花凜は、月宮家の皆と一緒に避難を始めた。そして廊下の角を曲がった時、花凜の目が捉えたのは絶望的な光景だった。
侍女頭の鈴が床に倒れ、足を押さえて呻いている。その背後から、影のような怨霊が近づいていた。伸ばされた爪は、まるで死神の鎌のように鋭く光る。
「鈴さん!」
花凜の体が動いた。恐怖で竦む足を無理やり前に出し、鈴のもとへ駆け寄る。震える手で腕を掴み、必死に支え起こした。
「大丈夫ですか? こちらです」
鈴の顔に、涙が溢れた。
「花凜さま……ありがとう……ございます……」
花凜の胸の奥が、引き裂かれるように痛んだ。藤里家で受けた仕打ちが、彼女の脳裏をよぎった。冷たい床、空腹の痛み、――そして何より孤独。
この人たちは皆、自分を迎えいれてくれた。誰にも頼ることができず一人で泣いていた私を。温かい笑顔で、優しい言葉で自分を包んでくれた大切な人たち。
その人たちが今、恐怖に震え、逃げ惑っている。
「そんな私を皆さんは、家族のように受け入れてくださった……」
細い肩を震わせながら、使用人たちを背に庇うように立つ。彼女のつぶやきは涙声になっていた。だからこそ、今度は自分が——。
黒い瘴気が渦を巻き、呑み込もうと迫る。逃げ場はない。
花凜は鈴を胸に抱き寄せ、その華奢な体で盾となった。
瞼を固く閉じる。心臓が、まるで籠の中の小鳥のように激しく羽ばたいていた。全身が恐怖で震え、歯がカチカチと鳴る。
でも――。
(こわい……すごく怖い……! でも!)
全身の血が逆流するような恐怖が襲う。それでも彼女はそこを離れようとしなかった。
(この人だけでも、守りたい!)
その純粋な願いが頂点に達した瞬間、奇跡は起きた。花凜の体から、月光にも似た淡い光が溢れ出した。それは恐怖と勇気、絶望と希望が交差する場所で生まれた、彼女の魂の輝きだった。
花凜の体から溢れ出た光は、満月の夜を思わせる清らかさを持っていた。それはまるで、彼女自身が月となって地上を照らしているかのような、神秘的な輝きだった。
銀色の光が波紋のように広がり、黒い瘴気を押し返していく。腐敗と死の臭いが、月光の清浄さに浄化されていった。
「いったい、な、なにが……?」
花凜が恐る恐る瞼を開けると、自分を中心に淡い光の結界が展開されていた。それは薄絹を幾重にも重ねたような、繊細でありながら強靭な障壁。抱きしめた鈴も、自分も、その光の中では傷一つなかった。怨霊の爪が結界に触れた瞬間、まるで朝露が陽光に消えるように、黒い霧は光に溶けて消えていく。
退魔の刀を振るっていた葵が、息を呑んでその光景を見つめた。彼の瞳に驚愕の色が浮かぶ。
「これが、花凜さまの力……」
――それは清真と花凜がはじめて出会った、新月の日の再来だった。あの時は、清真の力に共鳴するようにして花凜の力が発現していたが、いま清真はここに居ない。
それは彼女が、自分ひとりで発動させた力だった。
花凜自身が戸惑っていた。体の奥底から湧き上がる温かな力。それは今まで感じたことのない、不思議な感覚だった。
「葵さん、皆さんを安全な場所へ!」
花凜の声で、葵は我に返った。
その言葉が終わらぬうちに、屋敷の東棟から新たな悲鳴が響いた。まだ多くの者たちが、死の恐怖に晒されている。
「私は月宮家の執事として、最後までこの屋敷と皆さんを守ります」
葵の瞳に、鋼の決意が宿った。穏やかな執事の仮面の下から、歴戦の戦士の顔が現れる。葵に従うように部下たちも覚悟を決める。
「ユキ、クロ、お前たち、総力戦だ。花凜さまを奥の間へ」
言うが早いか、葵は怨霊の群れに斬りかかった。彼の剣に宿る淡い霊光が、闇を切り裂く。だが、斬られた怨霊たちは泥のように崩れながらも、すぐに形を取り戻していく。
「ちっ、キリがねぇ!」
クロが急降下し、黒い羽根を巻き上げ烈風を放つ。突き抜かれた怨霊が断末魔を上げるが、その隙間から新たな影が湧いて出る。
ユキも白い吐息で次々と怨霊を氷結させていく。砕け散る氷の破片が、月光のようにきらめいた。しかし、凍らせても凍らせても怨霊の数は減らない。
花凜は鈴と共に奥の間を目指した。だが、廊下の先で怯える使用人たちの姿が目に入る。若い侍女が泣き年老いた料理人が震え、皆が恐怖に竦んでいた。
「こちらです! 早く!」
