昨日の夜はなかなか寝付けなかった。肉体的にはそれほど疲れていないが、いろいろなことが立て込みすぎていて心の方はすごく疲れていた。譲はいつもよりはかなり早めにベッドにもぐりこんだが、今日一日のことが浮かんでは消える。

 誰かと話がしたくて夜に由香に電話してみたがつながらない。未だにラインの既読もついていない。薄くまとわりつくような不安を「どうせ由香だから……」と言い聞かせる。

 朝方まで浅い眠りと覚醒を繰り返していた。時計の針の音がやけに耳につく。夢の中に南と荒川が出てきて、どこまでが現実か区別がつかなくなる。

 カーテンの隙間から薄く日が漏れる。いつの間にか朝になってしまった。スマホを見るとまだ六時前だ。もう少しだけ横になっていようと、うとうとしている間に本格的な眠りについてしまった。

 譲の部屋に機械的な電子音が鳴り響いた。

 アラームかと思い寝ぼけたまま、それを止めようと手を伸ばす。それが神崎からの着信だと気づき一気に覚醒した。電話口の神崎が慌てた口調でまくしたてるので、神崎から発せられた言葉が初めはうまく理解できない。何度か聞き返すうちにやっと内容が頭の中で変換される。

 荒川が犯行を自供した。

 正確には今朝、研究室に泊まり込んでいた松本に荒川は自分が南を殺害したと打ち明け、話を聞いた松本が神崎に直接電話した。荒川自身に逃亡の意思が見られないため研究室にそのまま留めているという。二人で警察署に出頭することも考えたが事情をよく知っている神崎に直接話をして指示を仰いだ方が混乱も少ないだろうという判断だ。

 松本も荒川に事情を聞いたが、荒川は警察が来たら話すと言って黙り込んでいるらしい。神埼もすでに大学に向かっているので譲にも来てほしいという依頼の電話だ。もちろん磐田にも連絡を取ったとのことだ。

 慌てて身支度を進めながら昨日の磐田が最後に言っていた言葉を思い出す。磐田の言っていた「大きな魚」とは荒川のことだったのだろうか? そうだとすれば磐田は昨夜の時点で荒川の自供を予測していたことになる。

 昨日のやり取りのどこでそれを予測できたのかわからないが、話は磐田の宣言する方向に進んでいく。警察からも一目置かれる磐田の洞察力に改めて譲は驚いていた。

 譲が大学についたのは九時前だ。ちょうど一限目の講義が始まる時間なので同じように学内に向かう人の流れは結構あった。多くの学生にとって昨日の事件などなかったかのようにいつも通りの日常が通り過ぎていく。

 この時間から登校している学生は一般教養を受講する一回生が多い。ゼミや実験など専門教養の授業は午後に時間割が偏っているので、上級生になるほど登校時間が遅くなる傾向になる。もちろん、三回生や四回生になっても一般教養の単位が足りず、一、二回生に紛れて大教室で授業を受けるものも一定数はいるが……。

 譲の思った通り同じように駅から流れてきた学生の多くは大教室の集まる一号棟に入っていき、譲の目指す松本ゼミのある二号棟近くに来るころには人の数もまばらになっていた。

 警察の規制線なども張られていないので、荒川への聞き取りもまだ秘密裏に行われているのだろう。人気のない二号棟の入口に入ると少しひんやりとした。よく磨かれた廊下を歩くとコツコツと足音が響く。哲倫ゼミは二号棟の中でもさらに奥まった場所にあるので普段から人通りも少ない。

 長い廊下を突き抜けて右に折れる。しばらく進むともう一つ角があってそこを左に曲がると哲倫ゼミのエリアだ。その角に差し掛かる何やら小声で話している気配がうかがえる。松本と磐田だ。廊下に置かれたベンチに松本は座り、それと向かい合うように立ちながら壁にもたれかかった磐田が何やら話している。

「……磐田先生」

 二人が会話の方に集中していたので譲から声をかけた。磐田はこちらに目をやって「遅かったな」と返す。神崎の電話の後、譲はできる限り急いで大学に向かったが、住んでいる場所の関係でどうしてもこの時間になる。少しぐらい言い返してやろうかと思ったが、話が返ってこじれそうなのでやめておいた。

