朝つゆが庭の花弁に宿る時刻、月宮邸の中庭に馬車が準備されていた。都の郊外で怨霊騒動が発生し、陰陽寮からの正式な出動要請が入ったのだ。
清真はすでに外套を羽織り、腰には退魔の銀剣を佩いている。朝日が彼の銀髪を透かし、まるで月光が昼に降り立ったかのような幻想的な輝きを放っていた。
花凜は玄関先で、使用人たちと共にその凛々しい姿を見つめていた。清真の声が朝の静寂を破る。
「葵。念のため、お前は屋敷に残っていろ」
「承知いたしました」
葵が、深々と頭を下げる。
先日の舞踏会の後、クロから藤里家の継母たちが何かを企んでいるとの報告があったらしい。清真の表情には普段と変わらぬ穏やかさがあったが、その指示はいつもより慎重だった。
清真が馬車へと歩を進め、足台に足をかけたところで振り返った。
その瞬間、花凜と目が合った。
朝の光の中で、彼の蒼い瞳がまっすぐに自分を見つめている。胸が高鳴った。
「花凜。行ってくる」
「討伐が終わり次第、帰ってこよう」
頬がほんのりと薔薇色に染まる。花凛は小さく微笑み、白い指先で控えめに手を振った。
「行ってらっしゃいませ。お気をつけて」
その声は朝露のように澄んでいた。清真はできれば今は花凜を残して遠出を避けたい、といった様子が見えたが、意を決したのか馬車に乗り込んだ。
馬車が動き出す。花凜は使用人たちと共に、門まで歩いて見送る。風が彼女の黒髪を優しく撫で、甘い花の香りが朝の空気に溶け込んだ。
遠ざかっていく馬車を見送りながら、花凜は胸に手を当てた。きっとすぐに帰ってくる。そう思うのに、なぜかもう会いたくなってしまう。
「清真さま……」
誰にも聞こえない小さな呟きが、朝の風に溶けていった。使用人たちが屋敷に戻っていく中、花凜はもう少しだけ門に佇んでいた。
***
朝日が街を照らす中、月宮邸から少し離れた路地の物陰に、二つの人影が潜んでいた。
継母の志津と、義妹の乙音だ。
清真の馬車が完全に見えなくなったのを確認すると、志津の唇に冷たい笑みが浮かんだ。朝の光でさえ、その表情に宿る悪意を隠すことはできない。
「やっと邪魔者が消えたわ」
「仕掛けておいた策が始まったようね。遠く離れた郊外の怨霊騒動。これで少なくても清真さまは、今夜は帰って来れない」
囁くような声には、毒蛇のような冷たさが滲んでいた。彼女の手には、黒檀で作られた古い小箱が握られている。藤里家の蔵の奥深くから持ち出した、禁忌の品だった。
「お母さま、本当にやるのね」
乙音が母の袖をつかむ。その瞳には期待と残虐な喜びが入り混じっていた。かつて社交界で見せていた『清楚を装った』美しい令嬢の仮面は、もはや欠片も残っていない。
志津は懐から小さな小袋を取り出した。その中には人の小指ほどの、黄ばんだ骨片が入っていた。古い怨霊の遺骨——陰陽師の世界では決して触れてはならない禁忌の品。
「これで花凜に思い知らせてやるわ」
骨片を黒い箱に収める手が、歓喜に震えていた。箱の中から立ち上る瘴気が、朝の清浄な空気を穢していく。
「大量の怨霊どもが月宮邸を襲う。あの小娘は怯えて泣き叫ぶでしょうね」
志津の声が熱を帯びる。その様子は、まるで甘美な夢を語っているかのようだった。
「そして、その恐怖と絶望のまま死んでいくのよ」
「清真さまも後悔するわ」
乙音が母の言葉を引き継ぐ。彼女の顔もまた、醜い嫉妬に歪んでいた。
「私を選ばなかったことを、一生悔やむことになる」
乙音が母から箱を受け取り、自らの『霊力』を込めて行く。周囲で、不自然な風が渦を巻き始めた。地面から這い上がってくるような冷気が、彼女たちの裾を撫でる。『禁呪』が発動し始めている証だった。
朝日さえも避けるように、二人の立つ場所だけが薄暗い影に包まれていく。
母と娘は顔を見合わせ、同じような邪悪な笑みを浮かべた。もはや人間の表情とは思えない、純粋な悪意だけがそこにあった。
