【書籍化】月の神の花嫁〜魂の半身に狂おしく求められて【スターツ出版文庫・26年2月28日発売】


 帝都月華の夜が深まるころ、月宮家の屋敷は穏やかな興奮に包まれていた。今宵は、帝の第二皇子の孝斗皇子が主催の舞踏会。

 花凛にとって初めて、帝都の社交界デビューとなる重要な夜だった。

 花凜は侍女たちに囲まれ、身支度を整えていた。
 帝都でも滅多に手に入らない贅沢な素材で仕立てられたドレスは、清真が花凜に贈ったものだ。

 淡い青色の絹地に月と星々が銀糸で刺繍され、裾には美しい手縫いのレースがふんだんに使われていた。
 洋装のシルエットに和の美も感じさせるそれは、花凜のために清真が特別に誂えさせた一着だった。

 鏡に映る姿に、ときめく胸を抑えられなかった。自分が、こんな衣装を身にまとう日が来るなんて。

「本当に私で、良いのでしょうか……」

 花凜が不安げに呟くと、侍女頭の鈴が微笑んだ。

「花凜様、とてもお似合いですよ。清真様もきっとお喜びになるでしょう」

 ノックの音が響き、扉が開く。
 清真の漆黒の燕尾服に身を包んだその姿は、まるで夜空から降り立った月の王子のようだった。

 長い銀髪は後ろで結ばれ、月光を編み込んだかのような美しい輝きを放っている。その美貌は、花凜の時間を止めてしまうほど圧倒的だった。

 一方、清真もまた花凜を見た瞬間、言葉を失った。花凜が恥じらいに頬を染めて尋ねる。

「その……変ではないでしょうか?」

「花凜……」

 ようやく言葉を絞り出した清真の声は、深い感動でふるえていた。蒼い瞳に愛しさと畏敬の念が宿っている。

「美しい……まるで夢の中のように」

 清真の声は囁きのように優しく、その瞳は星明りのように輝いていた。

「世界中の言葉を集めても、君の美しさは表現しきれないな」

 彼は一歩近づき、花凜の前に騎士のように膝をついた。そして、手を両手で包み込むように優しく口づけを落とす。彼の唇が触れた手が、まるで魔法をかけられたように輝いて見えた。花凜の心に甘美な旋律が響く。

「今夜、君と共にいられることが、俺にとって最大の栄光だ」

 清真の言葉が、花凜の心に深く響いた。
 この人の瞳には私の姿が美しく映っている。その事実が、魂の奥底で小さな光を灯した。
 初めて感じる、自分への肯定感。それが彼女の輝きを内側から光らせ、本当の美しさを引き出していく。

 花凜が生まれて初めて、自分を愛おしく思えた瞬間だった。




 馬車が目的地に到着すると、帝都の浪漫の粋を集めた美しい洋館が姿を現した。赤煉瓦とクリーム色の石材で造られた建物は、帝都屈指の社交場として名高い迎賓館だった。

 ガス灯に照らされた白い大理石の階段を登ると、重厚な扉の向こうに豪華絢爛な大広間が広がっていた。天井の高いホールには、無数の水晶が煌めく巨大なシャンデリアが吊り下げられていた。

