花凜が月宮家の屋敷に来て、数日が経っていた。
基本的な生活には慣れたものの、まだ心のどこかに緊張が残っている。
清真は公務で昼間は不在がちで、花凜はお屋敷の人々といっしょに過ごす時間が長かった。
「――花凜」
自分の名を柔らかく呼んでくれる清真。陽射しに透き通る銀の髪、微笑みかけてくれる宝石の蒼い瞳。
彼のすべてが夢のように美しくて優しくて、そんな人が自分のそばにいてくれることが、本当に現実なのか時々疑ってしまう。
今日も清真は朝早くから宮中へ向かった。馬車に乗る前、花凜に振り向いてくれた姿が、胸の奥で甘く疼いている。
「いってらっしゃいませ」
「ああ、行ってくる」
そう言った時の清真の微笑みを思い出し、花凜の頬がほんのり桜色に染まった。
屋敷に戻り、階段を下りる途中、花を生け替えていた年配の女性とすれ違った。
「花凜さま、おはようございます。今日も良いお天気ですね」
「おはようございます。お花、とても綺麗ですね」
女性は誇らしそうに頷いた。
厨房から様子を見に来た料理長に、花凜が声をかけた。
「いつもお料理が、とても食べやすくて美味しいです。ありがとうございます」
料理長は安堵したように微笑んだ。
「花凜さまのお体に優しいものをと思いまして。お気に召して何よりでございます」
日常のこんな小さな気遣い一つ一つが、花凜にとっては新鮮で温かい体験だった。
花凜は、広い屋敷を探索してみることにした。足音が吸い込まれていく静寂な廊下を歩きながら、ふと思う。この美しい屋敷の、まだ知らない場所にはどんな秘密が隠されているのだろう。
庭園に足を向けると、そこは想像以上に広大だった。
松や梅の古木が点在し、石灯籠が苔むした小径を照らしている。春の風が頬を撫でていき、花の香りが微かに鼻腔をくすぐる。鳥たちのさえずりが空に響いて、まるで別世界に迷い込んだようだった。
歩いているうちに、花凜は自分がどこにいるのかわからなくなってしまった。心細さが胸を締めつける。見上げると、同じような松の木ばかりで、来た道がまったくわからない。
「どうしよう……」
困惑して立ち尽くしていると、純白の毛玉が花凜の足元に現れた。小さな猫だった。
雪のように真っ白な毛並みに、小さな金の鈴がついた赤い首輪が愛らしい。まるで雲の上を歩く天女のような美しさに、花凜の息が止まった。
「まあ、可愛い……」
花凜が膝をついて手を差し伸べると、白猫がにゃあと鳴いて歩き始めた。
振り返って花凜を見つめる瞳は、まるで『ついてきて』と言っているようだった。その瞳が月の欠片のように美しく輝いていた。
ためしに白猫の後をついて行くと、無事に屋敷の入り口まで戻ることができた。小さな足音が石畳を軽やかに響かせて、まるで音楽を奏でているようだ。
「ありがとう、案内してくれたのね」
花凜が微笑みかけると、白猫がゆっくりと口を開いた。
「無事に、お戻りいただけて何よりです」
「きゃっ!」
花凜は思わず声を上げてしまった。猫が人の言葉を話している。心臓がドキドキと激しく跳ね、全身の血が逆流するような驚きが走る。でも、その声があまりにも美しくて、恐怖よりも感動が勝った。
「申し遅れました。私は清真さまの式神、ユキと申します」
白猫――ユキが優雅に一礼した。
式神とは、陰陽道の力で召喚され、使役された霊獣たちだ。術者の能力により召喚される形も違えば、能力も変わってくる。
「清真さまがずっと探し求めていらした半身、姫さまのことを心よりお待ちしておりました」
「し、式神……さんですか」
花凜の心臓がドキドキと激しく鼓動する。彼女は以前、式神という存在を清真のそばでみたことがあった。
巨大なオオカミの姿をしていて、だから式神とはもっと強く恐ろしいものだと思っていた。でも、こんなに上品で愛らしい存在が、清真の式神とは。
「驚かせてしまって申し訳ございません。でも、姫さまにご挨拶したかったのです」
ユキの声は鈴を転がすように美しく響く。
「よお、新入り」
突然、頭上から低い声が降ってきた。
見上げると、漆黒の羽根を持つ大きなカラスが枝に止まっている。額に第三の目を持つ、神秘的な鳥だった。夜闇よりも深い黒い羽根が、まるで闇の王のような威厳を放っている。