「あの……荒川先輩は?」

 磐田が無言のまま親指で松本のゼミ室を指し示す。

「神崎警部の事情聴取を受けているよ。彼女の希望で私たちは席を外している」

 磐田に代わって松本が答える。こんな時でもゆったりと落ち着いた声で話す松本に譲は安心感を覚える。教え子であるはずの神崎に対してもきちんと公私の線引きをしているところも好感が持てる。

「……嫌われたものだな」

 磐田が自嘲気味に言う。

「磐田先生は少々強引なところがあるからね。それに知り合いじゃない方が話しやすいこともある」

「知り合いじゃない方が細部をごまかしやすいということもある。実際、松本先生はどう思っているんですか?」

「……どうとは?」

「実際、荒川さんが南さんを殺害したかどうかですよ。直接、荒川さんから話を聞いたんでしょ? ぜひ先生の見解をお聞きしたい」

 二人の関係性からか磐田の松本に話しかける口調はいつもより柔らかい。ただその内容は松本にとって答えづらいものだった。

「……荒川さんが話した内容は一応、筋は通っている」

「筋の話ではなくて、先生がどう思っているのかを聞いているのですが?」

 たとえ恩師であっても磐田は追及を止めない。

 磐田と松本はしばらく無言で向かい合う。二人の間の空気感に譲は割って入ることはできなかった。身長は磐田の方が大きく、松本を見下ろす形だが、不思議と磐田の背中の方が小さく見える。

 まるでいたずら坊主を諭すような厳しくも優しい表情で松本が磐田を見つめる。根負けした磐田の方がぷいと譲の方に目をそらしてしまった。

「……公私をしっかりわける先生のそういう部分、嫌いじゃないですよ」

 譲の方を向いたまま放たれた磐田の言葉に、松本は目元だけ笑みを浮かべる。磐田はそのまま譲のシャツの袖を引いて「柳瀬くん、行くぞ」と歩き始めた。譲もどうしていいかわからずとまどったが、松本に軽く頭を下げて、元来た道を歩いていく磐田の後を追いかける。

「神崎に荒川さんを連れていくのは俺が戻ってからにするように伝えておいてください」

 振り返りもせずに最後に磐田がそう言い残した。松本はその磐田の背中に深く頭を下げる。

 もともと身長の高い磐田の一歩は大きい。濃紺のジャケットを翻し、風を切るように歩いていく磐田に追いつこうと譲も少し早歩きで後を追う。

「どこに向かっているんですか?」

 二号棟の出口に差し掛かったところで少し前を歩く磐田に尋ねるが、例によって磐田の返答は突飛もないものだった。

「松本先生は荒川さんが犯人だと思っていない」

「えっ⁉」

「だけど本人の話の筋が通っているうえに、自首してきたので対応を迷っている。本来ならすぐ警察署に引き渡すべきところだ。だが神崎ならすぐには警察署に連れて行かないことが分かっていて神崎に引き渡した。それが先生のできる最大限の譲歩だった」

「譲歩?」

「もともとそういう個人的なつながりとかコネを公的なことに使うのを一番嫌う人だ。やろうと思えば神崎に直接働きかけることもできたはず。でも、先生がしたのは神崎に連絡するまでだった」

 磐田の拳に力が入る。譲にも先ほどの松本と磐田のやり取りがわかったような気がした。松本は磐田に託したのだ。

 荒川が犯人でないのに自首をしたのだとしたらそれは誰かをかばって真実を隠していることになる。その真実を磐田ならつきとめることができると信じて、松本は神崎に事情聴取をさせることで警察に直接連れて行かれるまでの時間を稼いだ。磐田もそれがわかっている。

「神崎は昼ぐらいまでは引っ張ることができると言っていた。神埼も立場上、署の方に戻らないといけないからな。それまでに真実を明らかにさせる」

 磐田の横顔からは今までにない力強さがあった。松本から信じて託されたという気持ちもあったのかもしれない。

「……でも、そんな昼までに決着がつくんですか?」

「解はすでに出ている……いや、出ているというのは正確ではないな」

 二号棟から外へつながる扉を開けながら磐田が言った。差し込んだ午前の光が廊下に細長い帯をつくる。

 いつものもったいぶった磐田の言い回しが戻ってきた。結局、磐田の中で捜査がどこまで進んでいるのか譲にはわからない。

 どこに向かっているのか見当もつかないまま磐田のすぐ斜め後ろをついていく。二号棟から学生課のある三号棟を越えてさらに磐田は歩いていく。途中、何人かの学生とすれ違ったが一昨日の事件のことなど全く知らないのかいつもと変わらぬ様子だ。大学内で事件があっても直接つながりのある人以外にとっては違う世界のできごとなのだろう。