彼女は自ら光の結界を広げ始めた。温かな月光が、恐怖に震える人々を包み込んでいく。
「ありがとうございます、花凜さま!」
使用人たちが、光の中へと駆け込んでくる。結界は人々の想いに応えるように、少しずつ、少しずつ大きくなっていった。
しかし、大地を揺るがす咆哮と共に、屋敷の中心部の壁が崩れ落ちた。瓦礫の中から現れたのは、牛の頭を持つ巨大な怨霊。その口から吐き出される瘴気は、今までのものとは比較にならない濃度だった。
黒い霧が渦を巻き、花凜の結界を侵食し始める。銀の光が、少しずつ黒に染まっていく。
「これ以上は……もう無理なのか!」
葵の剣が、初めて震えた。クロの翼から血が滴り、ユキの白い毛が震えている。
花凜の結界も揺らぎ始めた。額に脂汗が滲み、膝が震える。自分には、力の使い方が分からない。どこまで持つか、全く――分からない。
「清真さま……」
花凜の唇から、名が零れた。胸の奥で、彼への想いが熱く脈打つ。
(お願い、早く戻ってきて――)
***
天狼の凄まじい速さで、清真は馬で半日の距離をわずか半刻で駆け抜る。
普通の人間なら、命も奪われかねない速度と風圧の中、清真の体への負担も大きなものだった。
だが、彼はただひたすら花凜と屋敷の人々の無事を祈っていた。
月宮邸が見えてきた瞬間、清真の顔が険しくなる。
屋敷全体が黒い瘴気に包まれ、かつて美しかった庭園は死の世界と化している。結界は崩れ揺らぎ、怨霊たちの唸り声が不協和音を奏でていた。
天狼が正門を飛び越えた瞬間、清真の目が捉えたのは――光の結界の中で、必死に使用人たちを守ろうとする花凜の姿だった。
「花凜……! 無事だったか」
「屋敷の人々は……?!」
視線の先に、花凜と彼女が庇う屋敷の人々を目に止めて、清真から安堵の吐息が漏れる。――そして次の瞬間、彼の瞳に憤怒のような熱い怒りの炎が宿った。
花凜を守るユキの白い毛は血で汚れ、葵の剣を持つ手はぶるぶると震えている。葵の部下たちの円陣が決壊し、クロの翼は傷ついていた。皆が限界まで戦い抜いた様子が一目で分かった。
そして何より——花凜のひどい顔色と浮かぶ疲労の色が、清真の怒りを極限まで高めた。
「よくも俺の大切な花凜を、絶対に許さない!」
清真の声が、雷鳴のように轟いた。その殺気に、怨霊たちさえ一瞬怯んだ。
「清真さま!」
花凜の声が喜びで震えた。絶望の淵にいた彼女の瞳に、希望の光が宿る。
「戻られましたか! 清真さま!」
葵の顔に、安堵の色が浮かんだ。震えていた手が、清真の姿を見て力を取り戻した。
「清真! 待ってたぞ!」「清真さま……」
クロが傷ついた翼をはためかせながら嬉しそうに鳴く。ユキが血で汚れた毛を震わせながらも、主人の帰還に安心の表情を見せた。
皆の顔に、絶体絶命の窮地から救われた喜びと、清真への深い信頼が溢れていた。
「もう大丈夫だ、あとは俺に任せろ」
「天狼、地狼。花凜と屋敷の皆を守れ」
命令と同時に、二頭の巨狼が動いた。花凜たちを囲む守護陣形を取る。
天狼が優雅に、花凜の前に歩み寄った。その白色の毛並みは月光を纏い、威厳と気品に満ちている。
「花凜さま。私は天狼と申します」
「清真さまの式神として、これよりお側でお守りいたします」
天狼が恭しく頭を下げると、花凜は息を呑んだ。その瞳に宿る深い知性と優しさに、畏敬の念を抱かずにはいられない。
「俺は地狼!」
対照的に、黒い巨狼が勢いよく前に出た。野性的でありながら、その瞳には子供のような純粋さが輝いている。
「姫ちゃん、今まで怖かっただろう? でももう大丈夫だぜ!」
「俺が姫ちゃんに怪我させるもんか! ここは俺たちに任せてくれよ!」
その温かい瞳に、花凜の緊張が少しだけ解けた。恐怖で震えていた心に、安堵の温もりが広がっていった。
清真が、花凜と屋敷のものたちを庇うようにその前に降り立った瞬間、空気が震えた。それは雷鳴でも地震でもない。二つの魂が共鳴する、この世ならざる振動だった。
花凜の淡い月光と清真の鋭い銀光が、まるで長い間離れていた半身が再会したかのように引き合い、溶け合い始める。
銀と月白の光が螺旋を描きながら上昇し、屋敷全体を神聖な輝きで包んでいく。
「この感覚は……あの新月の時の……」
清真の蒼い瞳が大きく見開かれた。それは、花凜と初めて出会った新月の時の力。だが、あの時よりもはるかに強い。これまで多くの機会で単独で戦ってきた彼にとって、それは未知の感覚だった。
