七星(ななせ)はこんな風にならないでね』
幼い頃、絵本を読みながら母が言った。
キリギリスになるな、と。
真面目にコツコツやっていれば、人並みの幸せが手に入るんだから、と。
『約束』
その時母とした指切りを守って、私はアリ側の人間をやっている。
チームワークを重んじながら毎日コツコツ仕事を進める。
列から外れないように。



安東(あんどう)さん、悪いんだけど今日中にこの資料まとめおいてくれるかな。明日朝イチの会議で使いたいって言われちゃってさ」
夜七時半を過ぎて、先輩に言われる。
「何かわからないことがあればいつでも相談に乗るから」
〝そんなこと言っても、どうせ八時前には帰られますよね〟
「……はい。ありがとうございます」
浮かんだ言葉はもちろん言えずに飲み込んだ。
「安東さん、いつも頑張ってくれて助かってるよ」
それから愛想笑いのオプションを追加する。
そして八時。
「おつかれー」
予想通り、先輩は退社していった。
それから他の同僚や上司の背中も次々に見送る。
悪いと思っているなら、せめてあと十分でも十五分でも早く言ってくれないかな。
他の案件で残業予定ではあったけれど、それはその案件のための時間なのだから。
なんて思いながらの残業を終えて、会社を後にする。
七月上旬。
星の見えない都会の夜十時。
平日は朝から夜遅くまで、家と会社の無限ループ。
彼氏とだってしばらくデートなんてできていない。
それが安東七星、二十四歳の夏。

会社を一歩出た瞬間、海の近い街特有の潮風の交じった生ぬるい空気が顔から全身を包む。それと同時に、耳にイヤホンを差し込む。
通勤と帰宅の道のりで聴くtaTeHa(タテハ)の曲だけが、最近の私の癒し。
taTeHaというのはデジタル系の音楽クリエイター。
楽曲はインストゥルメンタルがメインで、ときどき歌手やバーチャルアイドルとのコラボ曲なんかも発表している。
顔出しはしていないから、十代とも三十代とも言われていてよくわからない。
彼女の奏でる音はデジタルなのにどこか温かみを感じるような優しいメロディ。心にじんわりと沁み込んでくるような。
taTeHaの曲があれば、残業続きの仕事だって頑張って乗り切れそうな気がする。

だけどその日、その瞬間、私のささやかな幸せに邪魔が入った。

――真昼間(まっぴるま)から眠りたい
――なにもかも無責任に投げ出して
――裸足で駆け出したい
――真夜中にだって太陽は輝いてる

駅前の建設中のビルの前で、男性のストリートミュージシャンがアコースティックギターを片手に歌っている。
イヤホンの中の優しい音を消し去るようなギターの大きな音と歌声。
たしかにこの付近は以前から時々、いろんな人たちがギターの弾き語りなんかをしている場所だ。
有名なアーティストがアマチュア時代に活動していたと言われているおかげで街の規制もゆるい。
それにしたって、爆音というくらいに掻き鳴らしていて、はっきり言ってうるさい。
耳の中に土足で入り込まれたような、最低な気分。
こんな日はさっさと電車に乗ってしまおうと、歩を早めた。

けれどそれから毎晩毎晩、彼はあの場所にいるようで、残業した日は必ず遭遇している。
一週間も経てば彼のオリジナルらしい曲の歌詞も覚えてしまった。
〝くだらない〟って言葉がぴったりの歌詞。
何にも考えてない人間の歌って感じ。
実際、爆音に誰も足を止めないらしくいつも一人ぽつんと歌っている。
一体昼間は何をしている人間なのだろう。
夜だというのに帽子をかぶっているから顔はよく見えない。なんとなく見える輪郭や声の感じからすると年齢は私くらい?
どうせまともな社会人じゃないんだろうな。
……なんて、とても口には出せないような失礼なことを考えながら眺めていたら一瞬目が合った気がして、とっさに進行方向を半歩斜めにずらす。
それからごまかすようにイヤホンを耳に押し込む動作をして見せた。

