力が、逆に彼女を傷つけてしまった」
清真の頬を、一筋の涙が伝った。
あの日々の記憶が蘇る。母が横たわる床のそばで泣き続けた夜。母の手を握りながら、自分を責め続けた日々。どれほど謝っても、どれほど泣いても、母の体は日に日に弱っていった。母の手は次第に冷たくなり、頬から血の気が失せていった。
「数日後、母上は眠るように息を引き取った。最期の言葉は『……清真、自分を責めてはいけません』と、俺を気遣うものだった」
十歳の清真は、母の枕元でただ泣くことしかできなかった。声が嗄れるまで泣いた。体が震えて立てなくなるまで泣き続けた。世界が終わったのだと本気で思った。
あの時の悲しみが、清真の胸を引き裂く。母上、母上と呼ぶ幼い声が、今でも魂の奥で響いている。二度と帰らない温もりを求めて、空っぽの闇の中で手を伸ばし続けている。
「それから毎年、『黒月の夜』になると俺の力は暴走する。あの夜を再現するかのように」
清真の肩が震えていた。あれから十二年の歳月が流れても、あの夜の絶望は少しも薄れていない。孤独な部屋で、毎年ひとり耐え続けてきた苦悩。血の涙を傷ついた心から流しながら。
誰にも理解されることのない重荷を一人で背負って生きてきた。
清真が花凜を見つめた。その瞳には言葉では表せない苦痛と恐怖、そして深い想いが混在していた。
「――だから、君のような美しく純粋な魂を、この運命に巻き込むわけにはいかない」
清真の声が震える。自分自身への嫌悪と、花凜への想いが胸の中で激しくぶつかり合う。
花凜の瞳に涙が浮かんでいるのを見て、清真の胸がさらに痛んだ。こんな過去を聞かせてしまった。彼女の心を傷つけてしまったのではないか。
「清真さま……お辛かったでしょう」
花凜の震える声に、清真は愕然とした。こんな告白を聞いても、彼女は俺を責めるどころか、優しさを向けてくれるのか。その慈しみが眩しくて、同時に申し訳なくて、胸が張り裂けそうになる。
「――俺からしばらく離れていてくれ。黒月の日が終わるまで」
苦しみに満ちた声だった。大切に思うからこそ、遠ざけなければならない矛盾。しかし花凜は首を振った。
花凜の涙が瞳の中で溢れていた。十歳で母を失った清真の悲しみを、彼女なりに理解しようとしてくれている。その優しさが、清真の凍りついた心を激しく揺さぶった。
「私も清真さまと共に、立ち向かわせて下さい」
「俺の話を、聞いていなかったのか!?」
清真の声が荒くなる。
花凜の純真さが愛おしくて切なくて、そして恐ろしい。こんな小さな体で、どうやって俺の暴走を止められるというのか。
花凜の華奢な体が震えている。それでも彼女は、清真から視線を逸らそうとしない。黒い瞳に宿る強い意志が、清真の魂を射抜いていく。
「あなたがこんな暗く寂しい部屋で、ひとりで苦しみと向き合っておられる。それをただ黙って見ているなんて私にはできません」
花凜の言葉に、清真の胸が激しく波打った。十二年間、誰にも理解されることのなかった孤独。それを受け止めようとしてくれる人がここにいるのだ。
「だが、もし君まで失ったら、俺は――」
言葉が続かなかった。花凜を失う恐怖に、清真の全身が震える。もしも彼女を失えば、きっと自分は狂ってしまう。そして、もはや生きている意味を見失ってしまうだろう。
「私の『真月詠み』の力は、新月にも失われないと教えてくださった。なら清真さまの力を受け止め、黒月にも打ち勝てるかもしれません」
花凜の瞳に宿る優しい決意を見つめ、清真の心が揺れた。彼女の中にこれほどの温かな勇気があったとは。その言葉が心の奥で響き、凍りついた何かが溶け始めるのを感じた。
「一人で苦しまないで欲しいのです」
「私が泣いていた時に、清真さまはいつも私を優しく抱きしめてくださった。今度は私が清真さまのお役に立ちたいのです」
花凜のその言葉が、清真の心を溶かしていく。長年背負い続けた呪いのような孤独が、静かに癒されていくのを感じた。彼女の言葉が、魂の救済となって響いて清真の中に響いていた。