花凜の存在が触媒となり、清真の体の奥底に眠っていた力が目覚めていく。月の光が、彼の全身を駆け巡っているようだった。
「これは、……私の力と――清真さまの力が合わさっているのでしょうか」
花凜もまた、不思議な感覚に包まれていた。恐怖で震えていた体に、温かく力強い何かが流れ込んでくる。それは清真の霊力であり、同時に彼の想いでもあった。
二人の視線が一瞬交わる。
清真が退魔の銀剣を抜き放つ。刀身に宿る光の『神代文字』が、今までとは比較にならないほど眩く輝いた。まるで剣自体が月光を纏い、生きているかのように脈動する。
「行くぞ」
低い声には、絶対の自信が宿っていた。
巨大な牛頭の怨霊が、瘴気を吐きながら突進してくる。その巨体が足を踏みしめる一歩ごとに、どしんと大地が揺れた。
清真が地を蹴った。銀光の軌跡を描きながら、彼の剣舞が怨霊を切り裂いた。
「これは……浄化の力か」
普段なら怨霊を『滅ぼす』はずの清真の剣が、今は違った輝きを放っていた。花凜の月光と調和することで、銀の光は破壊ではなく『浄化』の力に変わっていた。
「清真さま……」
一振りごとに銀の光が弧を描き、怨霊たちの怒りと憎悪を溶かしていく。銀と月白の光が融合し、巨大な光の渦となって牛頭の怨霊を包み込んだ。
「ギャオオオオオ!」
怨霊の断末魔が、夜空を引き裂く。
金色の光に包まれ、最後には塵となって消えていった。彼らは消滅するのではなく、苦悶の表情から安らかな顔へと変わり、光の粒子となって天へと昇っていった。
空間そのものが、清真の剣舞によって清められ、花凜の優しい月光によって癒されていく。
それは破壊ではなく、浄化だった。歪んだ魂が、本来あるべき場所へと還されていく。
「次だ」
残る怨霊たちが、恐怖に震えながら後退する。だが逃げ場はない。銀と月白の光は容赦なく広がり、触れるもの全てを浄化していく。
「これが……月詠みの共鳴か」
天狼が感嘆の声を漏らす。地狼も興奮気味に吠えた。
「すげぇ! 清真の旦那と姫ちゃん、最強のパートナーじゃねぇか!」
最後の怨霊が光に包まれ、消滅していく。黒い瘴気は完全に晴れ、月宮家に再び静寂が戻った。
清真と花凜を中心に、まだ淡い光が漂っていた。二人の霊力は完全に調和し、まるで一つの存在であるかのように呼吸を合わせていた。
「大丈夫か、花凜?」
清真は花凜のそばに駆けつけ、彼女を力強く抱きしめた。清真の手が、そっと花凜の頬に触れる。疲れてはいないか、無理をしていないかを確かめるような、優しい仕草だった。
「……はい、大丈夫です」
花凜が腕の中で頬を染めながらも、清真を見上げる。その瞳には、驚きと共に、何か特別な感情が宿っていた。
「……清真さま、これは一体」
「ああ、これこそが本当の『月詠み』の力だ」
清真もまた、花凜に視線を向けた。月光の下、二人は無言で見つめ合っていた。
***
その頃、藤里家で二つの影が苦悶に悶えていた。
「きゃあああ!」
志津の絶叫が、夜の静寂を引き裂く。彼女の両手が、まるで墨を流し込まれたかのように黒く染まっていく。皮膚が腐敗していくような激痛に、顔が醜く歪んだ。
「お母さま!」
乙音もまた、同じ苦痛に襲われていた。禁忌の呪術を使った代償——怨霊たちの怨念が、術者たちに跳ね返ってきたのだ。
「これは、呪術の跳ね返し……まさか」
「花凜め……まだ生きているだと!」
志津の顔が憎悪に染まる。痛みに震えながらも、その瞳には反省の欠片もない。むしろ、失敗への怒りと、花凜への憎しみがさらに深まっていた。
「お母さま、もう我慢ならないわ!」
乙音の声は、もはや人間のものとは思えないほど歪んでいた。清真に拒絶された屈辱。花凜が愛されている姿への羨むばかりの嫉妬——それらが彼女の理性を完全に焼き尽くしていた。
「そうね……こうなったら最後の手段もやむを得ない」
「見てなさい、今度こそあの娘を葬ってやる! もう終わりよ、花凜!」
夜風が二人の邪悪な笑い声を運び去っていった。
自らの感情の欲求を満たすだけの為に、無関係な月宮家の大勢の人々まで巻き込んだ。不相当な欲望を抱き、そのために平然と他人の命までも奪おうとする。
二人の魂が、より深い闇へと堕ちていく。