 右手に女子寮が見えて、昨日最初に訪れた落下現場の近くまでやってきた。まだ現場の近くには三角のコーンが立てられて立ち入りができないようにしてある。

 てっきり女子寮か落下現場に向かうと思っていたがそこも磐田は素通りした。さすがにどこまでいくのか不安になった譲は磐田に問いかけるが、譲の話など聞いていなかったかのように磐田の答えは全く的外れなものだ。

「事件のあった時刻の前後に目撃された不審な男の話を覚えているか?」

「えっ? あ、はい。昨日、神崎さんの報告にあった分ですよね」

 昨日の昼すぎにもう一度集まった際に、神崎が駅の防犯カメラの話と合わせて話していた。不審な男が現場から立ち去ったという情報だ。

「荒川さんが南さんとの通話を終えたのが二十三時三十四分、荒川さんが警察に通報したのが二十三時四十五分。この時間に学内にいるのはどのような人物の可能性が高いか?」

 磐田は自身の思考をなぞるように譲に語りかける。

「大学前駅の終電時刻は奈良方面が二十三時三十五分、大阪方面が二十三時四十分。女子寮から駅までは通常なら二十分ほどかかるからその後に電車で帰った可能性は低い。さらに調べてみると大学の正門のゲートは二十三時で施錠される。車やバイクなどでそれ以降に帰宅することは不可能だ。もちろん、自転車や徒歩は可能だがここの大学の立地を考えると可能性はかなり薄い」

「……つまり、その不審な人物はその後も少なくとも朝までは大学内にいたと」

「ああ、次に大学内をうろついている可能性が高いものを考えてみろ」

「泊まり込みで研究をしている学生や教授……それと……寮生」

 そこまで口にして、譲は磐田の目的地が理解できた。一瞬、振り返った磐田は譲の表情から察したのか満足そうな顔をしている。

「神崎に不審な人物を見たという学生に詳しく話を聞かせた。暗くて顔まではわからなかったがこの通りを真っすぐ走っていったそうだ。そして、この奥には男子寮と駐車場しかない」

「それじゃあ、真犯人はその男?」

「……いや、そうとは限らない。もしその男が南さんを屋上から突き落としたなら、どうやって女子寮を屋上まで上がった? 突き落とすことができたとしてその後どうやって無事に女子寮から抜け出す? そのためにはかなり周到な準備か、あるいは内部に手引きするものが必要だろう。そこまでした人物が外に出て慌てて逃げだすか? 別に深夜にうろついていても散歩していたと言えばいい。わざわざ走って逃げるなんて不審な動きをする必要はない」

 男子寮の手前でついに磐田は足を止めて、譲の方を振り返り雄弁に語り始めた。

「じゃあ、いったいどうして?」

「慌てて逃げ出したケースとして思いついたのはその本人にやましいことがあった……」

 磐田が指を折りながら考えられるケースを述べていく。

「見てはいけないものを見てしまった……あるいはその両方」

「両方?」

 譲の驚いた顔に、磐田は指を二本折ったまま満足そうな笑みを浮かべている。早く続きを言いたくて仕方がない様子が見られる。

「例えば……」

 一呼吸、磐田がためをつくる。

「女子寮のある部屋の様子をいつも散歩がてらうかがっている男がいる。彼がいつものように散歩しているとたまたま転落死の場面か、あるいは死体と出くわしてしまった。さらに犯人とおぼしき人物の不審な行動を発見するが、その人物が自分のよく知っている人物だと気づきその場から逃げ出してしまった……どうだよくできた筋書きだと思わないか?」