 それらが星座のような美しさで、空間を照らしている。シャンパンの泡が黄金色に染めるグラス。人々の華やかな笑い声。

 花凜と清真が入場すると、会場が静まり返った。

 帝都月華の英雄で、最強の月詠み師。その知名度と並び、他に比類のない月宮清真の美しい姿は、多くの視線を集める。特に女性たちは時が止まったかのように魅了されていた。

「月宮さまの美しさは、まるで月の神そのものね……」

「あの銀髪と蒼い瞳……」

「あの方と一度でも踊れたら、一生の思い出になるわ……」

 女性たちの熱い視線と称賛の囁きが、清真を追いかける。また、清真の隣に立つ花凜にも、別の種類の関心が向けられていた。

「あの方が、月宮さまの連れの方?」

「派手さはないけれど、なぜか目が離せないわ」

「あの控えめな笑顔が、かわいいわね」

 花凜は周囲の視線に気づき、恥ずかしさで足の先まで熱くなった。思わず俯きそうになったが、清真の手が彼女の背を支えていた。

「胸を張るといい。君はこの場にいる誰よりも輝いている」

 清真の言葉に力をもらい、花凜はゆっくりと顔を上げた。彼の瞳に映る自分は、どんな月光よりも美しく光って見えた。

 その時、会場の向こう側から、金月の髪色の美青年が二人に近づいてきた。

「清真、よく来てくれた」

 穏やかな笑顔と、楽器が奏でるような美しい声音。黒の燕尾服に身を包んだ、孝斗皇子だった。古い絵巻から抜け出した黄金の貴公子のような、人を惹きつけてやまない存在感。

 その気品ある佇まいは、生まれながらの皇族の風格を漂わせていた。

「孝斗、招待を感謝する」

 清真が微笑む。その表情は、いつもより柔らかく人間らしい。

「こちらが、うわさの花凜さんですね」

 皇子が花凜に太陽のように温かい笑顔を向ける。その優しさに包まれながらも、緊張で震える足でなんとか一礼した。

「は、はじめまして……ご招待いただき、ありがとうございます……」

 花凜が震える声で言うと、皇子は和やかに笑った。
「固くならないで、花凜さん」

「清真から、いつも聞いてるよ。彼がどれだけ貴女を大切に思っているか、よくわかる」

「わ、私のことを……?」

 花凜が驚いた顔で清真を見上げると、清真は、慌てたように咳払いをした。

「孝斗、余計なことを言うな」

 清真が言いにくそうに呟く。孝斗皇子はその様子を見て、心から楽しそうに笑った。

「普段ぶっきらぼうな、清真の人間らしい表情を楽しませてもらっているよ」

「君のおかげだ、花凜さん」




 花凜と清真が、皇子への挨拶をすませ会場の端に移動したとき、不穏な気配が近づいてきた。背筋に、冷たい風が吹き抜けたような悪寒が走った。

「まあ、花凜。なぜここにお前がいるの?」

 蛇が獲物を見つけた時のような、ぞっとする声が背後から響いた。振り返ると、そこには藤里家の継母の志津と義妹の乙音が立っていた。
 志津は高貴な紫の着物に身を包み、帯留めに飾られた宝石を見せびらかすように光らせていた。

 義妹の乙音はドレスを纏い、花のように美しかった。その顔には華やかな化粧が施されている。だが、どれだけ着飾っても隠しきれない、燃えるような花凜への嫉妬の感情が瞳に浮かんでいた。

 花凜の喉が締め付けられ、呼吸が浅くなる。せっかく清真と過ごしていた舞踏会の時間が、腐った果実のように一瞬で腐敗するような感覚を味わっていた。

「継母さま……、乙音さま……」

 花凜の声が恐怖でふるえた。清真が即座に一歩前に出て、自分を守るように立つ。

「藤里家の夫人と義妹か」
 清真の声は低くなり凍えるように冷たくなった。

「月宮様も本当に物好きでいらっしゃること。この小汚い娘を、皇子殿下の舞踏会にお連れになるなんて」

 志津は口元を歪めて微笑んだ。その笑みには毒蛇の牙が隠されている。

「彼女は単なる『月欠け』、能力もない無用の存在ですわ」

「ほんと、何のために生きてるのかしら? 生まれてきた価値さえない子です」

 志津の言葉は表面は絹のように滑らかだが、その実体は腐った毒の塊だった。
 花凜の小さな心臓が、継母の冷たい爪で血が滴るように引き裂かれていく。

 ――それはたとえ義理とはいえ、仮にも親子の関係にある母親が子供に向けて言う言葉ではなかった。
 あまりにも酷く、その言葉を受けた相手がどれほど傷つくかを計算している態度だった。

