孝斗皇子の前に月宮家の執事、葵が現れた。
皇子の瞳には既に確信めいた光が宿っている。彼が舞踏会で直接目撃していた藤里家の夫人たちの悪行。月宮邸への禁呪を使った悪質な襲撃。数々の悪事について報告を受けていた。
今日、それまでの罪が裁かれる決定的な時が来たのだ。
「孝斗皇子殿下、ついに確かな証拠を掴みました」
葵の声は静かだが、その響きには厳然たる信念があった。彼の手には書類の束と、証拠品の入った袋が握られている。そして呪毒を茶に含ませた証人が、足元に平伏していた。
「やはりな。やっと尻尾を掴んだか」
「ご苦労、葵。君が調査をしていた話は清真から聞いている」
皇子の唇に冷たい笑みが浮かぶ。これまで巧妙に隠されていた悪事の全貌が、ついに白日の下に晒される。
空から舞い降りてきたクロが、その漆黒の翼を羽ばたかせる。三つ目の鴉の額にある第三の目が、不思議な光を放ち始めた。
「さあ、真実の時間だ。俺が見てきたものを、お前らにも見せてやる」
クロの鋭い声が、神殿内に轟いた。その翼がみるみる大きくなる。人々の前に巨大に広げられた黒い翼に、鮮明な映像が浮かび上がった。それは、クロの第三の目で実際に見たもの『過去の記憶』を映し出す、式神クロ特有の能力だった。
神殿にいる関係者、式典を見に来ていた一般の人々。警察隊、陰陽師、そして皇子と帝都警備隊。清真と花凜、全ての人々が、その映像を目の当たりにした。
――まず映し出されたのは、孝斗皇子主催の舞踏会での場面。
『そんなに彼女が大切なら……!』
『きゃっ!』
『あら、ごめんなさい。手が滑ったわ』
『見なさい! みっともない花凜がワインまみれよ! やっぱりこんな場所にいる資格なんてないのよ!』
――クロの映像が、二人が舞踏会を追い出された会場の外に変わった。
『私たちを追い出すなんて、許せない!』
『全て花凜のせいよ、私達は何も悪くないのに』
『これだけの屈辱、絶対に許さないわ! 皆の前であんな恥をかかされて……』
『次はもっと酷いことをしてやるわ』
『いっそ、花凜の命さえ奪ってやろうかしら。そうすればすべて解決するのよ』
――民衆たちが目を見張り、信じられないという表情を浮かべた。
「ひどいことを……」
「可哀想」「許せない!人として最低よ!」
ざわめきが神殿内に広がっていく。
――次に映されたのは、神殿での場面。
花凜が呪毒に苦しむ中、志津が大声で叫ぶ映像。
『まあ、封印をわざと破壊するなんて!』
『私は、はっきり見ました! あの女性の月詠み師さまが、封印を破壊する所を!』
『そうです!』
『先ほどから様子がおかしかったでしょう! まがい物の月詠み師だから、力が制御できないのよ!』
――民衆たちが目を見張り、怒りに震えた。人々の間から憤怒の声が次々と上がる。
「まさか、そんなことが……」
「騒ぎの発端は、こいつらの嘘だったのか?!」
――そして最後に映し出されたのは、封印が崩壊した瞬間の志津と乙音の姿。
『これで終わりよ、花凜! お前の人生は終わり!』
『あはははは! あははははは!』
『死ね死ね死ね! 大勢から責められ、名誉もすべて失った。花凜なんて絶望して死んでしまえ!』
『これで清真さまは私を見直してくださる。乙音こそが真の花嫁だったと』
『そうよ!そして私は月宮家の姑として君臨するの!』
醜く歪んだ顔で喜び踊る二人の姿。その狂気に満ちた表情が、クロの羽に大きく映し出された。
――映像が終わると神殿は一瞬の間、静寂に包まれた。そして民衆が爆発した。怒った人々が、手近にあった小石や物を、志津と乙音に向かって投げ始めた。
「帝都を守って下さった月詠み師さまに、なんてことを」
「都から出て行け!」
群衆の中から次々と飛んできた様々なものが、志津の高価な絹の着物を無残に汚していく。金糸で刺繍された美しい柄が、どろどろの汁で台無しになった。乙音の髪飾りも地面に落ち、踏みつけられて粉々に砕け散る。
華族として君臨していた二人の威厳は、跡形もなく消え失せていた。
「嘘よ! でっち上げよ! そんなはずない!」
乙音が絞り出すような、かすれた声で叫ぶ。しかし、その声も今やただの言い訳にしか聞こえない。誰一人として信じる者はいなかった。
民衆たちの怒りが、火山の噴火のようにさらに激しく爆発した。
「この人でなし! 恥知らず!」
「人の心を持たない鬼畜!」
志津と乙音の顔から血の気が、波が引くように消えていく。二人は紙のように蒼白になり、足はがくがくと震える。周囲を取り囲む怒りに満ちた民衆の視線に圧倒されていく。
そこへ孝斗皇子が、威厳ある声で宣言した。皇子は、志津と乙音に見えるように、葵とクロが集めた物的証拠をかざした。
