先に角部屋の荒川の部屋を見た後だからだろうか、基本的には同じ作りだが南の部屋の方が少し狭く感じる。できるだけ現場を始めの状態のまま保存するためか、部屋に入る際にテレビなどでよく見る白い手袋付けさせられた。

 神崎も現場の中ではそれなりに顔が利くのだろう。すでに警察内部では事故の見方が進み、南の部屋での捜査も入り口の警官は渋っていたが、神崎が頼みこむと短時間を条件に入室が認められた。

 主を失った部屋はまだそのことに気づいていないかのように生活の様子を宿していた。机の上には充電のケーブルが差されたままのタブレット端末、ペンケースからこぼれたままの筆記用具などはこのあとすぐに南が部屋に帰ってくるような生活感があふれていた。

「このタブレットなんかも調べたんですか?」

 手袋をしてるとはいえ、部屋のあちらこちらを触っている磐田に注意をしている神崎に尋ねる。タブレットも当然、メールやSNSなどを使える。最近では講義の黒板もタブレットのカメラで撮影し、それを友だちと共有する学生がほとんどだ。南の交友関係についても何かわかるかもしれないと譲は期待を寄せる。

 そんな期待を他所に神崎はかってにクローゼットを開ける磐田の手をはたきながら答える。

「調べたけどだめだよ。完全に学業用にわりきって使っていたものなんだろうな、個人的なラインとかメールはいっさいタブレットではしてなかったよ」

「それで思い出したんですけど南さんのスマホの情報から位置の割り出しとか、久保田さんとの通信記録とかは出なかったんですか?」

「それもだめだったよ。南は基本スマホの位置情報取得機能をオフにしていたし、久保田との通信記録も見られなかった。それに位置情報をオフにしていても大まかな位置は割り出すことはできるんだが、その日は大学内からはスマホの位置はほとんど動いていない」

 警察の捜査も本腰を入れればもう少し位置の特定なども可能かもしれないが、神崎の独断に近い今の状況ではこのあたりが限界かもしれない。

「つまりその日はスマホを置いて出かけた」

「あるいは部屋に忘れたかだな」

 譲の言葉に神崎が付け足す。

「仮に久保田くんと南さんが接触していたとして……」

 クローゼットの扉を閉めながら背中で磐田が語る。

「久保田くんがスマホを使って連絡を取らない場合、どのようなことが考えられる?」

 譲も神崎も磐田の方に視線を移すが振り返らず、今度はしゃがみこんだまま床に落ちた何かを探すようにキョロキョロとしだした。

 磐田が何かに気づいたのかもしれないが、例によって簡単には教えてもらえそうにない。久保田が南と接触するつもりがあるのにスマホを使わない可能性を神崎と二人で考える。

「普通は電話かメール、あ、最近ならラインか、それらを使った方が便利だよな」

「あえて痕跡を残したくなかった?」

 ついに磐田は床の上で四つん這いになって何かを探している。視線は床に落としたまま譲のつぶやきに反応を返す。

「どうして?」

 磐田の質問を頭の中で反芻する。

 真剣につきあうつもりがあれば当然電話やメールで連絡を取る。それをせずに痕跡をできるだけ消そうとするのは真剣につきあうつもりがないから……もしくは初めからだまそうと?

「……南さんと会っていたことがバレるとまずいと思ったから」

 譲は頭に浮かんだ言葉を口にした。隣の神崎が驚いて譲の顔を見る。

「どういうことだよ?」

「南さんは荒川先輩のことを敬愛していた。それこそ盲目的なぐらい。そんな荒川先輩が久保田先輩にふられて気落ちしていた。なんとか荒川先輩に元気になってほしいと思った南さんは荒川先輩に秘密で久保田先輩に話をしに行った。でも、そんな南さんの気持ちを逆手にとって久保田先輩は南さんを手籠めにした……かなり無茶な想像だけど」

 神崎が腕を組んで考え込みながらうなっている。かなりいろいろな仮定を重ねたうえでの飛躍した想像だということはわかっている。それでも完全に不可能な想像ではない。スマホに記録が残っていなかったから久保田と南が無関係とは限らないということだ。

「その場合だと連絡手段にスマホを使うことを避けたのは南さんの方からということも考えられる。万が一にも荒川さんに自分と久保田くんが会うことをばれるのを避けたいと思ったのかもしれない……」