「新入り……私のことですか?」
「他に誰がいる。俺はクロ、この屋敷の情報管理の責任者だ」
カラスの姿をした式神が羽根を広げて飛び降り、花凜の前に着地した。その堂々とした態度に、花凜は思わず背筋を伸ばした。でも、その瞳には意外に温かい光が宿っていて、花凜の緊張が少しほぐれる。
「で、お前のこの屋敷の滞在状況はどうだ? 不満はないか」
「と、とても良くしていただいて……」
花凜が慌てたように答えると、クロが満足そうに頷いた。
「そうか、じゃあ次。清真への評価は?」
「清真さまは……」
花凜の頬がほんのり染まる。胸の奥で甘い痛みが脈打って、息が浅くなった。
「まるで『月の神さま』のように美しくて、完璧で……」
その声が恋する乙女の調べのように甘く震えている。思い出すだけで胸がときめいて、頬がますます熱くなる。
「おいおい、随分とあいつを買いかぶってるな」
クロが呆れたような声を出した。
「買いかぶりなんて!」
花凜が慌てて首を振る。その必死な様子に、クロの瞳に笑いが宿った。
「あいつだって人間だ。……まあ、正確には月の神の末裔で、異能種だが」
「でも私には、本当に完璧に見えます」
花凜の声が、甘く震える。
「清真さまはとてもお優しくて、先日も私が夜におちこんでいた時、ずっとそばにいてくださって……」
その夜のことを思い出すと、花凜は胸がぎゅっと切なくなった。清真の大きな手に包まれた温もり、優しい声で囁いてくれた言葉――すべてが宝物のように胸に刻まれている。
「――ほう、夜這いか。清真もやるな」
「よ、夜這い!?」
花凜の顔が真っ赤になった。全身の血液が一気に顔に上ったような熱さに、立っていられなくなる。
「そんなんじゃありません! 清真さまはただ、私が辛い時に……抱きしめてくださっただけで……」
言葉を口にした途端、それもまた誤解を招くと気づき、さらに顔が熱くなる。花凜は両手で頬を覆い、床に視線を落とした。
慌てて手をぶんぶんと振る花凜の様子が、あまりにも可愛いのか、クロは笑っていた。その黒い瞳には意地悪さよりも、むしろ愛嬌のある光が宿っていた。
「冗談だ」
クロが羽根を震わせてまだ、笑い続ける。その笑い声が意外に温かくて、花凜の胸がほっと緩んだ。クロの笑いに悪意がないことが伝わってきて、少しだけ恥ずかしさが和らいだ。
「忘れろ。とにかく、お前が大事にされてるのは分かった」
ユキが困ったような表情でクロを見つめる。その細い尻尾が小さく左右に揺れ、気まずさを表していた。
「クロ、変なことは言わないでよ。花凜さまをそんなに困らせて」
ユキの声には、諭すような響きがあった。
「そうだな。挨拶がわりに清真がどんな奴か知りたいか? 教えてやろう」
クロの瞳が悪戯っぽく光った。聞かれてもいないのに、自分から語り出す。どうやら言いたくて仕方ないらしい。
三つの目をしたカラスは羽根を少し膨らませ、得意げな様子で胸を張った。話をする前から、すでに楽しんでいるようだった。
「清真はな、普段は完璧だ。同じ男の俺から見ても、あいつはすごい」
クロの声に誇らしさが混じっている。その言葉からは主人への敬愛が感じられた。
「でも実はな、結構抜けてるところもある」
「昔、式神召喚で俺を呼んだ時、『美しい鴉よ』と詩的なことを言おうとして――自分の舌を噛んだ」
クロは真面目な声で語り始めたが、最後の部分では声が弾んでいた。その姿は妙に愛嬌があって、花凜は思わず微笑んだ。
ユキがあーあ、という表情で天を仰いだ。言っちゃった、という顔。紅い瞳が、クロのおしゃべりぐせを半ば諦めたように細められている。
「まあ、可愛らしい」
花凜がくすくすと笑う。その笑い声は、彼女自身も気づかないうちに、この屋敷に来てから徐々に増えていた音色だった。清真の意外な一面を知って、嬉しくなってしまった。
何もかも完璧だと思っていた人に、こんな可愛い一面があるなんて。それは花凜にとって、高嶺の花だった清真がほんの少し近づいてきたような感覚だった。
「可愛いだと? あの清真が?」
クロが目を丸くする。三つある目全てが大きく見開かれ、カラスの黒い顔に驚きの表情が浮かんだ。
「……まあ、お前がそう思うなら構わんが」
「あれほどの方にも、そんな一面があるなんて」