「それって……」

「もちろん今は想像でしかない。どちらにしろあの男に聞いておきたいことがある。どうやら俺の出した解の証明には彼の力が必要のようだからな」

 磐田が目の前の男子寮を見上げた。

 磐田の言う彼が安岡のことを指していることに譲は察していた。しかし、譲にはあの朴訥な安岡が隠し事をしているようにはどうしても思えなかった。

 譲のとまどいなどに気づきもせず磐田は再び歩みを進める。すでに一限目が始まる時刻を過ぎているので男子寮の入口も開け放たれたままだ。

 男子寮も昨日入った女子寮と基本的な構造は同じである。全く同じつくりのはずなのに散らかり具合や共用部の汚れ具合は男子寮の方が数倍ひどい。譲もそこまで几帳面な性格ではないがそれでもひどいと表現をせざるを得ない状況だ。

 教授が寮内にやって来ることがずいぶんと珍しいので、共用の玄関ホール部分では注目を浴びたが、三階の各部屋が並ぶ居住部分の廊下につく頃には周囲の目もなくなっていた。

「ここだ」

 302と書かれた部屋の前で磐田は立ち止まり、躊躇せず呼び鈴を鳴らす。中から物音がして、ドアが少し開く。その隙間から安岡が顔を出し、外にいるのが磐田と譲だということを確認するとそのままドアを全開にして二人を招き入れた。

 安岡が寮の自室にいることは倉内を通してすでに確認済みだった。二人で話を聞きに行くことも倉内経由で伝えてある。

 安岡の部屋も久保田の部屋と同じように小ぎれいに片づけられているが、久保田のようにお洒落な要素はなく、あくまで使い勝手の面が重視された片付き方であった。大学の授業で使った教科書が机のすぐ横の本棚に並べられている。

「カップも不ぞろいだけどすみません。どうぞ座ってください」

 安岡はコーヒーを差し出しながら、用意してあった座布団に二人を座らせる。部屋に誰かを招くことも少ないのか、カップは白を基調としたシックなものとキャラクターものと不ぞろいだ。

 小さな座卓を囲んで安岡と二人は向かい合う。荒川が自首してきたことはまだどこにも漏れていないのだろう。倉本から磐田と譲が事情聴取に来ると連絡を受けたが、どこか安岡は緊張感のないのんびりとした様子を醸し出している。

「……それで聞きたいことってのはいったい? 南さんのためにも僕がわかることなら何でも協力しますが」

 やはり安岡はまだ状況を十分に把握していないようだ。譲は自分から何か聞いた方がいいのか磐田の方に視線をやる。磐田は小さく左手を挙げて譲を制する。どうやら話は磐田が進めていくらしい。

「協力に感謝するよ。警察も手が足りていないみたいで結論を急ぎたがる。何しろ荒川さんを犯人仕立て上げようとしているからね」

 磐田はさも安岡だけに捜査状況をこっそり話すといった体で話す。磐田の状況に合わせた嘘や追い込み方は一級品だ。どうしてこう次から次へと人の心を揺さぶる嘘が出てくるのだろうと譲は思った。

「どういうことですか! 荒川さんを犯人に⁉」

 思いもよらない磐田の言葉に安岡は慌てた様子だったが、事態はもっと深刻だ。荒川が自首してきたと知ったら安岡は卒倒したかもしれない。安岡の表情を注視しながら磐田が説明を続ける。

「どうやら南さんの件は事故でなく事件だという見方が警察では大勢でね。有力な手掛かりはないものの第一発見者の荒川さんを容疑者として引っ張るつもりらしい」

「……そんな」

「ああ、もちろんそんな横暴は許されないが、荒川さんにアリバイがないことも事実なんだ。だから何としても荒川さんを救うために荒川さんが犯人でないという証拠を集めたい。協力してもらえるか?」

 磐田の説明に微かな安岡が微かなとまどいを見せたのを磐田は見逃さなかった。少し遅れて安岡がうなずく。

「安岡くんに聞きたいことは二つ……正直に話してもらいたい」

 念を押す磐田の圧力に気圧されながらも安岡は「……はい」と返事をした。

「まず一つ目、一昨日の夜の君の行動……その日の夜に現場近くを走り去る不審な男が目撃された。私はそれが君だったのではないかと思っている」

「……」

 磐田の言葉に安岡は黙っている。

 磐田が何か確証を持って言っているのか、得意の揺さぶりなのか判別がつかない。だが、この部屋に来る前に磐田が話していた筋書きに沿って磐田は話を進めていく。

「別に何か悪いことをしていたわけではない。ただ君は夜の散歩がてら意中の人の部屋の近くを毎日通って何となく様子をうかがっていただけだ。誰かを想うときの行動としては多くのものが共感できるだろう。偶然の出会いもあるかもしれないしな」