これといった特長もないような、それなりの偏差値の普通の大学を卒業して、第一志望だったわけでもない会社で営業の仕事をしている。
それが私。
この仕事が向いているのかどうかはまだわからない。
だけど勤続年数で表彰があるうちの会社は、長く働きやすい会社だってことだ。
福利厚生だってきちんとしている。
少しくらい嫌な先輩がいたって、嫌な取引先があったって、波風立てずに働いていれば安定した未来が待っている。
――〝なにもかも無責任に投げ出して  裸足で駆け出したい〟
賢明な人間は、そんなことしない。
だからきっと嫌いなの。あの人が。
私が一番疲れている時間に、あんなくだらない歌を聞かせてくるキリギリスだから。
あそこを通るたび、母の言っていたことが正しかったんだって実感する。
毎日毎日、彼の前をただ無視して通り過ぎる。
私にできるのはそれだけ。
耳にはtaTeHaの音だけが響いていて欲しい。
そう思っていたのに……。

「真夜中にだって太陽は――♪……あ」
一人暮らしの自宅のキッチンでハッとして、誰に見られているわけでもないのに眉を寄せる。
この一週間で何度こんなことがあっただろうか。
あのくだらない歌は妙に耳馴染みが良いせいで、気づくと小さな声で口ずさんでいる。
実に腹立たしいけれど、本音を言えばメロディ自体は嫌いではないから厄介だ。



七月中旬。
絶望的なネットニュースの見出しが目に飛び込んできた。
【taTeHa、音楽活動休止を発表】
「うそ……」
通勤電車の中で思わず声に出してしまった。
記事によれば、彼女は心の疲労を訴えて八月からの無期限の活動休止を表明したとのことだ。
もちろん心配になるけれど、同時に親近感も芽生える。
taTeHaの曲はゲームやアニメにも楽曲が起用されていて、そのファン層とも親和性が高い。
顔出ししていないことが彼らの関心の対象になって、ネット上では〝銀髪の美少女らしい〟〝オッドアイだって聞いた〟〝牙が生えてる〟なんて、まるでファンタジー作品のキャラクターのような人物像が作り上げられている。
だからどこかで、taTeHaなんて実在しないような気さえしていた。
だけど彼女にも悩みがあったんだ。
こんなきっかけだけれど、急にその存在が現実味を帯びる。
「でも休止……」
新曲が出なくても、今ある曲を繰り返し聴けばいい。
わかってはいても、心の支えが無くなってしまうようで胸がざわざわと不安な音を鳴らす。

マイナスなことって連鎖する。
その日の夜、会社を出てスマホを見ると彼氏の有介(ゆうすけ)からのメッセージが届いていた。
【もうお互い、次の相手を探した方がいいと思う】
大学卒業から付き合っていたから一年半くらい?
最後に会ったのはいつだっけ……?
【仕事がんばれよ!】
付き合い始めてからもらった一番長いメッセージの最後は、そんな言葉で締められていた。
本心かもしれないし、嫌味かもしれない。
仕事に追われて時間も無かったけれど、デートをする体力なんて残っていなかった。
最低な彼女だった。そんなことにはとっくに気づいていた。
ため息をついて、それから指を画面の上で何度も行ったり来たりさせる。
【ごめんね。いままでありがとう。有くんのことも応援してる】
それだけ返すのが精一杯。
びっくりするくらいあっさり失恋。
なんだろう、このtaTeHaに感じた現実味と反比例するような現実味のなさは。

推しも、彼氏も、みんな私から離れていってしまった。
いつもはイヤホンを差しているはずの駅までの道のり。
今は気持ちに風が吹いているみたいに落ち着かなくてそれどころではない。
だから今夜は彼の音と歌声がダイレクトに耳に響いてくる。
吸い込まれるように足がそちらに向いていて、気づいたら声をかけていた。
「あの!」
彼は少し驚いたようで、ギターを弾く手を止めた。
「何か弾いてくれません? 元気が出る感じの曲」
「……リクエストとかやってないんで」
冷たく断られてしまう。
「だいたいあんた、いつも怖い顔で通り過ぎてくだけじゃん」
嫌悪感にまみれていた顔は、しっかり認識されていたんだ。
「何よ……」
だけどそんなの当たり前じゃない。
「あんなに大きな音で、毎日毎日……人の、人の耳に土足で入って、きたくせに――」
「え」
そこまで言ったらなんだか泣けてきてしまった。
「こっちは、好きなアーティスト、が活動休止する、し彼氏とは別れるし、ざ、残業だって――」
ぶわって、涙が噴き出すみたいに溢れてきた。
それから五分以上は泣いていたと思う。
顔はハンカチで拭っても、涙と鼻水でぐちゃぐちゃだ。
その間、彼がどんな表情をしていたかはわからないけれど、歌もギターも止まったままだった。
「……ずびません……演奏の邪魔しちゃっで」
鼻を啜りながら謝る。
大の大人が、往来の片隅で立ったまま泣いていた。
当然、落ち着いたらこれ以上ないくらい恥ずかしくなる。
明日からどんな顔でこの道を通ればいいのか……。
「いや、むしろ嬉しかったかも」
彼の口角がニヤリと上がった。
嬉しい? どういう意味? 他人の涙を見るのが趣味とか?
思わず怪訝な表情を浮かべてしまう。
「ところでお姉さん、taTeHaのファン? そのキーホルダー」
指さされたのは、カバンに付けているtaTeHaのグッズのキーホルダーだ。
「さっき活動休止って言ってたし」
ニュース記事の見出しを思い出して、それから小さくため息を漏らしてからコクリと頷いた。
「ふーん、そっか」
彼は考えるように一拍間を開けた。
「特別にリクエスト受け付けた」
「え?」
それから彼が弾き始めた曲に思わず感嘆の声を漏らしてしまった。
「嘘でしょ……」
だって、デジタルで複雑な音だって思っていたtaTeHaの最新曲をギター一本で再現してしまったから。それもきっとかなり上手い。
アコースティックになると曲の優しさが際立つ……なんて思っていたら周りが騒然とし始めて徐々に人が集まって来た。
「え? 上手くない?」
「この曲知ってる、あれだよね」
みんながガヤガヤと話す声が聞こえる。
当たり前だ、こんなに上手いんだか――
「え」

