陽だまりが月宮家の庭先を柔らかく包んでいた。昨夜の激戦が、嘘のような翌朝。屋敷の一部では大工たちが損傷した箇所を修復していた。壁の亀裂、割れた窓、破損した屋根瓦——規則正しい槌音が朝から響いている。

 庭先の大きな楓の木陰に、葵がいた。

 包帯を巻いた右腕を庇いながら、修復作業を静かに見守っていた。昨夜は花凜と使用人たちを守るため、必死に怨霊と戦った。その代償として負った傷だが、彼の表情に後悔の色はない。

 花凜は、そんな葵の姿に足を止めた。胸の奥で小さな勇気が芽生え、彼女は葵に近づいていく。

「葵さん、お怪我の具合はいかがですか?」

「昨日は私たちを守ってくださって……本当にありがとうございました」

 葵の傷ついた腕を案じる花凜の眼差しに、執事の表情が和らいだ。花凜が隣に腰を下ろすと、朝露に濡れた芝草の香りが鼻腔をくすぐった。

「いえ、皆を救ったのは花凜さまです」

「……ですが、そう言ってくださって私も報われます」

 葵の声には、昨夜の緊張が解けた安堵が滲んでいる。花凜は彼の視線を辿り、同じく屋敷を見上げた。

「葵さんがこのお屋敷を見ている眼差しは、とても優しいですね」

 花凜もまた、修復中の屋敷を温かい目で見上げた。職人たちが丁寧に木材を削る音、畳の青い香り。すべてが彼女にとって愛おしいものに思えた。この屋敷で過ごす日々の一つ一つが、かけがえのない宝物のように感じられる。

「この屋敷は私にとって、故郷そのものですから」

 葵の声に、幼い頃からこの場所で過ごした歳月の重みが滲む。清真への忠誠と愛情が、その一言に込められているのを花凜は感じ取った。

「そのお気持ち……よく分かります」

 花凜の声が少し震えた。月宮家で過ごすようになってから、『居場所』というものの温かさを初めて知ったのだ。

「ここはもう、私にとっても……」

 言葉は途中で途切れたが、その想いは十分に葵に伝わったようだった。花凜の表情を見て、彼の目元がさらに優しくなる。

「花凜さまにもそう思っていただけて、心から嬉しく思います」

「葵さんはきっと、長い間ここで過ごされているのですね」

 花凜の問いかけに、葵の瞳に懐かしさが宿る。枯れた楓の葉が、さらさらと音を立て優しい時間を感じさせた。遠い記憶を辿るような、穏やかな表情が彼の顔に浮かんでいる。

「幼い頃からです。清真さまとは……子どもの頃は兄弟のように接していただきました」

 その言葉から、清真と葵の深い絆が伝わってきた。単なる主従関係を超えた、家族のような信頼関係があるのだろう。

「それでは葵さんは、清真さまの一番の理解者ですね」

 葵は微笑みながら首を振る。その仕草には、深い洞察と優しさが込められていた。

「いえ、今はそれは花凜さまでしょう」

「私が……?」

 花凜の頬に薄紅が差した。自分がそんな存在になれているのだろうか。心臓の鼓動が少し速くなる。

「清真さまが今のように幸せそうなお顔をされるのは、初めての事です。どうぞ、これからも清真さまをお支えください」

 葵の言葉は、花凜の心の奥底に眠っていた想いを呼び覚ました。誰かの支えになりたい、誰かの役に立ちたいという純粋な願い。それは今、はっきりとした形を持って彼女の中に宿っている。