***
ついに『黒月』の夜がやってきた。月が完全に姿を消し、一年で一番暗い夜。清真が最も恐れる日だった。
清真は荒れ果てた部屋で、じっと時を待っていた。その手が微かに震えた。
――この夜の暴走は、清真の命をいつ奪ってもおかしくない。そんな恐怖にずっと十二年間、ひとりで耐え続けてきた。
清真の心は、いつもなら死への恐怖で支配されているはずだった。だが今年は違う、隣には花凜がいた。彼女の存在が、いつもなら恐れに染まる心を不思議なほど落ち着かせていた。守らなければならない人がいる。世界で一番大切な人が自分のそばにいてくれる。
「……そろそろ始まる」
静寂の中、清真は無言で花凜の手を握っていた。その小さく温かい手が、今の彼にとって唯一の支えであり、同時に最大の不安の種でもあった。
時間が過ぎるにつれ、清真の内側で何かが蠢き始めた。まるで獣が檻の中で暴れるように、霊力が制御を離れようとしている。
「花凜……もし無理だと思ったら、すぐに俺の傍から逃げ出してくれ」
清真の声が花凜への安否で震えた。花凜の手を握る力が、わずかに強くなる。
その刹那だった。
清真の体の奥から、銀色の霊力が激流となって湧き上がった。それは彼の意志など関係なく、制御を完全に失って部屋中に乱舞する。
光の嵐が壁を切り裂いた。石の破片が雨のように降り注ぎ、粉々に砕け散る。畳に深い亀裂が走り、天井が軋む音が響く。
あの夜と同じ破壊の力が、再び現れた。
「くっ……!」
清真の全身を苦痛が襲った。骨の髄まで焼けるような痛み。意識が朦朧とし、視界が銀光に染まる。自分が自分でなくなっていく恐怖に、心が引き裂かれそうになった。
だが清真の心に、それ以上の恐怖が突き刺さった。自分の暴走が、花凜を傷つけてしまう。
「清真さま!」
花凜の声が、破壊の嵐の中に響いた。清真は彼女の方を見た。恐怖で震えながらも、彼女は清真のそばを離れようとしない。
清真は必死に花凜から離れようとした。しかし暴走する力が体を支配し、意思とは関係なく霊力が暴れ回る。制御など効くはずもない。
花凜の顔が青ざめ、恐怖に震えているのが見えた。
「花凜、……逃げて……くれ」
暴走は激しくなるばかりだった。意識が遠のき始める。このまま意識を失えば、俺は――。
「清真さま、私はここにいます!」
破壊の轟音の中で、花凜の震える声が響いた。
恐怖で体が震えて普通なら逃げ出すはずなのに、彼女は清真に向かって手を伸ばしている。
清真の心が絶叫した。なぜだ。なぜその小さな体で、この破壊の力に立ち向かおうとする。
暴走する銀光が花凜を襲う中、彼女の手から月光が溢れ出た。それは清真の暴れる力に必死に寄り添い暴走にあらがう。
清真の混濁した意識に、一筋の光が差し込んだ。
花凜が……彼女が俺を……。
だが花凜の小さな体が、清真の暴走する力に耐えきれずに激しく揺れていた。それでも彼女は、必死に月光で清真を包み込もうとしていた。
清真の血の気が完全に引いた。
彼女が傷ついている。またあの時と同じだ。自分の力で、この世で最も大切な人を——。
「だめだ……やめろ……!」
俺の力が、世界で一番守りたい人を苦しめている——。清真の脳裏に、母の最期が蘇った。あのやさしい人の姿。
「やめてくれ……頼む……」
「俺の全てよりも大切な花凜を……」
清真の心に絶望が押し寄せる。この世で最も愛おしい人を、自分の手で失うことの恐怖。
清真の心が悲鳴を上げた。やめろ、やめてくれ。花凜に触れるな。
君だけは、絶対に! 俺の命よりも大切な人を——君だけは。
「俺の力が、君を傷つけるなら……」
清真の瞳に、死を覚悟した狂気が宿った。花凜を失うくらいなら、今すぐ俺が死んだ方がましだ。君さえ無事なら、俺の命など。
「いっそ俺が死んだ方が——」
清真が自らの霊力を心臓に向けようとした瞬間、花凜の魂を震わせる叫びが響いた。