――真昼間から眠りたい
――なにもかも無責任に投げ出して

あろうことか彼はtaTeHaの優しいメロディに、あの歌の歌詞を乗せて歌い始めた。いつものようにギターも爆音になる。
「ちょ、ちょっと……」
思わず歌を止めたくなる。
歌が始まったら周りの人たちは波が引くように方向転換をして、駅に向かって歩き出した。
あっという間に私と彼の二人きりに戻り、そこで彼は満足げに曲を終えた。
「ご清聴ありがとうございました」
「あの」
「ん?」
「taTeHaの曲に勝手に歌詞なんか付けないでください」
「なんで?」
まるで歌詞を付けて当然とでも言うように聞き返される。
「なんでって、ダメだと思います!」
「taTeHaがダメって言ってんの?」
「……それは、言ってないと思います……けど」
「だったらいいでしょ別に」
そんなの屁理屈だ。
あえて言ってないだけで、こんな歌詞は彼女だって嫌がるに決まっている。
「彼女の曲は完成してるんです」
「頭固いなあ」
苦笑いでため息をつかれてしまった。
「もう一曲弾こうか?」
「結構です」
向けられた笑顔にムッとして、それから私もクルッと向きを変えて駅に向かった。
彼は耳だけじゃなくて、人の好きな物にも土足で踏み込める最低な人間なんだ。
一時の気の迷いで話しかけたりしなければ良かった。

毎日毎日、彼の前をただ無視して通り過ぎる。
私にできるのはそれだけだってわかっていたはずなのに。



それからさらに一週間が経って、七月ももう終わろうとしている。

つまり、taTeHaの活動休止が迫っている。
といってもあれから新曲が発表されたわけでもないのだから、もう活動休止しているようなものなのかもしれない。

毎日毎日、相変わらずあの歌は私を苛立たせている。
彼のいるあの場所は、あれからずっと無視して通り過ぎている。
だけどあれ以来、前を通ると『おつかれさまです』なんて声をかけられるようになって、余計にイライラしてしまう。

金曜日。
その日は朝からめずらしくスマホが実家の母からの着信を知らせた。
「え?」
『だからあんたの大学の教科書、捨てておいたから』
「どうして?」なんて聞いたところで、『地域の古紙回収の日だったから』という理由が返ってくるだけだ。
『七星の部屋、だいぶすっきりしたわよ』
「そっか……。ありがとう」
母との電話はなんとなく疲れてしまう。
『そういえば、有介くんとは順調?』
「え……と」
言葉に詰まる。
『なあに? ケンカでもしたの? さっさと謝りなさいよ?』
「……ケンカなんかしてないよ」
ケンカにはならなかったのだから、嘘はついていない。
母と話す時はいつもそう。
嘘はないけど、本音もない。