「それに、この娘は華族の作法なども身についていません。ここにいるだけで場が穢れますわ」

 花凜は思わず俯いた。継母の言葉が心に刺さる。どれだけ美しいドレスを着ても、やはり自分は『月欠け』なのだ。その烙印から逃れることはできない。

 乙音が清真に向かって、媚びた笑みを浮かべた。その瞳には下品な欲望と、歪んだ野心が渦巻いている。

「月宮さま、私なら貴方にもっとふさわしいですわ」

「このみにくい花凜に口説けたなら、私の完璧な美貌なら一瞬で貴方を虜にできますわね。――今夜のうちにでも、貴方のお部屋に伺いましょうか?」

 乙音が、舌なめずりするようなおぞましい表情を浮かべた。

 清真の表情が一層冷たくなる。彼の瞳からは温度が消え失せ、ただ冷たい月の光だけが残った。

「……ずいぶんと、失礼な物言いだな」

 その声は地獄の氷河のように冷たく、周囲の空気が凍りついた。

「俺が選ぶのは、花凜だけだ」

「他の誰も代わりにはならない。特に君たちのような腐った心を持つ者など、最初から眼中にない」

 乙音の美しい顔が嫉妬と怒りでみにくく歪む。その瞳に燃え盛る憎悪の炎が、彼女の仮面を完全に剥がし落とした。

「なぜ? なぜこんな無能な虫けらを選ぶの? 花凜は『月詠み』の力も持ってない。ただの欠陥品よ!」

 乙音の声には歪んだ劣等感が渦巻いていた。美しい顔が歪んでいる。何の力も持たない花凜を選んで、高い霊力を持っている自分を選ばない理由が本気で分からないと思っているような表情をしている。