***
午後の陽光が応接間に柔らかく差し込んでいた。花凜は侍女頭の鈴をはじめとする使用人たちと、茶器を囲んで寛いでいる。日本茶や紅茶の甘い香りが室内に漂い、焼きたての菓子が籠に美しく盛られていた。
「花凜さまがいらしてから、屋敷全体が明るくなりました」
鈴が慈愛に満ちた眼差しで花凜を見つめる。その瞳には、心からの敬愛が宿っていた。
「皆さんが温かく迎えてくださるおかげです」
花凜は紅茶のカップをそっと置いた。藤里家での冷たい日々を思えば、この温もりは夢のようだった。
「ここは私にとって、本当の家族のような場所です」
その言葉に、使用人たちの顔がいっそう優しく綻んだ。若い侍女が嬉しそうに頷き、年配の使用人が目元を拭う。
「清真さまもお優しい方ですが」
年配の使用人が、皺の刻まれた手で新しい紅茶を注ぎながら言った。
「花凜さまがいらしてから、まるで氷が溶けたかのようにお幸せそうです」
花凜の頬が薔薇のように染まった。清真のあの自分の名前を呼ぶ時、特別な温度を持った声を思い出す。胸の奥で甘い痛みが疼いた。
ふと、白い影が視界を横切る。ユキが音もなく花凜の膝の上に飛び乗ってきた。絹糸のような毛並みに指を滑らせると、小さな喉鳴りが響く。
「姫さま、穏やかなお時間ですね」
ユキの声は優雅だったが、その紅色の瞳には微かな警戒の色があった。白猫の視線が、時折窓の外へ向けられる。
「今日は嫌な予感がする」
突然、窓辺に黒い影が舞い降りた。クロだ。三つの目が光り、羽を苛立たしげに震わせている。
「警戒を怠るな」
その言葉に、花凜の背筋に冷たいものが走った。穏やかだった空気が、急に重くなったような気がする。
窓の外を見ると、青かった空に薄墨を流したような影が広がり始めていた。雲とは違う、何か不吉なものが空を覆い始めている。
それまで和やかに、花凜たちの様子を見守っていた葵が、警戒心を高めた。
使用人たちも異変に気づいたのか、不安そうに顔を見合わせた。茶器を持つ手が、かすかに震えている者もいる。
「どうしたのかしら……」
平和な午後が静かに、しかし確実に終わりを告げようとしていた。
まだ夕暮れでもないのに、空が赤く染まった瞬間、異変は始まった。
屋敷の周囲に、墨を流したような黒い霧が湧き上がる。それは生き物のように蠢き、月宮邸を呑み込もうとしていた。庭の花が一斉に花びらを散らし始めた。まるで見えない手に摘み取られるように、美しかった花が次々と枯れていく。
「これは...!」
ユキの紅色の瞳が鋭く細められた。白い毛が逆立ち、小さな体から霊力が立ち上る。
「姫さま、危険です!」
花凜の背筋を氷の指が撫でたような悪寒が走った。窓の外の景色が、まるで水面のように歪んでいる。その向こうに、人ならざるものの影が蠢いていた。
屋敷の奥から、この世のものとは思えない唸り声が響き始めた。低く、粘着質で聞く者の魂を凍らせるような声。それは一つではない。幾重にも重なり、不協和音を奏でている。
「ひっ...!」
若い侍女が手にしていた茶器を取り落とした。磁器が床に散らばる音が、妙に大きく響く。老いた使用人は子供のように震え、互いに寄り添い始めた。
恐怖が瘴気のように屋敷中に広がっていく。
「来やがった!」
クロが大きな羽を広げ飛び立つ。三つの目が爛々と輝き、漆黒の翼が夕闇を切り裂いた。
「これは相当強い怨霊です! 大量にいます!」
その言葉が終わらぬうちに、部屋の隅に控えていた葵が退魔の剣を抜いた。刀身が妖しい光を放ち、周囲の空気が震える。
「花凜さま! 皆さんを奥の部屋に避難させてください!」
葵はこれまでの経験から瞬時の判断を下したのか、部下の一人を指差した。
「お前は急いで清真さまのもとへ! 屋敷が襲撃されていると伝えろ!」
「はっ!」
葵が、部下が抜けられるだけの血路をなんとか開く。その部下もかなりの手練だったが、怨霊の間を傷だらけになって抜けるのがやっとだった。