「清真さまっ!」
花凜の震える声が、混濁する清真を貫いた。
彼女が震える手を伸ばし、彼の頬に触れた。その小さく温かな手の感触に、清真の動きが止まった。
「……私の声が聞こえますか?」
「清真さま、お願いです」
花凜の声は恐怖で震えていた。けれど、その中に確かな意志の強さがあった。涙で濡れた瞳で、必死に清真を見つめている。
花凜の手が、清真の手をしっかりと握りしめる。
「私はここにいます。私たちは魂の半身なのでしょう?」
花凜の涙が、清真の手に落ちる。怯えながらも彼女は清真を見つめている。その瞳に宿る想いが、暴走の闇に沈む清真の意識に届いた。
「私がいます。……ずっと、あなたのそばにいます」
花凜が必死に清真を呼び続ける。
ああ、花凜は俺を、こんなにも一生懸命に救おうとしてくれている。
「花凜……」
花凜の言葉が、清真の心の奥底まで響いていく。――そうだ、俺はもう独りではない。
清真の心に、かすかな希望が芽生えた。俺には花凜がいる。
清真は意識を集中させた。暴走する力に飲み込まれそうになりながらも、『花凜への想い』だけは決して手放さなかった。
(君は俺にとって、何よりも大切な存在だ。花凜が、自分の欠けた半身が――隣にいてくれる)
清真は震える手で花凜の手を強く握った。彼女の小さな手が自分の全てを包み込んでくれるほど、こんなにも温かい。
――清真の意識がゆっくりと戻ってきた。暴走の闇から解放された瞬間、彼の頭に最初に浮かんだのは——。
「花凜!」
清真が弾かれるように身を起こし、慌てて花凜を探す。
「花凜、無事か? 怪我はないか?」
清真の手が震えながら花凜の体を確認していく。
「はい、大丈夫です」
花凜が清真を安心させようと頷く。
彼女に外傷がないことを確認すると、清真の肩から力が抜けた。深い安堵のため息が漏れ、緊張で強張っていた表情が緩む。
「無事で……本当に無事で良かった」
清真の声が震える。もし自分の暴走で彼女を傷つけていたら——その想像だけで、胸が締め付けられるようだった。
「俺はこの力を制御することを諦めていた……俺にはもう希望なんてないと思っていた。この呪われた力と共に、一人で朽ち果てていくものだと」
清真の瞳に、かすかな光が戻る。
「……でも、どんな闇も君となら恐れない。花凜は俺の光だ」
君となら乗り越えられる。清真は花凜の手をそっと取る。その温もりが、彼の心に新たな気づきをもたらした。
――清真の心が決まった瞬間、それは起こった。
二人の力が共鳴し、銀光と月光が美しく調和し始めた。光は互いを包み込み、踊るように融合していく。
陰と陽、月の魂の力が一つとなったとき、世界が息を止めたかのようだった。
清真の暴走していた力が徐々に静まり、代わりに温かな光が二人を包み込んだ。
部屋の破壊は止まり、深い静寂がゆっくりと空間を満たしていった。清真の荒れた呼吸が落ち着き、狂気の色が消えていく。花凜の放つ月光も、今は穏やかに二人を照らしていた。
そして、さらに神秘的な現象が起こった。二人の周りに、淡い月の光が舞い始めたのだ。それは幾千もの蝶が羽ばたくような、繊細で美しい光の粒子だった。
「これは……」
「私たちの力が……」
清真の声には畏敬の念が滲んでいた。花凜も言葉を失い、目の前で起きている現象に見入っていた。
二人の力が完全に調和し、魂の深いところで一つになっていくのを感じる。
長い歳月、彼の心を闇で覆い、苦しめ続けてきた悪夢が、ようやく終わりを告げようとしていた。
「君がいなければ、俺は永遠に闇の中を彷徨っていただろう」
もはや黒月の夜も、清真にとって恐怖ではなくなった。清真の瞳が潤む。長年の恐怖と深い孤独から、ついに解放されたのだ。
「この夜が来るたびに母を思い出し、自分を責め続けてきた。だが俺はもう二度と、この夜を恐れることはない」