 磐田からすると共感できると肯定の言葉のつもりかもしれないが、大学教授から言われると公開処刑のようなものだ。少なくとも譲は絶対に遠慮願いたい。

「だが、その日君は見てはいけないものを見てしまった」

 明らかに磐田の空気感が変わった。安岡の表情にも緊張が走る。

「その事実を警察に知られると荒川さんが捕まるかもしれない。自分がその現場にいたことを荒川さんに知られるわけにもいかない。結果、君はその場から逃げ出した。その時見た出来事は自分の心の中だけにしまって」

「……」

 本当に嘘がつけない人だと譲は思った。安岡は無言を貫いているが、その表情から磐田の言っていることが間違ってはいないことがうかがい知れる。安岡の緊張した面持ちは変わらないが、同時にその表情からは荒川の不利になるようなことは絶対に言わないという強い意志が感じ取られた。

 こうなると簡単に話を聞くことはできないだろう。譲は心配そうに磐田を見るが、磐田自身には焦りの色は見えない。

「……実際には逆だよ」

 磐田の発した言葉の意味がわからず譲も安岡も固まっている。磐田は二人に構わず独り言のように話を続けた。

「君が見た光景こそ荒川さんが犯人ではない裏付けになると言っているんだ」

「……⁉」

 安岡は目を見開き、驚きの表情を浮かべた。

「正直なところ、私は荒川さんが犯人だとは考えていない。だが、荒川さんは自分自身を犯人に仕立て上げることで今回の事件を幕引きしようとしている。それを止めるためには君の協力が必要だ」

 珍しく熱っぽい台詞を述べる磐田に対して、安岡はまだ疑心暗鬼だ。

「……一つ聞いていいですか? 磐田先生、あなたの目的はいったい何ですか? 申し訳ありませんが、僕はまだ百パーセントあなたを信用しきれていない。話だけを聞いて結局荒川さんが捕まるなんてこともないとは言い切れない。人嫌いでつきあいの悪いことで有名なあなたがここまで警察に協力する目的はいったい? まさか荒川さんを救いたいなんて理由じゃないでしょ? ……それが確認できない限り僕が話すことはありません」

「簡単なことだよ。そもそも真実や真理を追究するのが哲学だ。そして、私はその追究すべき真実が捻じ曲げられてしまうことが一番嫌いでね。真実や真理は数学の定理のように美しくあるべきだと思っている」

 きっとこれは本心なのだろう。磐田の数学の定理や公式に対する執着は異常だ。安岡にとって完全に納得できる答えだった訳ではないが、少なくとも荒川を傷つけるつもりはないことは伝わった。

「……」

安岡は無言のまましばらく磐田の目を見つめる。磐田が静かにうなずくと安岡は様子をうかがうように恐る恐るといった感じだがぽつぽつとその夜のことを話し出した。

「……磐田先生の言うように一昨日の夜、僕は散歩中に現場近くを通りました。十一時半ぐらいに寮を出て、目の前の通りを二号棟の方に向かって。途中でドンって音がしたなと思ったんですが、気にせずそのまま歩いていたところに慌てて荒川さんが出てくるのを見ました。荒川さんの様子がおかしかったので、見つからないように物陰に隠れてしばらく様子をうかがっていました」

「様子がおかしかった?」

「ええ、しばらく何かを抱きかかえていたかと思ったら、急にあたりをキョロキョロして何かを探し始めました。近くの茂みに入ったりなんかもして……初めはその抱きかかえられていたものが何か気づいていなかったけど、それが人間だってわかったときには恐ろしくなってしまって、慌てて僕は逃げ出してしまいました」

 その時のことを思い出したのか安岡の表情には恐怖の色が現れている。突然、そんな現場に出くわしたら逃げ出してしまうのも無理はない。ましてや自分のよく知る人物が不審な動きをしていたとあっては思考がフリーズしてしまうのも仕方がない。