 うつむいた磐田の横顔が少し微笑んだ気がした。

「飛躍はあるものの完全に破綻しているわけではないな。この後、久保田くんに話を聞く価値ぐらいは残っていそうだ」

 磐田に全否定をされなかったのでひとまずホッとする。さっきからずっと思考力のテストでもされている気分だ。事実そういった側面もあったのかもしれない。

「……ただ他の可能性も考えられるがな」

 その他の可能性を磐田は口にしてくれない。

とりあえず久保田には昨日、南と会っていたかどうか、会っていたのならばその連絡手段や目的を、会っていないというならばその証明をさせなければならない。現在、持っている情報の範囲内では南と久保田があっていた可能性が高いが、もし全く接触がなかったことが証明されたら捜査はふりだし、完全にお手上げになる。

 譲が久保田と対峙した時に聞くべきことを整理している間も、磐田は床をはいはいのまま歩き回る。聞いてもなかなか答えてくれそうにないので神崎と譲は引き続き部屋の中の捜索を続けるが、突然カシャっとシャッター音が聞こえた。

 驚いて振り返ると磐田が自分のスマホの画像を確認している。そこには紫の細長い花びらのようなものが写っている。それと同じものを磐田が指でつまんでいる。

「これは?」

「見てわからないのか、花びらだよ」

「いや、それはわかっているけど……何か今回の事件と関係あるのか?」

「さあな」

 磐田はとぼけて見せるが関係のないものをわざわざ写真で撮ったりしない。磐田のいつもの口調を借りると仮説の段階では話せないということなのだろうが何かしらの手がかりはつかんでいるはずだ。

 磐田はジャケットのポケットから小さなジップロックを取り出し、花びらをその中に入れた。すっと立ち上がった磐田は、今度は先ほどのタブレットの載っている机の前まで歩いてくるとおもむろに引き出しを開け始めた。

「おいおい、そんな乱暴に扱うなよ」

 神崎が磐田に釘をさす。

 右上から順番に引き出しの中身を確認している磐田を背中越しに譲も確認する。右上の引き出しは筆記用具が入っていた。女の子っぽいというと最近では語弊があるかもしれないが、かわいらしい柄のペンや消しゴムがたくさん詰まっている。数は多いが机の中で小分けに整理されていて几帳面な南の性格が表れていた。

 真ん中の段には大学の講義でとったノートが種類ごとに整理されていて、一番下の段には教科書などが入れられていた。

 引き出しを順番に開けては閉めてを繰り返していた磐田の手が足を入れるスペースの上部分にある書類などを入れるための細長い引き出しを開けたところでとまる。

 しばらく引き出しの中身を見ていて固まっていた磐田が一度引き出しを閉めて、今度は左手だけで開けた。さらに引き出しを全開にして、奥まで覗き込む。細い隙間に手を差し込んで奥から何やら封筒のようなものを取り出す。封筒の中身はバイトの面接か何かに使うような履歴書の書き損じだったが、無理やりつっこんだように引き出しの奥に挟まっていたので少ししわになったり、折れ込んだりしている。

「それは?」

「見てわからないのか? 履歴書の書き損じだな」

 磐田は神崎に冷たく言い放つ。神埼が聞きたいのはそこでないことはわかっているはずなのにいちいち磐田は逆らって見せる。

「そんなことわかってるよ。これが捜査に関係あるのかどうかってこと」

 磐田から封筒をひったくり、しわになった部分を無理やり伸ばそうとしてみるが折り目ができているところは簡単には直らない。そんな神崎を見て磐田はまわりにも聞こえるようにため息をつく。

「仮にも警察ならもう少し洞察力を磨いた方がいい。なぜその封筒は引き出しの奥に挟まっていたんだ」

「なぜって……」

 神崎が封筒を見つめる横で、譲が「なるほど」とつぶやいた。一番細長い引き出しを開けたときに磐田はしばらく中身を見て固まっていた。あのとき譲もどこか違和感を覚えていた。

「何か気づいたのか?」

「……いや、でももしかしたら間違ってるかも」

 譲は腕を組んで考え込む。その姿を見て磐田が珍しく教授らしいことを口にする。

「仮説をたてることとその検証は真実に向かうために必要なプロセスだ。失敗を恐れて学問は前進しない」

 トライ&エラーは学問の基本だ。社会はそうやって発展してきた。だいたい警察の見立てでは事故だった件をひっくり返そうというのだ少々の思考の飛躍は必要だろう。

 磐田の言葉に感化されたわけではないが、譲は自分の思考をもう一度なぞるように言葉を紡いでいく。

「そこまで深く南さんのことを知っている訳ではないけど、俺の知る限り南さんはすごく几帳面な性格だった。この部屋や整理された引き出しの中にもそれが表れている」

 神崎は無言でうなずき、譲の説明を聞いている。

「……でも、その封筒が入っていた引き出しだけが変なんです」

「……変?」

「俺は結構、整理整頓が苦手で引き出しにノートやレポートなんかをどんどんとつっこんじゃうから、そんなふうに奥に書類がはさまってくしゃくしゃになってしまうことがよくあるんです。でも、南さんの引き出しは違った」