清真が花凜をぎゅっと強く抱きしめる。その腕には、もう迷いはなかった。花凜もそっと彼の胸に顔を埋め、その温もりに全身を預けた。二人の心臓の鼓動が重なり合い、まるで一つの命が脈打つように、同じリズムを刻んでいる。生きている。二人はともに生きている。
「清真さま……あなたが無事で、本当に嬉しいです!」
「花凜が……俺のそばにいてくれたから乗り切ることができた」
静寂の中で、清真と花凜は互いの瞳を見つめあっていた。言葉では表現できない深い感動が、胸の奥で静かに燃え続けている。
「この夜のことを俺は忘れない……」
「私もです……清真さま」
花凜の声も揺れていた。彼は深く理解する——清真の暴走する力を受け止めた時、彼女もまた清真に支えられていたことを。自分が彼女を必要とするように、彼女もまた自分を必要としてくれているのだと。
二人は互いの存在によって、本当の強さを手にしていたのだ。
「花凜……」
清真の花凜への想いが、彼の心の奥底から湧き上がり、胸を熱く焦がしていく。
「感じてほしい、この鼓動を」
清真は花凜の手を取り、自分の胸元へと導いた。その下で力強く脈打つ心臓は、まるで彼女の名を呼び続けているかのようだった。
「この心の底から、魂の奥底から……俺は君を愛するために生まれてきたんだ」
その言葉には偽りがなかった。長い時を経て再会した魂の叫びだった。
「花凜と共にいられることが、俺の生きる意味だ」
二人は言葉を超えた思いで強く抱き合った。その抱擁には、もう二度と離れたくないという願いが込められていた。
「君のすべてが愛おしい……」
清真の指先が、花凜の頬をそっと撫でる。
「花凜の優しい瞳。人を思いやる温かな心。そして……君が時々見せる、少し困ったような表情も」
清真の唇に、柔らかな微笑みが浮かぶ。
「君の声も、笑顔も、涙も……すべてが俺には宝物だ。君の存在そのものが、俺の世界を照らす太陽だ」
清真が花凜の手を取った。
「これまで俺は、生きている実感が持てなかった。だが君といると、俺の心に太陽が昇る。君が俺に与えてくれる温もりは、どんな光よりも眩しく、美しい」
清真は花凜の顔をそっと見つめた。彼女の頬は、淡い桜色に染まっている。その黒い瞳には、彼への想いが星のように煌めいていた。
花凜の唇が、かすかに震えているのに気づく。それは恐怖ではなく、初々しい緊張からくるものだった。
「花凜……」
清真の声は、これまでで最も優しく響いた。彼の指先が、羽毛のように軽やかに花凜の頬を撫でる。その肌の柔らかさが、指先に甘い痺れを伝えた。
「君を愛している」
その言葉と共に、清真はゆっくりと顔を近づけた。花凜の息遣いが、彼の唇に温かく触れる。彼女の瞳が閉じられるのを見て、清真の胸が高鳴った。
そして——。
清真の唇が、花凜の唇にそっと触れた。
それは花びらに触れるような、慎重で優しい口づけだった。花凜の唇は、春の吐息のように柔らかく、ほのかに甘い香りがした。
清真の心臓が、激しく鼓動を打つ。これまで感じたことのない、純粋で深い喜びが全身を駆け巡った。花凜の唇から伝わる温もりが、彼の魂の奥底まで染み渡っていく。
時が止まったかのような、永遠にも思える瞬間。
やがて清真は、名残惜しそうに唇を離した。花凜の瞳がゆっくりと開かれ、そこには涙が浮かんでいた。それはあふれるほどの幸福の涙だった。
花凜の声は、羽音のように小さく震えていた。
「ああ、俺の大切な人……」
「……清真さま」
清真は花凜の額にそっと唇を寄せ、もう一度優しく口づけた。
清真と花凜は魂の半身。それぞれが不完全だった存在が、今ようやく真の姿を取り戻していく。彼らはお互いの存在の尊さを、全身全霊で感じていた。
二人の間に、言葉にならない想いが流れる。それは互いを求める心だった。朝日に照らされた二人の姿は、まるで古の神話の一場面のように美しく、神秘的だった。
――欠けていた月が満月になるように。二つの光が一つになり、真の輝きを放つように。