朝からなんとなく疲れた日、やっぱりマイナスは連鎖する。
夜七時。
「これって在間(ざいま)さんの案件だったはずじゃ――」
「でも間違ったデータで資料を作ったのは安東さんだよね」
客先に提出する資料のデータが一年古かった。
〝今日中にメールを送ると言ってあるから、修正して深夜でもいいからメールしろ〟という、先輩からの暗黙の残業命令が下った。
社内サーバー内のデータの場所を教えたのは在間さん。そのチャット履歴だって残っている……けれど、新卒で入社してから後輩社員が入社していない私はいつまで経っても一番下。逆らうことなんて許されない。
これから資料に目を通して、それに合わせて最新データとの比較内容も更新して……一体何時までかかってしまうのだろう。
十一時半を過ぎて、やっとメールの送信ボタンを押せた。
在間さんは当然のように八時には上がっていて、オフィスには影も形もない。
ため息を通り越してうなだれてしまう。
「終電、間に合わなかった……」
スマホの時刻表示を見てつぶやく。
残業になっても終電にだけは間に合わせて、経費で落ちないタクシー代という無駄な出費をしないことだけは守ってきたのに。
母の電話で朝から気持ちが沈んでいた今日。
はっきり言ってムシャクシャしていた。

「できもしないくせに……あんな歌、歌わないでよ」
ギターをしまっていた彼に遭遇し、思いっきり八つ当たりの言葉を投げつけてしまった。
だけどこれは本心だ。
――なにもかも無責任に投げ出して
――裸足で駆け出したい
できっこないくせに。夢や理想を無神経に投げてきたのは彼の方だ。
「なんかあった?」
彼は失礼な私に怒るでもなく、嫌味を言うでもなく、落ち着いた声で問いかけた。
「いつもいつも、ひとが一番疲れてる時間に」
それなのに私は、言葉を止めることができない。
「こっちはあなたが遊んでいる間に終電逃してまで働いたんだから! 本当にムカつく!」
「落ち着けよ」
喚く私に、彼が困惑している。
「そこ! 何やってる!」
「やべ、警察」
彼の言葉にハッと我に返る。
揉め事だと思われて、警察官が寄ってきてしまった。
「〝できもしない〟かぁ」
彼がぽつりと言った。
「君たち、少し話を――」
「責任とって付き合ってよ」
「え」
そう言った彼が、私の腕を引っ張って走り出した。



彼に連れてこられたのは駅から徒歩十五分ほどの海辺だった。
港というわけでも砂浜というわけでもなくて、広い駐車場の先に低い防波堤があるようなところ。潮のにおいがして、空気に少しだけ水を含んだような重たさがある。
一年以上この街で働いているけれど、この辺りに来るのは初めてだ。
駐車場の照明にカツンカツンって、虫がぶつかる小さな音が聞こえてくる。
「上れる?」
先に防波堤に上った桐谷(きりたに)さんが尋ねる。
ここに来る道すがら、私たちはお互いの名前を教え合った。私は七星、彼は桐谷、と。嘘か本当か、同い年だと言っていた。
私は「上れる」と頷いて、運動不足だなというぎこちない動作で防波堤に上がった。



『ちょっと! 待ってください!』
警察官が見えなくなって、私が走りながら彼に声をかけると彼は立ち止まった。
『付き合うってなんですか!? どこに?』
『どこでもいいじゃん』
『はぁ?』
『〝なにもかも無責任に投げ出して、裸足で駆け出したい〟んでしょ?』
投げつけた言葉が返ってきた。頭が冷えてしまえば、顔から火が出そうだ。
『あんなの、別に……私、帰ります』
『もう電車ないんじゃないの?』
確かにさっき、そう言った。
『タクシーで帰ります』
出費は痛いけれど仕方がない。
『お姉さんさ、ずーっとここに縦線入ってる。今日は特に』
彼は帽子の上から眉間を指差した。
『たまにはストレス解消した方がいいんじゃない?』
微笑みは優しいけれど、それも含めてものすごく怪しい誘い。
普段の私なら即座に断っている。
だけど……。
――『今日は特に』
今日は、そんなことどうでもいいような気分だった。
『あなたに消せるの? 私のストレス』
きっと不遜な顔をしていた。