「彼女の本当の美しさは、君には永遠に理解できまい」

 清真の冷徹な言葉に、乙音の顔がいっきに赤黒く染まった。

 怒りと屈辱でぶるぶると震える。彼女はワイングラスを持つ手をぐっと、握りしめた。その指先からは悪意という名の毒が滴り落ちているかのようだった。

「そんなに花凜が大切なら……!」

「きゃっ!」

 突然、乙音がワイングラスの中のいっぱいのワインを、花凜のドレスに向かって投げつけた。

 深紅の液体が花凜の美しいドレスを血のように染め上げた。冷たい液体が生地から肌へと浸透し、悲鳴を上げた。

「あら、ごめんなさい。手が滑ったわ」

 乙音の瞳が勝ち誇ったように輝いていた。志津も娘の姿を、よくやったというように邪悪な笑みを浮かべる。

「見なさい! みっともない花凜がワインまみれよ! やっぱりこんな場所にいる資格なんてないのよ!」

 乙音が悪意を込めて声高に叫び、会場の注目を集めようとした。大きな声を上げて笑い、皆の前でさらし者にしようとしていた。

「何をする!」

 清真が花凜を庇うように前に出た。その蒼い瞳が、乙音と志津を氷の刃のように睨みつけた。清真の声は低く、殺気立っていた。

 もしここが舞踏会の会場でなければ、彼は即座に行動に出ていただろう。

 花凜の瞳に、大粒の涙が溢れる。清真が心を込めて選んでくれた大切なドレスが。かけがえのない彼の心からの贈り物が、取り返しのつかないことに。

「大丈夫か、花凜!」

 清真が花凜の震える肩をそっと抱きしめる。その腕の中で、花凜は彼の心臓が怒りで激しく鼓動しているのを感じた。それでも彼女を包む腕は、羽毛のように優しかった。

 一触即発の空気が、会場に流れた時——。

「やめなさい」

 孝斗皇子が現れ、その美しい顔に普段見せることのない怒りを刻んでいた。温和な皇子の瞳が冷たく光っていた。

「藤里夫人、その娘子。そのような振る舞いは我が宮廷では許されない」

 皇子の声は静かだが、その底に燃える怒りが込められていた。皇子としての威厳と、客人を侮辱された憤りが混じり合っている。

 志津と乙音の顔から血の気が引いた。皇子の怒りを買うことの恐ろしさを、やっと理解したのだ。

「孝斗皇子殿下、これは事故で……誤解です!」
 志津が狼狽してあわてて弁解しようとしたが、すでに遅かった。

「誤解ではない。私は一部始終を見ていた」

 皇子の声は雷鳴のように厳しく、会場に響いた。その威厳に、周囲の華族たちも息を呑む。

「卑劣な行為だ。客人への、そして私への侮辱と受け取る」
 皇子が手を挙げると、即座に警備の者たちが現れた。

「この二人を会場から退去させよ。二度と立ち入り禁止とする」

「そんな! 私たちはなにも悪くないわ! このような扱いは……!」
 志津が必死に抗議するが、警備の者たちは皇子の命令に従い、容赦なく二人の腕を掴んだ。

「離しなさい! なぜ私たちが追い出されるの……! こんな能無しが、なまいきにも華族の舞踏会に来てる方が間違ってるのに」

 乙音が喚き散らしながら引きずられていく。その姿は、先ほどまでの気取った美貌とは程遠い、見苦しいものだった。

「このままでは済まさない! 花凜、覚えていなさい!」

 志津が最後の悪あがきで毒づくが、警備の者たちはものともせず、二人を会場の外へと運び出していく。
 周囲の華族たちも、あからさまに軽蔑の眼差しで二人を見送った。

 会場に静寂が戻ると、皇子が深く息を吐いた。

「申し訳ない、花凜さん。あの者たちは、陰陽師の華族の家系ということで、会場に通してしまったようだ。このような不愉快な思いを君にさせてしまった」

 皇子の声に、心からの謝罪の念が込められていた。

「代わりのドレスを用意させよう」

 皇子が侍女に指示を出した。だが、侍女が困惑した表情で言葉を返した。
「申し訳ございません。同じサイズのものが、すぐにはご用意できるかは……」

 そのやり取りを見守っていた清真が、何かを思ったように前に出た。
 汚れたドレスを悲しそうに見つめる花凜に、姫君に捧げるように優雅に手を差し伸べる。

「花凜」

「俺と一曲、踊ってくれないか?」

 清真の声は、春風のように優しく響いた。その瞳には、花凜への深い愛情だけが宿っている。

「でも……私のドレスは……こんなに汚れてしまって……」

 花凜が悲しそうに俯く。清真が心を込めて選んでくれたドレスが、自分のために汚されてしまった自責の念。そのせいで、彼女の胸は潰れそうになっていた。

「ドレスがどうであれ、君が君であるなら何も問題ない」

 清真の蒼い瞳が、世界で最も大切な宝物を見つめるように花凜を見つめた。その眼差しには、純粋な愛情だけがあった。
 宮殿の大広間で、オーケストラが華麗なワルツを奏で始めた。美麗な音楽が、天井高く響き渡る。耳に弦楽器の音色が聞こえてきた。

「……清真さま」

 花凜は恐る恐る頷き、清真の手を取った。指先から伝わる彼の体温に、彼女の心が震える。

「私、上手く……踊れません」

「構わない。俺に身を任せていればいい」

 清真がゆっくりと花凜にあゆみ寄る。その一歩一歩が、心臓の鼓動を早めていく。
 彼の手が、そっと腰に添えられた。もう一方の手で、彼女の震える指先を優しく包み込む。二人の距離が一瞬で縮まる。

 悲しみで俯いている耳元で、清真が囁く。その温かな息遣いが首筋を撫で、花凜の背筋に電流のような甘い痺れが走った。

「俺を見てくれないか。花凜」

 深い海の底を思わせる蒼い瞳が、すぐ近くで自分を見つめている。その距離の近さに、花凜は息をするのも忘れそうになった。
 清真の胸板の温かさ、包み込むような腕の力強さ——逞しい男性の存在感に、心は嵐のように波打っていた。

 清真の導きによって、花凜は顔をゆっくりと上げた。まるで雲の上を踊るかのような、不思議な浮遊感の中で、彼の蒼い瞳だけを見つめていた。

「君は美しい」

「瞳に映る光。その優しさ、君のすべてが」

 清真の声が低く響く。その声は優しい夜風のように耳を撫でた。花凛は言葉もなく、ただ清真の瞳を見つめる。その瞳に映る自分が、まるで夢の中の人のように思えた。

 彼の唇が柔らかな笑みを浮かべ、その瞳はこれまで誰にも見せたことのない温かさで輝いていた。彼の指先が背に添えられた手にわずかな力を込める。

 二人の距離がさらに縮まり、清真の胸の鼓動を感じるほどの近さになった。

「清真さま……」

 彼女の声はかすかにふるえていた。それ以上の言葉は必要なかった。その一言に、彼女の心のすべてが込められている。

「君は俺にとって大切な人だ。ほかの誰でも代わりにはならない」

 清真の言葉に嘘はなかった。彼の笑顔には、彼女の全てを受け入れる温かさがあった。胸におだやかな波が広がる。雪解けの水が春の息吹に溶かされるように、傷けられた心の冷たさが解けていく。