「藤里夫人、その娘子。お前たちの罪は明らかになった」
「舞踏会での醜態、月宮邸への禁呪を使った怨霊の襲撃。そして、今回の帝都への反逆行為」
皇子の指示で、帝都警備兵たちが志津と乙音を取り囲む。もはや逃げ場はなかった。
「すべての証拠がここにある。呪毒の証人もいる。もはや弁解の余地はない」
追い詰められた乙音が、志津に襲いかかった。母の髪を掴み、力任せに引っ張る。
「お母さまのせいよ! あの呪毒は、お母さまが作らせたのよ! 私は悪くない!」
乙音の声は金切り声に変わり、普段の上品さは微塵もない。
「痛いじゃない! この母に向かって、なんてことを」
志津が激昂し、乙音の頬を平手で打つ。乾いた音が神殿に響いた。
「呪毒を作ったのはお前でしょう!!」
母と娘が獣のように取っ組み合いを始めた。乙音が志津の着物の袖を力任せに引き裂き、志津が乙音の帯飾りを容赦なく毟り取る。これまで共に花凜を虐げてきた二人が、今度は互いを破滅させようと争う醜悪な光景だった。
「この疫病神が!」
「お母さまこそ! わたしを道具にしただけでしょう!」
乙音が志津の胸倉を掴んで激しく揺さぶる。志津の結い上げた髪が崩れ、乱れた髪が顔にかかって見る影もない。
民衆たちがこの醜態を目の当たりにし、嫌悪感をあらわにした。罵声が容赦なく志津と乙音に浴びせられた。
呪毒の影響でまだ顔色の悪い花凜が、清真の腕に支えられながら立っていた。彼女は青ざめた顔で、志津と乙音を無言で見つめている。その瞳には悲しみと困惑が混じり合っていた。
清真は花凜を連れ、この場から立ち去ろうと踵を返した。その清真を目に停めた乙音が、彼に向かって最後の懇願をする。
「清真さま! お待ちください!」
乙音はまるで駄々をこねる子供のような、甘えた声を出した。見苦しく這いつくばりながらも、まだ自分の正当性を主張する厚かましさがそこにあった。
「花凜なんて、私の足元にも及びません! 賞賛を受けるのは、私のはずだった! これは何かの間違いです!」
その乙音の言葉には一片の反省もなく、ただ自分が可愛い身勝手さが滲み出ていた。
清真がゆっくりと振り返った。蒼い瞳が乙音を見下ろす視線は、虫けらを見るような冷酷さに満ちていた。
「君の内面の醜さは、もはや隠しようがない」
清真の声は低く、感情を完全に排した冷徹さで響いた。まるで汚れた物を払い除けるような口調。
「真の美しさとは何か、君は最後まで理解できなかった」
その眼差しには一片の憐れみもなく、ただ純粋な軽蔑だけが宿っていた。乙音の存在そのものを否定するような、圧倒的な拒絶。
乙音の顔が蒼白になる。彼女の心の支えだった最後の希望が、完全に打ち砕かれる。
清真は、花凜をより深く抱きしめた。その腕には、二度と彼女を傷つけさせないという固い決意が込められているようだった。花凜の華奢な体を包み込むように、彼は静かに彼女を守り続けた。
***
「藤里志津。お前は月宮邸への襲撃事件の首謀者。帝都の混乱を招いた反逆罪の罪により、華族の地位を永久剥奪する。全財産を没収し、終身刑を言い渡す」
志津の膝が崩れ落ちた。全てを失った絶望が、傷だらけの顔に深く刻まれる。
「藤里乙音。お前も同罪だ。月宮邸への襲撃事件の補助。都の混乱を招いた反逆罪の罪、そして禁忌の呪毒製造は重罪。終身刑を言い渡す」
警備兵たちが二人を牢車に押し込む時も、志津と乙音は取っ組み合いを続けていた。
***
帝都の地下牢、最下層の独房。
志津は薄汚れた囚人服に身を包み、湿った石の床に座り込んでいた。
毎日与えられるのは、水と固いおにぎりだけ。看守たちは彼女を『月詠み師さまを虐めた悪女』として軽蔑し、冷たい視線を向けるだけだった。
「花凜……なぜあの小娘が……」
志津が呟く。外からは民衆の声が聞こえてくる。かつて自分が『月欠け』と蔑んだ少女が、月詠み師として賛美されている。その現実が、志津の心を日々蝕み続けていた。
隣の独房では、乙音が壁に向かって虚しく手を伸ばしていた。まだ自分の罪を受け入れることができず一日中、花凜への嫉妬を呟き続けている。
「……私の方が、ずっと美しくて優れてるのに……」
二人の間の壁には小さな隙間があり、そこから互いを罵り合う声が聞こえてくる。
「お前のせいよ!」
「お母さまのせいよ!」
母と娘の憎悪は、この暗い牢獄でさらに深まっていく。共有していた花凜への悪意が、今は互いへの憎しみとなって二人を蝕んでいた。
これが彼女たちの余生だった。陽の光が届かない地下牢で、互いを憎み合いながら、他人の幸福を呪い続ける日々。自らの悪行が招いた当然の報いだが、二人は最後まで自分たちの非を認めることはなかった。
月は全てを見ていた。そして真実を照らし出し、正義を示した。