「そのことを荒川さんに確認しなかったんですか?」

 事件の後も荒川と話す機会がなかったわけではない。探りを入れることぐらいはできたはずだと譲は思った。

「……一度寮に戻ったけどやっぱり気になってもう一度現場に行った時にはすでに警察が来て野次馬ができていました。まわりから誰かが飛び降りたらしいとか、事故みたいだとか噂話みたいなことは聞こえてきましたが、結局野次馬は蹴散らされてしまって……詳しいことを知ったのは次の日の朝になってからでした。倉内先生から事件のあらましを伝えられた後に、荒川さんに『大丈夫か?』というメールはしましたがそれ以上は何も……」

「返事は何て来たんですか?」

「大丈夫。ありがとうって短文のものでした。警察の聴取とかもあってバタバタしてそうで、それ以上は無理に聞けなかった」

 安岡は自分のスマホを捜査して荒川から来たメールを磐田と譲に見せる。昨日の午前八時二十二分に送られてきたメールは絵文字などもなくずいぶんと素っ気ないものだった。

「荒川さんに直接確認できるまでは、万が一のことがあってはいけないと思って警察にも言っていませんでした……すみません」

「任意の捜査で、しかも嘘をついたわけでもない。黙秘は権利として認められているんだ。堂々としていればいい。それよりも君は荒川さんが寮から出てくるところを見たと言っていたが、その前に部屋にいたことは確認しているか?」

「いえ……そこまでは。部屋の電気はついていたのでまだ起きているんだとは思いましたが本当に中にいたのかまで確認できていません」

 南が落下してきた時点で荒川が部屋にいた場合、普通に考えて屋上の南を転落させることは不可能である。荒川が犯人でない証拠をつかめるかと思ったが、部屋の電気がついていただけでは、荒川が部屋にいた証明にはならない。

 安岡もその部分がわかっていてそういう残念そうな言い方をしたのだろう。

「そのドンって音が聞こえてから荒川さんが出てくるまでにどれくらいの時間がありましたか?」

「……ごめん。そこまで詳しく覚えてない。でも、男子寮を出てわりとすぐ音がしてそこから女子寮の前に行くまでの間だから五分もないと思う。たぶん三分ぐらいじゃないかな」

「無駄だな。角部屋の荒川さんの部屋から外に出るのと屋上から出てくるのはそれほど大差がない。急いで走って来たなら屋上からでも三分あれば出てくることができる。屋上にいなかった証明にはならない」

 荒川の犯行でないことを証明になればと譲は願ったが、意図を察した磐田がそれを否定する。

「窓から顔でも出していて直接それを安岡くんが見ていたのならよかったが、それ以外は決定的な証拠にはならない。それよりも寮の外に出てきた後の荒川さんの行動の方が問題だ」

 そう言って、磐田は譲を正面から見据えた。

 転落した南を見つけて抱きかかえたところまではおかしくない。目の前で倒れている人がいれば駆け寄るだろうし、息があるか抱き起すこともあるだろう。しかし、その後の行動が謎だ。普通はすぐに警察か救急車を呼ぶ。

 最終的に警察に連絡をしたのは荒川だ。だが、それまでの荒川の行動には不審な部分がある。それが何の意味があるのかまでは譲には理解できなかった。

「何かを探し始めたって言ってましたけど、何を探していたかはわからないんですか?」

「すまない……途中で逃げちゃったからそこまでは見ていなくて」

 安岡が申し訳なさそうにしているが、実際その現場を見たらそうなってしまうのも仕方がない。

「せめて何を探していたかがわかれば手がかりになりそうなのに……」

 悔しそうに拳を握る譲に磐田が冷たい視線を寄せる。急に仏頂面を浮かべて、磐田が不機嫌そうに声をかける。

「……もうここはいい。安岡くん、邪魔したな。柳瀬くん、松本先生のところに戻ろう」

「えっ? あ、はい……安岡先輩、ありがとうございました」

 すでに立ち上がり部屋から出ていこうとする磐田に譲は戸惑う。慌てて安岡に礼を伝え、譲も磐田を追いかける。玄関の所まで安岡が見送りに来てくれた。

「何かわかったら僕にも必ず教えてください。協力できることは何でもしますから」

 二本指を靴ベラの代わりにして革靴を履きながら「ああ」と磐田が返事をする。その後、急に思い出したように付け加える。

「……そう言えば南さんのスマホを拾ってくれたらしいね。君が荒川さんに渡してくれなければスマホのデータからの捜査もできなくてさらに困っていたよ」