 花凜は決意を込めて頷いた。その瞳には、もはや迷いはない。――自分の価値を疑う気持ちも、今はもうない。

「はい、私も清真さまのお役に立ちたいです」

 その言葉には、花凜の心からの想いが込められていた。自分の願いを、こうして堂々と口にできる——そのこと自体が、彼女の成長を物語っていた。

「では、私は仕事に戻ります」

 葵が立ち上がる。去り際に彼は振り返り、小さく付け加えた。

「花凜さまの存在は、この屋敷に新しい光をもたらしました。それは清真さまだけでなく、私たち全員にとっても」




 楓の木陰から屋敷へ戻ると、中庭に人だかりができていた。使用人たちが次々と集まってくる。その顔には昨夜の恐怖の影はない。朝の光が彼らの表情を明るく照らした。

 清真が縁側から立ち上がった。銀髪が朝日に煌めき、その姿はいつも以上に神々しい。だが花凜を見つめる蒼い瞳には、限りない優しさが溢れていた。

「花凜、皆が君に救われた礼をしたいと言っている」

 侍女頭の鈴が一歩前に出た。彼女の眼差しには感謝の涙が光っていた。

「花凜さま、昨夜は本当にありがとうございました」

 使用人たちが一斉に深々と頭を下げる。その恭しい様子に、花凜の胸が温かくなった。こんなにも多くの人が自分を慕ってくれている——それは夢にも思わなかった現実だった。

 花凜は慌てて立ち上がり、両手を振った。

「頭を上げてください。私はもう皆さんから、十分すぎるほどの暖かなお気持ちをいただいています」

 清真が花凜を見つめる眼差しには、深い慈愛が込められていた。

「皆の気持ちだ。ここは素直に受け取ってくれないか」

「そうです、花凜さま。ぜひ、私たちの感謝の気持ちを何か形にさせてください」

 鈴の後からも、次々と使用人たちが口を開く。
「どうか、私たちにも何かさせてください」

「感謝の気持ちを表す機会をいただけませんか」

 使用人たちの期待に満ちた眼差しが、花凜に注がれている。その純粋な想いに、花凜の心が揺れ動いた。
 清真が優しく微笑む。

「君の気持ちもわかるが、彼らの善意を受け取ることも優しさだ」

 清真の言葉に、使用人たちが頷く。その瞳の奥には、純粋な感謝と敬愛が輝いていた。花凜は少し迷った後、そして——意を決したように清真を見上げた。

「本当に……何でもよろしいのでしょうか?」

「もちろんだ。何でも言ってくれ」

 その言葉が、花凜に最後の勇気を与えた。深く息を吸い込む。中庭に集まった皆の視線を感じながら、花凜は心を決めた。――そこにこれまで押し殺してきた想いが、解き放たれようとしていた。

「それでは……お願いがあります」

 使用人たちが息を呑み、静かに耳を傾ける。庭に流れる風の音さえ、この瞬間を見守るかのように穏やかになった。

「元は藤里家で働いていた使用人を、こちらのお屋敷に迎えていただけないでしょうか。あそこで、ただ一人、私に親切にしてくれた方でした」

 花凜は懐から大事そうに包みを取り出した。その手は微かに震えている。

「そして……これを」

 白い布袋を開くと、割れて砕けた木片が現れた。継母に壊された『母の位牌』——花凜の心の支えだった大切な遺品の無残な姿。
 使用人たちが息を呑んだ。驚愕の表情が一瞬彼らの顔を過ぎる。

「母の位牌を、新しく作り直したいのです」

 花凜の静かな言葉が、人々の心に響いた。どういった事情で位牌が壊れているのかを、人々は聞かなかった。だがそれを見れば、故意に強い力がかけられ、破壊されたものだと分かる。花凜の藤里家での酷い境遇を耳にしていた人々の目に涙が滲む。

「花凜さま……」

「もちろんです! 私たちみんなでお金を出し合って、作り直す費用を出させてください」

 鈴が目元を拭い、声を震わせながら言った。

「花凜さまの大切なお母さまの位牌、心を込めて作り直しましょう」

 次々と賛同の声が上がる。皆が我が事のように、花凜の願いを受け止めてくれている。花凜の痛みを自分たちの痛みとして感じ、心から支えようとしてくれる温かさが、中庭に満ちていた。

「皆さん、……本当にありがとうございます……」

 こんなにも温かい人たちに囲まれて花凜の視界が、涙で滲んだ。

 肩に温かい重みを感じた。清真の手だった。振り返ると、彼の蒼い瞳が限りない愛情を湛えて自分を見つめていた。

「もう一つの方は俺が引き受けよう。君の恩人なら頼まれずとも当然のことだ」

 清真と人々の温もりが、彼女の全身に広がっていった。


***

 月の光が石畳に美しい影を落としていた。その銀の光が庭を幻想的に照らす中、清真と花凜は並んで座っていた。

「君は強くなったな」

 低い声には、深い感慨が込められていた。月光に照らされた清真の横顔が、いつにも増して美しく見える。

「清真さま……?」

「初めてこの屋敷に来た頃の君は、ただ遠慮するばかりで、自分から何かを望んだり、自分から悩んでることを話してくれることはしなかった」

 清真の指が、花凜の手にそっと触れる。その仕草に、花凜の頬が熱を帯びる。夜の冷気とは対照的に、彼の温もりが肌に伝わってくる。

「心を開いて、本当の気持ちを伝えてくれるようになって嬉しい」

 その言葉に、花凜の胸が暖かく満たされた。唇に自然と笑みが浮かぶ。心から安らいだ、穏やかな微笑みだった。

「ありがとうございます。これも清真さまが私をここへ連れてきてくださったからです」

 清真の蒼い瞳に、覚悟のような光が宿る。そして決意したように花凜の方を見た。星明りの下で、彼の表情がより真剣なものに変わった。

「――今の君になら、もう話しても大丈夫だろう」

「花凜、今から伝える俺の話を聞いてくれないだろうか?」

 清真の声は、いつになく厳粛だった。月明かりが清真の銀髪を照らし、彼の美しい横顔を際立たせている。

「昨日の『君の力』のことについてだ」

 花凜は反射的に自分の手を見つめた。昨夜のあの不思議な感覚が、まだ掌に残っているような気がする。

「清真さま……私にこんな力があるなんて、まだ信じられません」

 震える声でつぶやく花凜のより近くに、清真が座り直す。二人の膝が触れ合うように距離が近くなる。花凜の心臓が早鐘を打った。彼の体温と月光のような月詠みの力が、花凜を守るように包み込んでいく。