人としての心を失った彼女たちに、もはや戻る道はなかった。
***
月宮家にようやく平穏が戻った。
割れた窓から差し込む月光が屋敷を照らしている。恐怖に震えていた使用人たちが、一人、また一人と花凜の周りに集まってきた。
「花凜さま……」
侍女頭の鈴が、震える声で口を開いた。その頬には、まだ涙の跡が残っている。
「私たちをお守りくださって、本当にありがとうございます」
深々と頭を下げる鈴の姿に、他の使用人たちも続いた。若い侍女も、年老いた料理人も、庭師も、皆が心からの感謝を込めて頭を下げる。
「そんな……私は大したことは何も……」
花凜の言葉が続かない。今まで価値がないと言われ続けてきた彼女にとって、これほど多くの人から感謝されることは、夢のような出来事だった。
老使用人が前に出て、花凜の手を取った。その手は温かく深い感謝が込められていた。
「花凜さまが、命がけで守ってくださった……」
老使用人の目から、新たな涙が零れる。
「あなたさまの優しいお心に、どれほど救われたことでしょう」
「花凜さまがいてくださって、本当に良かった」
使用人たちの声が次々と重なっていく。その一つ一つが、花凜の心に温かく染み込んでいった。
清真が、そんな花凜を慈愛に満ちた瞳で見つめていた。彼女の勇気ある行動と、他者を思いやる純粋な心が、清真の胸を深く打っているようだった。
「本当によく頑張った、花凜」
清真の表情が、深い理解と愛情に満ちている。
「君は誰よりも尊く、優しい人だ」
「その勇気を誇りに思う。誰もが怯える中で、他者を守ろうとする心……君以外の誰にも成し得ないことだった」
清真の蒼い瞳は、穏やかな光を湛えていた。
「君のその心の温かさこそが、何よりもかけがえのないものなんだ」
心の温かさ——。
その言葉に、花凜の胸がじんわりとしてくる。自分なりに頑張ったことを、ちゃんと見ていてくれたのだと思うと、嬉しくて涙が出そうになる。
「私も、清真さまや皆さんが、いてくださるから頑張れました……」
花凜の瞳に、静かな喜びの涙が浮かんだ。それは誰かと支え合えることの幸せを知った、温かい涙だった。
清真がそっと花凜の頭に手を置いた。その手で「怖かったろう」と言いながら頭をゆっくりと撫でてくれる。その手の温もりが、花凜の不安を溶かしていく。
使用人たちが温かな眼差しで二人を見守る中、天狼が満足げに呟いた。
「これが真の絆というものか」
地狼も尻尾を振りながら同意する。
「姫ちゃんの頑張り、俺たちもちゃんと見たぜ!」
ユキが安らかに身を丸め、クロも満足そうに羽を休めた。葵は清真から託された花凜と屋敷を守り、自らの役目を果たせた安堵の表情を浮かべていた。
この夜、花凜は多くのことを知った。
誰かを守りたいと思う自分の気持ち。その気持ちを大切にしてくれる人がいる幸せ。そして何より——清真と心を通わせ合えることの、かけがえのない喜びを。
***
月宮邸の書斎で、清真と葵が向かい合っていた。葵の手には、小さな黒い箱が握られている。
「清真さま、これが屋敷の外堀のごく目立たない隅から発見されました」
葵が襲撃で負った右手の傷を庇うように、左手で慎重に箱を清真の前に置いた。箱からは微かに不吉な気配が漂っている。
「これは……」
清真の蒼い瞳が鋭く光る。箱の中身を確認すると、その表情が険しくなった。黄ばんだ骨片が放つ瘴気に、書斎の空気が重く淀む。
「陰陽師の『禁呪』に使われる怨霊の遺骨……誰がこんなことを仕組んだのか」
清真の表情が一変する。彼の瞳に宿る怒りは、氷のように冷たく、しかし燃えるように激しかった。花凜を危険に晒した者への、抑えきれない憤怒が込められている。
「確たる証拠が掴めるまで、決めつけることはできないが……藤里家の夫人たちをどう思うか?」
清真の問いかけに、葵は深く頷いた。その表情には、主への忠誠と共に、花凜への同情が浮かんでいる。
「これまでの花凜さまへの執拗な嫌がらせのお話をお聞きしておりますと、かなり疑わしいと存じます」
「調査のために、清真さまのクロをお借りできるでしょうか?」
葵の声には、真相を暴こうとする強い意志が宿っていた。
「頼む、葵」
清真が静かに答える。その一言には、花凜を守り抜く覚悟と、真実を明らかにする強い意志が込められていた。
