夕暮れが、月宮邸の庭を琥珀色に染める。遠くから馬の蹄の音が響き、花凜の胸がはずんだ。その音は、彼女の胸にたしかな喜びをもたらす音色だった。
「清真さまが、おかえりに……」
門がひらき、月光のように輝く銀髪の青年が姿をあらわした。夕陽に照らされた彼の姿は、月から降り立った神のように美しい。蒼い瞳は宵闇より深く、花凜の心を一瞬でとらえる。
「おかえりなさい、清真さま!」
清真の表情が、彼女を見た瞬間にやわらいだ。それは花凜だけが知る、特別な変化だった。
「ただいま、花凜」
清真の低くひびく声音に、花凜の心が震えた。彼の声は彼女の全身をやさしく包み込んでくれる。
「今日も、修練を始めようか」
月宮邸の中庭へと歩む。これが二人の大切な日課となっていた。花凜の『真月詠み』の力を制御するための修練。清真の指導のもと、花凜の能力は日ごとに花開いていった。
青石を敷き詰めた庭の中央で、花凜は静かに目を閉じる。手を優しく開き、そこに意識を集中させた。
「呼吸を整えて、月の光を思い出すんだ」
清真の静かな声が彼女をみちびく。
花凜の手ひらに、ほのかな銀色の光が宿り始めた。やがて、月光を閉じ込めたかのような、美しい光の玉が形作られた。その光は花凜の内側から溢れ出る純粋な力だった。きよらかで、穢れを知らない月の光。
「上手くなったな、花凜」
清真の声には、彼女の鍛練を指導する師としての誇らしさと、愛する人への慈しみがかさなり合っている。
「ありがとうございます。清真さまが丁寧に教えて下さるおかげです」
花凜の頬が桜色に染まる。清真に褒められることが、彼女にとって何より嬉しいことだった。こうして清真と共にいるだけで、心が満ち足りる。
だが急に空気が変わった。花凜の手の上の光が、ぱあっと突然強まった。銀色の月光が鮮やかに輝き、清真の霊力と共鳴するように波動を放つ。
一瞬、清真の瞳が鋭く光った。周囲の空気が張り詰め、沈黙が庭を支配する。
「花凜……!」
清真が、慌てたように手を引いた。その動きに花凜の心が揺れる。彼女の手のひらの月光が消え、闇が再び二人を包み込んだ。
「清真さま?」
花凜は困惑した表情で、清真を見つめた。彼の顔に、見たことのない緊張が走っていた。
「どうされたのですか?」
「いや……今日はここまでにしよう」
清真の声は、冷たく切り詰められた響きを持っていた。
修練を終えた清真は、深い紫に染まりゆく空を見上げた。そこに浮かぶ『細い月』を見つめる横顔に、深い憂いが刻まれている。
「もうすぐ『黒月の夜』が来る……」
『黒月』——その独り言のようなつぶやきに、花凜の背筋に冷たいものが走る。彼に向けて一歩踏み出した瞬間、その足音に清真が振り返った。
そして――なぜか花凜をはっきりと避けるように身を引いた。
その仕草に、花凜の胸にするどい痛みが走る。
「清真さま……なぜ」
清真の手がわずかに震えていることに、花凜は気づいた。そして彼の指先から、月光のような銀色の霊力が漏れ出している。
「花凜……」
清真の声が、苦しげに震えた。彼は深い溜息をつくと、覚悟を決めたように言葉を紡いだ。
「君には隠し事をしたくない。だから、正直に伝えよう」
「今日からしばらくは……俺に近寄らないでくれ」
その言葉は、一陣の冷風となって花凜をおそった。彼女の顔から血の気が引いていく。
「え……?」
花凜の顔があおざめた。清真の言葉に理解が追いつかない。突然の宣告に世界が足元から崩れ落ちていくような感覚。
清真は彼女の動揺を見て、さらに苦しそうな表情を浮かべた。
「でも、なぜですか? 私、何か間違ったことを……」
花凜の声が途切れる。言葉が見つからない。どれほど考えても、彼女には理由がわからなかった。
「君は何も悪くない」
「だが……俺が君を傷つけるかもしれない。それだけは、絶対に避けたいんだ」
清真は苦悶に顔をゆがめた。彼の瞳に、初めて見る暗い影が宿っていた。
「頼む。今だけは俺を信じて……離れていてくれ」
そう言うと、清真は苦痛の混じった表情で、屋敷の奥へと歩いていった。