 譲は机の前に歩いて行って、細長いを引き出しを開ける。中には便せんやルーズリーフなどが入っているが、比較的空間には余裕がある。

「なるほど、確かにこれだけ片付いていたら奥に封筒がつまってこんなしわくちゃになるのは不自然かもしれないな」

 前提の話はすんなりと受け入れてもらえて安心する。ここから想像が飛躍するが大丈夫だろうかと譲は一度唾を呑む。

「誰かがこの引き出しを触ったと考えられませんか? 南さん以外の誰かが」

「なっ⁉」

 神崎の表情に驚きの色があらわれる。

「それはつまり犯人が南殺害の後にこの部屋に入ったということか?」

 もちろん南の部屋について警察の調べは入った。しかし、もともと部屋同士の交流も多くみられ指紋などは証拠となりにくかったし、聞き込みをする限り南が留守をしている段階から殺害されて発見されるまでに南の部屋に誰かが入るのを見たという情報はなかった。

 警察が到着してから以後は南の部屋は完全に封鎖されていたので別の誰かが入ることはできない。

「誰かがこの部屋に入ったとしたら警察が来るまでの間……必ずしも南さんが殺害された後だとは言えませんが、殺害前の可能性は低いと思います」

「殺害前なんてことはあるのか?」

「屋上で荒川さんと電話をしていたんだ、その隙に部屋に侵入することはできなくはない。ただいつ戻ってくるかわからないんだリスクは大きいな」

 神崎の質問を譲に代わって磐田が答えた。

「リスクで言うとそもそもこの部屋に入ること自体、相当リスクが高いはずなんです。だけどリスクを冒してでもこの部屋に入る必要があった。この部屋に入らない方がその人物にとってリスクがあった……こう考えられませんか?」

 譲の言葉に神崎はうなっている。譲の言うことは一応の辻褄はあっていた。

 完全に思考が追いついたかはわからないが、譲の考えていることの延長上に磐田の考えがあった。そもそも磐田の動きをヒントに譲はこの考えに至った。

「なあ、とりあえず柳瀬くんの考えを最後まで教えてくれないか? なんかまわりくどい言い方がだんだん徹に似てきたぞ」

 神崎の言葉に譲は苦笑するしかなかった。磐田と似てきたなどとは自分は微塵も思わないが少々まわりくどかったかもしれない。

「すみません。それじゃあ、思ったことを最後まで話すので何かおかしなところがあれば言ってください」

「ああ、よろしく頼むよ」

「この部屋に入った人物、それはたぶん南さんを殺害した犯人です。犯人は自分にとって都合の悪い物証が南さんの机に入っていることを知っていた。机の引き出しに入っていたことからたぶん手紙か写真のようなものだと考えられます。それを警察の調べが入る前に回収する必要があった。でも、周囲に気づかれないようにするには南さんの部屋の灯りをつけて探すことはできなった。だからスマホのライトか何かで照らしながら引き出しを物色した。暗闇の中、ライトで片手がふさがっている状態で物色したから引き出しから目当ての物を取り出した時に奥に封筒が挟まってしまったことに気づかなかった。磐田先生が途中引き出しを左手だけで開け閉めしていたのは同じように考えたからでしょう?」

 譲が磐田の方に視線を移すと一瞬、嬉しそうに頬を緩めた。

「……柳瀬くんの話を聞いていると確かに可能性の一つとして考えられる。でも、封筒がよれていただけでそこまで決めつけるのは少し無理がないか?」

「あらゆる可能性を追求せずに事故だと決めつけていたのは警察の方ではなかったのか?」

 神崎に磐田が言い返す。そう言われると神崎も言葉がない。もとはと言えば神崎の方からあらゆる可能性をつぶすように磐田たちに依頼してきたことだ。

 神埼と磐田が無言で向かいあったところに、譲がもう一つ気づいたことを付け加える。

「磐田先生、さっきの花びら見せてもらえませんか?」

 譲が磐田の方に手を差し出す。磐田は無言のままジャケットのポケットからジップロックを取り出して譲に手渡した。譲はそのジップロックの中の花びらをしっかりと見る。神埼も譲の横から覗き込む。

 青みがかかった紫の星形の花びらはさわやかな涼感が感じられる。譲がどこかで見たような気がしていたが見逃していたのも無理はない。この時期は学内で割と見かける花だ。これも磐田の行動を思い返さなければ見逃していただろう。逆にいうとかなり早い段階で磐田は違和感を持っていたということだ。