だって、はっきり言ってムシャクシャしていたから。



海水が壁に当たるトプントプンという小さな音が暗い足元から聞こえて、ロマンチックというよりは少し不気味な雰囲気もある。
防波堤の上には、途中で寄ったコンビニで買ったお酒数缶と水、それから剥き出しのギターも置かれている。
桐谷さんは『ギターケース忘れたな。まあいっか』と言って笑っていた。
「じゃあ乾杯」
「乾杯」
二人並んで腰掛けて私は缶チューハイで、彼は缶ビールで乾杯した。
それをひと口飲んで、空を見上げる。
空には半分くらい欠けた月が輝いていて、足元からは相変わらず水の音が聞こえてくる。
よく知らない人とこんなところでお酒を飲むなんて瞬間が自分の人生に訪れるとは思わなかった。
「少し……ちょうど良かった」
「え?」
「お礼が言えてなかったから」
その言葉に彼は不思議そうな顔をした。
「この間。私のために演奏してくれたのに、お礼も言わずに失礼な態度で」
その上、先ほどの無礼な態度。
「ありがとうございました……それに、さっきはごめんなさい」
「どういたしまして」
そう言った彼がニヤリと笑ったから、こちらは少し不機嫌になる。
「でも、文句も言いたかったけど」
「何? 毎日うるさいって?」
「それはこの間言いました。そうじゃなくて、taTeHaの曲」
「曲?」
「あれ以来、あの曲を聴くとあの歌詞が浮かんでくるようになっちゃったじゃない」
ぼやくような私のクレームに、彼は一瞬ポカンとして、それから大きく吹き出したかと思ったら『ははは』と盛大に笑し出した。
「笑いごとじゃないんだから!  あんな変な歌詞」
「あー悪い悪い」
と言いながらずっと笑ってる。
「私にとっては大事な曲なのに」
桐谷さんはおもむろにギターを抱えた。
「ならお詫びする」
「どうやって?」
「なんでも弾かせていただきます」
私があからさまに不満そうな目を向けて、彼の笑顔が苦笑いに変わる。
「いや、歌わないって」
「……じゃあこの前と同じ曲」
桐谷さんは、宣言通り最後まで歌のないtaTeHaの曲を静かな音のまま奏でてみせた。
「ギター、上手ですよね。素人の意見だけど」
普通はこんな風に弾けないのではないだろうか。
「どうも」
彼は口元に笑みを浮かべたけれど、なんだか含みを感じた。
「……なんで休止しちゃうのかなぁ。taTeHa」
「こんなに素敵な曲を作れるのに」と心の声をついつぶやいてしまった。
「重荷が増えてがんじがらめで、面倒になったから。だから自由な音楽がやりたいし、旅行にだって行きたいし」
桐谷さんが言ったから、彼の顔を見た。
「何それ。予想?」
「予想っていうか、俺がtaTeHaだから」
彼はフッて小さく笑った。
「…………ふ」
「え?」
「おもしろくない。その冗談」
おもしろくないけれど、吹き出してしまった。
「taTeHaって女性でしょ?」
「性別不明じゃなかったっけ」
「そういうことになっているけど、曲が柔らかくてMVがいつもお花だから。ネットでも若い女性だって意見が多数派。女性だって言い切ってる関係者の人もいたかな」
私の予想では年齢は二十代。
「いるよな、自称関係者」
桐谷さんは呆れたように鼻で笑う。
「そんな理由なら、俺だって花好きだし」
まだtaTeHaごっこが続くらしい。
「私だって好き、お花」
「じゃあ七星もtaTeHaかも」
不意打ちで〝七星〟って名前で呼ばれて、ほんの少しだけ心臓が跳ねた気がした。
下の名前しか教えていないのだから当たり前なのに、この人の声は大声で歌っていなければ落ち着いていてかなり心地良い。
「でも、桐谷さんもtaTeHaのファンでしょ」
「え?」
私はカバンのキーホルダーを手のひらに乗せるようにしてチラリと見せた。
「このキーホルダー、初期のロゴだから。これでファンだってわかる人は、同類」
そう思えば、ギターで弾けてしまうのも納得だ。勝手に歌詞を付けるのはいただけないけど。
「だから本人だって」
まだ言っている、と「ふふ」と笑う。
「私もtaTeHaかぁ……だったらよかったなぁ。あんなに才能があって、ちゃんと好きなことをやってて」
投げ出した足のつま先を見ながら小さくこぼす。
「私にはそもそも好きなことが無いけど」
チューハイを口にする。
「熱中するような趣味も無いし」
言いながら、心が冷えていく。
「……彼氏と別れても、心が全然動かないような人間だし」
「あんなに泣いてたのに?」
一度目の醜態を思い出して少し恥ずかしくなりながら、私は小さく頷いた。
「あの涙はそんな綺麗なものじゃないの。私って空っぽなんだなって、そういう……自分のことを嫌って蔑む涙」
「よくわからないな」
私が言葉に迷って無言でつま先を見ていたら、右隣から優しいギターの音が聴こえ始める。先ほどとは別のtaTeHaの曲。
「『アリとキリギリス』」
ようやくポツリと口にしたのがそんな唐突な言葉だったから、彼はますますわからないという顔でこちらをチラリと見た。
「知ってるでしょ? 童話」
「夏の間、楽器を弾いて遊んでばかりだったキリギリスが、冬を越せずに死ぬ話」
気持ちいいくらい身も蓋もない要約だ。
「子どもの頃に母がその絵本を何度か読んでくれて、そのたびに約束させられたの」
「約束?」
「〝キリギリスにならない〟〝不真面目な人間にならない〟って。子どもに真剣に約束させるの、私の母は」
母との指切りを思い出すと、息苦しくなる。
「真面目に、きちんと、高望みはしなくていいからレールから外れないように……って」
別に勉強で一番になれだとか、難しい資格を取れだなんて言われたことはない。
「それでいいって思ってたの。平穏で、静かなら」
またお酒をひと口。
「……桐谷さんの、趣味って何ですか?」
「趣味? まあ、音楽……かな」
「いいですね、音楽。ギター()上手だし」
「歌は?」
問われて思わずノーコメントで苦笑い。
聞けばやっぱりみんな、趣味があるんだ。
「私には無いから」
「一つも?」
彼の質問に頷いて、自分の過去に思いをめぐらせる。