花凜は一人庭に残された。夜の冷気が素肌を刺し、彼女の身体を震わせる。だが、それよりも心の痛みの方がずっと鋭かった。
その夜、花凜は庭の縁側にひとり座っていた。清真の辛そうな表情が脳裏から離れなかった。花凜は自分の両手を見つめた。修練の時に清真と共有した温もりが、まだこの手に感じられる。
廊下から規則正しい足音が近づいてきた。柔らかな明かりと共に、葵の姿が現れる。夜回りの途中だったのだろう。砂利を踏む足音とともに葵の声が響く。
「花凜さま、こんな時間にどうされたのですか?」
「葵さん……」
葵の声はおだやかで、心配の色を帯びていた。その温かな存在感に、花凜の緊張が少しやわらいだ。葵は彼女の様子を見て、静かに隣に腰を下ろした。ちょうちんの灯りが、二人の表情をあわく照らしている。
「清真さまが、近づかないでくれとおっしゃって」
声に出すと、その言葉がよりいっそう現実味を帯びて花凜の心を刺した。
「葵さん……私、何かしてしまったのでしょうか」
花凜は、震える手で自分の着物をつよく握りしめた。
「――いいえ、決してそうではありません」
葵の瞳に慈愛が宿り、月明かりの下でその表情がより優しく見えた。長年、清真に仕えてきた葵だからこそ知る、主への深い理解がそのまなざしに込められている。
「清真さまは、こういった面では本当に不器用でいらっしゃる。――毎年この時期は、大切な方々をお守りするために距離を置かれるのです」
葵の言葉に、花凜の眉間に困惑が寄った。
「なぜですか……?」
その問いに、葵は少し躊躇いながらも答えた。
「理由は私の口から申し上げるより、清真さまからお聞きになられる方がよろしいでしょう」
「ただ、これだけはお伝えさせてください。清真さまは花凜さまを何より大切に思っておられるから、ご自身から遠ざけようとされているのです」
その言葉に、花凜の胸の痛みが少しだけ和らいだ。けれど同時に、新たな疑問が湧き上がる。なぜ距離を置こうとするのか。清真の行動の真意を知りたい。
「葵さん、教えてくださってありがとうございます」
「清真さまは、どちらに……?」
「いまは書斎に籠られておられるはずです」
葵の言葉に、花凜は頷いた。全ての理由がわからないまま、ただ清真への心配だけが募っていった。
書斎へと向かう廊下は、いつもより長く感じられた。月宮邸の廊下は、夜の静けさに包まれている。書斎の扉の前に辿り着いた時、彼女はそこに小さな白い影を見つけた。雪のように白い毛並みの猫ユキが、扉の前で丸くなっている。その小さな背中に、主への深い心配が表れていた。
「姫さま……」
ユキは花凜の気配に気づくと、悲しみを湛えた紅玉の瞳で彼女を見上げた。
「ユキちゃん、どうしたの?」
花凜はそっとしゃがみ込み、白猫の小さな頭を優しく撫でた。その毛並みは絹のように滑らかだったが、小さな体は不安に震えていた。
「主さまは長い間、この時期を一人で耐えてこられました。どうか……どうか主さまをお見捨てにならないでください」
ユキの声は、深い悲しみに震えていた。その紅玉のような瞳に、長い年月の記憶と痛みが刻まれている。
「主さまの心を救うことができるのは、姫さまだけなのです」
ユキの声には、清真への深い忠誠と、花凜への切実な願いが込められていた。清真の式神でさえもが、これほどまでに主の苦悩を案じている。
(一体、清真さまには何があるのだろう)
花凜は静かに扉を見つめた。その向こうにいる清真が、何と闘っているのか。清真に拒まれるかもしれない。それでも、彼が一人で苦しんでいることを見過ごすことはできなかった。
彼女は立ち上がり、深呼吸をした。そして、静かに扉をノックする手を上げた。
重厚な樫の扉越しに、清真の息遣いがわずかに響く。花凜の胸で心臓が激しく脈打ち、喉の奥で鼓動の音が反響していた。震える指先がそっと冷たい木目に触れる。この向こうにいる人を、どうにかして支えたかった。
「清真さま」
静かにノックを響かせると、永遠にも感じられる重い静寂が廊下を包んだ。やがて、苦しげな息が扉の隙間から漏れてくる。
「入らないでくれ、花凜」