月の神の末裔という畏れ多い存在が、実は身近に感じられるという発見が、彼女の心に灯をともした。
「教えてくださってありがとうございます」
「クロさんは、このお屋敷で緊張している私を見て、和ませようとそんなお話をしてくださったのですね」
その純粋な感謝に、クロの羽根がわずかに震えた。カラスの漆黒の羽が、照れ隠しのようにパタパタと動く。
「べ、別にそんなつもりじゃ……」
照れているのが丸わかりだった。先程から威厳のあった式神が、こんな風に照れるなんて。花凜の胸が温かくなった。
「可愛いといえば、清真はな。昔はもっと愛嬌があって人懐っこかった」
昔を懐かしむように、クロの声が少し沈む。カラスの姿勢が変わり、羽が少し垂れ下がった。
「でも、あの事件で変わった」
「事件?」
クロの声には、これまでの軽やかさがなかった。代わりに、古い傷を思い出すような重みがあった。
花凜の胸に不安が走る。清真さまに何があったのだろう? 胸の奥で氷の刃が刺さったような痛みが広がった。
まだ出会ったばかりなのに、清真の苦しみを自分のことのように感じる自分が不思議だった。それでも、彼の痛みを知りたい、少しでも理解したいという思いが強くなる。
その時、ユキが慌てたように飛び上がりクロを制止した。白い影が素早く動き、クロの前に立ちはだかる。ユキの背中からは、普段は見えない淡い青白い光が漏れていた。
「クロ! それは……言わないで」
ユキの声には警告と懇願が混じっていた。
言葉を言いかけて、花凜の方をちらりとユキが見た。その瞳には申し訳なさと、どこか悲しみのようなものが宿っていた。
「……そうだな。いや、やめておこう」
クロが首を振る。黒い羽が空気を切る音が、静寂の中で妙に鋭く響いた。
「あいつが話したがらないことは、俺も言わん。いつか清真自身が、語る時も来るだろう」
その言葉に、言いたくても言えない何かがあるのだと理解し、花凜はそれ以上は問わないようにした。
花凜の心に深い疑問が芽生えた。清真さまの過去に何があったのだろう――その想いが胸の奥で静かに脈打っている。知りたいような、知るのが怖いような、複雑な気持ちが心を揺さぶった。
そのあと、ユキに案内されて回った月宮家の庭園は、想像以上に広大で美しく、時間が経つのを忘れるほどだった。散策から戻った花凜を、玄関で侍女が出迎えてくれた。
「花凜さま、お疲れではございませんか?」
「ありがとうございます。とても気持ちの良い散策でした」
侍女は安心したように頷く。
「それは何よりです。鈴さんがお茶の準備をしてお待ちしております」
部屋に向かうと、侍女頭の鈴が温かい笑顔で迎えてくれた。
「花凜さま、お疲れさまでした。お庭はいかがでしたか?」
「とても美しい庭園で、時間を忘れてしまいました」
鈴は嬉しそうに微笑む。
「花凜さまに気に入っていただけて、私たちも嬉しく思います。温かいお茶をご用意いたしましたので、どうぞごゆっくりとお過ごしください」
夕刻、西の空が茜色に染まる頃。花凜が屋敷の廊下を歩いていると、玄関から人の気配がした。振り返ると、清真が葵と共に帰宅したところだった。
「清真さま、お帰りなさいませ」
玄関先には、すでに鈴を始めとした使用人たちが何人か主を出迎えていた。花凜も屋敷の人々の中に立ち、小さく頭を下げた。まだぎこちなさが残る挨拶だが、朝よりは少し自然になっていた。
「花凜。今日は、何事もなかったか?」
清真の声には気遣いが込められている。蒼い瞳が彼女をまっすぐに見つめ、その視線には温かさがあった。
自分から報告しようと思っていた花凜は、嬉しそうに顔を上げた。
「お屋敷の方や式神の皆さんと仲良くなれました」
「皆さん、本当に親切にしてくださって。ユキさんが庭園を案内してくれて、クロさんともお話ができました」
言葉が次々と溢れ出す。花凜自身、こんなに饒舌に話せる自分に驚いていた。
「そうか、それは良かった」
清真はそう言って、花凜に柔らかな笑顔を見せた。
花凜の表情が朝よりも柔らかくなっているのに、清真が気づいたようだった。清真の瞳に、安堵の色が宿る。
花凜の心に、新しい家族への愛情が芽生え始めていた。この不思議な屋敷で、彼女の新しい人生が静かに開かれつつあった。