「中学の頃まではピアノを習ってたの。だけど母に『プロになることは無いんだから』って言われて、中途半端なところでピアノ教室を辞めて」
楽譜は全部処分されてしまった。
「高校では美術部に入ってた。でも『美大に行くわけじゃないんだから』って、高二の時の大きなコンクールの前に辞めるように言われて、道具もすべて捨てられて」
「続けたいって思わなかった?」
私は首を横に振る。
「母が不機嫌になるから。幼い頃から、少しでも言うことをきかないと。家族なのに、無視……されたり」
胸がギュッと締めつけられる。
「そういう時の表情もその状況も、子どもの頃から苦手で。そんな母に逆らってまで続けたいことが無かった」
投げ出した足は自分のものなのに、どこか他人のもののように所在なく揺れている。
「だから彼氏も、無意識だったけどそういう相手を選んでいたの。大学の同級生で、お互いがそれなりの会社に就職してから付き合い始めて。安全な交際っていうのかな」
ギターの音は曲を奏でるのをやめて、ずっと一定のメロディを繰り返している。
なんだか少しキザ(・・)って言葉が似合うかも。
「でも泣いてた」
「……だから、あれは」
またため息が漏れる。
「あの日……彼から別れようってメッセージをもらって」
そもそも、別れの言葉がメッセージだったというのも関係性が露わだ。
「しばらく画面とにらめっこして考えても【ごめんね】【いままでありがとう】【あなたのことも応援してる】その三つしか浮かばなかった。後から、『ああ、普通は電話したのかな』なんて思ったりして」
だけどそんなこと、まったく考えもしなかった。
「別れるまで、三か月もまともに会ってなかった」
「遠距離?」
首を軽く横に振る。
「全然。電車と徒歩で一時間もかからずにたどり着く距離」
それでも、三か月も会わなかった。
「会いに行こうって思えなかった。仕事でヘトヘトで――」
言いながら、自分で否定するように首を振った。
「なんて嘘。違う。三か月も、休みの日の一日すら彼との時間に充てたいって思えなかったのよね、結局。……会えば余計に、疲れてしまうなんて思っていたから」
休みの日はベッドに横になっている時間が平日よりは長かったけれど、一人で買い物にだって行ったし、taTeHa関連のイベントなんかにも顔を出した。
彼を嫌いだったわけではないけれど。
「恋じゃなかったんだって、母の顔色をうかがうための彼氏だったんだって、あの日気づいちゃった」
だから胸が空っぽになったみたいだった。
「心の……彼の場所だと思っていたところには初めから何も入っていなくて、taTeHaが休止してしまうことは本当に日常の中の絶望って感じで……」
私の心は、taTeHaの方が埋めていたんだって気づいた。
「彼からのメッセージに【仕事がんばれよ】って書かれていて、私って仕事で忙しぶってるイメージしかないのかな? そんなことないはずだ、って思ったのに――」
苦しさで、ふぅ、と一拍間を置く。
「メッセージの履歴には【忙しくて会えそうにない】【今日も残業だった】って、仕事ってワードばっかり」
私って本当に空っぽだった。
「今日は?」
「え?」
「今日もまた様子がおかしかったけど。なんかあったんじゃないの?」
「様子がおかしいって……」
苦笑いして缶を口に当てた。
「先輩が原因のミスで残業して、会社に入って初めて終電に間に合わなかった。だーい好きな仕事にも裏切られたの」
酔いが回ってきたのか、少しだけ思考がぼんやりとしてきた。
「本当に好き? 仕事」
「え?」
「俺から見た七星は、とてもそんな風には見えなかったな」
――『だいたいあんた、いつも怖い顔で通り過ぎてくだけじゃん』
あの日言われた言葉を思い出す。
「……見られてたなんて思わなかった」
私のつぶやきに、桐谷さんは小さく笑った。
「七星くらいだったから」
「え?」
「毎日毎日、俺の歌に反応して行くのが」
「反応?」
「他の人は一回チラリと見たら、次の日からは完全スルー。七星は毎晩のように遅い時間に疲れた顔でこっちを軽く睨んでイヤホンはめながら通り過ぎる」
見ていたつもりが、むしろこちらの方が観察されていたのだと知る。
「すっげえ嫌われてんだなって思ったら、突然リクエストとか言ってくるし。断ったら泣き出すし」
バツの悪さでチューハイの缶を顔から離せない。
「……思った通り、いっぱいいっぱいな子だったんだなって思った」
彼の方を見ると、ギターを弾く手を止めて、眉間を指さした。ずっと帽子は被ったままだ。
「ここの縦線。夜中でも視認できるって相当だろ」
私の眉間のシワってそんなにすごいんだ。
「一生消えなかったらどうしよう」
そうこぼしたら彼はまた笑った。
「俺、半分くらいは、七星のために歌ってたよ。あの怖い顔のお姉さんに届くといいなって」
彼の言葉にときめきを少しだけ含んだ驚きを感じつつも、言ったそばから眉間にシワがよる。
「だから〝人の耳に土足で入ってきた〟って言われてちょっと嬉しかった」
満足げに言われてしまう。
「……でも私、あの歌詞嫌いです」
こういう時、お世辞を言う方がラクだって知っているのに。
「できないことと、嘘の歌詞だから」
「できるかできないかはともかく、嘘は言ってない」
思わず彼の顔を見た。
真夜中に太陽(・・・・・・)なんて、輝いてないじゃない」
「輝いてるよ」
「どこに?」
目の前には、黒い海と月が揺らめいて輝いているだけだ。
「地球の裏側」
ますます眉間に力が入る。
「屁理屈」
「たとえ嘘でもいいと思うけどな、歌の中くらいは」
「……そんなこと――」
わかっている。私にだって。
言葉が胸につかえて上手く出てこない、そう思ったタイミングで、彼が例の曲を掻き鳴らし始めた。
「信じらんない」
シリアスな場面だと思っていたのに。
そして当然のように歌い始めるから、なんだか負けたように笑ってしまった。
「七星も歌えよ。ストレス解消」
お酒のせいもあって「もう、ヤケ」って、自分でも信じられない言葉と行動。