その声に込められた痛みが胸を貫いた。目の奥で熱いものが込み上げる。けれど、ここで引き下がるわけにはいかない。清真が抱える重荷を、ひとりで背負わせてしまうわけにはいかなかった。
「清真さま……お話をお聞かせいただけないでしょうか?」
扉の向こうで深いため息が響いた。たくさんの言葉を飲み込もうとする、苦しげな音。触れることのできない距離にいる清真へ、せめてこの想いが届いてほしかった。
「だめだ。俺の言う通りにしばらく離れていてくれ」
清真の声にある震えを、花凜は聞き逃さなかった。その微かな揺らぎに宿る恐怖が、厚い木の板を越えて痛いほど伝わってくる。
「君を傷つけることが怖い……そして、俺を見る君の目が変わってしまうことが怖いんだ……頼む」
ついに零れ落ちた本音に、花凜の瞳が潤んだ。清真の優しさが胸の奥で切なく響く。
「でも私は、清真さまに傷つけられることより、清真さまから離れることの方がずっと辛いです……」
自分でも驚くほどはっきりとした声だった。心の奥底から湧き上がる想いが、すべての迷いを押し流していく。清真を支えたいという気持ちが胸を満たし、恐怖さえも包み込んでしまった。
長い、長い静寂。
花凜の鼓動だけが時を刻んでいた。やがて、扉の向こうで金具の軋む音がする。そして――。
ゆっくりと扉が開いた。
「花凜……」
現れた清真の姿に、花凜は息を呑んだ。いつもの美しい面影に、深い苦悩の影が刻まれている。その表情には見たことのない追い詰められた色があった。
「本当に……君は後悔しないのか?」
清真の声は祈りに似た響きを帯びていた。花凜は一瞬の迷いもなく答える。
「はい」
即座の返答に、清真の瞳が大きく揺れた。信じ難いという驚きと、かすかな希望の光が混ざり合う。そして何かを決心したような深い息を吐いた。
「わかった……では、ついてきてくれ。君に俺のすべてを見せよう」
清真が歩き始める。花凜はその背中を見つめながら後を追った。歩くたびに揺れる長い銀髪が月光のようだった。
廊下を進むにつれ、空気が重く沈んでいく。美しい装飾も柔らかな照明も次第に姿を消し、やがて無骨な石壁に変わった。屋敷の美しさから切り離された、別世界への入り口。花凜の肌に、ひんやりとした冷気が纏わりつく。
足音だけが静寂を破って響いている。花凜の胸は不安と決意で激しく波打っていた。大切な人の抱える秘密を知ることへの恐れと、それでも支えたいという強い願いが交錯する。
ついに、清真が立ち止まった。目の前には他と明らかに異なる重厚な『鉄の扉』があった。表面には複雑な紋様が刻まれ、何かを封じ込めるための結界のように見えた。
「ここだ……もうすぐ俺は、ここへ籠って一夜を過ごす」
清真の手が扉に触れる。その指先の震えを、花凜は目に停めた。どれほどの苦痛がこの扉の向こうに待っているのだろう。
重い鉄の扉が、ぎぎぃと音をあげて開く。
花凜は思わず息を止める。
部屋の中は、激しい戦場のような跡だった。石壁に深々と刻まれた無数の傷痕。畳が所々めくれ上がり、下地が露出している。焼け焦げて黒くなった床。空気さえも重く淀み、破壊の痕跡がここで何が起こったのかを物語っていた。
「これが……俺の正体だ」
清真の声が震えと自嘲に染まった。
「ここで毎年、俺は己の力に支配される」
花凜の全身を恐怖が駆け抜けた。それでも、清真から目を逸らすことはできなかった。
「どうか……理由をお話しください」
震え声で紡いだ言葉に、清真が振り返る。その蒼い瞳に宿っているのは、言葉では表せないほど深い痛みだった。長い年月が刻んだ、癒えることのない傷がその眼差しにはあった。
「年に一度訪れる『黒月の夜』。この地上から最も月が離れる、最大の『新月』の夜に……俺の力は完全に制御を失い暴走する」
花凜の心臓が一瞬止まったかのように感じられた。
清真さまがどれほど苦しんできたのか。どれほどの孤独を背負ってきたのか。その痛みのすべてを、花凜は受け止めたいと思った。
彼が一人で抱え込んできた闇の重さを、少しでも分かち合いたい。その想いは彼女の中で、ゆるぎない心へと変わっていった。