「これって南さんの落下地点のすぐそばに咲いていた花ですよね?」

 譲の言葉に神崎も驚きの表情を見せる。朝の現場検証の時も、昼に磐田たちと見たときも確かに植え込みの花は目に入っていたはずだが、譲に言われるまでジップロックの中身がそれだとは神崎は気づかなかった。

「アガパンサス。南アフリカが原産だが性質が強く植えっぱなしでほとんど手がかからないので初夏には学内でよく見る花だ。名前の由来はギリシア語のアガペー、つまり愛からきている。花言葉は愛や恋の訪れ……」

 大学以外でも公園の植え込みなどでもよく見る花だが譲も名前までは知らなかった。磐田がなぜ花の名前に詳しいのかわからないが、それぐらいの知識はさも当然のことのようにさらりと言ってのけた。放っておけばいつまでもアガパンサス情報を話しそうなので、譲が質問で言葉を遮る。

「それが南さんの部屋に落ちているということは、やはり犯人がこの部屋に入ったということでしょうか? 南さん自身に付着していたものが落ちていたとは考えにくいと思うのですが」

「どうして南さんに付着していたと考えにくいんだ?」

 譲を試すように磐田が質問をぶつける。磐田のこのやり口にも慣れてきた。ある程度、譲の話が的を得ているからこそこんな聞き方をしてくる。

「アガパンサス……でしたっけ? 植え込みに入りでもしない限り自然と衣服に付着することは考えにくいし、かといってわざわざ摘んで部屋に持って帰るような花でもない」

「……でもちょっと待てよ」

 神崎が不思議そうに譲に聞き返す。

「もしこれが殺人事件だったとしたら、犯人は屋上から南を突き落としたはずだろう? その後に部屋に行ったのなら犯人も服に花びらなんてつかないんじゃないか?」

「それは……」

 譲もそこがひっかかっていた。

 犯人が南を突き落としたあと、落下現場に様子を確認に行った。さらにそこで何らかの植え込みの中に入る必要があり、アガパンサスの花弁が付着した。その後、南の部屋に侵入した際に部屋の中で花びらが落ちたが、暗いまま机を漁っていたので落ちた花びらに犯人は気づかなかった。

 一応の筋書きはできたが、南の生存確認に落下現場に下りていったとしても、わざわざ植え込みに入る必要が思いつかない。まさか植え込みのなかに証拠が隠されていたなどというのも飛躍がありすぎる。

「花びらの状態はまだまだ鮮やかだ。部屋に落ちて数日経っていたらもっと枯れて色あせている。少なくとも一日以内に持ち込まれたものだ。そして、柳瀬くんの言うように南さんが持ち込んだのでないなら、別人が持ち込む以外に可能性はありえない。三階のこの部屋に自然とアガパンサスの花びらが風に舞って入ってくることなどありえないからな」

「なら、やっぱり突き落とした犯人が持ってきたって言うのか?」

 神崎の言葉に磐田は少し複雑な表情を見せる。あごのあたりに手をあてて少し考えた後にゆっくりと口を開く。

「俺も南さん以外の誰かが花びらを持ち込んだと見ている。そして、花びらを持ち込んだ人物はたぶん南さんの部屋に行く前に屋上に行っていない」

「屋上に行っていない?」

 神崎と譲が顔を見合わせる。

「ああ」

「でも、ならどうやって……」

 その後の言葉を譲は呑み込んだ。

「俺は南さんが屋上から突き落とされたとは考えていない」

「なっ⁉ どういうことだよ‼ 南が転落死だったのは間違いない。それとも何か? 結局、警察の見込み通り事故だったってことか?」

 今日の昼からの捜査を根底から覆すような磐田の発言に神崎は焦りを見せるが、磐田は相変わらず冷静だ。神埼の狼狽を見て、返って冷静になった譲が磐田の言葉の意味を考えてみるが答えは見つからない。

 譲から何か出てくるかとうかがっていた磐田だったが、譲から反応がないことを確認すると視線を、主を失った南の部屋の時計に移す。時計の針はすでに六時を指している。もう今日の捜査で使える時間は少ない。

「久保田くんの部屋に行こう。今日中に久保田くんからの話を聞いてしまいたい」

「おい! さっきの質問は?」

「何度も言わせるな、あくまでまだ仮説の段階だ。もう少し仮説を実証する情報が必要だ……それにしても『愛の訪れ』が花言葉のアガパンサスとは皮肉なものだな」

 最後に付け足すようにつぶやいた磐田の言葉が譲は耳から離れなかった。