それから大きな声で叫ぶように、あの歌を歌った。
何回も何回も。

バカらしい状況と、あの歌詞にまた負けた気がして大きく笑ってしまう。
「悔しいけど、気持ちいい」
ひとしきり歌って、ずいぶんスッキリした気がする。
こんなに大声を出したのはいつぶりだろう。
「私、この歌のメロディだけは好きなの」
「taTeHaのファンとしては正しいよ」
まだ言ってる。
「……今夜は、母のことでもムシャクシャしてたから」
今朝の電話。
こんなことまで話すつもりではなかったのに、状況とお酒にのまれてハイになっているのは自分でもわかる。
「何の断りもなく、実家に残してあった大学の教科書を全部捨てられちゃって」
「教科書?」
「うん。どうでもいいって思うでしょ?」
彼は何も言わないけれど、きっとそう思っている。
「私、大学の授業でtaTeHaを知ったの。適当に選択した作曲論の授業で」
教科書の片隅に現代音楽を紹介するコラムとして載っていた。
「それで少し、作曲に興味なんかも持って。母に見つからないようにこっそりtaTeHaの曲を聴いて、グッズを集めて……だけど、原点の教科書やノートは捨てられてしまって、電話での会話もあって心がまた折れた」
離れたって一生母の理想のアリでいなければいけないんだって、わかってしまった。
「あるじゃん。趣味」
「え?」
「作曲に興味があるならそれが趣味になるし、taTeHaだって立派な趣味だと思うけど」
彼はこちらを見据えている。
「そんなの趣味なんて言えない――」
「七星は視野が狭いと思う」
言われてムッとする。
わかったようなお説教をされるくらいなら心情の吐露なんてしなければ良かった。
「『アリとキリギリス』なんだから」
「は?」
「『アリ()キリギリス』ではないってこと」
「どういう意味?」
今夜一番怪訝な顔をしたと思う。
「〝キリギリスになるな〟って言われてるからってアリにならなくたっていいんだよ」
まだ言っていることがピンとこない。
「あの童話の世界にはさ、楽器があって曲があるってことじゃん」
よくわからないけれど、無言で小さく頷いた
「まあ曲は……キリギリスが作ったかもしれないけど、楽器を作った職人がいるってことだろ?」
「つまりどういうこと?」
「あの世界にはきっといろんな虫がいる。アリとキリギリスだけじゃなくて、チョウチョとテントウムシと、カブトムシと……そうだなゴ――」
「言わなくていいです!」
桐谷さんは笑っている。
「とにかくさ、視野を広く持てばアリ以外にもなれるんだよ。七星は」
「そうかな……」
他の選択肢なんて考えたこともなかった。
「うん」
「そうなの、かなぁ……」
込み上げて、喉が熱くなる。
「それ、屁理屈、ってやつじゃない……?」
「心が軽くなるなら、屁理屈でもなんでもいいと思うけどね、俺は」