 清真は、花凜を静かに抱きしめた。その腕の中で、花凜の体がふるえた。彼の胸に頬を押し当て、彼の鼓動を感じる。心臓の音が耳を優しく叩く。この方の腕の中にいると、世界のやすらぎが感じられる。

「清真さま……私は……こんな私でも、貴方に大切にしていただける価値などあるのでしょうか」

 声はかすかに怯えていた。清真の胸に額を預け、心が揺れ動く。

「ああ、花凜ほど愛しい人は他にはいない。俺にもっと君を愛させて欲しい」

「たとえ世界が明日滅びると言われても、俺は最後の瞬間まで君だけを見つめ、『花凜』、君の名前を呼び続けるだろう」

 ワルツの最後の音色が流れる中、清真は花凜をわずかに引き寄せ、そっと額に唇を近づけた。花凜の息が止まる。

 その瞬間、彼の唇が花凜の額に触れ、優しく口づけを落とした。口づけは、二人だけの特別な約束だった。全身に甘い痺れが走り、花凛の心は清真の中に永遠に溶け込んだ。

 そんな二人の周りで、華族の令嬢たちが羨望の眼差しを向けていた。令嬢たちが手を胸に当てて、踊る二人に見とれていた。

 あの月宮清真が、これほどまで優しい表情をしているのを、今まで誰も見たことがなかったのだ。

「お似合いのお二人ね。見ているだけで胸が温かくなるわ」

 継母たちとの騒ぎを見かけていた人々の間から、自然と温かな拍手が起こった。それは花凜への応援と、清真への讃美を込めた、心からの賛辞だった。

「花凜さん、清真」

「君たち二人を見ていると、『月の半身の伝説』が――そして真実の愛が、紛うことなく本当のことなのだと感じられる」

 皇子が二人の姿を見守るように、微笑みながら呟いた。


***

 宮廷の門の外では、志津と乙音が怒りと憎悪に全身をふるわせていた。夜の闇が二人の歪んだ表情を際立たせ、月光が彼女たちの腐った魂を浮き彫りにしていた。

「私たちを追い出すなんて、許せない!」

「全て花凜のせいよ、私達は何も悪くないのに」

 志津が歯を噛みしめて唸った。その声は毒蛇の呪詛のようだった。皇子の宮殿から追い出され、二度と立ち入り禁止にされた屈辱に、彼女の顔はすっかり別人のように歪んでいた。

「これだけの屈辱、絶対に許さないわ! 皆の前であんな恥をかかされて……」

 乙音も顔を赤黒く染めてふるえていた。母譲りの悪意がその目から滴り落ちる。

「清真さまが、あの『月欠け』を選ぶなんて……どうして!」

 乙音の声は嫉妬の炎に焼かれ、理性の欠片も見えない。彼女の瞳に映る花凜に対する憎悪は、もはや殺意にも近かった。

「次はもっと酷いことをしてやるわ」

 志津の目が冷酷な光を帯びた。その表情からは人間らしい温かみが完全に消え失せていた。

「いっそ、花凜の命さえ奪ってやろうかしら。そうすればすべて解決するのよ」

「そうね、母上。いっそあの子がいなくなれば……」

 乙音の瞳が開いた。一瞬の戸惑いの後、同じ邪悪な光を帯びる。

 志津は、黒い紋章が刻まれた小さな袋を懐から取り出した。そこには禁断の呪術の道具が忍ばせてあった。

「あの娘を月宮家からも、この世からも消してやるわ」

 志津の顔に、もはや人間とは思えない憎悪が浮かんでいた。この女は、自分の欲望のためなら何でもする。たとえ義理とはいえ、娘の命を奪うことさえも。

 そんな彼女たちの姿を見ていた影があった。額に第三の目を持つ漆黒のカラス。クロは三つの目で継母たちの姿を記憶に刻み込むと、月明かりに翼を煌めかせた。