「君は、最初から月の光の力を持っていた」

「えっ……?」

「俺は君を初めて見た時から、それがはっきりとわかった」

 花凜の瞳が大きく見開かれた。

「でも、私は『月欠け』と呼ばれ『月詠み』の力を――何の霊力も持っていなかったのです。それがなぜ……」

 清真が穏やかに首を振った。その顔に、慈愛に満ちた微笑みが浮かんだ。

「いや、君は気が付いていたはずだ。何か不思議な体験や経験をしたことはないか?」

 花凜の脳裏に、記憶が蘇った。藤里家で感じていた不可解な気配。誰もいないはずなのに、そこに「何か」がいると分かったあの瞬間。

「そういえば……」

「君は、『月の神の末裔』の言い伝えを知っているか」

 清真の眼差しが、さらに深く花凜を見つめる。

「はい……父は陰陽師でしたので、月の伝説の話は聞いていました」

 花凜は小さく頷いた。父が語ってくれた物語。それは美しくも哀しい、月の神の伝承だった。
 清真が静かに語り始める。その声は、まるで古の物語を紡ぐ語り部のように響いた。

「——天の掟を破った神に厳しい罰が下された。二度と月の世界に帰ることは許されず、その魂は、『神』と『人』との二つに分たれて、この世に留まることとなった」

 夜の庭に、静寂が漂う。虫の音さえも遠く感じられた。

「その二つの魂は、再び月へ帰る日を願い、お互いを求め探し続けている」

 清真が花凜の手を強く握りしめた。温かく、力強い手。花凜の全身に、電流のような感覚が走る。

「花凜、君は俺の『月の半身』。魂を二つに分けたもう一人」

 花凜の胸が、はっと跳ね上がった。その言葉を聞く度に、魂の奥底で何かが震える。半身という見えない糸が、二人を強く結びつけているのを感じていた。

「俺は月の神の末裔として、君はもう半分の人間として生を受けた」

 月光が二人を包み込み、祝福を与えているかのように輝く。今まで感じていた清真への特別な想い。彼といる時の不思議な安心感。

 そして昨夜の力の響鳴——全てが一本の糸で繋がっている。

「月詠みや陰陽師など、月の力を持つ者は通常、新月の時に力を失う。だが、君の力は――『新月』の時にも失われなかった」

 清真の蒼い瞳に、あの夜の記憶が宿っているのを花凜は見た。

「初めて出会った時、君はむしろその新月の時に力を増していた」

「通常の月の力の使い手を、新月に力を失う『陰』とするなら、君の力は新月に力を増す『陽』。陰があれば陽があり、陽があれば陰があるように、互いが存在することでひとつになる」

「君のその力は、俺の力とは対極にある。それは月の半身のみが発現できる稀有な能力『真月詠み』と呼ばれるものだ」

 真月詠み——その言葉に、花凜の瞳が大きく見開かれた。心臓が激しく跳ね上がる。

「『真月詠み』……?」

 震える声で呟く花凜。その響きが、彼女の魂に深く刻まれていく。

「普通の陰陽師の家系では、おそらく『陰』の力の存在しか知らず、『陽』についての知識を持ってなかったのだろう。――だから、君は誤解され蔑まれた」

 清真の声に、怒りと悔しさが滲む。花凜が受けてきた仕打ちを思うと、彼の心も痛むのだろう。

「君は、特別な月の力の使い手『真月詠み』だ」

「私がそんな……力を持っているなんて……」

 花凜は震える声で呟いた。驚愕と戸惑い、そして言いようのない感動が胸に渦巻く。

「――初めて会った時、もしこの話をしたとしても君は信じようとはしなかっただろう」

 清真が慈しむように微笑む。確かにその通りだった。あの頃の自分は、価値のない人間だと思い込んでいた。

「だが、今なら君自身にも分かるはずだ。自分の内側から溢れ出てくる力の根源を」

 清真が花凜の両手を取り、温かく包み込んだ。その刹那、花凜は感じた。二人の間を流れる目に見えない絆を。それは血よりも濃く、運命よりも強い繋がりだった。

 花凜の頬を、一筋の涙が伝った。それは悲しみの涙ではない。今まで理解されなかった自分の存在が、ついに意味を持ったことへの、深い喜びの涙だった。

「君の力はまだ弱く、自分でコントロールができていない。これまでまともに修練を受けてこなかったのだから、当たり前のことだ」

「これから経験を重ねていけば、徐々に力は強くなる。また、自分で調整もできるようになっていくだろう」

「……私にできるでしょうか」

 不安に揺れる花凜の瞳を、清真が真っ直ぐに見つめた。

「君なら必ずできる。俺がそばで支えよう」

 その確信に満ちた言葉に、花凜の不安が雪のように溶けていく。清真が傍にいてくれる——それだけで、どんな困難も乗り越えられる気がした。




 後日、月宮家の門前に花凜にとって懐かしい人影が現れた。元藤里家の使用人、吉兵だった。門番が清真に報告し、清真は花凜と共に門へ向かう。
 吉兵は深々と頭を下げ、清真に雇い入れへの感謝の言葉を述べた。花凜は自分を気遣ってくれた恩人との再会を喜んだ。

 こうして、花凜にとって大切な人がまた一人、月宮家の家族となったのだった。