彼の前でまた泣いてしまうなんて。

今この瞬間、二十年分くらいの涙が流れている気がする。
それから、泣きながらいろんな話をしてしまった。
仕事の愚痴とか、音楽のこと、それに恋愛のことも。

「……私、恋愛するなら桐谷さんがいい」
朝が近づいて、そんなことを言うくらいには自分のことを語り尽くした。
「怖いな。男に免疫がないって」
酔っ払いに呆れているという感じの彼は冷静だ。
だけど私は首を横に振る
「だってこんなに本音で語ったことないです」
「だからそれが――」
そこまで言って、桐谷さんはため息をついた。
「じゃあ、キスくらいしとこっか」
それからだんだんと昇ってくる朝日に照らされながらニヤリと口角を上げた。
「いいですよ」
揶揄われていることくらいはわかるから、少しムッとして彼を見る。
だって、私はもう好きになりかけてる。
初めて帽子を外した彼の顔が近づいてくる。
キスなんて、もう何度もしたことがあるというのに心臓がバクバクと耳についてるみたいな音を立てている。
目をギュッとつむったところで……。
コツンッって、おでこがぶつかった。
「バーカ」
言われてパッと目を開けたら、彼と目が合った。
「ビビってるくせに、状況に流されすぎ」
「そんなことない! 私、本当に」
「まあ、人の気持ちを否定する気もないけど。次に会った時まで気持ちが残ってたらってことで」
「え?」
彼はまた帽子を被った。
「そろそろ始発、動いてんじゃない?」
いつの間にか、完全に朝だ。
それにしても『次に会った時』って? 月曜の夜にいつもみたいに道で会った時?
そんなところで改めて告白しろというのだろうか。
長かった夜があっさり終わって、彼は私を駅まで送ってくれた。
「taTeHaは早めに戻ってくるよ。なんかそういう気分になった」
改札でまたtaTeHaごっこをされて、もう笑うことしかできない。
「じゃあまた、月曜にでも」
私がそう言って改札に入ったとき、彼は無言で手を振るだけだった。

その意味を、月曜の朝理解する。
「このビル、やっと完成したんだ」
道ゆく人が話しているのが耳に入って、いつも彼がいた場所の建設中だったビルが完成したことを知った。
―― 『次に会った時』
「もう来ないってことだったんだ」
耳に、あの歌が残響みたいに響く。



あの日、始発電車の中でふとした違和感に気づいた。
さっき見た桐谷さんの目の色が、左右で違っていた気がする。

――〝オッドアイだって聞いた〟

思い出すのは、そんなtaTeHaの噂。
『……いや、まさか』
電車で一人、半笑いでつぶやいく。
その電車で、気づけばスマホの上の指は転職サイトと作曲スクールを検索していた。
――『だから自由な音楽がやりたいし』
桐谷さんには桐谷さんの悩みがあるようだった。
それができるといいな、と励まされたこちらが思うのはお節介だろうか。



「ねえねえ、taTeHaが休止前にSNSに短い新曲アップしたんだって」
「あーなんか、タイトルがちょっと変じゃなかった? なんだっけ」

「えっとね、あ、【アリとキリギリスと】だって」

fin.