屋敷の外に出た部下が血相を変えて駆け出していく。その足音が遠ざかるのを聞きながら、花凜は抑えきれない不安に襲われる。
突然、屋敷全体が巨大な獣に掴まれたかのように軋んだ。壁に亀裂が走り、床板が悲鳴を上げる。そして、ガラスが砕け散る音と共に、月宮邸に張られていた結界が破られた。
瘴気を纏った怨霊たちが、割れた窓から、裂けた壁からなだれ込んでくる。それは人の形を留めていながら、人ではない何か。怨念の熱気が屋敷を満たしていく。
「きゃああああ!」
老使用人が悲鳴を上げた。怨霊の一体が、彼女の着物の裾を掴んでいる。必死に怨霊から逃れようともがいた。花凜の足が、その場に釘付けになる。
「あ……」
声にならない声が、震える唇から漏れた。全身に鳥肌が立ち、心臓が激しく鼓動する。怨霊の放つ禍々しい気配が、彼女を金縛りにしていた。
使用人たちが次々と襲われ始める。老若男女を問わず、怨霊たちは見境なく襲いかかった。悲鳴と泣き声が、助けを求める声が不協和音となって屋敷中に響き渡る。
怨霊の灰色の爪が、逃げ遅れた老使用人の肩に伸びた。
「やめて――!」
花凜の体が、意思より先に動いていた。花凜の足は震えている。息も荒い。それでも、彼女は一歩前に出た。心臓が喉元まで跳ね上がる。
「皆さんから離れて!」
その声は恐怖にがたがたと震えていた。だが、花凜は必死に声を振り絞る。
「花凜さま……ありがとう……ございます」
老使用人が、涙に濡れた目で花凜を見つめていた。
次の瞬間、ユキが花凜の前に躍り出た。白い体から冷気が立ち上り、氷の刃が空中に形成される。
「私が姫さまを、お守りします!」
ユキの放った氷柱が、迫り来る怨霊を貫いた。凍りついた怨霊が砕け散るが、すぐに別の怨霊がその隙間を埋める。
白猫はその小さな外見にもかかわらず清真の式神として、強い力を持っていた。並大抵の怨霊なら束になっても叶わない。だが、必死に氷の術を繰り出すが、あまりにも数が多すぎた。
「くっ...! キリがありません!」
ユキの額に焦りが滲む。それでも花凜から離れず、懸命に戦い続けた。
葵の剣が銀光を放ち、怨霊を切り裂いていく。しかし振り返った彼の顔には焦燥が浮かんでいた。彼の周りで戦っていた部下達も一様に苦戦を強いられていた。
「花凜さま、どうか奥へ!」
だが彼の願いは虚しく響いた。割れた窓から裂けた壁から、そして床下からさえも、新たな怨霊が湧き出してくる。それは黒い泥のように屋敷を侵食し、生者の温もりを奪おうとしていた。
***
帝都の郊外。巨大な怨霊が銀光に切り裂かれて、消滅した直後だった。
「月宮さま!」
馬を駆る使者が、土煙を上げて清真の前に滑り込んだ。馬は泡を吹き、使者の顔は蒼白だった。
「葵さまからの急報です! 屋敷が怨霊の大群に襲われています!」
清真の瞳が、一瞬で氷のように冷たくなった。そして次の瞬間には、青い炎のように燃え上がる。
「花凜——!」
陰陽師の一人が進み出た。彼らは事態の深刻さを察していた。
「ここは我々に」
「月宮さまが大物を退治してくださったので、残りは雑魚ばかりです。急いでお戻りください」
「ここは我々に任せて、すぐに!」
清真は一瞬だけ頷くと、虚空に向かって鋭い口笛を吹いた。怨霊たちと戦っていた式神を呼び戻す。
「感謝する! あとは頼む」
二つの巨大なオオカミが現れた。白色の天狼と漆黒の地狼。二頭の巨狼は、風のように軽やかに清真の前に着地した。
「屋敷が襲撃されている。急ぐぞ」
清真が天狼の背に飛び乗る。その銀髪が旋風に大きくなびいた。天狼が地を蹴ると、景色が流れるように後方へ飛んでいく。地狼もまた、雷鳴のような咆哮を上げて疾走を始めた。
二頭の速度は、地上の生き物のそれではなかった。風を切り裂き、大地を震わせながら、流星のように帝都中心地へと向かう。
「花凜、みんな……無事でいてくれ……」
清真の眉間に、皺が寄る。いつもは完璧に整えられた表情に、今まで見たことのない焦りが刻まれていた。
